2012年12月30日日曜日

元旦は四方拝をしよう

年末切羽詰まってこんな記事書いてます。
もうちょっと早めに書けば良かったのにと思いつつ。

四方拝(しほうはい)とは、宮中で行われる一年最初の儀式があります。



戦前には四方節とよばれていた。皇室令が廃止された戦後においても、皇室の私的な行事とされる以外は旧皇室令に準拠して行われている。
元日の午前5時30分に、今上天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入り、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝する。ただし、2009年の四方拝は今上天皇の高齢化に伴う祭祀の簡略化により、皇居の御所において行われた。

中略

これに倣って貴族や庶民の間でも行われ、四方を拝して一年間の豊作と無病息災を祈っていたが、時代を経るごとに宮中行事として残るのみとなった。
wikipediaより
四方拝(宮内庁書陵部蔵)


という訳ですが、「庶民の間でも行なわれていた」とありますように、ワタクシどもが行なってもなーんも構わない訳でして、そこで簡略化した方式をご紹介さし上げますので、よろしければいかがでしょうか。

個人的には数年前からやっておりますが、特に何かが好転したとか、スペシャルラッキーなイベントが舞い込んで来たとかの事象は発生しておりません。
ただただ、家族、親族、一党の息災を祈るのみではありますが(笑)

本式のやり方は平安時代の「内裏儀式」などにありまして、


「正月拜天地四方属星及二陵式第一」
鶏鳴、掃司設御座三所、一所此拜属星之座、座前焼香置花燃燈、一所此拜 天地之座、座前置花燃香(以上二座舗短畳、拜天地座別舗褥、一所此拜陵 之座(舗畳)天皇端笏北向、稱所属之星名字(當年属星名禄存字禄会、此 北斗第三之星也)再拜祝曰、賊冦之中、過渡我身、毒魔之中、過渡我身、 危厄之中、過渡我身、毒氣之中、過渡我身、五兵口舌之中、過渡我身、百 病除癒、所欲従心、急急如律令、次北向再拜天、次西北向再拜地、依次拜 四方、次端笏遥向二陵、両段再拜、掃司卸御座、書司徹香花。

えーと、朝鶏が鳴く頃に御座する場所を決めて掃き清めておきます
で、本年の星の座する所に香炉を置いて花を飾ります。
そして、...........
あ〜、もういいや(笑)

略式では、時間もややこしい事は言いません。

元旦零時になった時でもいいですし、日の出の時間に合わせてもいいでしょう。
もちろん、朝、目が覚めて顔を洗ってからでもいいとおもいます。
家に神棚があればその前でいいし、なければ自分の部屋でもいいですよ。
やりかたは簡単、神社で拝むように東西南北に対して「二礼二拍一礼」をおこないます。
以上です。
できれば、部屋は掃除しておいて、窓は開け放しておいた方がいいでしょう。

では、もう少しきちんとという人は
日の出の時間に合わせて、東から、南西北の順に「二礼二拍一礼」をおこないます。
その後、若水を汲み(もちろん水道水で可)神棚に供え、新年の挨拶をします。

よし、もうちょっときちんとやるぞ、という人は

来年の星(属星)を確認します。
来年は巳年ですので「武曲星(ぶきょくせい)」です。
ちなみに各年の星(属星)を書いておきます。
さ来年も続けるのだったら控えておいてね。


貪狼星(子年)「どんろうせい」
巨門星(丑、亥)「こもんせい」
禄存星(寅、戌)「ろくそんせい」
文曲星(卯、酉)「もんぎょくしょう」
廉貞星(辰、申) 「れんていせい」
武曲星(巳、未)「ぶきょくせい」

破軍星(午)「はぐんせい」

ここからが、ちょっといろいろあるので書きにくいんですが、やはり四方に「二礼二拍一礼」。
その時にいちいち「武曲星(ぶきょくせい)」と唱えます。
方角の順番なんですが先ほどの「東→南→西→北」の他に「北→東→南→西」とのやり方もあるようですが、個人的には「北→東→南→西」かなと思います。

伊勢神宮では「太一」つまり北斗七星を拝む事から考えてなんですが....これは余談。
天皇陛下が行なう場合は、正式な次第に沿い、ここで道教に伝わる呪文が必要になってきます。

『江家次第』に記録したものを見ると

賊冦之中過度我身
毒魔之中過度我身
毒氣之中過度我身
毀厄之中過度我身
五急六害之中過度我身
五兵六舌之中過度我身
厭魅之中過度我身
萬病除癒、所欲随心、急急如律令

とあります。
これは天皇陛下以外が唱えちゃダメですよ。
天下諸々の毒魔、毒氣などを我が身を通して浄化しようとするための、我が身を挺した呪文なのです。

もっと詳しく式次第を知りたい方は(いるのか?)
大江匡房の「江家次第」に詳しく載っておりますので
(書けよって?文章はあるけど説明はできませんわよ。一応貼っときます)

