ですが日時を指定した予言が的中した試しはございません。
4月11日だったかにも大地震がくるって言ってたでしょ。
そんなの来なかったし、変に騒がないようにね。
さて、平素皆様方から多量の宿題をいただきまして、まったく追いついていないのが
現状ではございます。ここ数日間どうやってごまかそうかと(おいおい)考えており
ましたが、とりあえず何か書いときゃ忘れてくれるかな(おいおいおいおい)などと
不埒な考えで、前から隠しておいた資料など引っ張り出してまいりました。
昭和17年頃の出版物からです。異論がある方もいらっしゃるとは思いますが、これ
がなかなかに面白い。「阿波の古代の基礎知識」としてご紹介させていただきます。
旧仮名遣い等々読みにくい文章なので勝手に変えてます。
青字はワタクシめのつぶやきでございます。読み飛ばしてくださいませ。
ではでは。
(宿題は忘れてませんので、遅くなってもいずれは書きます(かな))
古代の阿波は粟国と長国との二つに分かれていた。其の境界は名東、名西二郡を割せる山脈で、南方に長国、北方に粟国が存在していたのである。
かくて粟国は粟族が、長国には長族即ち海人族が住んでいたのである。粟族の中心地は名西山分の神領で、長族の中心地は名東郡の佐那河内地方であった。
名西郡上山の府殿などいう地名も、部族統御の中央政庁のあった蹟で、佐那河内の府能も、府野で、長族の政庁の所在地であったであろう。
斯くて粟族は次第に其の勢力を西南に延ばし、種族が蔓延した。忌部族の渡来してよりは其の勢力の消長があったが、一時其の蔓延の広かりしことは今でも、郡名に阿波、村名に粟島などいう名の残って居るのを見ても、これを知ることができる。又長族は次第に東南に発展して、郡に那賀郡、川に那賀川の名を今に伝えている。
粟族が忌部族に駆逐されたような書き方ですね。ちょっと微妙。
粟族は粟を常食とし、長族は米を常食としていた。粟は畠で生育するが、陸稲以外の稲は水田でなくては実らない。されば稲の栽培には灌漑の水を要する。用水路は稲を作る者の第一の条件で、新田開墾といい、耕地整理といい、米作には何時も用水路の開墾が、第一の問題となっている。佐那河内に井開、井貝などという姓のあるのも、此の井即ち用水路のことについて尽力せし功績をたたえた記念である。元来水田は最初は溪水のある山間に耕作され、尋で次第に降下して、更に山麓地に進出し、最後に河川沿岸の地に開拓されたのである。
粟の神は大宜都比売命で、稲の神は観間都彦命(御間都比古命)である。佐那河内に鎮座せる観間都彦神社は稲の神、長の国造(くにのみやつこ)の祖神を祀ってある祠である。
写真は御間都比古神社
古代は海水が深く入込んで、陸地が少なく、現今のようではなかった。それで、佐那河内に長族が居て稲を作るかたわら、漁業をも営んでいた。そこで海人族の祖豊玉比売神を奉祀して居たのである。
ならば佐那河内に豊玉比売神は祀られているのか?
