2011年10月29日土曜日

救世山峯薬師 法谷寺

あんまり書きたくない気持ちもあります。
だって、だ〜れも信用しないと思うのです。
「救世山峯薬師」別当「法谷寺」。
場所はここ、蔵本の球場裏です。加茂名中学校も近くマーチングバンドの練習する音も風に乗って聞こえてきます。西部公園の登り口からは車で1、2分。

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「救世山法谷寺」の碑があります。この道を入ってしまうと帰る時Uターンしにくいので
ここらに車を置いてあとは徒歩がいいんでないかい(志村けん風に)。
途中には「山神社」「八幡神社」があり書きたいこともございますが、今回はスルー。
数分歩きますと「救世山峯薬師 別当法谷寺」の碑が。
ここには「醫王水」なるものもございましたが、ここも華麗にスルー。
本題を急ぎます。
きれいに整備された石段をたらたらと登ります。
「峯薬師」本堂でございます。
あろうことか、あるまいことか「十六菊」の紋が。
さて、ご存じない方々に、ここをどうして取り上げたのかを説明させていただきますと。
下の由緒をご覧下さいませ。
「救世山峯薬師縁起」
古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の
対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に
枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域也。
前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を
祈願せん」と、秦河勝に命じ、以乃山馬峰に
醫王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯
薬師を開山す。後々仏教を志す者必ずこの
霊地を巡礼す。弘法大師峯薬師に修法、真
言密教を興す。嵯峨天皇の信を得、当山を
真言密教三密修験の根本道場とし、救世山
大乗院遍照寺を建立併せて、東の峰に金剛
光寺を建立、峯薬師を中心に遍照金剛の
霊地となす。
(以下略)

ね、小治田宮天皇は推古天皇ですので、「由緒によれば」下手したら607年建立の
法隆寺より古い建立であるかもしれないところなんです。
また、「秦河勝」に命じ「以乃山馬峰に醫王善逝薬師如来を作らしめ」って。
「以乃山」は言うまでもなく「眉山」の古名です。

「道は阿波より始まる」でも「記紀の説話は阿波に実在した」でも
奈良「法隆寺」の本社は、ここ「救世山峯薬師」であるとしております。
また、ここ「救世山峯薬師」の「峯薬師像」及び「救世観音像」は江戸時代末期に
行方不明になり、明治期に奈良法隆寺で岡倉天心により発見されたとも書かれて
おります。


さあ、どうしましょう。
こんなお話、誰が信用してくれるのでしょうか?
「法隆寺」の本社が、「救世山峯薬師」であるなどとは、どんな史書を見ても載ってる
はずもございません。
ただ、由緒にはご覧のように「堂々と」書かれております。
な〜んにもない所にこんな由緒があるはずもございません。

と、いう訳で(どういう?←聞き飽きたかな)頭の中がぐるぐるして来たので、さあ帰ろう
かと思ったところ、脇に何やらお堂があるではございませんか。
近くに寄ってよくよく拝んでみますれば。
ああああああああ、またしても、またしても「歓喜天」!!!
もう、煮るなと焼くなと、どうにでもして下さいませ(涙)。
最近は陰陽和合とはほど遠いんですが(笑)。

2011年10月23日日曜日

神山町 腰之宮神社

いろいろ書きたいことはあるんですが、ぜ〜んぜんまとまらないので、ちょっと
これまで書いて来た流れとは違うんですが(流れなんてあったか?って誰か言ってない?)
こんなのも出しときます。
神山町神領字大埜地の「腰之宮神社」でございます。
場所はここ
(ですがこの地図じゃちょっと分らないと思います。神社の場所は神山町神領大埜地に在る神領公民館裏。神山町民総合グラウンドのすぐ隣で鮎喰川沿い。潜水橋が見えます。)


より大きな地図で 腰之宮神社 を表示

えと、神山町にはかの有名な「上一宮大粟神社」があるわけなんですが、主祭神が
大宜都比売命(おおげつひめのみこと)で、社伝によれば大宜都比売神が伊勢国丹生の郷
から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたということでございます。
写真は「上一宮大粟神社」
で、この「腰之宮神社」なんですが徳島県神社誌には「葛倉神社」で載っておりまして。
主祭神が「葛倉神」「事代主命」
由緒によれば「葛倉神」は大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が伊勢より大粟山に
移られたときの伴神だそうで、創立は「神代」とのみ伝えられております。

