2011年2月26日土曜日

鳴門市 小宰相局の墓

書きたい事は最近いろいろ出てきてるんですが、どうもまとまらないので
今日も、有名どころでお茶を濁しておこうという、いつもながらの姑息な
手を使っております。
で、有名どころと言うのは「小宰相局の墓」でございます。
源平合戦の折り、一の谷の合戦で討死した平通盛の妻であります「小宰相局
(こざいしょうのつぼね)」のお墓でございます。

前講釈を申し上げますれば、平通盛(みちもり)は、平清盛の弟である
平教盛(のりもり)の息子の事でございます。

小宰相(こざいしょう)は、紫式部の夫である藤原宣孝(のぶたか)を祖先に
持つ、いとこ同士の両親から生まれた女性で、後白河法皇の姉である上西門院
(じょうさいもんいん)に仕える女性、出会った頃は通盛25歳、小宰相16歳で
ございました。

上西門院が法勝寺(ほつしょうじ)へ参拝に出かけた時、上西門院に随行する
小宰相の姿を、通盛が見つけ、一目惚れしてしまうのです。

後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が源頼政(よりまさ)と挙兵し
関東では源頼朝が立とうと準備を進めておりました。
北陸では木曽義仲が立ち上がり、倒平家の気運が高まる中、通盛は、北陸への
遠征をするかたわら、小宰相への手紙を送り続けていました。

出会いの日から三年間経っても、返事はなく、通盛はこれが最後と、手紙を使者に
託します。使者は、手紙を届けに行きますが、いつもは御所の女房に渡す手紙を
直接、彼女の車の中に投げ入れます。

小宰相は、とりあえず手紙を袴に挟んでいたところ、御所の中で落としてしまい
上西門院に拾われて、中身を読まれてしまいます。

結果、上西門院が仲を取り持つ形で・・・

しかしその当時、通盛はいとこにあたる宗盛(むねもり)の娘を正室とする約束を
交わしておりましたが、その娘は当時12歳。
政略結婚の意図丸出しで、通盛と小宰相の間をとやかく言う者はいませんでした。

ちょっと中を飛ばして、
倶利伽羅(くりから)峠の合戦で大敗を喫した平家は、防戦一方の結果。都落ちを
せざるを得なくなります。
そして一の谷の合戦で、義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としにより大敗を期し
その時に通盛は戦死してしまいますが、小宰相はまだその事を知りません。

破れた平家一門は、軍を集結し立て直すべく、明石より屋島を目指します。
とはいいつつも、船団はバラバラ。小宰相の乗った一団は鳴門の土佐泊につきます。
(ここら、ちょっと疑問が。明石から屋島に向かう際に、鳴門海峡を突っ切って
鳴門の土佐泊に来るコースを取るか?ま、今回の本旨ではないのでここまで)

で、その船中で小宰相は、通盛戦死の報を受けます。そのとき小宰相は懐妊して
おりました。

では、ここを平家物語より

越前三位通盛卿の侍に、君太滝口時算といふ者あり。
北の方の御船に参り申しけるは、「君は湊川の下にて、敵七騎が中に取り籠められて、
つひに討たれさせ給ひ候ひぬ。その中にことに手をおろいて討ち参らせ候ひしは、
近江国の住人、佐佐木の木村三郎成綱、武蔵国の住人、玉井四郎助景とこそ名乗り
申し候ひつれ。
時算も一所でいかにもなり、最期の御伴つかまつるべう候ひつれども、かねてより
仰せ候ひしは、『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、
御行方をも尋ね参らせよ』と、仰せ候ひし間、かひなき命ばかり生きて、つれなうこそ
参りて候へ」と申しければ、北の方、とかうの返事にも及び給はず、ひきかづいてぞ
伏し給ふ。

あ〜。
『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、
御行方をも尋ね参らせよ』
なんて、万感胸に沁みますね。こんなのどうして高校古文の授業でやらないのかな。

ですが結局、通盛の遺言?にもかかわらず小宰相は身を海に投じてしまうのです。

北の方やはら船端へおき出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、
月の入るさの山の端を、そなたの空とや思はれけん、静かに念仏し給へば、沖の白洲に
鳴く千鳥、天の戸わたる楫の音、折からあはれやまさりけん、忍び声に念仏百遍ばかり
唱へ給ひて、「南無西方極楽世界、教主弥陀如来、本願あやまたず浄土へ導き給ひつつ、
あかで別れし妹背のなからひ、必ず一つ蓮に迎へさせ給へ」と、泣く泣く遥かにかき
くどき、南無と唱ふる声ともに、海にぞ沈み給ひける。

