2011年9月28日水曜日

延喜式内社 麻能等比古神社

見ぃつけた。


「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」




入田村史にあるように矢野村は入田村の一部であった事、「猿田彦命」を祀っていたのでは
ないかと言う事、ならば松熊神社に「天宇受女命」が祀られている事、船戸神である事。

等々。
ここだったのかぁ!!!

2011年9月25日日曜日

石井町 日枝神社

急に朝晩涼しくなってまいりました。
皆様方にはお風邪など召されてございませんでしょうか。え?気持ち悪いって。
とはいいつつも、昼間はまだ暑くちょっと動けば汗ばむほどでございます。
で、まあ天気もいい事ですし、近場ではございますが散歩がてら行って参りました。
石井町内谷の「日枝神社」
家から自転車でも10分かからないくらいですね。
場所はここ

より大きな地図で 石井町 日枝神社 を表示
ご覧の通り「日枝神社古墳群」の中ではなく、古墳の上に鎮座ましましております。
何回か詣っておりますが、いつ行っても神気縹渺たる雰囲気です。
もしお詣りされる方がいれば御注意下さい。
「イノシシ」が出没しております。
うちの近所でも、畑がだいぶ荒らされております。当然、この近辺禁猟区でありますので
こんな罠を仕掛けるしかないのです。
タバコを撒いたり、人間の髪の毛をくくっておいたりもしてますが「もうひとつ」の
ようです。
 
御祭神 猿田彦命
徳島県神社誌には詳しい由緒の記載はありません。石井町史には
滋賀県大津市坂本村鎮座「日吉大社」の御分霊を祀る、とありました。
社名だけ見れば「日吉大社」からの御分霊ですのでの「日枝神社」でなんとも思いませんが「日吉大社」御祭神は大己貴神(大国主神)と大山咋神。
摂社にしても大山咋神荒魂(大山咋神の荒魂)、鴨玉依姫命、鴨玉依姫命荒魂(鴨玉依姫命の荒魂)、田心姫神、菊理姫命となっており、当「日枝神社」御祭神「猿田彦命」とは、何の関わりも無さそうに見えるところが、何とも言えません。
明治四十三年「愛宕神社」を合併ともありますが、それらしくない雰囲気です。
最初に書きましたように「日枝神社古墳群」の真上に鎮座致しております。
一号墳からは熟年男性が埋葬され、30歳前後の女性の切歯が見つかっております。
埋葬時に一緒に納めたものと見られます。
下の写真のお社も古墳の真上です。なぜ二社祀られているかは分りません。
四号墳は神社のすぐ横、長さ2.1mの石棺と提瓶、杯などが出土。
五号墳は社の後ろに出て尾根伝いに西北へ進んだ所に緑色片岩の石棺が見つかっております。ワタクシの記憶違いでなければ、熟年男性が埋葬され剣、勾玉も出土しているはずですが「石井町史」にその記載はありませんでした。

で、五号墳まで行こうとしたんですが、ちょっとまだ季節が早い感じで、虫も多く草が生い茂りすぎていたので、びびって止めました。
ハメ(マムシのこと)も怖いですしね、イノシシもねぇ。
上に出したイノシシの罠なんて見てなけりゃ良かったんですが(笑)

というわけで、ふつ〜の汗と冷や汗をかいて帰ってきた訳でございます。
位置関係としては、気延山の一部、山を越せば「白鳥古墳群」、すぐ北には「ひびき岩古墳群」、地名は「内谷」古は海水が入り込んだ谷ですな。
シチュエーションとしては揃いすぎている神社でございます。
何と言っても御祭神が「猿田彦命」ですよ。

もうちょっと、調べがつくまで置いとこうかなと思ってたんですが、ちらっと書いて
ご意見などいただければ「ラッキー」でございます。

2011年9月22日木曜日

国府町芝原 蔵珠院

今回の台風15号は全国に大きな被害をもたらしたようで、被害に遭われた皆様方には
心よりお見舞い申し上げます。
ワタクシ事ですが、当日は家の周辺の道路が冠水して家に帰る事ができませんでした。
ここらは水田が多く、水利を確保する為に相当低くなっております。
幸い家の方は被害は少なかったのですが(飼い犬を避難させたぐらい←被害かよ)
道路脇の水路には車両が脱輪したりして、大変だったようです。

