2018年7月8日日曜日

倭の神坐す地(7)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)

「大国主」と「倭大国魂」と「大物主」の関係について朧げながら見えてきたような気がしませんか?
(あ、しない?。これは失礼いたしました(笑))


さてと、この「古事記」において、大国主は「大国主」としてのみ記載されておりまして、多くの別名を持っております。

大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)
八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名
葦原醜男・葦原色許男神・葦原志許乎(あしはらしこを) - 根国での呼称
大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名
大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。現世の国の魂の意
伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称。
地津主大己貴神(くにつぬしおおなむちのかみ)・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)- 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称
幽世大神(かくりよのおおかみ)- 祝詞『幽冥神語』での呼称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
杵築大神(きづきのおおかみ)
wikipedia

しかし、見てお分かりのように、これらはすべて「呼称」「尊称」「別名」であり「神名」としての「大国主」は示されておりません。
そこで、妃、御子について見てみれば

大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。記においては以下の6柱の妻神がいる(紀では記にみえない妻神がさらに1柱おり、『出雲風土記』ではこれ以外にもさらに何人もの妻神が表れている)。 別名の多さや妻子の多さは、明らかに大国主命が古代において広い地域で信仰されていた事を示し、信仰の広がりと共に各地域で信仰されていた土着の神と統合されたり、あるいは妻や子供に位置づけられた事を意味しているという説もある。

須勢理毘売 - スサノオの娘。 最初の妻で正妻とされる。
八上比売 - 根の国からの帰還後では最初の妻とされる。間に木俣神が生まれた。
ヌナカワヒメまたはヌナガワヒメ(沼河比売) - 高志国における妻問いの相手。間にミホススミ(『出雲国風土記』)もしくは建御名方神(『先代旧事本紀』)が生まれた。
多紀理毘売 - 間にアヂスキタカヒコネと下照比売の二神が生まれた。
神屋楯比売 - 間に事代主が生まれた。
鳥取神 - ヤシマムジの娘。間に鳥鳴海神が生まれた。『古事記』にはそれ以降の系譜が9代列挙されている。
wikipedia

となります。
上記、赤字の部分「記にみえない妻神がさらに1柱おり」の「記にみえない妻神」を探してみますれば

三穂津姫
三穂津姫(みほつひめ)は、日本神話に登場する神である。高皇産霊尊の娘で、大物主神あるいは大国主神の后。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
ミホツヒメの「ツ」は「の」の意味で、ミホの女神という意味になる。出雲の美保神社(島根県松江市)で大国主神の子の事代主神とともに祀られている。丹波の出雲大神宮(京都府亀岡市)では大国主神とともに主祭神となっており、大国主神の后とされている。三保の松原(静岡市清水区)の入り口にある御穂神社も同様に、大己貴命(ここでは別名を三穂津彦命(みほつひこのみこと)としている)とともに祀られており、「羽衣の松」と縁が深い(御穂津彦命、御穂津姫命という表記もあり)。村屋坐弥冨都比売神社(奈良県磯城郡田原本町)では大物主神とともに主祭神となっており、大物主神の后とされている。


「三穂津姫(みほつひめ)」が顕れてまいります。
この「三穂津姫」、上記記載にありますように、美保神社(島根県松江市)で大国主神の子の事代主神とともに祀られており、
神社の説明としては、
事代主神系えびす社3千余社の総本社である(蛭子神系のえびす社の総本社は西宮神社)。えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。
wikipedia
となっております。
事代主系、蛭子神系についての説明は、今回は割愛させていただきまして説明を続けますが、この「美保神社」の鎮座する島根県松江市美保関町にはある伝説が伝わっております。
以下、転記いたします。

鶏伝説
島根県美保関町には、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがある。折口信夫は、その理由として、事代主の妻訪い(妻問い)の物語を紹介している。それによると、「事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜(イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はうろたえて小船に乗ったものの、櫂を岸に置き忘れて仕方なく手でかいたところ、鰐(サメのこと)に手を噛まれた。以来、事代主は鶏を憎むようになり、それにあやかって美保関では鶏を飼わず、参詣人にも卵を食べることを戒める」としている。島崎藤村は、「釣り好きの事代主が寝ぼけて鳴いた鶏の声を聞いて未明に船を出し、荒れた海で櫓も櫂も失い、足で水をかいたところ鰐に足を噛まれた」という話を紹介している。現代でも、事代主を再現した美保関の青柴垣神事の際に当屋に指名された者は、1年間鶏肉を食べないで身を清める習わしがあり、美保関から中海を渡った対岸には、美保津姫を祀った揖夜神社がある。
wikipedia