その、上の平家物語の中では北の方となっている「小宰相局の墓」がこれでございます。
場所はここ。

より大きな地図で 小宰相局の墓 を表示

鳴門市の案内ではこうなっております。
中に書いてあります衣懸の松はもうありません。
そして、このお話「謡曲」としても有名なようで
下の写真の立て札がありました。写真が見ずらくてすいません。
謡曲「通盛」より転記しておきます。

「さる程に平家の一門。馬上を更め。海士の小舟に乗り移り。月に棹さす時もあり」
「此處だにも都の遠き須魔の浦。思はぬ敵に落されて。げに名を惜しむ武士の。
磤馭盧島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり」「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は打たれぬ。
誰を頼みてながらふべき。
この海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舷に臨み」
「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ」 
沈むべき身の心にや涙のかねて浮かむらん。
西はと問へば月の入る。西はと問へば月の入る。其方も見えず大方の。
春の夜や霞むらん涙も共に曇るらん。乳母泣く泣く取りつきて。
この時の物思ひ君一人に限らず思し召し止まり給へと御衣の袖に取りつくを。
振り切り海に入ると見て老人も同じ満潮の。
底の水屑となりにけり底の水屑となりにけり。

この時、宮中で絶世の美女と謳われた小宰相局19歳。
そして平家は屋島へ向かい、滅亡の場所となる壇ノ浦に進んでいきます。

最後に近辺の写真を
ここが入口なんですが「絶対に車で進入しない事!!!」

えらい目に遭いますよ。遭った人間が言ってるんですから。
ちょっとだけ距離が離れてしまいますが、漁協の所にでも置かせてもらって
あとは徒歩がいいと思います。

で、こんな階段を登っていきます。
あとは、こんな感じで。
はい、急坂です。でも距離はごく短いですので。
で、この登った先にお墓があります。

そして、鳴門市の案内にありましたように、子授けに効験があるそうですので
よろしければどうぞ。
うちは、もういいですけどね。

あと、上の地図を見て「『新羅神社』って何?」とは聞かない事!
素戔嗚尊と、その子「五十猛命」をお祀りしてある事のみ記しておきます。
(気が向いたら書くかもしれませんけど)

2011年2月22日火曜日

北島町 水神社

板野郡北島町鯛の浜に鎮座しております「水神社」であります。
主祭神 水波能売命 大綿積命 素戔嗚命 稲荷大神 事代主神 菅原道真公
由緒  創立年代は不詳であるが、昔からの社であって、明治八年(1875)村社
に列せられる。今切川堤防に沿った馬場は、昔祭礼に行われた競馬神事の舞台で
あって大正末期まで行われていたものであった。相殿の神々は大正期に近在の
神社を合併して奉斎したものである。「阿波志」に「水神祠 鯛の浜村に在り」
と記す。          徳島県神社誌

とあります。
場所はここ。フジグラン北島のすぐ横です。

より大きな地図で 北島町 鯛の浜 水神社 を表示

で、いきなり扁額を拝ませていただきますれば
「河伯水神社」「善女龍王社」とあります。
「河伯(かはく)」って中国神話の黄河の神様のことなんです。
人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。
あるいは、白い竜の姿であるそうです。
一般的には男性の姿でありますが、なぜか「善女龍王社」となっております。
いわゆる道教が日本に渡ってきたとき、呪術と一緒に伝えられた神名と思われますが
と思ってたら
おお、「人形(ひとがた)」ではありませんか。いよいよ道教、陰陽の世界では
ありませんか。
でも、怪しげなものではございませんでした。
(陰陽が怪しい訳じゃないんですよ)
厄除、心願成就の「人形祓(ひとかたはらい)」だそうでございます。
なかなかにご利益がありそうですねぇ。
さて、改めましてお参りさせていただきますと。


ここは社叢が北島町の指定文化財となっておりますが、説明にもありますように
松食い虫の被害でちょっと淋しくなっております。
ワタクシの頭?まだ大丈夫のようです。
神社改築記念碑もこのように建てられておりました。
ちなみに大正元年末の「北島町神社調」によりますと
鯛浜
水神社(村社)祭神水波能売命 大海滝命にして鯛浜字西須に鎮座す。
本殿方一間、幣殿縦二間半横二間、拝殿縦二間半横二間、境内千三百七拾一
坪、旧記には社地東西拾八間南北一町拾間、面積千二百六拾坪出口鎮座氏子二
百八戸、例祭は以前は九月一日なりしが、明治四十年より十月七日となり
(手水鉢に享保癸卯の文字を刻す)

とあります。これは北島町史からの引用ですが板野郡史にも同様の記載がありました。
で、祭神の水波能売命については「古事記」では弥都波能売神(みづはのめのかみ)
「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と書かれる水の神様ですね。