で、タイトルの「国府町芝原 蔵珠院」と何の関係があるのか?といわれますと、ここは
平安時代初期、聖宝(しょうぼう)によって開基された高野山真言宗の
「東曜山 蔵珠院(ぞうしゅいん)」と言います。
聖宝(しょうぼう)は、真言宗の僧で、醍醐寺の開祖。
真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされております。
天長から延喜の頃の人(832年〜909年といわれております)
俗名は恒蔭王。天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)というそうで
なんか、すっごく面白そうなんですが、ここは我慢して。
上の写真の寺門左脇に標柱が立っております。
これは、慶応二年の吉野川の大洪水である「寅の大水」の出水記録であります。
脇の石碑には
この標柱は江戸時代末期に起こった吉野川の大洪水による氾濫水位を示したものでこの洪水を地元では「寅の大水」として語り継がれています。
「寅の大水」は慶応二年(1866)寅の年に発生した大洪水であり当院の過去帳に洪水の様子が記されています。
それによりますと芝原第十の堤防が全壊し当院の檀家で三十二人もの方が亡くなりました。
また、院内の板襖や壁には当時の痕跡が残っています。
以下略
一人だったから横に立って高さを示す事もできませんが、目測で2m50㎝はあろうかと
思われます。
吉野川の堤防が決壊したならば壮絶な水勢だったことでしょう。
今度の台風15号と合わせ鑑み、唸ってしまいます。
いつまでたっても自然の力は人間に御せるものではございませんね。

で、終わりたいのですが、この「蔵珠院」知ってる人は知ってますが
「面白い」んですねぇ(←終わりゃいいのにね)。
院内にこんなのがあるんです。
「栄螺の泉」
ちょっと写りが悪いんです。補正しましたがもう一つですね。
地面を螺旋状に掘って造り上げた泉です。
この螺旋状に降りて行けば水が汲みやすい、という説明になっておりますが
立て看板には「全国的にも大変珍しい」とありますが、多分この形式の泉は全国ただ
一つなのです(多分ね、多分)。
場所は久米氏の居城であった芝原城跡。
そして、なぜ螺旋の泉が胎蔵界の大日如来を現すのか?
謎が謎を勝手に呼んでおります(訳わかんな〜い)。

では明日は早朝より公園の掃除に呼び出されておりますので、この辺で。
(台風、洪水の話はどうなったんだよぉ)


2011年9月18日日曜日

阿波國一之宮 大麻比古神社(4)一応END

最後はぐだぐだなんで、もういいかなとも思うんですが

阿波國一之宮 大麻比古神社(1)
阿波國一之宮 大麻比古神社(2)

阿波國一之宮 大麻比古神社(3)
など見ていただければ、ありがたく存じます。

阿波國一之宮 大麻比古神社(2)の冒頭で説明しかけて、ちょっと話を置かせて
いただいておりました「鹿江比売神社」について書かせていただきます。
というか、見ていただければ一目瞭然なんですが。

祭神は鹿江比売神(命)であり、「かえひめ」の訓から草野姫(かやのひめ)と同神とされております。一般的には草の神とされているようです。
(『古事記』には「鹿屋野比売神」、『日本書紀』には「草祖(くさのおや)草野姫」として現れる)


で「阿波國続風土記(第五巻72ページ)」には



鹿江比売神社
板東村に在り長井明神と称す三代実録元慶七年九月五日戌辰授阿波國従五位下鹿江比◯神従五位上頭書に神名帳紅作江とあり是決て大麻比古神の后神なるべし近江國小野神社も二座なり鹿江の名義御眞津日子訶惠志泥命の訶惠に同じきか但し江惠異音なれば別義か又天足彦の女忍(?)鹿江比売の鹿も考べし

ま〜た、こんなこと書いてるよぉ。
だって「鹿屋野比売神」といえば古事記では、「大山祇神」との間に、四対八柱の神を生んだことになってるんですよ。

えと、じゃあ「神名帳考証」ではどうなってるのかな?
「大麻比古神社」も同じページだってんで、ページごと載せときます。

大年神娶香用比売 云々又鹿屋野比売神同八河比売
大年神の奥さんてか?あ〜、もう分んない。

ってまとめられないだけで、見当はついてますけど。
ヒントだけ書けば
大年神は「須佐之男命が大山津見神の女名は神大市比売に娶ひて生みませる子、大年の神」八河比売(八河江比売)は大国主命の后神

ん?ならばいろいろ矛盾するって?
のらねこ大先生にお供え物をすれば矛盾も解消されるでしょう。

って訳にもいかないので、出直してきますが、すっごく面白い事になりそうなのは御察しの通りでございます。

さて予想の如く、最後はぐだぐだになってしまいましたが、改めてここらを書く事もあろうかと思いますので、その時はもうちょっとはっきり書けるでしょう。

最後に「藍住町の中富は『中臣』」なのですぞ。

2011年9月17日土曜日

阿波國一之宮 大麻比古神社(3)

前回までの記事をご覧でない方は
阿波國一之宮 大麻比古神社(1)
阿波國一之宮 大麻比古神社(2)
をご参照くださいませませ。
写真は「大麻山」


前回で
「大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし」
などと大見得を切ったわけですが(ボクじゃないですよ)
この「天足彦國押入命」は孝昭天皇の第 一皇子でございます。

