2012年5月28日月曜日

上一宮大粟神社伝説

5月27日、日曜日の朝うちの奥様が言いました。
「新聞見た?いつもなんたら言ってる神山のナンタラ神社で、古事記の話があるって載ってるよ〜」

「それはね神山の『上一宮大粟神社』で『阿波古事記研究会』の『阿波と古事記』の話があると書いてあるのだよ、ハニー」

「ふーん、で行かないの?」

「オゥ、だってハニー今日は君のステキなガーデンの手入れをする日なんだろ?ラブリードッグの『シルベスター』の散歩もいかなくちゃね、さあハニー君のためにオーツブレッドのトーストと自家製ストロベリージャムを用意したよ、ステキなブレックファーストにしようじゃないか。」

「うちにいると『ウ・ザ・イ』と言っておるのだよ、そこのオヤジ」

「HaHaHa、愉快なジョークじゃないかハニー、ほらカプチーノがすっかり冷めちゃったよ」

「はよいけ!!!」


という訳で、神山の「上一宮大粟神社」まで行って参りました。
ごめんなさい、M村氏のお話については今さら書く事もございません、いえいえ他意はございません。PowerPointの資料も素晴らしくまとまっており、ひじょーに入門編として分りやすい構成でありました。なかなか、あそこまで分りやすい説明はできません。
ちょっと基礎知識があればさらに面白いでしょう。
ただ一般の人には通説とのギャップがありすぎて受け入れてくれない人がいたのも面白かったです

で、個人的にインパクトが大きかったのが宮司さんのお話。
というか、ワタクシあちらの世界から帰って来れないのではないかとビビってしまう程でした。

まず、祝詞が毎回違う!
風の音、鳥の声、水の音、それらを祝詞に織り込み、世界と一つになろうとする意図を持った祝詞だとの事です。
なので毎回毎回音が違う、声が違う、発声が違う、宮司を持ってして「未だできない」と宣う祝詞。一回聞いたら祝詞集見ながら「読んでる」祝詞はもう聞けない。
いかん、聞くんじゃなかった。

そして、祝詞が終わった後、少しだけお話しさせていただきました。

「神山って山の上の方から開けて来たって聞きますが」
「ああ、高根の上に古い集落があってそこから」

おーい!!!すっげえ事しれっと言ってるじゃない。

「『お馬石』ってありますよね『大宜都比売』が伊勢から乗って来たって言う」
「(三重の)伊勢なんてことあるはずないじゃない。時代が全然違うのに」

おーい、「神山の伝説」とかにも「伊勢」からってあるのに簡単に否定しないでよ(笑)

「『腰の宮神社』ってありますよね」
「うん、『大宜都比売』がここに来たとき腰掛けて休んだところ。八柱の随神もいっしょに来たよ」

おーい、おーい、ううう、あそこで休まれたんですね大宜都比売が(感涙)。

「では、大宜都比売ってどっから来たんでしょうね」
「あの上に登ると阿南とか橘の方まで良く見えてね、尾根伝いに行くと早いよ」

うおーい、どーゆー意味で言ってるんですか。胸がドキドキするじゃないですか。


まあ、高いところが拓けてたっていうのは「焼き畑」をやってたからとも言ってましたが
それはそれで「水稲」の一族とは別に「焼き畑」の一族が山頂に住んでたって事ですので
それも弥生期に。これも別の意味でドキドキしてきますが。


最後にワタクシが椅子から転がり落ちそうになったのが、この神社の口伝。
「大宜都比売」は国の危急の時に「黄金の狐」を呼び危機を救う。

それと、知ってますか?弘法大師空海の予言。
「鉄の橋渡りて本土と阿波連なる時、本土を化かした狐たち今この時と逃げ戻る」

これが頭をよぎりました。

空海は狐を追い払ったんじゃない、四国が危機に陥った時の為に「狐」を四国の外にあえて送り出したんです。だから四国には狸ばっかり残ってるんですね。
もちろん比喩ですよ。
知ってる人は知ってるでしょう大宜都比売は豊宇気毘売神であり、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)であることを。
だから大宜都比売が狐を・・・





さ、明日もお仕事っと。寝よ寝よ。

2012年5月26日土曜日

八万町 四王子神社

あ〜、やっと半日、自由時間ができちゃったよぉぉぉ。
洗車しようかな、どっか行こうかな。
と思った時、選んでしまいました。「洗車しなくても車は走る!」
もう一人の自分が「なにかが違う!」と心の中で叫んでおります(笑)。