日本書紀、皇極天皇元年八月朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方祈雨云々、元 旦四方拝始見寛平二年御記、天地祥瑞志拝拜属星。
追儺後、主殿寮供御湯、 (今案當歳下食、猶供前朝仰也、―後三条院也―近例御帷、歳寮以新献之) 鶏鳴、掃部寮奉仕御装束於清涼殿東庭、先舗葉薦、其上舗長筵(南北妻) 其上舗御屏風八帖(大宋或四帖云々)、不可然、往年月令御屏風也、近代 無之、設御座三所(副北屏風立机其南設件御座)前一日書司就所、請紙脂 燭香等(蔵人所也)一所拜属星座(在西)座前机焼香置花燃燈(件燈机上、 更又置折敷高杯、其上居之)近例拜天地座前机、亦燃燈(件机爐杯等、在 圖書)一所拜天地之座(在東)座前置花焼香、(其香花各盛中垸)以上座 舗短帖、拜天地別舗褥、或書云、書司立平文高机二脚、又御机一脚在御座 右、蔵人監臨之後置御笏、内裏式在南、近例在中、一所拜陵座(舗畳、西 宮勘物云、香炉奩云々、此亦不限陵座、香炉奩倶納温明)天禄四年記云、 北屏風前立高脚三脚、供御明作花等、近例東机置香炉、自中階、下至御屏 風西頭敷筵道、上南第三間、為御出路(或上額間、或上画御座間)寅一刻 出御(黄櫨御袍)、蔵人頭候御裾、近衛次将取御剣前行(入屏風給之後、
候屏風外)蔵人取御笏(五位)持式筥蓋、(入内裏儀式、六位以上、検舊 記、先雖似可置、近例伺候如此、伺臣取脂燭、六位候仙華門瀧口戸下備非 常)入御之間献御笏、閇御屏風、次皇上於拜属星座端笏、北向稱御属星座 名字(七遍、此北斗七星也)、子年貪狼星(字司希神子)丑亥巨門星(字 貞文子)、寅戌禄存星(字禄会子)、卯酉文曲星(字微恵子)、辰申年廉貞 星(字衛不隣子)、巳未年文曲星(字賓大恵子)、午年破軍星(字持大景子) 次再拜呪曰(註略)。賊冦之中、過度我身、毒魔之中、過度我身、毒氣之 中、過度我身、(内裏儀式在危厄句下)毀悪之中、過度我身(内裏儀式五 厄)五兵口舌之中、過度我身(内裏儀式在五厄句上)厭魅呪詛之中、過度 我身(内裏儀式無此句)萬病除癒、所欲随心、急急如律令、次於拜天地座、 北向有拜天(庶人向乾)、其陽起於子、陰起於未至於戌、五行大義云、士 受気於亥云々、以陽氣所起為天、以陰氣所起為地、尤可然、又皇天上帝在 此、仍天子北向拜之、庶人不拜天神、又可異一人儀、仍向乾坤拜之耳、次 西北向再拜地(庶人向坤)次東向再拜(九条年中行事起子終酉、子是十二 神之始、雖非無所据、内裏儀式已依次拜四方者、其四方是起東也)、南向 再拜、西向再拜、北向再拜、次於南座向山陵(毎陵両段再拜)、事畢開御 屏風還御、所司撤御座等。

お正月、暇な方はゆっくり読んで下さい(誰がじゃ)

というわけで、繰り返しになってしまいますが、「四方拝」よろしければやってみて下さい、お正月の気分がちょっと変わりますよ(笑)

ではでは、今年の更新はこれが最後とさせていただきます。
一日早いですが

皆々様方、良いお年を。



2012年12月22日土曜日

渋野丸山古墳とその周辺(伊豫王子大権現と岩屋)

え〜、すえドンさんが「「渋野丸山古墳」(国指定史跡)と「渋野天王の森古墳」♪」を書いてましたので、もう一度見たくなって買い物のついでに覗いてきました。
いやいいですねえ。一時間ちょっと寄り道するだけでこんなのが見えるんですから。
特に最近はあの近辺、道路拡張で走りやすいのなんのって。
有り難みも何もありゃしない。(笑)
で、渋野丸山古墳については今更ボクの方で書くこともないので、写真だけちょろっと貼っておきます。

 下の写真は後円部頂上より。
これだけなら、着いてから20分で終わってしまいますので、近くをうろうろとしてみますれば。
まずは、渋野町伊豫王子谷にある「伊豫王子大権現(伊豫王子神社)」。
ん〜。これもサクラサクさんが書いてましたなぁ。
タイトルがカッコいいなぁ。
なんで、これも写真貼っとくだけにしとこうかな(笑)

というのもナンなので。とは言っても徳島県神社誌にも記載は無く、関係ありそ〜なのが
「阿波國勝浦郡村誌」渋野の項
越智通春墓 本村北方字 伊豫王子谷ノ田圃ノ内ニアリ
碍碑石高サ二尺茸苔石ヲ蝕ス傍ニ梅ノ一樹アリ
古老云 通春ハ伊豫人ニシテ河野四良太夫ト稱ス
民部太丈通久之子 元亀元年軍敗シ 本郡中角村ノ城主 中角河内双(?)ハ
母ノ実家ナルヲ以テ来リテ居ル 后本村ノ新開右京進ノ招ニ応シ来リ同居ス
元和七年正月七日没ス 其ノ末孫本村ニ存ス

越智通春を祀ったのではないでしょう。越智氏の関係を祀ったのかもしれません。
「阿波国勝浦郡村誌」に「河の上神社」と記載されているのは「河野 上」かも
しれませんね、サクラサクさん(笑)