古代の道路は険悪で、通りにくかったので、交通は船を主とした。それで津即ち港が、交通状必要であったのである。此の要求を満たすために津が発達した。上山(神山)川の下流には名方津があり、源を佐那河内に発する八万川の下流には八万津があった。
名方津は粟の国に、八万津は長の国に属していたが、二者何れも良港で優劣がなかった位である。
名方津は今の国府町や僧都の辺で僧都淵(塞水(そうず)の意で、大僧都良弘の居たところというは付会の説である)即ち上山(神山)川より流下せる多量の水を受け、海水を漫々と湛えていたのである。近傍の和田や海見などの地名はいずれも水に縁のある語で、和田は曲で曲りて水の淀むところ、海見は峡湖で山間の深く水を湛えたところである。大浦も其の名の如く、昔の海辺であったのである。和田には海神和多都美神を祀ってあり、尼木は海人城で海人族の居たところである。
尼木は海城であったことは今までにも書いてきました。
写真は王子和多都美神社
名方の名は蝦夷語の「ネア」の促音ならん。
(註)促音(そくおん)は、つまる音ともいい、日本語のかな表記で「っ」「ッ」で表され、1モーラとして数えられる。ただし、単独では成立せず、通常、3モーラを構成する真ん中の要素としてのみ存在することができる。wikipedia
「ネ」とは如しの義、「ア」とは銛(もり)、矛、槍等の如く頭の尖れるものをいう。「ネア」とは矛の如き地という義であると解する学者もある。方とは潟、津は港で、海水の浸入せる良港であったことは争われぬことで、粟国第一の良港であったことは言うまでもない。
ほほぉ「ネア」を促音として「つまって」発音すると「ナ」ですか。
で、蝦夷語なんですか。うーむ考証は保留いたしましょう。
確かにアイヌ語では「ネ」は「ネ=~である」となってますなぁ。
「ア」は?「アイ」は「矢」とありましたが。
後世地形が変遷し、港が次第に浅せ、陸の面積が広がるにつれ、唯名方なる名前を存ずるようになったのは時世の推移によるのである。名方津の存在から郡を名方郡といい、或は名方津を中心として、東西に分ち、名東郡、名西郡ともいったのである。以西郡の名も名方津以西の義より起こったのである。名は又水を意義する語で、国府町の名方津の陸地化して村となったのである。海部郡牟岐の中村、板野郡北島村の中村、何れももとは其地が水中にあったのである。鮎喰川の旧河道東名東町、園瀬川の旧河道上八万村にも中筋名が残っている。
八万とは今の上八万村のことで、八万津は今の上八万村の大木をいうのである、古は此辺まで海水が浸入していたので、船舶が往来していたのである。海人族の総帥安曇宿禰がここにいて、祖先安曇王の霊を奉祀したので王城というので、大木とは当て字である。近傍に宅宮神社がある。祭神は意富門麻比売神で、意富は大、門麻は泊で港の義、八万津の神を祀れる社であるから、以て八万津の大港であったことがわかる。
要は宅宮神社近くまで海が迫っていて港があったということですね。
写真は宅宮神社
八万津は古は海に沿い、八万川の水がここに流れ込んでいたので、此処も船舶の出入りが多かつく、八万津は上流より下る土石や、海の方より打寄する砂礫のため、次第に陸地となり、次第に海に近い方に其の位置を変じた、高津、中津浦、下津浦など、いずれも、古代は八万津であったが、今は何れも田畑となっている。
以下略
ですが、中村、中筋が元は海中で、近世陸地になったというのは、なんとなく納得できる
ような気がします。
ここまで書いた時「サ◯◯◯ク」さんからケータイにお電話が!なんじゃらほい?
「ぐーたらしてるのは知ってるぞ。今から雨乞いの滝に打たれてこい」って。
お見通しですねぇ、でもこんな深夜に?しゃーないなぁ、今から行って参ります(うそ)
その(2)以降は不定期に書きたいと思っております。
何かをごまかすときじゃないですよ(信用しないだろうけど)
昨夜は失礼致しました。
返信削除これほどの傑作を書かれていた最中とは・・・水を差してしまって申し訳ありません。
大木=王城なのですね。
8月15日の宅宮神社のお祭りに行ってこようと思っています。どういう所を見ておいたらよいか、アドバイスいただけたらうれしいな~♪
こんばんは~♪
返信削除ワクワクしながら読ませていただきました!!