孝昭天皇

孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年(紀元前506年)- 孝昭天皇83年8月5日(紀元前393年9月5日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日(紀元前475年2月21日) - 同83年8月5日(紀元前393年9月5日))。和風諡号は観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)・御真津日子訶恵志泥命(『古事記』)。
いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であるが実在説もある。
またまたWikipediaより

ですね、欠史八代(闕史八代)の天皇が出てまいりました。
阿波でこの「孝昭天皇」に関わりのある神社と言えば「御間都比古神社」ですね。

御祭神は「御間都比古色止命」(みまつひこいろとのみこと)で「御間都比古色止命」とは、
和風諡号が「観松彦香殖稲尊」とあるように孝昭天皇(こうしょうてんのう)のことです。

『先代旧事本紀』(国造本紀)には
「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」
とあり「観松彦伊呂止命」つまり「孝昭天皇」の九世孫にあたる「韓背足尼」
(からせのすくね)が長国の国造(くにのみやつこ)になったとあるそうです。

で、「仮に」ですよ、大麻比古神が天足彦國押入命だったとしますよね。
(逃げを打ってるのはいつものこと(笑))
大麻比古神は通常「天太玉命」となっております。
「天太玉命」には義理の兄弟がおりまして「天日鷲命」。
「天足彦國押入命」に兄弟は?おります。
「日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)」でこれは「孝安天皇」
のこと。(!)
「天太玉命」は「天足彦國押入命」
「天日鷲命」は「日本足彦国押人尊」こと「孝安天皇」
ちょっと飛んで九世孫の「韓背足尼」がいた。

う〜ん、欠史八代の系図、だいぶ埋まってきましたよ、猫さん。
(ホントはこの前後ももうちょっと埋まるんですが、先に進みたいんで、此の程度)

で、話は前後して(前回記事を早く書きたくて、構成が逆になっちゃったんですが)
大麻比古神社の御祭神について「天太玉命」であるとの考察がなされている資料が
以下の画像として出してます
「国幣中社大麻比古神社御祭神考證」
表紙
1ページ目
15ページ
16ページ(最終)
最終ページでご覧のように明治41年に大麻比古神社宮司「山口定實」氏が著してます。
今回テキスト化はちょっとご勘弁を。「阿波國続風土記」の方ですっごく手間取っちゃったんで。
画像は一応フルサイズのを張ってますのでクリックすればはっきり読めると思います。

また、県立図書館へ行ったらコピーは原典がボロボロだと言う事で許可されず、写真撮影の申請をして、図書館内で撮影を行なってきました(あ〜めんどくさい)。
だから「徳島県立図書館所蔵」の文字も入れました。
機会があれば、前ページアップも(していいのかな?)テキスト化も(やだなあ)
できればいいな、と思っております。

そして、「阿波國続風土記」の板野郡部を書いてるのは
に書きましたが、この中で板野郡の記事を書ける人はただ一人

 南分右同惣而士族御用取扱  板野郡坂東村神職  永井 五十槻

この方しかいませんよね。


永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)

永井精古の孫にして大麻比古神社神主、忌部神社主典
この方が「大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし」と言い切っておるのです。
傾聴致しましょうではありませんか(日本語変だな)。

いかんいかん、今回で終わるはずだったのが、書ききれませんでした
「泣きのもう一回」いきますぜ。

2011年9月16日金曜日

阿波國一之宮 大麻比古神社(2)

ま〜た台風じゃないですか、籠ってブログでも書いてろって言われてるんですかね。
阿波國一之宮 大麻比古神社(1)」もご参照くだされ。
え〜、大麻比古神社の話を続ける前に書いておかなければならないのが
「鹿江比賣神社(かえひめじんじゃ)」です。
またまたまたまた、Wikipediaより引用すれば(いかんなぁ)

『延喜式神名帳』阿波国板野郡に小社(国幣小社)として掲載され、元慶7年(883年)9月5日には従五位上に叙された記録があるが(『日本三代実録』)、現在その論社として以下の2社が挙げられている。なお、祭神は鹿江比売神(命)と見られており、「かえひめ」の訓から草野姫(かやのひめ)と同神とされ(『古事記』には「鹿屋野比売神」、『日本書紀』には「草祖(くさのおや)草野姫」として現れる)、草の神とされている。

で比定されているのが

上板町に鎮座する葦稲葉神社に合祀されている鹿江比賣神社
これは、すえドンのフォト日記の「鹿江比売神社♪」でご紹介いただいております。
ここでは「葦稲葉神社」に合祀されております。
あ、「エンゼル製薬社員の笑えるペットの話、時々お役立ち情報」の
葦稲葉神社」でも電話番のフーさんが紹介してくれておりますので、ぜひとも
コメントをお願い致します(笑)