ここは車で乗り込めます。
神社で行き止まりですが、神社の前が広くなっていてUターンもできます。

最後は「渋野の岩屋」と言われる「古墳」?
「中渋野集会所」から北へ入って行くんですが、普通車以上では行かない方がいいと思います。木の枝やその他モロモロで車体を擦ってもいいのなら止めはしませんが(笑)
かといって、集会所から歩くにはちょっと遠いし。
その「中渋野集会所」の角にこんな看板が立ってます。
また、その角の所にはこんな地神塔もあって、嫌が上にも雰囲気が高まってきます。

というのが、写真を出す前に書いときますけど。

マジ「怖い」。

小さい字にするくらい怖い。
こんなのは初めて。どうやってもカメラのピントが合わない。
設定変えて、取り直しても、オートにしても、マニュアルにしても全くダメ。
午前中じゃなきゃ、逃げて帰ってましたね、いやホント。
見てよ、こんな写真がもうピンぼけ。

県の資料でも古墳となってますが塚穴というよりは祭祀跡のような感じがして仕方ないんですが、どうでしょうか。
まあ、ここまではいいんです。
ここから先、恐がりの人は見ずに閉じて下さい(笑)
 ですので先に地図を載せておきます。


より大きな地図で 渋野丸山古墳周辺 を表示

それにしても、こんな面白い所が2、30分で行けるなんて。
渋野丸山古墳に着いたのが10時30分頃かな。
で、12時前には


こんな所でラーメン喰ってるんですから(笑)
ホントありがたいですよね。






2012年12月20日木曜日

阿波国(続)風土記より

ホントに久々の「阿波国(続)風土記」更新です。
と言っても、またちょっとだけです(涙)
第三巻の68ページから73ページまで読み下し文の追加です。
ページで言えば「page_066_070」「page_071_075」です。

例えば上の68ページですと右ページには、そんじょそこらには載ってない、かの池部(太平)眞榛(いけべまはり)大人の阿波國那賀郡 和耶神社略考の超貴重論文ですが、今回はそこらは勘弁してもらって(涙)←今回(涙)ばっか。

左ページから。
「国造奏神壽詞」から始まるのは、「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」
(天皇が即位後初めて行われる新嘗祭のこと、一世一度限りの儀式)
の式次第のうち、阿波国関係の部分を延喜式より書き出したものです。

今さらと、おっしゃいますでしょうが、ご存知のように阿波忌部氏は歴代の践祚大嘗祭に、御衣御殿人 (みぞみあらかんど)として麁服(あらたえ)を献上してきました。
また、読んでいただければ分りますが、例えば

由加物
馬一疋 大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿 麻各一斤 堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両郡所輸

以上のものは「阿波国麻殖那賀両郡」から運んで行くことに「決まって」いるのです。
延喜式に定められた、いわば「決まり」だったんですね。

阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬 各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四具 鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女等量程造備
凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京之日 路次之国掃道路祗承

ここでは「阿波国所献麁布一端」云々を「忌部及潜女等」に備えさせよとの「命令」として書かれております。
さらに「紀伊 淡路 阿波三国」の由加物を運ぶときは「路次之国掃道路祗承」通り道の國は道路を掃き清めておくこと、とのことです。

また、麁服(あらたえ)とは、阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)が、天皇陛下が即位後、初めて行う践祚大嘗祭の時にのみ調製し・貢進(供納)する「大麻の織物」を云います。 「三木家ホームページより」
が、これを運ぶときは

但阿波国献麁布木綿付神祇官

として「神祇官」が必ず付いていなければならなかったのです。
そして
阿波国忌部所織麁妙服 神語所謂阿良多倍是也 
預於神祇官設備 納以細篭 置於案上 四角立賢木着木綿
忌部一人執着木綿之賢木前行 四人舁案 並着木綿鬘
未時以前供物到朱雀門下 神服部在前如初
波国忌部引麁服案 出自神祇官 就繒服案後
立定待内弁畢 衛門府開南三門 如元日儀
神祇官一人引神服男女等 到於大甞宮膳殿
置酒柏出 又神祇官左右分引両国供物参入 
除神御物之外 皆留朝集 院庭中 各分安置東西堂

とあるように(どこに(笑))
麁服は「神祇官が備えた細篭に納め」「忌部の一人が付いて木綿の賢木を着て前を行き」
(略)「朱雀門」を通り、「大甞宮膳殿」に着いたら「神祇官が左右分引て両国の供物を参入」する云々と、事細かに手順が決まっております。

ですが、この阿波忌部による麁服(あらたえ)の貢進は南北朝以降中断し、大正・昭和になって復活した経緯があります。
つまりこの「阿波国(続)風土記」作成期、明治天皇の践祚大嘗祭の時には行なわれていないんです。それなのに、この中に含まれているのは、資料としてでしょうか?
あるいは、明治天皇の大嘗祭の時の準備だったのでしょうか。
ついでですが、大正天皇の大嘗祭の時の麁服には三河産の麻が含まれていて、悔しい思いをしたとの記録をどこかで見た憶えがあります。

で、「阿波国(続)風土記」のサイトを見るのもめんどくさい人には、以下入力した分を貼っておきます。別に使い道もないでしょうけど。
そこそこの時間はかかってるのよ(笑)
一応、延喜式と見合わせもやってるし〜。(そしたら誤字があるのよね(笑)元文書のままで入力してあるけど)