この伝承については折口信夫氏も知るところでありまして、大正九年の「やまと新聞」に
「鶏鳴と神楽と」という題目で寄稿しております。

鶏鳴と神楽と
折口信夫
出雲美保関の美保神社に関聯して、八重事代主神の妻訪ひの物語がある。此神は、夜毎に海を渡つて、対岸の姫神の処へ通うた。此二柱の間にも、鶏がもの言ひをつけて居る。海を隔てた揖夜イフヤの里の美保津姫の処へ、夜毎通はれた頃、寝おびれた鶏が、真夜中に間違うたときをつくつた。事代主神はうろたへて、小舟に乗ることは乗つたが、櫂は岸に置き忘れて来た。拠なく手で水を掻いて戻られると、鰐が神の手を噛んだ。此も鶏のとがだと言ふので、美保の神は、鶏を憎む様になられた。其にあやかつて、美保関では鶏は飼はぬ上に、参詣人すら卵を喰ふことを戒められて居る。喰へば必、祟りを蒙ると言ひ伝へて居る。
鶏を憎まれる神様は、国中にちよく/\ある。名高いのは、河内道明寺の天満宮である。
鳴けばこそ 別れも急げ。鶏の音の聞えぬ里の暁もがな
と学問の神様にも似合はない妙な歌を作つて、養女苅屋姫に別れて、筑紫へ下られてから、土師ハジの村では、神に憚つて、鶏は飼はぬことになつた(名所図会)。此などは、学徳兼備の天神様でさへなければ、苅屋姫をわざ/\娘は勿論、養女であつた、と言ふ様な苦しい説明をする必要もなかつた筈である。
やまと新聞、1920(大正9)年1月

この伝承と日本書紀の記載を比べてみてください。
大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
原文では
時高皇産靈尊 勅大物主神 汝若以國神爲妻 吾猶謂汝有疏心 故今以吾女三穗津姫 配汝爲妻 宜領八十萬神 永爲皇孫奉護

大国主(大物主)は妻として「三穗津姫」を娶っておりますが、その大国主の御子である事代主の母は神屋楯比売であり、三穗津姫ではありません。
にもかかわらず、美保関の伝承では
事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜の里の美保津姫のもとへ通っていた
のですね。
「三穗津姫(美保津姫)」は大国主の妻であるのか、事代主の妻であるのか?

念のため、「神屋楯比売(かむやたてひめ)」について確認。
「古事記」にのみ登場する女神。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。
「大国主の神、また、神屋楯比売の命を娶りて生みし子は、事代主の神。」 -「古事記」上巻より引用-

うん、言いたいことは合ってます。
また、「出雲国風土記」には大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述はありますが、「事代主」の名は現れず、「事代主」の名が現れるのは文亀三年(1503)の『延喜式神名帳頭註』の美保神社の項でありますが

「美保 三穗津姫成 一座事代主」
であり、あくまで主祭神は「三穗津姫」となっております。

この辺りまでくれば、ワタクシめが言いたいことを忖度していただけるものと期待しておりますが(笑)
阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)」と「事代主」と「大国主」、役職名と神名との記載の仕方が変じゃないでしょうか。

もう一度記載します。
出雲国風土記によりますと、大穴持命(大国主)の子が阿遅須枳高日子命とあり、同じく事代主も大国主の子ですが、出雲国風土記には事代主の名はありません。
本名と役名を混同してますよね。

名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったためである。
大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)があり、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)のような全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている。
日本書紀・神武紀には、神武天皇の皇后となる媛蹈韛五十鈴媛命に関して