と、もう一つが大麻比古神社の境内にある小祠、鹿江比賣神社

上の写真の大麻比古神社大鳥居のすぐ右脇に「天神社」があるんですが
(逆光で失礼致します)
この境内に小さい祠がありまして
これが「鹿江比売神」を祀るもう一つの比定社でございます。

「鹿江比売神」につきましては、ぜひとも後述させていただきたく存じます。
では、大麻比古命とは何者であるのか?(何者なんて言っちゃいけませんよね)
大麻比古神社の由緒書きには、はっきりとは書いてないですが「天太玉命」と「猿田彦神」
の御神徳をあわせたとあり「天太玉命」を意識してるようです。
また、前の記事にも書きましたように
「徳川義道の著にかかる「神祇實典」には「大麻比古者天太玉命也」と書いてある。」
そうですので、一般的には「天太玉命」だと解釈されているようです。
また、「安房斎部系図」「古代氏族系譜集成」に、天日鷲命→大麻比古神(子)→
由布津主命(孫)とあるようです。
こうなると「天日鷲命」は?「天太玉命」は?となりこんなブログじゃ書ききれなく
なってまいります。
では、ホントにそれでいいのか?別の解釈はあるのか?と考えていた時に
おお、いい資料があるじゃないですか。(阿波弁で「あるでないで」ってやつですね)
「阿波國続風土記」
「大麻比古神社」の部を見てみますと論文並みの文書量!
ちょっと長いですが、お付き合いください。


大麻比古神社
板東の吹田村に在り此社の座す山を大麻山と称す◯◯◯◯◯◯なり三代実録貞観元年正月二十七日甲申奉授阿波國従五位下大麻比古神従五位上同九年四月二十三日壬辰阿波國従五位上大麻比古神授正五位上元慶二年四月十四日巳卯授阿波國正五位上大麻比古神従四位下七年十一月甲子朔授阿波國従四位下大麻神従四位上。
一宮記神名帳頭註◯◯社説に猿田彦神を祭ると云ふ道輔按に天足彦國押入命を祭るに猿田彦神と称ふ事多し延喜式近江國滋賀郡小野神


社二座(名神大)をも諸書弁(?)社説に猿田彦神天鈿女命なりといふ(近迩荘小野村に在り)仁明天皇紀承和元年二月辛丑小野氏神社在近江國滋賀郡敕聴彼氏五位以上毎至春秋之祭不待官符永以徃還同四年二月癸卯敕聴大春日布瑠粟田三氏五位巳上准小野氏春秋二祠時不待官符向在近江國滋賀郡氏神社とあり姓氏録左京皇別下小野朝臣大春日朝神臣同祖彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也大徳小野臣妹子家于近江國滋賀郡小野村因以為氏日本紀◯とあり小野氏神社なれば天足彦國押入命なる事明けし(尚此外にも天足彦國押入命を猿田彦神を祭ると云ふ社甚だ多し然れど此小野氏の事は特に明なれば引出したるなり又布瑠宿禰も同氏なれど布留神社は若◯主御◯にて氏神に非ざる故に引べきに非ず)此に準へ思ふに大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし古事記に御眞津日子訶惠志泥命此天皇娶尾張連之祖奥津余曽之妹余曽多本毘賣命生御子天押帯日子
命者春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣云云之祖成とあり板野郡は奥津之郡な


るべし(おきはいと約りつはたに通ふ)大は美称阿佐は余曽にて御母の本居に依て大麻日子と申せしなるべし其は姓氏録左京皇別下大春日朝臣出自考昭天皇々子天帯彦國押人命也
仲臣令家重千金委糟為堵于時大鷦鷯天皇
(註)大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇のこと
(謚仁徳)臨◯其家詔(?)号糟垣臣後改為春日臣桓武天皇延暦二十年賜大春日朝臣姓とある
仲臣の令は米餅㫪大使主の子八榎木事命なり神八井耳命忌人と成て神祇を奉典せしより七世孫仲臣の子上成務天皇の御世に尾張國嶋田悪神を平服せし事姓氏録右京皇別下嶋田臣の條に見えたり此の子孫は嶋田臣とのみ称して中臣を称ざりしと見えて他に所見なし応神天皇仁徳天皇などの御世佐久命其子木事命も中臣職を司どりしにて(仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定㫪米部此より以前は中臣佐久命にて㫪米部起てより米餅㫪部の家なれば委糟為垣の説実に然るべし當昔の千金は今の二萬両に當るなれど穀を買時は二百萬石を買べし木事命の第市川臣は始て布留社を建て神主となる是布留宿禰の祖なり)
其後雄略天皇の御世春日和珥臣深目の娘