この「葛倉神」ですが「大日本神名辞書」にも出ておりません。
ただ、関係あるかどうかは分りませんが、伊豆の「葛見神社(くずみじんじゃ)」も
ご祭神に事代主命が祀られてますが、多分関係ないですよね。
で、御祭神に「事代主命」がいらっしゃることより「えびす祭り」が行なわれており
(今年も行なわれたかどうかは分りません)
神山町ホームページにも2009年には「えびす祭りが行われました!」の記事が
掲載されております。
そして、「葛」は「九頭」であるとの説もあり、伴神として「九頭竜」つまりは
「太龍寺縁起」にあるところの「和修吉(九頭竜)」→「戎」→「事代主」ならば
納得はできるんですが。
(うっ、これは「龍神の社(2)」で書こうと思って内緒にしてたのに(笑))

もしくは「腰之宮」は大宜都比売命を乗せて来た「輿の宮」かなと思ったんですが
よく考えたら大宜都比売命は馬でやって来て「お馬石」も残ってるんで違いますねぇ。

上の写真のように神山の名木指定の巨大な杉の木もあり、「神代」創立との伝承に
ふさわしいのではありませんか。
いかん、最後のボケどころが無くなってしまった(笑)。


2011年10月17日月曜日

瀬織津姫の社(佐那河内村 朝宮神社)

ホントはね、あんまり書きたくないんですよ、この神社。
通り一遍等じゃなく、もっと深く掘り下げて調べてみるべき神社であろうと
思いながら、この程度しか書けないのがクヤシイ今日この頃でございます。
「佐那河内村 朝宮神社」

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御祭神 天照皇大神(の荒魂である)瀬織津姫神
画像は「阿波國続風土記」より

もういいですか?説明が足りない?
瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞に登場する登場する神である。瀬織津媛・瀬織津比売とも記載される。
瀬織津姫は天照大神と浅からぬ関係がある。天照大神の荒御魂(撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社である廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。
また、伊勢神宮内宮の別宮の荒祭宮祭神は、瀬織津姫であることが記されている。
そして、祓神としての関連は、『倭姫命世記』では八十禍津日神の別名とされ、平田篤胤はさらに大禍津日神・大屋毘古神とも同神としている。
その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。  Wikipediaより

ついでに「大祓詞」も出しときます。
大祓詞
高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議りに議り給ひて 我皇御孫命は 豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし国内に 荒振神等をば 神問はしに問はし給ひ 神掃へに掃へ給ひて 言問ひし磐根木根 立草の片葉をも事止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別に千別て 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて 下津磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく知食さむ 国内に成り出む天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天津罪 国津罪 許許太久の罪出む 此く出ば天津宮事以ちて 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置足はして 天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取裂きて 天津祝詞の太祝詞事を宣れ
此く宣らば 天津神は天の磐戸を押披きて 天の八重雲を伊頭の千別に千別て聞食さむ 国津神は高山の末低山の末に登り坐て 高山の伊褒理低山の伊褒理を掻き別けて聞食さむ 此く聞食してば罪と言ふ罪は有らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き掃ふ事の如く 大津辺に居る大船を舳解き放ち艪解き放ちて大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以て打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す速開都比売と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 息吹戸に坐す息吹戸主と言ふ神 根国底国に息吹放ちてむ 此く息吹放ちてば 根国底国に坐す速佐須良比売と言ふ神 持ち佐須良比失ひてむ 此く佐須良比失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す




上図のように瀬織津姫を祀る神社は全国に多く分布しておりますが瀬織津姫を天照皇大神の荒魂としているのはWikipediaにも書かれていた西宮市の廣田神社と伊勢神宮内宮の別宮の
荒祭宮、そしてここ「佐那河内村 朝宮神社」ぐらいではないでしょうか。
あ、もう一つ大阪市中央区淡路町4丁目にある御霊神社がありました。
っと、写真を一枚も出しておりませんでした。
瀬織津姫を天照皇大神の荒魂とするのは、鎌倉時代の「中臣祓訓解」という大祓詞の注釈書にも