下の写真は、八万町文化の森に鎮座する「王子神社」境内の縁起です。



で、何度も書いてきましたが、阿波には「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の五皇子全てが祀られております。
その事を上の写真の縁起は書いている訳なんですが

第一皇子 天之忍穂耳命 八万町 王子祠
第二皇子 天之菩卑能命 小松島市 式内 御縣神社
第三皇子 天津日子根命 八万町 王子神社
第四皇子 活津日子根命 八万町 四王子神社
第五皇子 熊野久須毘命 丈六町 熊野神社


そのうちの第四皇子を祀る「四王子神社」へ参拝してまいりました。
場所はここ

より大きな地図で 四王子神社 を表示

文化の森から車で5分、八万町下八万字下長谷でございます。
入口は多分「見つけられません」(笑)
上の常夜灯を目印にして下さい。
この写真の左の路を入っていきますが「車では入らないで下さい」。
軽なら入れるけど、多分戻って来れません。
阿波の神社のよくあるパターンですね(笑)
この常夜灯の脇が長谷の集会場になっていて、そこに車は置けます
上の行は見なかった事にしてね。

で、50mくらい歩いてお墓があるところを左に入ればすぐです。
鳥居があります。
祭神 活津日子根命(いくつひこねのみこと)
長谷名の中央山腹に在り。祭神は天照太神第四の王子 活津日子根命を祀ると伝えらる。
八万町史より
なお、八万町史によれば

一王子の祠 福万谷に在り。天照太神第一王子正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命を祀ると伝ふ。
二王子の祠 柿谷に在り。天照太神第二王子天之菩卑能命を祀ると伝ふ。

とあり、第二王子に関しては王子神社に書かれている縁起と違ってますが、「一王子の祠、二王子の祠、王子祠、四王子神社は共に皆連繋ありて・・・」とも書かれており、あるいは柿谷の祠の方が元かもしれないかな、などと思ったり。
なら、一王子から四王子までが八万町内に揃うという「えらいこと」になってしまいます。

ご覧の通り、静かな静かな神社です。


活津日子根命を祀る神社を探してみれば、滋賀にズバリ「活津彦根神社 (イクツヒコネ)」神社がありましたので、由緒などを見てみますれば


御由緒
創祀年代不詳。社伝によると豊浦庄の産土神の意を以
て竜神大明神と称す。社宝として永禄7年2月23日飯道
寺善光坊法印行慎佐々木豊浦村山王大権現正神大明神
の墨書の銘ある十一面観音像を蔵す。慶長15年8月杉田
九郎兵衛の寄進の金燈寵銘文にも正神大明神と記され
ている。正徳3年6月に吉田家より正一位の宗源宣旨を
受け、その宣旨には正一位活津彦根大明神と記されて
いる。詔勅6年石鳥居を建つ、現在の社殿は寛永3年柱
を根継ぎ等の大修理せしものである。明治9年村社に
列す。同42年神饌幣帛料供進指定。


どこに「活津日子根命」との関係があるの?って感じでしょ。
そ・れ・は・さ・て・お・き
気になるのは「活津日子根命」と「熊野久須毘命」の御神名に「天」が付いていない事。
あるいは天照太神の王子にして「天津神」ではなかったとか?
うわぁ、ヤバそうな話。
「活津日子根命」は「◯◯◯◯命」の別名であったとか・・・(笑)
(いかん、まだ書けないのに)

うわぁ「四王子」だって、まんまじゃない(笑)。

鳥居前には「御嶽参り」の碑があったりして。
 行ってみると石塁があったりして。
 こんなのもあったりして。
そそられましたけど、ハチがいっぱいでこれ以上進めませんでしたので
どなたか重装備の方、廻ってみて下さいませ。

2012年5月20日日曜日

板野町 岡上神社

うだうだ書きますと嫌がられるのは承知の上なんですが
いいんです、ボクのブログなんだから。
はい、忙しいです。疲れてます。オヤジです。
神社とか史蹟とか行く暇ないです。ブログなんか書く体力残ってません。
書いてもロクなもん書けないの自分で分ってます。資料なんて調べる気力も無いです。
下り坂のオヤジです、ウダウダうだうだ。