童女君宵に七喚して春日大娘皇女(更名高橋皇女)を産む皇女は仁賢天皇の皇后となりて一男六女を産む(一男は武烈天皇となり六女は今略す)マタ和珥臣日瓜(ひふり)の女糠(あら)君春日山田皇女を産む(日本紀巻四観松彦殖稲天皇紀六十八年條天足彦國押人命此和珥臣等始祖也とあり姓氏録左京和尓部宿禰右京和迩部に氏みな同じ)此御世頃に天足彦命の裔の中臣部の中より春日部を立て火國阿波國の中臣部等みな春日部を出せしと見ゆ継体天皇七年九月勾の大兄皇子親を春日皇女を聘ふ八年春日皇女に迊布屯倉を賜ふ勾大兄皇子は即ち安閑天皇なり元年秋七月辛巳朔詔曰皇后雖同天子而内外之名殊隔亦可以充屯倉之地式樹椒庭後代遺迹廼差勅使簡択良田マタ二年五月甲寅二十六所の屯倉を置たまへる中に火國春日部屯倉阿波國春日部屯倉あり九月丙午詔桜井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税とあり此二所の屯倉は本より春日皇后属たる春日部の住地にて初より其地名と成たるなれば本より春日臣氏の産土




にて其氏神を祭たるが此時より盛大に成り賜へるなるべし(春日部は春日皇后に属たる名なる事は元年條に◯城部枳◯喩の女幡媛を春日皇后に奉りて春日部采女と称しても見るべし)
欽明天皇の御世常磐大連と伊礼波連とに始て中臣連の姓を賜ふ(常磐連等は黒田大連の子なり天児屋命より十九代黒田大連に至るまで中臣の職も氏も賜はりたる事なし神代に天児屋命天太命神事を司れる様に言へるは欽明天皇の御世より後の説なり)
後も天足彦國押人命の子孫も代々中臣姓を称して姓氏録巻三十未定雑姓右京中臣臣観松彦香殖稲天皇(諡考昭)皇子天足彦國押人命七世孫米舂大使主之後不見とあり此姓の人萬麿、眞萬、乙長、都奈美、奈美高、天足、大継、舩守、清主、吉公、廣成、系麿、宗副、清貞、(己上左京戸)安成、屎麿、全黒、財王、眞◯(鵟:のすり?)堅魚麿、鳥、耳、継縄、第氏、福成、ノ二十五姻斉衝三年中臣の本系帳を除れて惟岳宿禰の姓を賜はり二十五姻共に右京九條の二坊に編れたる事大中臣系図に見えたり阿波國中臣部も永く伝わりしと見えて類聚三代格に阿波國中臣部あり今も当社近く並の村に中富といふ最広き




地あり(阿波國春日部の名尚尋ぬべし姓氏録未定雑姓山城國春日部村主津速魂命之後也は別事なり)
因に記す族第長年消息して大麻比古神社の有地を板東といふは後の称にて古は中富の内なりしも知べからず中富は東中富西中富とて最広き村なり中富邑の川を中富川と云ふ類聚三代格に阿波國中臣部あり是に因て考れば祭神天児屋命には有らぬかと云ひ遺せたり最珍しき考なり然れど天児屋命には非ざる事上に辨へたるが若し

以上

わたしゃ、飲んでた「チョーヤ梅酒ノンアルコール」を思わず吹き出してしまいました。

「大麻比古神社実は天足彦國押入命なるべし」

天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)
孝昭天皇の第 一皇子じゃないですか!
これは次回に続かざるを得ないでしょう。

阿波國一之宮 大麻比古神社(1)

大麻比古神社

式内社(名神大)、阿波国一宮で、旧社格は国幣中社。

主祭神 : 大麻比古神
配 祀 : 猿田彦大神
現在、主祭神の大麻比古神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)のこととされ、後に古くから大麻山に祀られていた猿田彦大神を合祀したと伝えられている。wikipediaより





神武天皇の御代、天太玉命の御孫 天富命 勅命を奉じて 洽く肥沃の地を求め 阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費を以って本殿以下の造営が行はれた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。 大麻比古神社HPより


場所はここ

より大きな地図で 大麻比古神社 を表示



さらにWikipediaによれば

現在、主祭神の大麻比古神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)のこととされ、後に古くから大麻山に祀られていた猿田彦大神を合祀したと伝えられている。
『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども・・・」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』では述べている。
『日本書紀』の神代巻では阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命(あめのとみのみこと)をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。
明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。

との説を記載している。
先日の拙著記事「阿波の古代の基礎知識(2)不定期」についても参照いただければ理解の一助となるであろう。

なお、徳島市明神町に「大麻比古神社(おおまひこじんじゃ)」となる同文字の神社があるが、こちらは「富田大麻比古神社」通称「明神さん」と呼ばれている。


御祭神は「猿田彦命」


由緒として、これについてもWikipediaより引用するが

伊予国河野庄より阿波国に来住し蜂須賀氏に仕えた者の倅の河野弥吉郎が承応2年(1653年)に名東郡一宮から大麻比古神社の神体を迎えて河野家の鎮守としたと伝えられるが、『延喜式神名帳』に記載された式内社「麻能等比古神社」に比定する説もある。元々は、彌吉明神と称していたが、明治3年(1870年)に現在の社名に改称し、村社に列した。