国造奏神壽詞
凡年中所用亀甲 惣五十枚為限 紀伊国中男作物十七枚 阿波国中男作物十三枚 交易六枚 土佐国中男作物十枚 交易四枚

由加物
馬一疋 大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿 麻各一斤
堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両
郡所輸 其供神幣物并作具 及潜女衣料 人別布一丈四尺 並以大蔵物充 但糧
以当国正税給 人別日米二升 紀伊七日阿波十日 其物造了 卜部監送斎場
分付両国 但阿波国献麁布木綿付神祇官 
阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬十
五缶 乾羊蹄 蹲鴟 橘子各十五篭 已上忌部所作 鰒四十五編 鰒鮨十五
坩細螺 棘甲嬴石花等并廿坩 已上那賀潜女十人所作 其幣五色薄絶


各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧 小斧各四
具鎌四張 鑿十二具 刀子四枚 鉈二枚 火鑚三枚 並令忌部及潜女
等量程造備 凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使 向京

重複


由加物
凡応供神御由加物器料者 神語号雑贄同為由加物 九月上旬申官 差
卜部三人遣三国 先大祓後行事料馬一疋 大刀一口 弓一
張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿八両 麻一斤 鰒堅
魚 海藻 滑海藻各二斤 鹽二升 米酒各二斗 已上当郡所輸 馬一疋
大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿
麻各一斤 堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各
四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両郡所輸 其供神幣物并作具。及潜女
衣料 人別布一丈四尺 並以大蔵物充 但糧以当国正税給 人別
日米二升 紀伊七日阿波十日 其物造了 卜部監送斎場。分付両国
但阿波国献麁布木綿付神祇官

同上
阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬
各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四
具。鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女
等量程造備   凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京
之日 路次之国掃道路祗承。


阿波国忌部所織麁妙服 神語所謂阿 良多倍是也 
預於神祇官設備 納以細篭 置於案上 四角立賢木着
木綿 忌部一人執着木綿之賢木前行 四人舁案 並着
木綿鬘 未時以前供物到朱雀門下 神服部在前如初 阿
波国忌部引麁服案 出自神祇官 就繒服案後 立定
待内弁畢 衛門府開南三門 如元日儀 神祇官一人引神
服男女等 到於大甞宮膳殿 置酒柏出 又神祇官左右
分引両国供物参入 除神御物之外 皆留朝集 院庭中 各分安置東西堂

由加物
凡応供神御由加物器料者 神語号雑贄同為由加物 九月上旬申官 差
卜部三人遣三国 先大祓後行事料馬一疋 大刀一口 弓一
張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿八両 麻一斤 鰒堅
魚 海藻 滑海藻各二斤 鹽二升 米酒各二斗 已上当郡所輸 馬一疋
大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿
麻各一斤 堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各
四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両郡所輸 其供神幣物并作具。及潜女
衣料 人別布一丈四尺 並以大蔵物充 但糧以当国正税給 人別
日米二升 紀伊七日阿波十日 其物造了 卜部監送斎場。分付両国
但阿波国献麁布木綿付神祇官

同上
阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬


十五缶 蒜英根合漬十五缶 乾羊蹄 蹲鴟 橘子各十五篭 已上忌部所作 鰒四十五編鰒
鮨十五坩。細螺。棘甲嬴 石花等并廿坩 已上那賀潜女十人所作 其幣
五色薄絶各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚作
具钁 斧小斧各四具 鎌四張 鑿十二具 刀子四枚 鉈二枚 火
鑚三枚 並令忌部及潜女等量程造備
凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使 向京之日路次之国掃道路
祗承


斎服
凡斎服者 十一月中寅日給之 神祇官伯以下弾琴以上十三人
伯一人 副二人 祐二人 史二人 宮主一人 卜長上二人 巫部一人 琴弾二人 各榛藍摺綿袍一領 白袴
一腰 史生以下神服以上一百三十七人 史生四人 神部二十四人 卜部十六人 使部十二人
阿波国忌部五人 神服七十六人 青摺布衫一領 其御巫 猿女等服者依
新甞例 小斎親王以下皆青摺袍 五位以上紅垂紐
淺深 相副 自余皆結紐 内親王及命婦以下女孺以上 亦青摺
袍 紅垂紐 五位以上亦 淺深相副 自余皆結紐 親王以下女孺以上皆日蔭鬘 並卜食
訖乃給 夘日夜帛被布被各五十領 付小斎人等
侍宿所 事畢 返上 門部 語部 楢笛工並青摺布衫 物部紺布衫中
務省預支料申官請受 神祇官斎服 令縫殿寮縫備
自余縫物各付本司班給 其稲実卜部二人 祢宜卜部
二人各給当色 

麁妙服事
阿波国忌部所織麁妙服  神語所謂阿 良多倍是也 預於神祇官
設備 納以細篭 置於案上 四角立賢木着木綿 忌
部一人執着木綿之賢木前行 四人舁案 並着木
綿鬘 未時以前供物到朱雀門下 神服部在前如
初 阿波国忌部引麁服案 出自神祇官 就繒服案
後 立定待内弁畢 衛門府開南三門 如元日儀神
祇官一人引神服男女等 到於大甞宮膳殿 置酒
柏出 又神祇官左右分引両国供物参入 
除神御物之外 皆留朝集 院庭中 各分安置東西堂 到大甞宮南門外 即悠紀左
廻 主基右廻 共到北門 神祇官引神服宿祢 入奠
繒服案於悠紀殿神座上 次忌部官一人入奠麁
服案於同座上 訖共引出 乃両国献物各収盛殿 訖
衛門府閇門 神祇官侍於北門内門左掖 造酒児
先舂御飯稲 次酒波等共不易手舂畢 伴造燧火
兼炊御飯 安曇宿祢吹火 内膳司率諸氏伴造 各
供其職 料理御膳 宮内省官人左右分引大膳職
造酒司 各陳其所備供神物 高橋朝臣一人 安曇
宿祢一人 各擎多賀須伎 其膳部酒部亦依次立