瀬織津比咩神 伊弉那尊ノ所化ノ神。名二八十枉日神一是也(ヤソマウツヒノカミト)。天照大神ノ荒魂(アラミサキヲ)號二荒祭ノ宮ト一。除二悪事ヲ一神也。随荒天子ハ焔魔法王所化也。
とあるように古くから一般的だったようで、本居宣長なんかが(うわぁ、なんかよばわり
してるよ)「古事記伝」などで瀬織津姫を八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と同一視
してる方が後からの説のようです。


古くは「杖の尾山」中腹に鎮座されていたのを、いつか遷座したとのことです。
秋期祭が10月9日だったようで、今頃気付いたのです。
ワタクシもいろいろ思うところはあるのですが
髙木隆弘著「記・紀の説話は阿波に実在した」では

「日本書紀」垂仁天皇二十五年三月条には、
「皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照の御魂である八咫の鏡、草薙の剣を奉じて祭祀する土地を求め、菟田の筏幡、近江国、美濃をへて伊勢に行ったが、天照大神の御魂は、この神風の伊勢国にいたいと倭姫命に託宣したので、天照大神の教えにしたがって斎宮を五十鈴川の川上に建てて、磯宮と称した。すなわち、天照大神が初めて天より降りますところである」
さらには
この垂仁天皇の記事の伊勢国は、前述したように、徳島市の以(い)の山(現在の城山)の以西(いさい)にある以西(いせ)の狭長(さなが)村(佐那河内村の古名)である。

とあり、伊勢は以西(いせ)であるとのことです。個人的には伊勢は以西(いせ)というところは
ちょっと微妙かなと思ったり、だって吉野川北岸の一瀬を伊勢ではないかとおっしゃる方も
いらっしゃいますのでねぇ。

御神木 ハグせずに触れるだけにして来ました。
と、いうわけで何かと難しい神社でございます。
なかなか瀬織津姫様はお姿を現していただけませんなあ。
というところでいかがでしょうか?(誰に言ってるんだ)

2011年10月16日日曜日

佐那河内村 大宮八幡宮

ちょっと前に「佐那河内村 猿田彦大神社」でやらかしてしまいましたので
汚名を雪ぐために、もう一回書いちゃいます。(←もう遅いって?)
徳島県名東郡佐那河内村(さなごうちそん)下字高樋に鎮座ましましております
「大宮八幡神社」(大宮八幡宮)でございます。
場所はここ

より大きな地図で 佐那河内 大宮八幡宮 を表示
本日10月16日は秋期祭でございました。
このように幟が立っております。この幟立てるのも降ろすのも一苦労なんです。
4人掛かりくらいじゃないと立てられません、降ろすのも同様、雨の後なんかは
泣きながらじゃないと降ろせません(経験者)
本殿前にも人が集まってて写真もなかなか撮れません。
主祭神 八幡大神、足仲彦天皇、姫大神、高良大明神、息長帯姫命
大鷦鷯尊(おほさざきみこと)、菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこみこと)

もうなんといいましょうか、この御祭神。
足仲彦天皇は仲哀天皇のこと、大鷦鷯尊は仁徳天皇、菟道稚郎子尊は応神天皇の皇子。
確かに由緒には、和銅元年(708)二月宇佐八幡宮の神霊を勧請して斎き祀る。
と徳島県神社誌にはありますが、実際の由緒は
「人皇第四十三代元明天皇和銅元年(七〇八年)二月、佐那県に宮柱太敷立て、高天原に千木高りして、斎奉る」とあるそうで、これは凄すぎるんじゃないですか。
さらには
佐那河内村 猿田彦大神社」「天石門別豊玉比売神社」を合祀!!!
阿波の古代の基礎知識(1)不定期」でちょっと書きましたように
海人族の祖豊玉比売神を佐那河内でも奉祀していたようです。
「猿田彦大神社」については、まだ書ける状態じゃございません。
とんでもないことになるかも知れません。

また余談ですが、当社には神代文字である阿波文字が伝えられており、宮城県気仙沼市の御崎神社、加美郡の飯豊神社及び信濃の伊奈郡の大御食神社、宮崎県宮崎市の住吉神社にも阿波文字が書かれたご神体や石碑が伝わっている「そうです」。(余談ね、あくまで)