事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。

『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』とあり、事代主は神武天皇の岳父となっている。また、綏靖天皇の皇后は、日本書紀本文では事代主の女、古事記では師木県主の祖河俣毘賣となっていることから大和在地豪族で磯城縣主を任じられた弟磯城(おとしき)との関連性が窺える。
美保で青柴垣に引き籠った事代主神は、伊豆の三宅島で三島明神になったとする伝承もある。富士山の神とともに10の島を生み、現在の三嶋大社(静岡県三島市)に鎮座したとする。
先代旧事本紀では、大国主と高津姫神(宗像三女神のタギツヒメとされる)の子として記述されている。なお海部氏勘注系図には高津姫神は「神屋多底姫」(かむやたてひめ)の別名としており、古事記の大国主が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致する。
wikipedia

また、赤字の部分も考慮に入れ
阿遅鉏高日子根神 = (ある時期の)事代主であり 一時期の大国主(大物主)
であると考えるのです。

この辺り、説明が完全に不足していることを承知で書いてます。

『出雲国造神賀詞』に、大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を「葛城」に、事代主命を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。
とあります。

古事記上巻系譜でみれば
建速須佐之男命 → 八島士奴美神(八島篠)→ 布波能母遅久奴須奴神(布葉之文字巧為)→ 深淵之水夜礼花神 → 淤美豆奴神 → 天之冬衣神 → 大国主神 → 鳥鳴海神 → 国忍富神

であり、実際には大国主(大穴牟遅神)の後を継いだのは兄弟の鳥取神の子である鳥鳴海神なのですが、

大国主 → ◯◯◯ → 鳥鳴海神

一代抜けているように見えます。
鳥鳴海神は、素戔嗚尊と櫛名田比賣の間の子である八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)との子であり、事代主は大国主と神屋楯比売との間に生まれ、阿遅鉏高日子根は大国主と多紀理毘売の子で、系統が全く違っています。
須佐之男命の直系である鳥鳴海神はなるべくして大国主を継ぐ立場であったのですが、事代主と阿遅鉏高日子根は後、鴨氏が祖神として祀っているように系譜が違う故に、大国主としての名を継ぐようにはなってなかったのではないでしょうか。(この時期では)

いや、実際には、事代主も阿遅鉏高日子根も
大国主(大穴牟遅神) → ◯◯◯ → 鳥鳴海神
の間で、一時期その立場に立っていたのでしょうが、記紀には記されなかったと考えるべきなのでしょうか。

さて、ちょっとだけ横道に逸れますが、
「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命」
『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』
と、「三嶋溝橛耳神」の神名が出てきております。
娘である玉櫛媛(たまくしひめ)は、日本書紀では事代主神・古事記では 大物主神の妃。神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母、でありますが、父である「三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)」についての、ある考察を見つけましたので記載しておきます。
出典は「地名・苗字の起源99の謎―あなたの祖先はどこから来たか (PHP文庫) 」
著者 鈴木 武樹 明治大学教授



この項のタイトルが「三島は、朝鮮半島の神ノ島に由来する」という、なんともいやはやなタイトルであり、全体としては史料の出典がほとんど書かれず、信憑性に乏しい記述でありますが、この項の下部分は、出典もきちんと書かれております。


「また、『先代旧事記』の〈国造本紀〉には、「都佐国造は三島溝杭の九世の孫である小立ノ足尼に始まる」とあり、阿波の長ノ国造・長ノ阿比古(「阿比古」は原始カバネのひとつ。「我孫子」とも書く)も同じく三島溝杭の後裔だとあるので、三島族はこの地方にまで進出していた ものとみられる。さらに、『先代旧事紀』、<国造本紀>の別の箇所には、「長ノ国造は観松彦色 止の九世の孫である韓背足尼に始まる」としるされているので、これを前記の文章と合わせ れば、三島溝概耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」だったのではな いかと思われる。なお、阿波の名方郡には御間都比古神社がある

では先代旧辞本記より



鈴木教授説によれば
『三島溝杭耳の名は「観松彦色止」で、
    長ノ阿比古の名は「韓背足尼」』

なのだそうです。
なお、『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)によれば
※平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。
この、長ノ国の国造、いわゆる「長公」は下図にありますように



長公
大穴牟智神ノ児積羽八重事代主命ノ後也

とあるのです。
続く(やっと最後かな)

ヤバいこと書いてるのかもしれない(涙)