だって、だ〜れも信用しないと思うのです。
「救世山峯薬師」別当「法谷寺」。
場所はここ、蔵本の球場裏です。加茂名中学校も近くマーチングバンドの練習する音も風に乗って聞こえてきます。西部公園の登り口からは車で1、2分。
より大きな地図で 法谷寺 を表示
「救世山法谷寺」の碑があります。この道を入ってしまうと帰る時Uターンしにくいので
ここらに車を置いてあとは徒歩がいいんでないかい(志村けん風に)。
途中には「山神社」「八幡神社」があり書きたいこともございますが、今回はスルー。
数分歩きますと「救世山峯薬師 別当法谷寺」の碑が。
ここには「醫王水」なるものもございましたが、ここも華麗にスルー。
本題を急ぎます。
きれいに整備された石段をたらたらと登ります。
「峯薬師」本堂でございます。
あろうことか、あるまいことか「十六菊」の紋が。
さて、ご存じない方々に、ここをどうして取り上げたのかを説明させていただきますと。
下の由緒をご覧下さいませ。
「救世山峯薬師縁起」
古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の
対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に
枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域也。
前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を
祈願せん」と、秦河勝に命じ、以乃山馬峰に
醫王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯
薬師を開山す。後々仏教を志す者必ずこの
霊地を巡礼す。弘法大師峯薬師に修法、真
言密教を興す。嵯峨天皇の信を得、当山を
真言密教三密修験の根本道場とし、救世山
大乗院遍照寺を建立併せて、東の峰に金剛
光寺を建立、峯薬師を中心に遍照金剛の
霊地となす。
(以下略)
ね、小治田宮天皇は推古天皇ですので、「由緒によれば」下手したら607年建立の
法隆寺より古い建立であるかもしれないところなんです。
また、「秦河勝」に命じ「以乃山馬峰に醫王善逝薬師如来を作らしめ」って。
「以乃山」は言うまでもなく「眉山」の古名です。
「道は阿波より始まる」でも「記紀の説話は阿波に実在した」でも
奈良「法隆寺」の本社は、ここ「救世山峯薬師」であるとしております。
また、ここ「救世山峯薬師」の「峯薬師像」及び「救世観音像」は江戸時代末期に
行方不明になり、明治期に奈良法隆寺で岡倉天心により発見されたとも書かれて
おります。
さあ、どうしましょう。
こんなお話、誰が信用してくれるのでしょうか?
「法隆寺」の本社が、「救世山峯薬師」であるなどとは、どんな史書を見ても載ってる
はずもございません。
ただ、由緒にはご覧のように「堂々と」書かれております。
な〜んにもない所にこんな由緒があるはずもございません。
と、いう訳で(どういう?←聞き飽きたかな)頭の中がぐるぐるして来たので、さあ帰ろう
かと思ったところ、脇に何やらお堂があるではございませんか。
近くに寄ってよくよく拝んでみますれば。
ああああああああ、またしても、またしても「歓喜天」!!!
もう、煮るなと焼くなと、どうにでもして下さいませ(涙)。
最近は陰陽和合とはほど遠いんですが(笑)。
ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)
返信削除えらい発見ですね!(お見事!)
眉山はね!きっともっと何かありますよ。
普通の山ではありません。
今後の貴殿のご研究を楽しみにしております。
断ちモノして、(自然にとのうわさも)
一層のご精進をお祈り申し上げます。
いや、誠に恐るべし、阿波と云う国。
返信削除皆が皆、一片の疑いもなく、己が歴史を誇る。
そうでしたか...
私はてっきり、聖徳太子は河内の上宮だし、
法隆寺も救世観音も斑鳩にあるんだと思っておりました。
徳島に住んでおれば回るところは満載だったな。
以上、お蔭様に歓喜天の御霊験によって
「陰陽云々」現役の猫でした(笑笑笑汗)
ぐーたらさん、こんばんは。
返信削除信用しますとも。私は!