とある。名東郡一宮から勧請した事、式内社「麻能等比古神社」に比定する説のある事からも「入田町 麻能等比古神社」の記事「麻能等比古神社」は「猿田彦神社」の本社(元社)であったことを示す一つの手がかりではないかとも考えられる。


あ〜、肩凝った。こんな堅い文章書くんじゃないっすね。
では(2)をお楽しみに。へっへっへ(キモッ!)

2011年9月9日金曜日

「阿波命神社」雑記

だめです
伊豆の「白浜神社」の事を書こうと思ってたんですが「挫折」致しました。
頭の中じゃ分ってるんですが、書けません(何を)。
じゃあ「阿波神社」か東京都神津島の「阿波命神社」を続けて書こうかな、と
思ってましたが、これも「挫折」、どうやってもまとまりません。

もうダメです、引退します。(何を)
引退前に「阿波命神社」を調べてて出てきたことを書き残して行きます。

以前に「すいませんでした(おまけつき)」なんてバカなタイトルで「阿波命神社」を
ちょっとだけ書きました。
御祭神は「阿波咩命」で

阿波咩命は三島大社の本后にして神異を顕し、島を造りて其の造れる島に鎮座し
給う事は續日本後紀に承和七年九月乙末伊豆國言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
此島に坐ス阿波神ハ是三島大社本后也。又坐ス物忌奈ノ命ハ即前社ノ御子神也。
とみえ三宅記に神津島に置給う后をば長濱の御前とぞ申しけるとあり。
古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあるにて
明かなるべし。
で、
「阿波咩命」は「天津羽々神」
「天津羽々神」は「別名 天石帆別神 天石門別神の子」なので
櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)
あるいは「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」
の子であります。
などと書いておきました。
で、最近見つけたのが「神名帳考証」

「安波」も「阿波咩」も「阿氣」も「ミナ同神」らしいです。


阿氣大神
▲『文徳実録』巻十天安二年(八五八)六月己酉《廿》◆己酉。從五位下安倍朝臣良行爲參河守。』大宰府言。去五月一日。大風暴雨。官舍悉破。青苗朽失。九國二嶋盡被損傷。又肥後國菊池城院兵庫皷自鳴。同城不動倉十一宇火。』大學助從五位下山田連春城卒。春城。字連城。右京人也。曾祖白金爲明法博士。律令之義。無所不通。後言法律者。皆咸資准的。春城年十五入學。依未成人。於堂後聽講晋書。後嵯峨太上天皇欲令皇子源朝臣明成大業。而求大學生志學者。將爲同學。時春城應徴。與明同房。閲覽諸子百家。遥授丹波權博士。爲勉學之資。俄而太上天皇崩。春城失塗悲歎。仁明皇帝欲令春城遂本業。詔侍校書殿。賜閲御書。内藏寮日給其食。即遥授備後權少目。明年春遷備中權少目。承和十二年夏對策。下科。明年春拜少外記。備中權少目如故。帝踐祚。仁壽元年大甞會。授外從五位下。二年正月遥爲駿河介。三年春三月自請之任。傍吏百姓嫌其清察。時部下駿河郡有自伊豆新移神。名阿氣大神。國司申官建新社。以祭祀。


ふーん、天安三年(八五九)に阿氣大神こと阿波咩命は伊豆から駿河に移ったのね。


もう一つ「神名帳考証」から
静岡県沼津市に「大朝神社(おおあさじんじゃ)」という神社があるんですが
そうですね、「おおあさじんじゃ」ですね。

御祭神 大日孁命
天照大御神じゃなくて大日孁命ですね。
これを「神名帳考証」で調べてみると。
伴信友さんがこんなこと書いてますよ〜。
阿波の大麻比古神が沼津まで行ってますよ〜、阿佐多知比古神も。



ん〜、考証もな〜んも無いのよね。この程度しか書けないようじゃホントに引退だわ。

2011年9月3日土曜日

阿波の古代の基礎知識(2)不定期

台風の最中でございます。外出もできないんで籠っております。
阿波の古代の基礎知識として2回目を上梓させていただきたいんですが
どうも、準備している途中でのらねこ大先生の大傑作
天日鷲命 は、中臣の神 1
天日鷲命 は、中臣の神 2
と内容が大分被っていることがわかりまして、「書いても仕方ないな」なんて
思いながらですので(笑)。
例によって昭和17年頃の資料よりです。青字はワタクシめのコメント等ですので
例によってスルーしていただいて結構です、へへへ。
今回は忌部についてなんですが、これもエキスパートの方々がいっぱいいらっしゃるので書きにくい、書きにくい(涙)
一応準備してたんで書くだけ書きますけど(←イヤなんかい(笑))
ま、しょーもないブログなんでお暇つぶし程度にご笑納ください。