並入大甞宮 共升殿就案頭 立定前頭先奠案上
自余以次手傳奉奠 訖相顧退出 明日撤亦如之 酉時主殿
寮以寮火設燈燎於悠紀主基二院 院別二燈 二
燎 伴宿祢一人 佐伯宿祢一人 各率門部八人 着青 揩衫
於南門外通夜庭燎 悠紀主基二国進御殿油二
斗 夜別五升 燈盞 盤各八口 燈心布八尺 夜別二尺 炭八石 日別二石 続松三百二
十炬 長各八尺夜別八十炬 薪一千二百斤 日別二百斤 戌時 天蹕始警臨廻立殿
主殿寮供奉御湯 即御祭服入大甞宮 其道者大蔵省
預鋪二幅布単 掃部寮設葉薦 且随御歩 敷布単上前
敷後巻  宮内輔以上二人敷之  掃部允以上二人巻之 人不敢■ 還亦如之 宮中道并
庭者 以八幅布単八条敷 大臣若大中納言一人 率中臣 忌部
中臣立左 忌部立右 御巫猿女 左右前行  大臣立中央 中臣 忌部列門外路左右 宸儀始出
主殿官人二人執燭奉迎 車持朝臣一人執菅蓋 子部宿

祢一人 笠取直一人 並執蓋綱膝行各供其職  還亦 如之 御悠紀甞


なお、「阿波国(続)風土記」については、ちょっと面白い資料等が出てきたんで、近いうちにまた書きます。
けど年内はキツいかもしれません。

2012年12月16日日曜日

阿波古風土記の欠片?

まあ、まだ開票途中ですがどうも民主党惨敗の模様です。
以前歴史的大敗と云われたときも100議席はあったはずなんで、今回60とか70議席なら、えらいことですね。

などと言いながら前々関係のない阿波国風土記のお話です。
以前の記事をご覧になっていない方々には失礼なんですが説明は

阿波国風土記
   2_阿波国風土記とは

よりご覧下さい。

で前々からこの阿波国(古)風土記原本もしくは写本なりと見つからないかと探しておりました。
で、その断片の断片のようなものがありましたので、紹介しておきます。
正直ちょっと自信が無いのです。

県立図書館の神山町史とかの近くにふつ〜に置いてありますので、興味のある方は見て下さい、「名西郡鬼籠野村 郷土誌」
引っかかったページの一部がこれ。

内容としては神山の鬼籠野村(当時)ないし神領村に阿波国造(くにのみやつこ)の館があったと云う内容です。
ここにある阿波風土記、もしや明治の阿波国(続)風土記のことかもと、もう一度読み直してみたんですが、そんな記載はない。
もしあったとしても阿波国(続)風土記、版籍奉還でプロジェクトは中断しておりますし外に出るような種類の資料でもありません。
念のため「先代旧事本紀(国造本紀)」も一通り確認してみましたが、やはりそんな記載は無い。
で、もうちょっと書けば、この阿波国造家三十四代の人名を記した
「阿波女社宮主祖系」なる文書が存在するそうです。

この神領に「国造の在住せし国造本館」なるものが存在したという内容、すでに明らかになっていてワタクシの無知かもしれません。
あるいは「阿波国(続)風土記」のどこかに記載されているのを見落としているだけかもしれません。
その点ご容赦を。

とりあえずの報告だけですけど(笑)追加報告ができれば面白くなるんですがね。

2012年12月9日日曜日

八人塚古墳見学会報告の追記というか、若杉山遺跡について

煮え切らないタイトルですが前回の八人塚古墳見学会報告の資料を繰っているうちに見つけてしまいました(笑)


若杉山遺跡
若杉山遺跡:弥生時代終末~古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡


那賀川をさかのぼり、鷲敷町との境には四国霊場二十一番札所の太竜寺がある。この太竜寺の北側の「若杉山」の標高140~170mの山腹斜面に遺跡が広がる。1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。

 石杵(いしきね)・石臼(いしうす)や辰砂(しんしゃ)原石が大量に見つかっている。辰砂は、赤色顔料の「朱」の原料で、石杵や石臼などの石器を用いてこれを朱に加工する工程を若杉山遺跡で行っていたことが分かった。出土土器から弥生時代の終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられる。

 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。水銀朱は古墳時代前期などに古墳の埋葬主体に大量に使用される。若杉山遺跡で産出した水銀朱も各地の古墳築造時に運び出されていったものと想定され、古墳時代の広範囲な流通を知る上でも非常に重要な遺跡である。

徳島県立埋蔵文化財総合センター オフィシャルサイトより




加茂谷村誌によると、戦後にその土地の所有者が開墾したとき、多数の石臼・石杵・辰砂・土器の破片などが発見されたそうです。
その後、地元の常松卓三氏と早稲田大学の市毛勲氏により、ここが全国でもきわめて稀な古墳時代の辰砂採掘遺跡であることが分り、その後昭和59年から徳島県立博物館による調査・発掘が数度に渡って行われ、多数の石臼などが見つかっている。