アレッ?うれしくない?(笑)
眉山って凄いって思ってましたけど、改めてやっぱ凄い!
気延庄に上宮ってあったんだァ。。。
to イコピコちゃん
返信削除最近、断ち物ばっかりで「面白きこともなき世を面白く」って境地に
なれないのも悲しいところです(涙)(苦笑かな)
誰も知らない(?)ところに、しれっとこんな縁起を書いてあるとこ
ろが何とも言えません。
ちょっとだけ書いてあった「醫王水」もいただいてみましたので性格
の悪いのが改善するか、も、しない、か(するか〜!)
to 猫の兄弟 さん
返信削除まあ、そう仰らずに(笑)
今度、阿波の長谷寺のことも書いてみますんで、また呆れていただこう
かと目論んでおります、お楽しみに(笑)
あ、あと、神山の宇佐八幡宮もね、面白そうでしょ。(笑笑笑)
to サクラサク4869 さん
返信削除今回の記事は、ワタクシめが悪うございます。
いきなりこんなのを出してきちゃ行けませんよね。
もう少し、基礎知識(3)みたいなのを書いてからがよかったと思っております。
上宮は地名でなく「上位の宮」か、かみ(上)にある宮の意味かなと考えてたん
ですが。
おはようございます。最近 厩戸皇子の事を妄想したり調べておりました。で、ウィキペディアの阿波の法谷寺のページにいったところ余りにもさっぱりしている上、下記の文言が記されていました。(聖徳太子の創建の寺の項目には法谷寺の名さえありませんでした。)
返信削除執筆の途中です この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教
グータラさんは古文書に則って記されておられる事も多く加筆されるのにうってつけではと思いました。お暇があったら大狐虚偽洗脳装置解除の一環として一行くらいいかがでしょう。*\(^o^)/*って勝手に思ってみました。(^_^)a またいつか厩戸皇子がらみの記事をアップしてください。楽しみにしています。
聖徳太子は讃岐の生まれだっていう人もいますしね(讃岐の「馬宿川(うまやどがわ)」近辺)。
削除それと一応「伊予国風土記逸文」に聖徳太子が道後温泉に来たとも
上宮聖德(うへのみやのしやうとこ)の皇(おほぎみ)を以ちて、一度と為す。及(また)、侍(みとも)は高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧(ほふし)・葛城臣(小楢)等なり。時に、湯の岡の側に碑文(いしぶみ)を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波(いさには)の岡と謂ふ。
とあるので(否定説あり)
四国をうろうろ(笑)してたのは間違い無いように思うんですけどねぇ。
さらに言えば聖徳太子の兄弟に「来目皇子(くめのみこ)」と「殖栗皇子(えぐりのみこ)」がいらっしゃいます。
久米氏の本拠地は石井で、川を渡って「殖栗郷(えぐりごう)」と妙に符合するんですよね〜。
あ、ボクがwikiに書いたら5秒くらいで抹消されるんじゃないでしょうか(笑笑笑)
試しに 今から書くぞと予告していただいて、一体何分で消されるか是非はかってみたいです。(^_^*)
返信削除wikiも由緒書きぐらいは書いてくれててもいいんじゃないのかなぁ。たとえ一見 荒唐無稽でも、古文書に書いてあるんだからしょうがないじゃん! と居直れますし。ああ、コペルニクスもさぞつらかったでしょうね。みんながただ前向きに出て来たものを真摯に調べようとするだけでいいのに。 日本の貴重な文化財がと思うともどかしいです。Facebookのあの寄付金、阿波の古墳調査に使わせて貰いたいなぁってここを読んでる人はみんな思ったでしょうね。
えぐりがあるとは。ますます怪しいですね。法谷寺のタタリ谷 厩戸皇子のお墓ならいつか行ってみたいです。タタリがなければいいですが。私も国府某所で写真全部原因不明で消えちょっと怖い思いをしたことありますので(~_~;) 今年秋に奈良の法隆寺であの仏像見られますね。機会があれば見に行ってみようと思います。ああ、はやく狐さん帰ってきてくれ。