忌部とは精進潔斎して神に仕える部曲をいう意味で、讃岐忌部は工匠のことをつかさどり、紀伊の忌部は御殿を造り、出雲忌部は玉作で、筑紫、伊勢の忌部は鍛工である。
阿波の忌部は麻を作るので、神に供する幣帛をつくるのである。


注)幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称である。広義には神饌をも含む。「みてぐら」「幣物(へいもつ)」とも言う。
「帛」は布の意味であり、古代においては貴重であった布帛が神への捧げ物の中心となっていたことを示すものである。


上古の麻には、あさ、ぬさ、まをそ、苧、ふさ、の如き種々な名称が附せられていた。
忌部は斎部とも書く。元来忌部と書きしを、延暦年間忌部宿禰濱成という人が始めて忌部を改めて斎部となすとも、清和天皇の時、神祇權大祐忌部宿禰高善が斎部と改めるとも言っている。されば元は忌部で斎部と書くのは新しいのである。


忌部は中臣とともに高天原以来神事を掌って来た家柄で、中臣は祝詞を奏し、忌部は神に供える祭物を作るので両家は唯その職掌の異なるのみで、元は対等の地位であった。
後、中臣家は次第に発展して朝臣の栄位に上りしも、斎部(忌部)家は宿禰の姓に達しなかったのである。

ホントはここらがキモになるべきところなんでしょうが、まあワタクシめなどが書いてもしゃーないんですがね。

神武天皇の朝に、勅命を奉じて、天富命が阿波に来られ、肥饒の地を求めて穀麻の種を植えられた。想うに其の到着せられたところは今の板野郡の板東町の辺りであろう。此の辺は吉野川の流れによりて、早くより洲處(すか)ができ、比較的に広い地であった。
現在大麻比古神社の鎮座地の字も広塚(広洲處:ひろすか)である。
ここで穀麻を植え、大麻山の渓間より流れ出る清き水をもって、これを晒したので、高き大麻山頂に祖先の霊を祭祀しここを根拠として付近に発展したのである。

大麻比古神社

されど、予想に反して土地も狭く、全ての事業も思うようにはかばかしく行かないので、天富命は一大英断に出て、決然起って一部の忌部族を率い、遠き東の方、房総半島へと海路により進出したのである。当時の航路に使用せし船は刳舟(くりぶね)として、
(注)刳舟(くりぶね)一般的に一本の丸太を刳りぬいて造られる、いわゆる丸木舟のこと。
樟や杉を主材として造り上げた鰹節型のもので、両端の尖った比重の軽い、ひっくり返っても沈没の憂いの無い今でも(昭和17年頃)東海沿岸の漁師たちが勇敢に黒潮の中に突進して山なす怒濤と戦っている木葉のような釣舟であったのであろう。

天富命はこの刳舟(くりぶね)により黒潮の流れを利用して東へと航行したのである。
当時既に大いに船舶を交通上に利用せられていたことは経津主(ふつぬし)武甕槌(たけみかづち)の二神が、海路より出雲へ赴かれた事実によっても推想せられる。

経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取ったとなっておりますね。ここらは古事記研究会さんの独壇場でしょう(笑)

天富命は斯くて房州の富崎村の布良に着き、ここに上陸したのである。
今、布良の布良崎神社(めらさきじんじゃ)には天富命を祀り、神戸村の大神宮には忌部の祖神太玉命を祀ってある。即ち官幣大社安房神社である。ここを根拠として、房総常野の諸州へと広漠たる地域へ次第に発展したのである。
 
布良崎神社

安房神社
御由緒

主神は天富命にして後に須佐之男尊、金山彦尊を合祀す 
祭神天富命、神武天皇の勅命を奉じて沃土を
東方に求むべく 四国の忌部を率いてこの房総の地に至り、
即ちこの布良の一角を駒ヶ崎と称す。
 駒ヶ崎の東方海岸に聳ゆる二峰あり、海岸に近きを男神山 
他を女神山と称す。 
男神山に祖神天太玉命を、
御后天比理乃咩命を女神山に祀る 
 命は此の本郷の地を出発地点として現在の安房神社に
祖神天太玉命を祀り漸次開拓の歩を進められ北上し
特に麻穀の播殖を奬励、亦建築並に漁業の技術をも
指導され衣食住の神として崇敬厚い社なり
(布良崎神社由緒より)


