2015年3月15日日曜日

「岡本監輔」を知っていますか?

岡本監輔を知っていますか?
まず略歴を記すれば

天保10年(1839年)、徳島県穴吹町三谷に生まれる。

地元である儒学者のところへ居候している際に訪ねてきた瀬戸内の漁師の話よりサガレン(樺太)という島があることを知り、興味をもって江戸に でた。
彼は江戸において、間宮林蔵の「北蝦夷図説」と出会い、ようやく自分のめざしているのが当時の北蝦夷、現在の樺太、サハリンであることを知る。

 文久3年(1863年)、樺太探検し、鵜城からシルトタンナイを探検し 敷香に滞在、原住民と同じ生活をして樺太風土への理解を深めた。

 慶応元年(1865年)、丸木舟によって間宮海峡を通り西海岸を探索し北端 のガオト岬へ到り、この地に天照大神を祀った。日本人初である。
そして西海岸を南下した。
間宮海峡を横目に8月にはシララオロ、クシュンコタンに到着する。かくして樺太一周をなし遂げた。おそらく地元アイヌも含めて世界で初めての快挙だろう。

だが、この時1865年。まさに幕府は倒れようとしていた。ほとんど政府の援助なく行った事業であることも含めて、岡本の壮挙は評価されることはなかったのである。

その後、クシュンナイの日本人がロシアに拉致される事件がおき、それが元で両国の境界を決めようという動きとなる。しかし、現状では日本が主張できるのは南端のみ。それに反対して、ロシアに向かう使節団を追いかけて京都まで行っている。(結果的に境界は決まらなかったのだが。) その後、岡本は坂本竜馬と逢って北蝦夷開拓を訴えている。

 明治元年(1868年)、函館裁判判事となり、樺太経営を担当する。

 明治3年(1870年)、樺太放棄論をひろめた黒田清隆と意見が合わず 辞任、東京第一中学にて教壇にたつ。

 明治4年(1871年)、「北門急務」を著し、樺太が古来より日本領で あったことを記す。

明治24年(1891年)には、千島列島のエトロフ島を訪れた。樺太と交換した千島がほったらかしであることを知り、千島開拓を企てて千島義会を結成。全島の探検を目指すが、船が沈没してエトロフ止まりだった。

 明治25年(1892年)、千島義会を設立、択捉島などを探検し「千島見聞録」などを著し、 北方についての知識を国民に広めた。

 明治37年(1904年)、ポーツマス条約にて樺太の南半分を得たことを知ることもなくこの世を去る。

著書に『北蝦夷新誌』、『窮北日記』、『烟台日記』、『万国史記』など多数。


樺太一周って簡単に言うけど、まあみてください。直線距離でも札幌、東京間をはるかに超える道のりです。
それを間宮海峡を丸木舟で渡った上、海岸部分を一周するという途轍もない調査を単独で行っているのです。
んで、ここが当時言う所の間宮海峡部分です。
ここを丸木舟で渡ったのですね。
彼のおかげで日本は1904年樺太の半分を日本領土とすることができたと言っても過言ではありません。
無論、その後の「ごたごた」は彼のせいではありませんし、いわんや第二次世界大戦後の領土問題など....
「岡本監輔」編集の「樺太郷土読本」中でも「北門急務」として北方領土の重要性を説いております。

では、なぜ今回この「岡本監輔」を紹介したかと申しますと、実はかの名著「名神序頌(めいしんじょしょう)」は「岡本監輔」氏の著作なのです。

阿波国延喜式内社を、余すところなく解説した阿波人必読の書と言えましょう。
ただし、全編漢文で、無茶苦茶読みにくい!
ですが、多くのところで引用されており、その価値は一級品でしょう。
例えば
式内社 阿波國美馬郡 伊射奈美神社の由緒
当神社は岡本監輔著「名神序頌」によれば貞観中 (八五九~八七七)に創建されたと記され また三大実録に貞観十年(八六八)三月十二日 阿波国正六位伊奘再神に従五位下を授くと載すとある

式内社 天佐自能和氣神社(ブログ「空と風」より)
ただし、『名神序頌』(メイシンジョショウ) (岡本監輔・オカモトカンスケ 1839 − 1904) には、「旧号を高木権現と云ふ」とあり、御祭神が「高木神」すなわち、「高皇産霊尊」であったと見られる。

などなど。

そしてこの「名神序頌(めいしんじょしょう)」中、白眉と言えるのが、「天石門別八倉比売神社」についての記載部分です。


この部分はかの「入田村史」にも引用されております。
入田町 麻能等比古神社」を参照のこと。

余切に謂ふ、是は、皇太神駐驛の處也。神號に、天石門別と冠す、乃ち天石門別が斎所八倉姫の義なるならんか。八倉は、八重席を謂ふ。諸(これ)を彦火々出見ノ命及び橘姫の事に徴して知るべきなり。
抑々神代に謂所高天原は、皇都の在る處にやあらん。
蓋し、阿波國は、吉野川両岸の境域と、勝浦郡の一部を言ふ。吉は安及び八湍と通す。後人は皇都大和に在り、大和に吉野川有るに因り遂に艶美比べ擬して以て轉化を致すのみ。大神嘗て、矢野神山及び、忌部山の各所にあり、故に天石門別及び、神明山大神の説を傅ふるなり。後に伊豫に遷り、日籠山いまし、豊前中津に臨む、皆天津日等の號を存す、亦怪しむに足るなし。

「余切に謂ふ」と正に叫ぶが如き一文でしょう。
続き、「是は、皇太神駐驛の處也」と。
後は、言わずもがなでありましょう。
「神代に謂所高天原は、皇都の在る處にやあらん。」と.......

樺太を日本領土とし、坂本龍馬とも関わり合った稀代の探検家「岡本監輔」は阿波国のことを、このように記して世を去ったのです。
さて、我々はどう答えるべきなのか。


最後に
美馬市ホームページに「岡本監輔」生誕の地の地図が記載されておりましたので転載いたします。