で、この早稲田大学の市毛勲氏の著書「朱の考古学」を見てみますれば。

若杉山遺跡
四国のほぼ中央、中央構造線にそって阿波水銀鉱床群が走り、第二次世界大戦中の軍事物資増産に際しては水井水銀鉱山が経済性を無視して稼業していた。丹生谷や丹生神社も分布し、松田博士の丹生の異字と称される入田、入野などもあって、古くから辰砂産出地域である事が知られていた。若杉山遺跡は阿波水銀鉱床の真只中に位置し、はじめて確認のできた古墳時代辰砂採掘砕石遺跡である。



卑弥呼と辰砂
これまでも度々ふれてきたが「魏志」東夷伝倭人の条には、丹、朱、辰砂、真朱に関する記述を見ることができ、日本列島三世紀代の朱に関する様子を文献の上で知ることができる。記述は四箇所に分かれる。
①以朱丹塗其身体如中国用粉也
②出真珠青玉其山有丹
③特賜...(略)...銅鏡百枚真珠(金へんに公)丹各五十斤
④上献...(略)...帛布丹木柎短弓矢



日本列島における「丹」の産地は中央構造線に沿って分布する水銀鉱床群であり、採石・採掘など三世紀の開発と言う観点からすれば、「其山」とは大和水銀鉱床群・阿波水銀鉱床群の山岳地帯があてられよう。実際、阿波水銀鉱床群の山岳地帯に徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡は位置しており、「其山有丹」の一つに数えることができる。

引用終了

要は「丹」の生産の観点から見れば「魏志倭人伝」に言うところの「邪馬台国」の特徴である其山有丹」の候補地は阿波か大和に絞られると仰っておられるのです。
この時点で九州説は却下されますね、いいですか。

そして③と④を見れば、まず「魏」より「丹」を賜り、今度は倭国より「丹」を献上したということが分ります。
3世紀前半「丹」を献上できたのは、大和か阿波。
そして「魏」かどうかは分らないけど、中国からの「丹」が確認できたのは「萩原二号墓」。
大和の古墳、墳墓から中国産の「丹」が発見されたとはワタクシめは寡聞にして確認できておりません。

ならば。

水行何日だとか、陸行何日だとかは、ワタクシ不学にして確認できておりません、そこの所は言い訳しときますが(笑)

「朱」「丹」または「辰砂」の生産と流通の経路から類推する限り「魏志倭人伝」に言う「倭国」の候補地として、現段階で一番可能性が高いのは徳島ということにはならないでしょうか。



これ、貼ってあるのはナイショね(笑)

まだ資料としては「弥生時代の水銀朱の生産と流通」って論文も出したかったんですが、コピーし忘れてきたんで、また機会があれば紹介します。

すんません、今回は画像が無くてつまんなかったでしょ。

2012年12月3日月曜日

八人塚古墳見学会報告の追記というか、萩原2号墓について

煮え切らないタイトルですが前回の八人塚古墳見学会報告の資料を繰っているうちに見つけてしまいました。
月曜日ですが、見つけたからにはと、概要だけ出しておきますが
腰が抜けます
ホントに。


萩原墳墓群
位置 北緯34度09分22.25秒
東経134度31分19.75秒
所在地 徳島県鳴門市大麻町萩原山ノ下
築造年代 3世紀前葉
出土品 画文帯神獣鏡・土器・円筒埴輪

萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)は、徳島県鳴門市大麻町萩原にある遺跡。


鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。周辺には天河別神社古墳群や宝幢寺古墳群などの古墳が点在している。
主体部(埋葬施設)の構造などから現在では日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳の原型との説がある。 wikipediaより



そして
徳島県の萩原2号墓発掘調査記録より

「萩原2号墓出土の赤色顔料-朱-のイオウ同位体比分析」
難しいタイトルですけど怯んじゃいけません。
ここだけ見て下さい。

さて弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて近畿圏内での朱(辰砂)の最大生産地は徳島県の若杉山であったことは有名です。
かのキトラ古墳や高松塚古墳にも若杉山出土の朱が使われていた事は事実です。

萩原2号墓はこの徳島県内の朱を使わずに中国産の朱を使っているのです。

また、バカな事をと仰るでしょうが
魏志倭人伝には
景初二年(238年)十二月には
汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各五十斤を賜い
とあるのに
正始元年(240年)には
金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を賜う
と「鉛丹」が入っていない。
どういう事でしょうか。

景初二年以前にも朱が産出していた事は明らかですが、「魏」の賜いものである丹を首長の埋葬に使ったとは考えられないでしょうか。

そしてその首長とは。


一応「萩原2号墓出土の赤色顔料-朱-のイオウ同位体比分析」の1ページ目だけ載せておきます。
興味がある方は言っていただければ全ページ(と言っても3ページ)送らせていただきます。

あ〜、まだ月曜日だぁぁぁ。

2012年12月2日日曜日

八人塚古墳見学会報告

そ〜なんですよね。
babymamaさんの指摘通りです、報告を書いてませんでした。
すえドンさんの方で書いてたので「もういいかな」なんて勝手に思ってました(汗)
それにしてもやたらと濃いメンバーが集まってしまいました(笑)
ワタクシめなど手も足も出ないようなメンバーです(笑)
えーと、まずは資料から出しておきます。
前回も書きましたように