御崎神社石碑。
阿波文字で「クエラツカ(鯨塚)」と書かれているそうですが。(あくまで余談)
本旨じゃないのでここまでね。

行った時ちょうど神輿の行列が進んでまいりました。
一緒に行ってた嫁さん曰く「呼ばれたね」。
そうなんです、今日は別の神社に行くつもりだったんです。うーん。
いいなあ、台車がついてる。どっかの神社のはついてないんですわ。
神楽の屋台ですな、これも台車が着いてて「いいなあ」
では、せっかくですのでお神楽の動画も張っておきます。
短いですが、ご覧下さいませ。
もうひとつ

もともと行くつもりだった神社については、また別に書いちゃいますのでね。
今日はこの辺で。
汚名は雪げたかな?(←甘い!)

2011年10月14日金曜日

萬福寺 狸問答の記

今年も狸祭りが近づいてまいりました。
県外の人には馴染みが無いでしょうが、徳島県人なぜか狸が大好きなのです。
歌まであるんです。
徳島県民の芯まで染み込んでるあの歌が。




1,桶屋が夜中に桶作り
コトコトコトコトコトコトコト
お宮のほこらの裏じゃった
「いや、わい夕べ夜中せえへんでよ」
ほな、あれはたぬきであったんじゃ
コトコトコトコトコトコトコト
阿波の狸の話です

2,酒屋で夜明けに戸を叩く
トントントントントントントン
小雨のしょぼ降る朝じゃった
「おれが出てみたら誰もおらんのじゃ」
ほな、やっぱりまめだであったんじゃ
トントントントントントントン
阿波の狸の話です

3,そばやがお城へそば売りに
ツルツルツルツルツルツルツル
太郎が毎晩食べにきた
「あとで金を数えたらこれが木の葉じゃ」
ほな、そいつはたぬきであったんじゃ
ツルツルツルツルツルツルツル
阿波の狸の話です

4,地蔵のまわりで笑い声
キャラキャラキャラキャラキャラキャラキャラ
夜釣りの釣り人大慌て
「あとからもどってみたら魚が一匹もおらなんだ」
ほな、それはたぬきであったんじゃ
キャラキャラキャラキャラキャラキャラキャラ
阿波の狸の話です

とまあ、こんな歌詞で森田公一が作曲しております。
そうです森田公一とトップギャランの森田公一です。
(ほら古いって言っていいよ)


狸を祀った祠めぐりの冊子などが無料で配られており、オリエンテーリングが
楽しめるように(?)なっております。
下の写真の冊子が、ワタクシめは書店でもらってきました。
内容はこのように徳島市、小松島市、鳴門市などに点在する狸を祀った祠の説明と
スタンプを捺せるような欄があります。
で、ワタクシめはこのような時期に祠を巡るのはいやなので(←ひねくれもん)
このような所に行って参りました。
のらねこ師匠から教えてもらった「如王山熊野院 萬福寺」
場所はここ美馬郡貞光町大字太田
より大きな地図で 萬福寺 を表示

狸を祀った祠のあることで有名ですが、実は。
冷泉天皇の安和二年(969年)、忌部神社別当十八坊の一として創建された
由緒ある寺院です。
で、寺門右脇に「大統領為左衛門狸御参社」の碑と狸の置物。
そして凛々しいお姿の「大統領!!!為左エ門」
狸の番付などもございます。
そこで登場するのが写真の笠井新也氏著「阿波の狸の話」中公文庫でございます。
2009年初版発行ですが、著者の笠井新也氏は明治17年生まれ、
本当の初版は昭和2年なのです。
また同録されている「阿波伝説物語」は明治44年のものです。
さて、阿波の徳島は狐に化かされたと言う話は少なく、化かされるのは「狸」だと相場が決まっておりました。
県内に狸を祀る祠は600から700とも言われ、伝説についてもその大半が山間部より平野部、それも人口密集地に集中する形で残されています。
で、この中に納められた「萬福寺 狸問答の記」より一部転記致します。
著者笠井新也氏が昭和二年にここ萬福寺に調査に行った際の記録です。

