今日も、有名どころでお茶を濁しておこうという、いつもながらの姑息な
手を使っております。
で、有名どころと言うのは「小宰相局の墓」でございます。
源平合戦の折り、一の谷の合戦で討死した平通盛の妻であります「小宰相局
(こざいしょうのつぼね)」のお墓でございます。
前講釈を申し上げますれば、平通盛(みちもり)は、平清盛の弟である
平教盛(のりもり)の息子の事でございます。
小宰相(こざいしょう)は、紫式部の夫である藤原宣孝(のぶたか)を祖先に
持つ、いとこ同士の両親から生まれた女性で、後白河法皇の姉である上西門院
(じょうさいもんいん)に仕える女性、出会った頃は通盛25歳、小宰相16歳で
ございました。
上西門院が法勝寺(ほつしょうじ)へ参拝に出かけた時、上西門院に随行する
小宰相の姿を、通盛が見つけ、一目惚れしてしまうのです。
後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が源頼政(よりまさ)と挙兵し
関東では源頼朝が立とうと準備を進めておりました。
北陸では木曽義仲が立ち上がり、倒平家の気運が高まる中、通盛は、北陸への
遠征をするかたわら、小宰相への手紙を送り続けていました。
出会いの日から三年間経っても、返事はなく、通盛はこれが最後と、手紙を使者に
託します。使者は、手紙を届けに行きますが、いつもは御所の女房に渡す手紙を
直接、彼女の車の中に投げ入れます。
小宰相は、とりあえず手紙を袴に挟んでいたところ、御所の中で落としてしまい
上西門院に拾われて、中身を読まれてしまいます。
結果、上西門院が仲を取り持つ形で・・・
しかしその当時、通盛はいとこにあたる宗盛(むねもり)の娘を正室とする約束を
交わしておりましたが、その娘は当時12歳。
政略結婚の意図丸出しで、通盛と小宰相の間をとやかく言う者はいませんでした。
ちょっと中を飛ばして、
倶利伽羅(くりから)峠の合戦で大敗を喫した平家は、防戦一方の結果。都落ちを
せざるを得なくなります。
そして一の谷の合戦で、義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としにより大敗を期し
その時に通盛は戦死してしまいますが、小宰相はまだその事を知りません。
破れた平家一門は、軍を集結し立て直すべく、明石より屋島を目指します。
とはいいつつも、船団はバラバラ。小宰相の乗った一団は鳴門の土佐泊につきます。
(ここら、ちょっと疑問が。明石から屋島に向かう際に、鳴門海峡を突っ切って
鳴門の土佐泊に来るコースを取るか?ま、今回の本旨ではないのでここまで)
で、その船中で小宰相は、通盛戦死の報を受けます。そのとき小宰相は懐妊して
おりました。
では、ここを平家物語より
越前三位通盛卿の侍に、君太滝口時算といふ者あり。
北の方の御船に参り申しけるは、「君は湊川の下にて、敵七騎が中に取り籠められて、
つひに討たれさせ給ひ候ひぬ。その中にことに手をおろいて討ち参らせ候ひしは、
近江国の住人、佐佐木の木村三郎成綱、武蔵国の住人、玉井四郎助景とこそ名乗り
申し候ひつれ。
時算も一所でいかにもなり、最期の御伴つかまつるべう候ひつれども、かねてより
仰せ候ひしは、『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、
御行方をも尋ね参らせよ』と、仰せ候ひし間、かひなき命ばかり生きて、つれなうこそ
参りて候へ」と申しければ、北の方、とかうの返事にも及び給はず、ひきかづいてぞ
伏し給ふ。
あ〜。
『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、
御行方をも尋ね参らせよ』
なんて、万感胸に沁みますね。こんなのどうして高校古文の授業でやらないのかな。
ですが結局、通盛の遺言?にもかかわらず小宰相は身を海に投じてしまうのです。
北の方やはら船端へおき出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、
月の入るさの山の端を、そなたの空とや思はれけん、静かに念仏し給へば、沖の白洲に
鳴く千鳥、天の戸わたる楫の音、折からあはれやまさりけん、忍び声に念仏百遍ばかり
唱へ給ひて、「南無西方極楽世界、教主弥陀如来、本願あやまたず浄土へ導き給ひつつ、
あかで別れし妹背のなからひ、必ず一つ蓮に迎へさせ給へ」と、泣く泣く遥かにかき
くどき、南無と唱ふる声ともに、海にぞ沈み給ひける。
その、上の平家物語の中では北の方となっている「小宰相局の墓」がこれでございます。
場所はここ。
より大きな地図で 小宰相局の墓 を表示
鳴門市の案内ではこうなっております。
中に書いてあります衣懸の松はもうありません。
そして、このお話「謡曲」としても有名なようで
下の写真の立て札がありました。写真が見ずらくてすいません。
謡曲「通盛」より転記しておきます。
「さる程に平家の一門。馬上を更め。海士の小舟に乗り移り。月に棹さす時もあり」
「此處だにも都の遠き須魔の浦。思はぬ敵に落されて。げに名を惜しむ武士の。
磤馭盧島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり」「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は打たれぬ。
誰を頼みてながらふべき。
この海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舷に臨み」
「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ」
沈むべき身の心にや涙のかねて浮かむらん。
西はと問へば月の入る。西はと問へば月の入る。其方も見えず大方の。
春の夜や霞むらん涙も共に曇るらん。乳母泣く泣く取りつきて。
この時の物思ひ君一人に限らず思し召し止まり給へと御衣の袖に取りつくを。
振り切り海に入ると見て老人も同じ満潮の。
底の水屑となりにけり底の水屑となりにけり。
この時、宮中で絶世の美女と謳われた小宰相局19歳。
そして平家は屋島へ向かい、滅亡の場所となる壇ノ浦に進んでいきます。
最後に近辺の写真を
ここが入口なんですが「絶対に車で進入しない事!!!」
えらい目に遭いますよ。遭った人間が言ってるんですから。
ちょっとだけ距離が離れてしまいますが、漁協の所にでも置かせてもらって
あとは徒歩がいいと思います。
で、こんな階段を登っていきます。
あとは、こんな感じで。
はい、急坂です。でも距離はごく短いですので。
で、この登った先にお墓があります。
そして、鳴門市の案内にありましたように、子授けに効験があるそうですので
よろしければどうぞ。
うちは、もういいですけどね。
あと、上の地図を見て「『新羅神社』って何?」とは聞かない事!
素戔嗚尊と、その子「五十猛命」をお祀りしてある事のみ記しておきます。
(気が向いたら書くかもしれませんけど)