2013年7月15日月曜日

安房神社はどこから?

以前から、ちらちら書いてたんですが、誰も気付いてくれないのか無視されてるのか(笑)反応がなかったので改めて書いてみます。
千葉県館山市に鎮座いたします、式内社(名神大社)、安房国一宮である「安房神社」がございます。
千葉県館山市大神宮589、場所はここ。


大きな地図で見る


Wikipediaを見ますと
安房神社(あわじんじゃ)は、千葉県館山市にある神社。式内社(名神大社)、安房国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「大神宮」とも。神話の時代に阿波国より渡ってきた忌部氏による創建とされる。
大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、開拓したとされる。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸、その周辺を安房郡と名附けて天太玉命を祀る社を創建した。さらに続けて、その社が今は安房社と呼ばれており、神戸には斎部氏が住んでいると書かれている。
館山市布良(めら)にある布良崎神社の『郷社布良崎神社略誌』では、天富命は上陸した房総半島南端の布良にある男神山へ天太玉命、女神山へ天乃比理刀咩命を祀り、その後さらに上ノ谷に天太玉命、下ノ谷に天忍日命の仮宮を建てたのが当社の「上の宮」と「下の宮」の起源だとしている。やがて布良を出発点として半島開拓を進めた天富命は、宮ノ谷(みやのやつ)に「太玉命ノ社」(当社)を創建したのだという。『安房忌部家系之図』によれば、養老元年(717年)に布良から西へ数百メートルの現在地に遷座し、同時に天富命を下の宮に祀ったとしている。また、周辺の地は神部とされ、全国八神郡の一つとなった。『新抄格勅符抄』によれば大同元年(806年)に神封94戸が充てられ、さらに10戸が加増されている。これについて、神郡が定められたのは大化5年(649年)で、その後当地は『和名類聚抄』にある神戸郷に属することになったのではないかと推測されている。

安房神社の公式HPを見ても
■ 神代 
安房神社の創始は、今から2670年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。

その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。

とあり、往古阿波忌部が房総半島へ進出し、この神社を創建したことは間違いありません。延喜式神名帳にも
安房坐神社とあり(読み方は「あわのざ」もしくは「あわのいます」神社と思われる)
安房(阿波)に坐する、つまり阿波から移された神社であることが社名に表されております。
また上記「神名帳考証」にも「阿波忌部所居便名安房郡 今安房國也」と記され、安房国が阿波より派生した国名であることを示しております。

でも、阿波からやって来たと云っても、阿波國結構広くて漠然としております。
忌部だから麻植近辺だろうとは想像できますが。
で、調べてましたら(何を)出てくるもんですねえ(何が)。
安房神社の元社。
山崎村神社記より、画像は見やすいように2ページを併せてあります。
原本の画像が欲しい方は仰って下さい。
じらしても面白くないのであっさり書いてしまいます。
山川町岩戸に鎮座いたします「岩戸神社」

舊伝曰当社上代安房国安房郡安房神社御迁(遷)座具古社也止(と)伝

前後しますが場所はここ。

より大きな地図で 岩戸神社 を表示


社伝は御覧の通り「安房神社」と比べたりしてはいけません(笑)
にしても、阿波忌部は「ここから」黒潮に乗って房総半島まで進出して行ったのです。
そのスタート地点が「ここ」なのです。
このように、神代忌部の旧跡が残る「聖地」でもあるのです。


あ〜久々にブログ書くと、肩が凝ってしゃーないです。
なので、内容はあんまり「ないよ〜」。


大爆笑!!!して下さい、すいませんけど(涙)


2013年7月7日日曜日

天石門別八倉比賣略記

もう、いい訳すらいたしません。
長い間更新しておりませんで、申し訳ございません。
諸般の事情はございますが、ここに書くようなことでもありませんので、ひたすら平伏するのみでございます。
もうしばらく、このような状態が続くやもしれませんが、ご容赦いただきたく伏してお願い申し上げます。

で、あんまし書くこともないんですけど、ちょっと出してきたい資料を見つけたんで、ご紹介だけ。

徳島市国府町西矢野に鎮座いたします「天石門別八倉比賣神社」。


ご参拝された方はご存知でしょうが、本殿右手側に「天石門別八倉比賣略記」と記された掲示板がございます。
こんなのですけど。
何が書かれているかと云いますと「略記」です。
あ、石は止めて、タマゴも止めて。
などとバカなことを言わずに内容を転記いたしますれば。

天石門別八倉比賣神社略記

延喜式内大社 正一位 八倉比賣神宮
御祭神 天照大神 古来大日霊女命と尊称
御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和8年(841)8月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観13年(871)2月26日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)3月3日正一位となる。 
御神紋 抱き柏 
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜212m)一帯200余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより2150年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。
矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも
柿本人麿(萬葉集収録)
当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736―41)まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。

この太政官符の写本が「徴古雑抄(ちょうこざっしょう)」にありましたので貼っておきませう。

要は中央官庁からの「お達し」として、阿波國国司に
「八倉比賣神の祈年月次祭は日本国としての大典であるため怠るべからず」
という意味であるのです。
これが関白内大臣師通の記として残っていたと云うものです。


と、ここまで書いたとき、師匠の
「式内社(天石門別八倉比賣神社)比定①  八倉比売神社 徳島市国府町」
の記事が先にあったことに気が付いてしまいました(涙)

ああああ、でもここまで書いちゃったので公開してしまいます。
やっぱ、ロクなもん書けないってことです(涙)
ただもひとつ書いておかなければならないことは「天石門別八倉比賣神」が「忌部神」と書かれていることですね。
ではでは。
しっぽ丸めて引っ込みまーす。