ともかくもまず長江の実験から始めることにして、為左衛門を呼び出してもらう。
長江は承知して、庭へ下りて口と手を清めて座に帰り、懐から数珠を取り出して
合掌してこれを押し揉みながらしばらく祈念して、「為左衛門為左衛門」と二口
ばかり呼ぶと、長江の手はたちまちブルブルと煽動し始める。それと同時にクス
クスと鼻を鳴らしながら、顔を異様に左右に降り始める。まさしく為左衛門が乗
り移ったのである。そう思って見るからかもしれないが、長江の顔には一種の凄
みが漲っている。と不意に、
「わしは不満じゃ。わしは不満じゃ」と叫び出した。

中略

そこで著者と為左衛門との問答が始まる。
私はまず国見鹿八の来るのが遅いので、今どこでどうしているか見てきてくれと
注文した。すると長江の合掌した手の煽動や、顔の横振りがはたと止んだ。為左
衛門が長江の身体を離れて、国見の家に向かったことが想像される。四、五分も
経ったかと思われるころ,
長江はまた手をブルブルさせ、鼻をクスクスいわせ始めた。為左衛門が帰って来
たのである。彼は復命していう。鹿八は今着物を着かえて外へ出たところだから、
おっつけここへ来ると。そこへ寺の娘が帰って来ていうには、鹿八さんは火鉢の
前に座って煙草を喫んでいたが、私が行って皆さんがお待ちだから早く来てくだ
さいというと、着物を着かえるのが面倒臭いから、今までグズグズしていたのだ
が、それでは今着物を着かえたらすぐ行くと云ったとの事。

以下略

と降霊の実験記録を読んでるような、普通の狸の民話と一線を画すような内容。
この後笠井氏の実家の様子を見てくるとか、カメラマンの国見氏の母親の病状
を診るとかの実験(?)が行なわれます。

まあ、そんなところで萬福寺まで行ってみた訳なんですが、当然そんな面白す
ぎる出来事があるはずもなく祠を拝んで帰ってまいりました。
で、祠の写真なんですが、見事なピンぼけなんで出しません。
(多分、出すなってことなんでしょう)


後ろ姿もまた凛々しい「大統領!!!為左エ門」でございました。

ちなみに、笠井新也氏著「阿波の狸の話」Amazonで注文しようとしても
なぜか在庫切れになってるかもしれませんぜ。(もう入ってるか)
ねえ、関係者諸氏。


2011年10月9日日曜日

佐那河内村 猿田彦大神社

(注)コメントでいただいてますように今回記事の猿田彦大神社は大宮八幡神社
のことでした。気が付かずに書きなぐっております。反省!
また修行の旅に出てまいりますのでご容赦を。
ただ、書いた記事は恥ずかしくても基本的に消さずに置いておく方針ですので
見て笑ってやってください。


阿波國続風土記 第二巻 73ページより


第二巻のここらから見てもらえれば分りますが、佐那河内村の記述が続く辺りです。
瀧ノ宮大権現のページがあって、旧家のページがあって、「猿田彦大神社」のページが
くるんですが
「猿田彦大神社」ってなんだ?

続いてのページは「天岩戸別神社」がきて
「天岩戸神社」があって
「御間都比古神社」の説明があるので
佐那河内村の説明である事は間違いないんですが。

「猿田彦大神社」ってどこにあるの?

佐那河内村史、名西郡史、その他モロモロ繰ってみても、な〜んにも載ってないの

「これ」には御祭神も「笑子(蛭子)大神」「豊玉姫命」「猿田彦大神」「天鈿女命」
「保良命」(この御祭神がわからない。淳仁天皇の保良宮と関係あるのか?)
と、きちんと書かれておりますし。実際にあった神社としか思えないんですが。

まだ内容はきちんと読めてないし、寛保改神帳とか阿府志とか調べなくてはと思いますが
佐那河内の「猿田彦大神社」誰か知ってる人いませんか?
ちょっとパニくってます。

2011年10月7日金曜日

邪馬台国論争が再び白熱だそうです

10月5日付けのWeb版日本経済新聞の記事でございます。
邪馬台国論争が再び白熱 「九州説」派巻き返し 」ってタイトルで掲載されておりました。

畿内か九州か、日本史古代の3世紀に邪馬台国はどこにあったのか――。魏蜀呉が争った中国「三国志」時代、魏国へ使者を送った邪馬台国と女王・卑弥呼の実像を巡る論争が再び活発になっている。