あの仏像ですね。
削除法隆寺の目録にも載らず、1200年もほったらかしにされていたというのが、フェロノサがやってきて厨子に押し入ったら、木綿でぐるぐる巻きにされていたのが突然見つかったという、「あれ」ですね(笑)
あれはちょっと見たいですね(笑)
法隆寺夢殿本尊開扉 春4/11-5/18 秋10/22-11/23 だそうです。(突然の日程の変更がないなら)
返信削除同郷のグータラさんが訪ねると観音さまもお喜びになるでしょう。
フェノロサにグータラさんなみの粘り強さがあと一押し欲しかったですね。
ああ、奈良の友達をやんわり無くし、島根の友達に比婆山のイザナギ詣でを誘われるも今にも洗いざらい言ってしまいそうで、信じては貰えない事ばかりを。 向こうさんからするとこんな話はイエスがパプアニューギニア人だっていうぐらいのインパクトなんでしょうね。はやく事実がメジャーになって欲しいです。
寝転がってSiriに書かせると言う横着をしたもんだからところどころ誤字脱字が多くなりました。古事記と書きたくてもどんなにきれいな声でどんなにきれいな発音でがんばってみても乞食と変換するのです。イライザに教えてもらわなかったのでしょうかね。すみませんでした。
返信削除ELIZAって凄く古い話知ってるんだなって思ったら、今でもSiriに残ってるんですね。
削除古い(うっ)ComputerMagazinなんかに記事が載ってたのを思い出しました。
入力した言葉をそにままおうむ返しにすると、大半の人間は相手が知能を持って反応してると勘違いするっていうような内容だったと思います。
ところで(笑)比婆山にイザナギは祀られていませんよ。
まだ国譲りもされてない時期に比婆山に葬られるはずがないですから(笑)
初めまして
返信削除疑問に思ったことを書かせていただきます。
この縁起はどこからか引っ張ってきたものと思われます。
>当域南北に枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域
眉山は東西に枕し北に向いて開いていますので、この場所ではないかと思います。
峯薬師という割には麓にあるお寺なので、それも不思議なところです。
また、聖徳太子が活躍したかどうかも疑わしいですし、薬師信仰が盛んになったのは後の時代ですから、聖徳太子創建というのは怪しいように思われます。
初めまして。
削除「匿名」なんですね。
で、こういう不躾な書き方をされるんですね。
了解しました。
さて、きちんと読んでいただけたなら「救世山峯薬師」別当「法谷寺」と書いてあるのがお目に止まるかと思います。
「救世山峯薬師」の「別当寺」が「法谷寺」です。
「救世山峯薬師」はここではなく、確たる場所は判明しておりませんが、もっと山頂に近い場所だと推測されます。
また
>聖徳太子が活躍したかどうかも疑わしい
とのことですが、上の方のコメントにも書きましたが
「伊予国風土記逸文」に
上宮聖德(うへのみやのしやうとこ)の皇(おほぎみ)を以ちて、一度と為す。及(また)、侍(みとも)は高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧(ほふし)・葛城臣(小楢)等なり。時に、湯の岡の側に碑文(いしぶみ)を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波(いさには)の岡と謂ふ。
とあり、道後温泉に赴いたとの説もあります。
聖徳太子の活躍?、また存在自体を疑う方はいらっしゃいますので、それはご自由です。
そして、薬師信仰は飛鳥時代から確認されております。
聖徳太子が用明天皇の病気平癒を祈願して薬師像を奉納していることは、仏教学者 石田茂作氏の著書にも記載されています。
創建を疑うのは勝手ですが、これは疑問に思ったことではなく、疑っていることを述べただけ、と思いますが。