古代の阿波の地図が欲しいですネ♪
(●^o^●)♪
to サクラサク4869 さん
返信削除>8月15日の宅宮神社のお祭りに行ってこようと思っています。
宮司の河野家のおばあちゃんにお話を聞けたらいいですね。
関東の盆踊りなんかは櫓を囲んで同一方向に廻るように踊りますが(◯◯
音頭とかですね)宅宮神社の神踊りは神籬(ひもろぎ)に対して何かを
行ってるような所作を繰り返します。
その辺りをどう感じるかが見所じゃないでしょうか。
ちなみに帽子とタオルと水筒は決して忘れないでくださいね。
またブログに書いてください。
to すえドン さん
返信削除面白いですねぇ。おっしゃるようにワクワクしますねぇ。
読んでると国府の和田や名東の僧都の辺りが港だった風景が目に浮かんで
くるようです。
岩津や粟島のあたりもどうだったんだろうなんて考えてしまいますね。
ぐーたらさん。こんにちは。(^○^)
返信削除かなり古代阿波の背景がわかり易い内容で面白かったです。( ̄^ ̄)ゞわたし的にはもう少しぐーたら的解釈を含めてくれると嬉しかったのですが…。(生意気ですんません。)
あ〜、でも詳しく知る毎に種族、血縁関係や時代背景がごちゃごちゃになってアタマの中でスッキリしません。まず神様の名前がおぼえられませんし。
ぐーたらさんはどうやって整理して知識としているのかよかったら教えて下さ〜い。(´Д` )
徳島(阿波)在住の方、或いはその地に詳しい方は
返信削除すっきりと読まれるのでしょうが、
小生は古地図ならずとも、今の地図でも広げながらでないと
ついていけません。
そして中身は?
もう2回くらい読まないと、頭に入っておりませんね(汗汗)
to きよっさん
返信削除>わたし的にはもう少しぐーたら的解釈を含めてくれると嬉しかったのですが…。
ここは解釈を入れずにそのまま出した方がいいかな、と思ったりしましたので。
たまには普通の説明を入れとかなくちゃいけないでしょ(笑)
ワタクシめなどのひねくれた解釈はイヤでもまた書いちゃいますよ(笑)
え〜、御神名とか諱(いみな)などは「まったく憶えられません」
このブログの中でも大量に間違っております(涙)
白状いたしますと、ワタクシ人の名前を覚えるのが絶望的に苦手なのです。
逆に顔とか特徴、地形、経路なんかのパターン認識には自信があります。
ですので、行ったことがある場所なら、その場所のイメージと関連づけて
憶えます。
なので、資料だけで調べたところは、結構勘違いが多いです(汗!)
to 猫の兄弟 さん
返信削除すいません、地図もつければよかったんですが、適当な古地図がなかった
もので文章だけとなり、判りにくかったと思います。
内容は超ローカルネタなのでこれも判りにくいと思います。
こんなときはもっと図面も入れるようにしたほうがいいですね。
失礼いたしました。
ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)
返信削除阿波の古代の基礎知識(1)から勉強させて頂けるとは、
思いもしないありがたきことです。
以前、のらねこ先生の古代の阿波の地図から、海は相当内陸部まできていたことは理解していたのですが、八万(はちまん)が(はま)だったとは・・。
これからも引き続き勉強したいので、継続してご指導くださいませ。
to イコピコのひとりごと さん
返信削除そんなに丁寧に書かれては、むずむずするではありませんか。
なにか魂胆があるのかと思っちゃいますよ(笑)
佐古は海岸沿いの狭い場所、狭(さこ)
二軒屋の金比羅さんは当然海岸淵(富田浦だったでしょ)
同じく二軒屋の潮見寺も海が見える海岸
八万の夷山は海沿いで夷神社がある島または岬
問屋町に龍王社があり文化の森駅近くに灯籠が残ってます。
間は全て海で澪標みたいな役割だったと思います。
いや。そんな魂胆はないですよ。(笑)
返信削除少年の頃、(ひと昔ほど前)方々の川で遊びました。
私の記憶が正しければ、冷田橋(問屋町のちょっと川上)付近にだけ、「ツメタガイ」が獲れました。別に食べないんですが、夏休みの宿題の標本は、毎年「ツメタガイ」の標本を少し点数を上乗せして台紙とレイアウトを変更し提出するのがお決まりになってました。(この頃から人間的に終わってます)
何が云いたいかと云うと、潮入り川が多い中、あの貝が生息するためには、アサリが居たってことなんです。しじみやカラス貝に混じって、確かにアサリもいましたね。すぐ西には夷山地区が。
徳島市内は、ほとんど海だったのですね。