さてと
板野郡板野町大寺字岡山路に鎮座まします「岡上神社」でございます。
ちなみに今日とか行った訳じゃないんですよ、もう大分前になります。
場所はここ

より大きな地図で 岡上神社 を表示

見てお分かりのように、かの板野郡の「大寺」そして「岡山」です。
マップを見ると近くには「吹田」地名。
また「亀山神社」など、あり〜のえらい場所でございます。
御祭神 豊受姫命

配祀
奧津比賣命  猿田彦命  草野姫命
市寸島姫命  日本武命  楠正成公

延喜式内小社
無精の尊崇厚く、源義経屋島に向かう折、当社に詣でて武運長久を祈願したと伝えている。
藩主蜂須賀公の崇敬社で、毎年初穂米五石を奉納されたという。
また、当社は農業神として近在の農民からも厚く信仰されていた。
明治四年(1871)に村社に列せられ、大正四年(1915)近在の王子宮、若宮神社、山神社
楠木神社を合祀し、更に大正七年(1918)郷社に列せられた。
徳島県神社誌
とのことです。
さてと、写真は、と。

 創立年代は不詳

元々は岡のふもとに祀られていたが、寛政元年に、岡の上に遷座されたようです。

 つまりは「岡の上」だから「岡上神社」ではないのです。
先にネタバラしをしてしまえば、「岡上」は「おかのうえ」とは読まず「おかのかみ」
なのです。
こーんなオヤジ殺しの石段を上りますが「丘の上」じゃない。

そして「おかのかみ」か「うかのかみ」の訛りであります。
御祭神が「豊受姫命」であること
農業神として近在の農民からも厚く信仰されていたこと
神紋が「丸稲束」と書かれていることより
「宇迦の神」つまりは「宇迦之御魂神」であることは間違いないでしょう。
「阿波学会研究紀要」などには、はっきり「倉(うかの)稲魂(みたま)命」って
書いてあるけどね。
ならば、元はどこに祀られていたのか。
これはもう推測でしかありませんが
岡上神社から100m程南に、古くから「岡宮の塚穴」として知られていた古墳があります。
(まだ、行ってないけどね、テヘ)
この古墳は、昔、この地方の人々が婚礼や法事のため沢山の食器を必要とした時、入用の
食器の種類と数をお願いすると、約束の時間に全部整えられていたという伝承があります。
時には銭まで準備してくれることもあったので土地の人々は大変重宝で感謝していたそう
ですが、ある時、村の一人が借りた食器を返さなかったので、その後はもう村人の願いを
きいてくれないようになったと伝えられています。
 また、この古墳から祭祠用の須恵器類が多量出土しております。



あるいは、ここが宇迦(うか)の山の麓ってか、などと考えてみたり、みなかったり
(どっちだよぉ)。

冒頭に徳島県神社誌から引用しましたが

大正四年(1915)近在の王子宮、若宮神社、山神社、楠木神社を合祀し


此の中のどこかの神社に「日本武命」が祀られていたのでしょうが場所が分からない。
(誰か板野郡史見て来てよぉ、行く間が無いんだよぉ)
「樫原神社から熊野神社」と「亀山神社(近くの白鳥神社)から宇志比古神社」の
間の空白を埋めるのではないかなと、思ったり思わなかったり(そればっか)。
何の空白かって?
もういいじゃない、はっきり書くの嫌いなのよ(笑笑笑)。

さて、この「徳島県指定天然記念物『岡の宮の大クス』」は何を見てたんでしょうね。
「変なオッサン、はよ帰れ」とか(涙)
いかん、書き忘れてた。
この大クスのことは「御神鏡」と呼ばれているそうです。
大正3年、参道の石垣を改修しようとした時、曲玉管玉水晶玉、藍色珠数などが出土した
そうである。また、石段の竹林の中に、のぼり窯の跡があり古代瓦が焼かれた所かも知れ
ないとのことである。

もう、構成もなんもない書き方だなぁ。
いや、今まで構成なんてあったか何て突っ込まれても困るんですが。

2012年5月13日日曜日

四国剣山千古の謎(下)

「四国剣山千古の謎(上)」からの続きと言う事で。

で、まあ読み進んで行くとですね。
「アーク」が剣山に隠されているかはちょっと置いといて、読み進んで行くとですね、引っかかるところがいくつも出てくる訳なんですよ。



例えば、前回の動画にも出てましたけど、高根三教氏はまず日本語がイロハ47文字なのに「イ・エ・ウ」の3文字が重複して50音となっている事に重大な意味があると言います。
単純に考えればワ行も「ゐゑ」があるし、「上代特殊仮名遣」の研究により奈良時代以前には濁音節を含めて88音節存在したことが分っております。
つまり今の50音図とは内容が違うってことなんです。