八人塚古墳
徳島市名東町1丁目「眉山カントリー」内にある。
八人の武将を葬っていることからこの名前が付く。

集成、古墳(前方後円墳)。<立地>尾根先端。標高100m、水田からの比高90m、方位N10度W、造出なし、周濠なし、周庭なし、墳長60m、後円径30m・高4m・頂径約12m、前方幅15m・長30m・高1m、くびれ幅13.5m、後前高差-3m、葺石あり(後円部に積石)。 前方部に盛土。(内部主体)位置:後円部中央か(複数か)、槨:竪穴式石槨か。
古墳時代初期の積石塚古墳としては日本最大級の規模。



上図「1」が「八人塚古墳」ですね。
このように鮎喰川をはさんで近辺にやたらと古墳が存在しております。
それも三世紀前期から中期をも含んでおります。
このように、この近辺は古墳の超密集地帯なのです。
また近辺の古墳からは三角縁神獣鏡、銅鐸、銅剣、また鉄器、砂鉄等も出土しており古墳時代の文化の最重要地域である事は間違いないでしょう。
そして「八人塚古墳」
下写真の看板にもありますように積石塚の前方後円墳としては全国で最大級のものです。
それが「未発掘」(笑)上の資料も測量のみ。

生憎の雨模様の中、古墳の上をウロウロしております。

さてこの「八人塚古墳」このように徳島県産の青石(緑色結晶片岩)を使った古墳です。
近畿の「葺石」を使った古墳はいわゆる構造が単純で阿波の積石塚を模倣しようとしてできなかったため、このような様式になったと言われております。

また、近畿の古墳には阿波産の青石(緑色結晶片岩)が大量に使われており、このことも前方後円墳の東四国起源を伺える材料の一つになっております。
最近ではホケノ山古墳(奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳)に徳島県産の青石が使用され、構造も徳島県鳴門市の「萩原2号墳」と同一である事が明らかになっています。
構造が同じで、材料が徳島県産の青石ならばどちらが本家本元なのか想像に難くないと言うところですね。
徳島県産の青石はいわゆる「ブランド」だった訳なんですよ。
それを「纒向型」ってねぇ。
「纒向型」じゃなく「八人塚型」って言いなさい。まあ同形のは高松市の「鶴尾神社4号墳」もそうなので「東四国型」でもいいですけど。(笑)
また奈良県桜井市にある前方後円墳の箸墓古墳、この造成が西暦260年頃ですが、鳴門市の「萩原墳丘墓」は箸墓古墳から遡ることおよそ50年、西暦200年前後と言われている事を付記しておきます。


えーとそれで、後円部には白色円礫が撒いてありますと受け売りです。

古墳から降りてくると、すぐ下には鮎喰川、気延山もこのように見えます。
敢えて言うなら、古墳時代はここから気延山のすぐ下まで水面が広がっていた訳です。
すぐ下には「広濱神社」があり、少し北側(写真では右側)は石井町の「内浜」の地名が残り海進の様子がうかがえます。

あと、県内の同時代の古墳としては丹田古墳、奥谷二号墳などがあります。
学者によっては、この積石塚の前方後円墳が古墳群を作らず単体でしか存在しないので、古代豪族の権力がこの近辺には集中してなかったかのような書き方をする方もいらっしゃいますが、積石塚の前方後円墳は首長クラスの墳墓なんだから、そうそう数を作るはずがないでしょう。

と、八人塚古墳見学会報告だか、前方後円墳の東四国起源説の紹介だかわかんなくなっちゃいましたが、そのくらい凄い所だってことです。
それがゴルフ場の中に(笑)
徳島ってどんなトコだよって言われそうですね。

それにしても西暦2百数十年頃の八人の武将って誰の事なんでしょうね。
やっぱトップは「◯◯ノ◯命」なんですかね、すえドンさん。(笑)

2012年11月29日木曜日

阿波市 勝命神社

ホントなら八人塚古墳のレポートを書かにゃならんのでしょうが、ちょっと置いといて。
いや、良かったですよ。
天気がもひとつだったのが玉に傷でしたけど。
でも今回書くのは違う事。
書いとかなきゃすぐに忘れてしまうんです。
もう歳なんで、物忘れが良くてよくて。
で、阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」。
「勝命」は「かつみょう」って読みます。
人名とかでは「しょうみょう」と読む場合もあるようですが、ここは「かつみょう」。
場所はここ

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まず見て下さい。どこを?

どうです、「菊」「菊」「菊」「菊」いいのかい、こんなの(笑)

いいんです。
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)なんですから。


そして、『日本書紀』の一書(あるふみ)にありますように


及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。


その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。   wikipediaより



伊奘諾尊と伊弉冉尊も祀られております。
創立年代不詳
「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

また
菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia

と言われておりますが、よくよく読めば、確たるものは無く

白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041-1111)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている。

で、扶桑明月集(大江匡房記)には
客人宮(女形)第五十代桓武天皇即位延暦元年、天降八王子麓白山。菊理比咩神也。
とありますが、白山に「天降」っただけでなんで白山比咩神なのかは書かれて無くて
「大日本神名辞書」にも
諸説一致せざるを就て考ふるに其白山比咩と称して太古よりの鎮座は菊理媛神にて...

