外にも出られませんので、愚にもつかないブログなどちょこちょこっと書いております。
お暇つぶしにどうぞ。
別にミステリーゾーンでもなんでもありませんので、その辺りを期待している方には
申し訳ございません。(って元からミステリーツアーなんてやってないっすよ)
ま、いいや。
「那須与一」ご存知ですよね。
治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の
戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、源頼朝より丹波・
信濃など5カ国に荘園を賜った。 Wikipediaより
とあります。
この「那須与一」伝説が(伝説って言いたくないけど)阿波国にもいらっしゃったという
お話です。
もちろん讃岐の屋島で戦ってたので近所の阿波に来てても不思議は無いんです、が。
石井町に「新宮本宮両神社」という神社がございます。
場所はここ。
より大きな地図で 新宮本宮両神社 を表示
地図を見ればもうネタバレしてるんですが、まあ知らないふりして書きますと。
「新宮本宮両神社」です。
雨の日の写真ですが、今日撮ったんじゃありませんよ
(そんなバカじゃないです。いや、もっとタチが悪いという噂も)
主祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命、速玉男命(はやたまのおのみこと)
由緒 「新宮さま」と俗称される。元二十八ヶ村の氏神。「社記」によれば
「成務天皇の朝の創祀なり」という。
新宮は諾冉二神を祀り本宮は速玉男の神を祀る。社殿宏壮。一説に寿永年間下野の
住人那須与市宗隆(市の字は記載のまま)屋島合戦の功により文治年中此処に移封
せらるるや熊野の神を勧請し新宮神社と称し、古くよりの神社を本宮社となし併せ
て新宮本宮両神社と称す。又この南二町余を距て与一宗隆を祀れる廟あり。もと本
宮境内西北隅にありしを移したものと伝う。 徳島県神社誌より
社殿宏壮です。
さて、まず「那須与一宗隆」より気になるのが
「社記」によれば「成務天皇の朝の創祀なり」という。
「(十三代)成務天皇の朝」って、普通は
成務天皇元年1月5日(131年2月19日) 〜 同60年6月11日(190年7月30日)
の事を言いますので。通説に鑑みれば神功皇后(じんぐうこうごう)のちょっと前
別の見方をすれば卑弥呼がいたであろうと推定される時期以前の創祀だということ
ですね。
成務天皇の実在自体を疑う説もあるようですが、徳島には欠史八代天皇のうち
七代孝霊天皇の第二子日子刺肩別尊を祀る天佐自能和気(あまのさじのわけ)
神社やこれもまた孝霊天皇の皇子である稚武彦命を祀る宅宮(えのみや)神社が
あるのはどういうことでしょうね。
まあ、普通は信じてくれませんでしょう。徳島県神社誌もすらっと書き飛ばしてますな。
で、ここには「矢神のイチョウ」というのがありまして。
ちょっと写りが悪いですぅ。
ご覧のように「那須与一」伝説より「矢神」とされております。
りっぱなイチョウです。
雨が降ってたのでハグできませんでした(笑)
大樹と美人のおねえさんには、すぐハグしたくなるんですぅ。(←バカ)
では、「又この南二町余を距て与一宗隆を祀れる廟あり」の廟は?
ここです。五輪塔が残ってたということなんですが、左下に見える石かな?
とも思ってましたが。
これもちょっと見にくいんですが「那須与一神社」と扁額にあります。
「伝説」って書かなくても「那須与一五輪塔跡」でいいじゃない、ねえ。
(誰に言ってるんだ)
鳥居脇の石が五輪塔跡なのか?
この右脇にある五輪塔がそうなのかこの時は確認できませんでした。
だって車がくるんだもの。
言ってみれば分るけど、前の道が細くて車なんて置けないの。
焦って、拝んで、写真撮りまくってたら、すぐに車が通るんです(涙)
で、「那須与一」が所領をもらってこの地に住んでたかどうかは分りませんが
子孫がいると言うのは記録に残ってます。
明治初期編纂の「阿波国(続)風土記」第四巻9ページ
左の方に「奈須氏」として「与一宗高」(隆でなく高になってる)孫平氏 云々とあり
「那須」から「奈須」として子孫がいたことが分ります。
ですので、没したのがここかどうかは別にして、一定期間石井にいたのは間違い無さそう
だとは思っております。
一般的には貞永元年(1232年)に中風のため摂津国で没したということになっております。
その頃は良い病院もなかったでしょう。
ナースの与一もいなかった、なんちって。
お後がよろしいようで。(よろしくない?)
おまけにYouTUBEより琵琶演奏「那須与一」を張っておきます。
凄いですよ。琵琶がこんな素晴らしいものだとは知りませんでした。
もちろん演者によるんでしょうけど。