例えば「母には二度逢ひたれど父には一度も逢はず」という平安時代の「後奈良院御撰何曽」に出てくる「なぞなぞ」があります。
答えは「くちびる」なんです。
どういうことかというと、その頃は「母」を「fafa」もしくは「baba」あるいは「papa」と発音されていたからなんです。
「天草本平家物語」(1592)という、ポルトガルの宣教師が聞き書きした平家物語があるのですが、そこでは「平家物語」が「Feiqe Monogatari」と表記されています。
平仮名で書けば「ふぇいけ ものがたり」ですね。

さらに、現行の五十音図にあたる音図ができたのは、元禄の頃、真言宗の僧侶で国学者でもあった契沖(けいちゅう)が確立したと言われておりますし、前述したように、88音長から50音に絞られ内容等についても変遷の過程を経ておりますので、それが「イエスキリスト=50音」との関連と言われても、全くピンとこないんですが。

それで、これもまた前回の四国地図を見ていただくと、剣山が耳になっておりますが、その説明として

「耳」の英語は「Ear(イヤ)」であって、此の耳に相當する處は即ち剣山である。而かも此の剣山は徳島縣美馬郡祖谷村であるから其の發音は完全に一致する。


うーん、一応発音は一致しますよね。
でも「Ear」が「祖谷」ですか、何とも微妙じゃないですか。

また
即ち劔の山は、一名針の山とも呼ばれている。此の両者の同一なる事は、華道に使用する水盤の「劔山」と言うのは針の山である事実から見ても明白である。


などと書いていただいておりますが、ワタクシ寡聞にして剣山を「針の山」と呼ばれていたとは存じ上げません。
頂上だって平らだし、何よりも「剣山」「石立山」「鶴亀山」などと呼ばれるようになったその前は「太郎山」とか「太郎笈」って呼ばれてたんですから「針の山」はいかにもおかしいなって思いますが、いかがでしょうか。

細かい事で揚げ足を取ってばかりで、忸怩たるものがありますが、こんな感じで突っ込みどころが満載なもんで、皆様も一度目を通していただけますでしょうか。

で、本題の「アーク」なんですが
『新約聖書』「黙示録」と『古事記』を比較 研究した結果、剣山に「契約の櫃」が隠されているという結論に達したそうです。
それが、何度読み返してみても、主張がよく分からない(笑)
「黙示録」第四章にある神の栄光を示す四つの生き物の記述( 獅子、牛、人、鷲)と『古事記』国産み神話に、四国は「面四つあり」とする記述が対応するので、ここに隠されているのだ、との主張のようですが、説明が飛躍しまくってて、ねえ。
「〜と言う事になる」などの記述が多いんですが、うーん。

中には面白い事も書いてあるんですが、それが
「神楽は発音を禁止して行なうので『黙示』を明示する」だから「黙示録」につながる
って一緒に書かれても「はい、そうですか」とは言いにくいじゃないですか。




と、書いていこうとしてたのですが、ちょっと資料が足らなくて中断させて下さい。
もうちょっといろいろ書いてから

こうゆう本も紹介しようかなと思ってたのです。

この本Amazonにも無いし、県立図書館にもないのですが
いわゆる剣山伝承のひとつ「モノユフ石」についてもある程度調べてあるし
「入らずの行場」についても書いてある面白い本なんですが、結局結論は出してないし
中途半端なんで、参考程度です。

目次の一部です。
この記事も中途半端でホントにごめんなさい、いろいろ考えるところもあり
も一回改めて出直しますので、今回はここらでご容赦を。

2012年5月8日火曜日

四国剣山千古の謎(上)

あ〜、忙しいなぁ、つまんないなぁ。
GWだって暦通りに休みだったのに、なんでか自由になる時間が3時間しか
なかったってのはど〜ゆ〜事でしょう。
いや、いいんですけどね。勝手に愚痴ってるだけなんで、ほっといてくださいね。
鬱なんで、トリプトファン摂取のためバナナを黙々と食べる日々です(笑)
もし、これ見てる人で鬱っぽい人、バナナは効きますよ、経験上。

ま、繰り言はこれくらいにしておいて、と。
ちょっと前に「契約の箱」って記事書いてたでしょ。
その時に「高根正教」って教えてもらったので、こんなの引っ張ってきました。