とありますので、やはりいわれなきように思われます。
なんで、こんな事をくだくだ書いたのかといいますと、「徳島県神社誌」を眺めておりますれば、もう一説が出てくるからでございます。

この神社は文化年代に菊理社と称えていたが、天保期の文書に、菊理または九栗と記され嘉永年間より古称に復して九栗と呼ぶようになったという。「徳島県神社誌」

明治四十三年に「九栗若宮金比羅川人神社」を合併し勝命神社となります。

「九栗」が古称なのです、ここは。
名東郡の矢野、延命、尼寺付近が「植栗郷」と呼ばれ、気延山の「気延」は
「木の戸(きのべ)」ではないかと言われます。
また「菊池」姓などは「久久智」より来ている事は明らかです。
ならば「九栗」は「久久里」か。
木の神である久久能智や大気都比売の子の久久年ともつながるのでは、との妄想を
抱きつつ、ここらで体力が尽きてしまう情けないオッサンでございます。

もう一つ材料があればなぁ、もうちょっと面白く書けるのになぁ。
と思いつつ、今日はこの辺で。


あと、この見事な彫り物は文化年間に改築したときの棟梁、麻植郡児島村の大工喜市の手になるものだそうです。

2012年11月18日日曜日

とりあえず浮上 阿波町 賀茂神社

一つ終わっただけで、まだ何も解決してないんですが、とりあえず生きてる証拠にちょっとだけ書いておきましょう。
うん、今年はおかしいです。いろいろありすぎます。いや、身辺にですが。
もちろん書けませんが。
こんなのも必要な昨今です。


さて、と。

阿波市阿波町新開 賀茂神社


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祭神 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
   意富加牟積尊(おおかむすみのみこと)
   天穂日命(あめのほひのみこと)

一般的な賀茂神社、例えば京都の上賀茂神社ならば御祭神は賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)である、ところが当神社に関しては御祭神となっていない。



由緒
もと蜂須賀公の崇敬社であった。『阿波志』に「別雷祠 朽田村に在り 旧中野村に在り 貞亨元年ここに移す 越智通玄偃月刀一枝を納む 備中水田源国重造す・・・」とあるとおり、元、中野村に鎮座していたが伊沢市の住人河野六郎太夫という者の発願により貞亨元年(1684)現在の地へ移し祀ったといわれている。
徳島県神社誌



遷宮については臨川寺の住職鉄崖和尚も協力し棟札は鉄崖の書である。
昔鳥居の前にご祭神が落雷した雷を伏せこんだといわれる緑泥片岩の岩板がある。
徳島県神社誌


この伝説については社地内に由来を記したこのような碑があり。

これがその「雷伏石」で、この裏側に雷が落ちて伏せ込まれたという井戸がある訳なんですが。

この伏せ込んだ「雷伏石」見て下さい。なんと見事な「盃状穴」を持っています。
あるいは「丹摺り石」!!!

「丹摺り石」とは「丹」、「朱丹」を精製するために使われた台石の事です。
また、「丹」は「水銀朱」の事で古代祭祀のとき赤色として化粧や葬祭時に使われました。縄文時代から弥生時代にかけて、阿波産の「丹」が全国で使われていたことは周知の事実です。

徳島新聞の「辰砂  神聖さ表す朱色の原料」より

http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/122688766452.html

ここまで書けば、何が言いたいのか分っていただけるでしょう。
ある一つの説の傍証になるという事です。
詳しく説明はしません(疲れてるから)。


「祭神怒りて大岩で伏せ込めば」

御祭神が「この岩」で伏せ込んだのです。
この「丹摺り石」で。





次、また間が空いたらごめんね〜。
体力も気力も限界に近いのよ〜。
八人塚古墳はちゃんと行きますよ〜。

2012年10月30日火曜日

八人塚古墳はいかがでしょうか

話が出てましたので、眉山カントリーへ問い合わせのメールを送ってました。
今日、お返事いただきました。
OKです。
参加ご希望の方は連絡ください。
日時は決めてません。
前回、樫原神社のときは勝手に決めちゃったんで、今回はご希望の日に極力合わせたいと思っております。
眉山カントリーのお返事では「土日は混むので平日の方が・・・」とありましたが、残念ながら土日しか行けません。
11月23日の祭日なんかもいいな、と思ったりしてましたが「新嘗祭」だったりもしてひじょーに流動的です。
とりあえず、ご連絡いただければ、多数決を取ろうと思います。

八人塚古墳
徳島市名東町1丁目「眉山カントリー」内にある。
八人の武将を葬っていることからこの名前が付く。

集成、古墳(前方後円墳)。<立地>尾根先端。標高100m、水田からの比高90m、方位N10度W、造出なし、周濠なし、周庭なし、墳長60m、後円径30m・高4m・頂径約12m、前方幅15m・長30m・高1m、くびれ幅13.5m、後前高差-3m、葺石あり(後円部に積石)。 前方部に盛土。(内部主体)位置:後円部中央か(複数か)、槨:竪穴式石槨か。

古墳時代初期の積石塚古墳としては日本最大級の規模。

同じく名東町の地蔵院「穴不動」との関連をも伺える。


せっかく行くのなら、「穴不動」とかその他近所の「そこ、ここ」も廻ったら面白いかなとも思ったり。
ね。
人が集まらなくても、勝手に行っちゃいますけどね(笑)近所だし。