安房神社と布良崎神社 『古語拾遺より』

 天富命は先祖の天太玉命を祀る神社「安房国一の宮 安房神 社」を鎮座しました。
 創建は紀元前660年と伝えられています。 元々は上ノ谷・下ノ谷(館山市布良)に祀られておりましたが 、同717年に現在の安房神社の地(館山市大神宮 吾谷山) に遷座しました。
 同命を偲び、旧安房神社の跡地に布良崎(女良崎)神社を建 てて天富命が祀られました。 ※明治30年頃まで木の標柱があったと言われています。
また、天富命は安房神社の下社にも祀られました。
災異を避けて、明治22年に現在の地に創建しました。
また、安房神社境内には「忌部塚」と呼ばれ、弥生時代以前に さかのぼる遺跡洞窟もあり、安房忌部氏の先遣隊の塚ではない かと言われています。
安房忌部氏系図(下立松原神社系図)には、天富命の娘の飯長 媛命(イイナガヒメノミコト)と天日鷲命(アメノヒワシノミ コト)の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚 し、天富命と義父の関係になり、堅田主命(カタタヌシノミコ ト)を生み、同神社は天太玉命を安房忌部氏の祖としている。
天太玉命のお妃(天比理刀咩命)が洲宮神社(元名神社)で、 同じお妃を祀る洲崎神社は安房一宮となっているが、安房一宮 は安房神社である。 洲崎神社は江戸幕府の老中松平定信が洲崎の巡視したときに、 源頼朝と洲崎神社の関係に感銘を受けて「安房一宮 洲崎大明 神」と書いた額を送られていることから一宮としている。


「安房上総畠おほく田は少なし」と義経記にも見ゆる如く、阿波の吉野川沿岸の平野は関東平野の一部であるこの房総平野の広きに及ばないのである。安房に太玉命を祀れると見ると、忌部族の本部が安房に移ったのであろう。されば、最初阿波に渡った忌部族は板野郡と安房国と麻植郡と三つに分かれたが、本部隊は安房であろう。

さてさてこの「最初、忌部族が阿波に渡った」の辺りで引っかかる方もいらっしゃるかとは思いますが、今回はスルーしていただければと思います。
ただ、個人的には名方郡(麻植郡〜名西郡)と板野郡で地名や神社、御祭神のコピーが見受けられるように思われます。これが単純な分祀か、一族挙げての移動であるか、またどこかの時点で忌部と中臣の融合が起こったとの仮定も持っておりますが、当記事に於いては本旨でございませんので同様にスルー致します。
今後書くかもしれませんし、書かないかも(なんじゃそりゃ)。


安房神社には天富命所用の木碗、膳、燧道具等を蔵せられ、其の境域は三面山を負い、西に海を控え長汀曲浦風景の美に富んでいる。

中略

板野郡の板東町に鎮座せる大麻比古神社は祭神大麻比古命と称せられているが、或は津咋見神とも称せられている。或は大麻比古津咋見神で「大」は称へ辞、「彦」は男性の通称、津咋見は麻作霊異持で麻を作らせたまうに霊異おわします故であるとも言われている。
按ずるに大麻神の「大」は麻族の大本と言う義で、伴部に於ける大伴の如きと同じである。
大粟神社の大粟も粟族の大本の意味で即ち粟族の根拠地は名西郡の神領であったように、忌部族の阿波に来た最初の上陸地点即ち根拠地は板野郡の板東である。
此の根拠地に祖神を祀ったので、すなわち根本の麻の神という意味であろう。
大麻比古神社の神紋が六葉の所謂麻の葉紋であるのも此の故である。

どっちにしても、大麻(たいま)=お伊勢さまのお神札(ふだ)、
もしくは大麻(おおぬさ)(大幣(おおぬさ)、祓串(はらえぐし)のこと)の名を持つ神社がそうそうは無いでしょう。

今の大麻比古神社には猿田彦命をも祀ってあるが、猿田彦神は方除の神、旅行の神、家屋移転改築の神であるから、忌部族の最初の上陸地点と天孫降臨の先達者であった猿田彦命を結びつけて祀ったのであろう。近傍に天鈿女命を祀れる社あるのも猿田彦神との関係から祀られたのであろう。

「大麻町 舞姫神社」のことだよ〜

元来祭神は古くより混雑し、延喜式の頃には既に明らかでない。徳川義道の著にかかる「神祇實典」には「大麻比古者天太玉命也」と書いてある。いずれにせよ忌部族の祖神の霊を祀ってある社に相違ない。

以下略

とまあ、こんなところなんですが、一度はここらを書いていかないと次の記事に進めなさそうだったので書いてみたんですが、忌部については、こんなおちゃらけブログより「阿波歴史民族研究会」林先生の著作がよろしいかと思いますので、そちらをどうぞ。
(なんかボク今日はひねくれてない?台風のせいかな)