「どうだ!」って感じでしょ(笑)
いやぁ表紙だけでもインパクトあるなあ。
ページをめくればご子息の「高根三教」氏のサインが。
ちなみに高根三教氏平成22年4月20日に身罷られております。

内容をくだくだ書く訳に行かないので、どうしようかなと、思ってたら動画がありました。

さらにページをめくって目次を見れば
お好きな人が泣いて喜ぶ図が。
「四国はケルビムにしてスフィンクス」だ、そ、う、で、す。
そしてその剣山に「アーク」が隠されている、そ、う、で、す。
この本では明らかにされておらず、後述の著書を見てくれと、言う事です。

では、アークとはなんぞや、」と言いますと。
古代ユダヤの「契約の聖櫃」のことであります。
中に何が入ってるものは

「十戒の石盤」
「モーゼ」が堕落したユダヤ民族の戒めるために、シナイ山に登り、「ヤハウェ」の教え(十戒)を刻み込んだ石盤のこと。

「アロンの杖」
モーゼの兄「アロン」が持ってた杖。ファラオの前でヘビに化けたり、川の水を血で染めたりしたという伝説が残されている。

「マナの壷」
「マナ」という天から降って来た食べ物が、かぎりなく出てくる壷。契約の地「カナン」を求めて40年近く放浪したユダヤ人たちは是のお陰で生き延びられたと言う。


以上の「三種の神器」が納められた箱のことを「契約の聖櫃」と言う。
形は、金箔張りで、フタには二対のケルビム(天使)が鎮座し、2本の棒を箱尾についてる金具に通して、担いで運ぶようになっている。
その筋の方は日本の神輿が「これ」であると仰るワケです。

うーん、どうしよっかな。
このまま書き進んでいいのかな。
方針変えたんじゃないかって、思われるのもイヤだしなぁ。
本の紹介のつもりだけだったんだけどなぁ。

しゃーねーなー、もう一回だけ書こうか。
今回は(上)ってことにして、軽ーく(下)を書いて終わりにしよっと。
ウィークディだしね。

2012年5月6日日曜日

おーい、石井の武市さーん

何の事だか分らないでしょうが、高松のキタジマさんから
石井町国実 武市神社」にコメントをいただきました。
失礼とは存じますが、一部引用させていただきます。



>河野家のゆかりと思われる、
>折敷三文字の家紋がついた甲冑を譲りうけたのがきっかけで、河野家のことを調べているうち、
>こちらのブログに行き当たりました。

>石井町つながりでも奇遇ですが、さらに驚きなのが、

>問題の甲冑の家紋(折敷三文字で三の字が毛筆書体)と
>武市大明神の由緒書にある家紋がそっくりだったからです。
>甲冑の制作年が江戸中期頃なので、これまでは河野家諸流の稲葉家の関係と思っていましたが、
>出所が徳島なので、武市家の関係の可能性が大きくなってきました。

>ぜひ、ご子孫の方とコンタクトを取り、お話を伺ってみたいと強く思っています。
>現地に行って地元の方に聞けばよいのでしょうか?(もしくはご存じでしょうか)


ということなのです。
一応マップは大画面で載せておきます。
中央マークの武市大明神近辺は武市姓の方々が集まっている地域です。
先にコメントをいただいた「タケイチ」様
もしご覧になっていたら連絡くださいませ。


より大きな地図で 武市大明神 を表示


それと徳島の「河野家」関係で(もちろん伊予の河野家の系列として)何か情報を
お持ちの方、いらっしゃればご連絡ください。
ワタクシも鴨島に「河野」氏の知り合いがいるのですが、そんな話した事もなかった
ので、その辺りが不明なのです。

ホントにこのご近所の方、見てたらご連絡下さいませ。
すんません、ワタクシにできるのはこの程度かも。
もちろん、何か情報が入ればお知らせいたしますが。

2012年5月3日木曜日

「放美展」見にいきます。

すみませんねぇ。
期待してるような内容じゃございません。
古代史とか神社とかではなく
単なる親バカ記事というかホントのブログっぽい記事で。
ウチの姫が徳島の美術展である「放美展」に入選しましたので
見に行ってきます。
県外の人は知らない「放美展」は徳島のマイナーな美術展でありまして
そこに単なる入選しただけですが、そこはそれ、とにもかくにも
書いてしまおうと言う、バカっぷりです(笑)

大人の入場料が600円(ワタクシの年収の10%くらいかな)
もいるというのですが、涙をのんで行って参ります。
以上!!!