だそうです。
なんでこんな記事を引き合いに出してきたのかと言いますと、記事中に。

歴史月刊誌の老舗「歴史読本」(新人物往来社)は4月号で邪馬台国特集を組み、約8万部を売り切った。6月に再編集した文庫の新刊も初版1万5000部に続いて重版をかけた。「古代史書籍としては異例の売れ行き」(本多秀臣編集長)が続いている。

って書いてあるんですが。この「6月に再編集した文庫の新刊」がなぜか手元にございましたので、思わず書いてみた訳なのです。

コンビニに並んでたので弁当と一緒に何となく買ってしまいましたのです。
税込みで700円。
で、パラパラとめくっておりますと「おや?」。
(画像は、わざとカットしてあります)

へえ、邪馬台国阿波地方説ってのがあったんですねえ(笑笑笑)

阿波説については、お察しの通り
「邪馬台国は阿波だった」「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」などを引き合いとし
高根山悲願寺を卑弥呼の宮室、天石門別八倉比賣神社を卑弥呼の墓として紹介してます。


まあ、文庫本で4ページ程ですので、これだけのために敢えて買う事はないでしょうが
「魏志倭人伝」全文と解説が載っておりますし「畿内説」「九州説」「出雲説」などの
詳しい説明がありますので、「そちら」の興味で買われるのもよろしいかと思います。

また、魏志倭人伝が含まれている東夷伝だけを読むのではなく、その前文である
「烏丸鮮卑伝(うがんせんびでん)」から通して読まなくてはいけないなどと、至極
真っ当な事を書いてある、結構お得な冊子であるように思います。
まあ、興味のある方はご一読を。

え、お前の意見は?
いや〜、そっちまで手が回りませんです(笑)。

2011年10月3日月曜日

たまには雑談

まあ、たまには雑談などいたしましょうか、と書こうと思いましたが、いつもが雑談から
一歩も出てないような内容なんで代わり映えもしませんが。

え〜、この前の9月23日阿波史跡公園の掃除をすると言うので行ってきた訳ですよ。

知らないうちに「公園愛護会」ってのに入ってまして、いやホントに知らないうちに(笑)
それは全然構わない訳なんですよ、入ってなくても声をかけられれば、出向きますしね。

こんな感じで(ってこんなんですけどね)草むしりとかする訳ですよ。
廻りを眺めたおして、栗の成り具合などチェックするんですよね。
(それにしても、今年は3年振りぐらいの不猟でした。秘密のスペシャルポイントで
わたしゃ立ちすくんでしまいました)
谷間の公園なんで狭いように見えますが、あ〜た、草むしりなど自分の家でも滅多やらない
事をやってみれば、足腰にテキメンなんですね、これが。
余談ですが、「大瀧山建治寺再び」でちょびっと書いた、風水で言うところの気延山の
龍穴がここらにありまして、公園になった時に大分様変わりしてるんですが、おおむね

この辺りの感じですね。もう一箇所比定点があるんですが、歩いて入れないような
所ですので省略します。上の場所のはっきりとした場所が知りたい方は、携帯電話を
持って銀行のATMまで行っていただければお教えします(笑笑笑)

それはさておき、草むしりをしておりますと、太鼓の音が聞こえてくるんですね。
なんじゃらほいと、周りの人に聞いてみれば「松熊神社」のお日待ち(おひまち)神事
の日だとおっしゃるではありませんか。
「うわ〜、知らんかったぁ!」
「天石門別八倉比賣神社」の場合は「お粥試し」といって竹の筒でお粥を炊き、その
出来具合で、その年に蒔く作物の割合を決めるんです。
こんな感じです。ちょっと古いのしかなかったけど。
その「お粥試し」の時に神殿で日の出を朝まで待つのが「お日待ち」。
それを「松熊神社」でもするとは(多分「お粥試し」はしないと思うけど)今まで
知らんかったぁぁぁ。それも秋分の日にね。
まあ、「松熊神社」の社殿は小さいし、実際に朝までってことはしてないでしょうが
(「八倉比賣神社」ではちゃんとやってるぞ)
まあ、知らないことがいっぱいあります。

で、神事のお札をいただく(配ってもらう)んですが。
それがこんなの。
うわあ「大麻」「太玉」串ですと。
という訳でございまして、愚にもつかない雑談でございました。
お後がよろしいようで。