おっ、まっさらの地神塔。
本殿も新しいです。
でも、この辺り、フジグラン北島ができた事もあり、市街地化が進み、古いものが
だんだん無くなってきている事は、淋しいですね。
北島町でも「神踊り」が行われていた事は記録に残っていますが、現在は行われてなく
(どこかでやってたら、ごめんなさい)
「神踊り」の歌本も中村・北村・太郎八須だけだそうです。
鯛浜でもあったようですが歌本も無くなり、板野郡史にわずかながら記録が残っている
のみです。
一つだけ踊歌を書いておきます。
初梅入羽
一、イヨ初梅の花盛りは面白や イヨ此花中へこそ花も花路まで ヒヨ花の踊りを踊ろよヒヨ
彼岸桜は面白や 此花ゆへこそ花も花し迄
一、イヨ三月のみ山桜は面白や イヨ此花故さよ花も花し迄
一、イヨ四月の深山つく〴面白 イヨ此花故さ花も花し迄
一、イヨ五月との五日卯の花面白や イヨ花故さ花も花し迄

今や、歌詞を知る人も踊った人も一人もいなくなった「神踊り」。
楽しげな歌詞を見てると涙がでそうです。
今なら音声でも映像でも残せるのにねぇ。

最後に、よく分らなかったのがこれ。
「春日鹿供養」とあり、親子?の鹿が刻まれています。
なんでしょね?

さ〜てと、後は光蓮寺の「夢かけ地蔵」さんを拝んでからDonDonさんのお好み焼き
食べにいこうかな。
豆天玉頼んだのがワタクシですよ〜。




2011年2月18日金曜日

大瀧山建治寺再び

「あればいい パワースポット 職場にも」
などと、今年のサラリーマン川柳も出揃ってるようです。
サラリーマンの端くれでございますわたくしめも(ホントに端くれなんですけどね)
「我が家でも 領土問題 「あなた邪魔」」
などと言われて肩身の狭い今日この頃でございます。

「ちょっと出かけてくる」などと言おうものなら
「今日はどこの神社?古墳?史跡?」などと言われ、実際反論のできない所が
ツライところなんですが。

神社ばっかりだと思われるのもシャクなので、お寺にでもいこうかな。
あ、「建治寺」がいいや。って前に行ったじゃな〜い。
大瀧山建治寺の記事も書いたじゃない。

そうなんですが、あの時は、ほんっっっっとに疲れてて、大分載せ忘れてた画像などが
ありましたので、そこらを出してお茶を濁そうなどという、不埒な考えであります。

とは言っても、実際すっごく怪しいのです、ここ。
まず、前回も本堂へ続く道のこの写真載せましたが

こうして本堂前に来てみると。(いつの写真だ?なんて詮索はしない事)
なんか変でしょ。
分ります?「狛犬」が据えられております。
そして、本堂奥には。
崖に沿って御幣を付けた縄。下に祠。
上を見上げて祠と役行者像。

祠の裏には奥に続く石段が。
ここは本堂の大分手前。
石組みがあって、中に小さな弘法大師像がありますが
どう見ても祠というか古代の祭祀跡にしか見えませんよね。
それでまた、こんなのも「玉姫大明神」はこっちって?
うっ。鳥居が。
稲荷社?なんで玉姫大明神?
単なる神仏習合とは違うと思うんだけどなあ。
って言うか、神社があった跡に建治寺を建てたのか、上にある「八大龍王社」の
一部であるのか、いずれにしてもここは元々は寺じゃない!
そうとしか思えないでしょ。

風水の一説に寄ると、「天石門別八倉比売龍脈」というのがあって、ここ建治寺は
その龍点に当たるそうです。

龍点
山のエネルギーの開始地点。地球の気の噴出地点で山頂に位置する。大変気持ちの良い
癒しの場所であるが、地球の気が外に出たばかりの 物なので敏感な人にはきつい
エネルギー質である。龍点の存在する山を主山、祖宗山という。現代社会人との相性は
悪い。この地点にある人工建造物、西域、山頂 をいう。


詳しい説明は省きますが

祖宗山 西龍王山
龍点 建治寺
白虎 東龍王山
青龍 神山
朱雀 常楽寺付近
龍穴 天石門別八倉比売神社
明堂 月の宮
龍口水 大日寺
吉都市 徳島
龍脈形態 本身龍虎

ということですので、風水に興味のある方は調べてみてください。
またまた、ちなみに風水で見ると気延山自体がもう一つ小さな、龍脈を形作っていまし
て、「龍穴」にあたる場所、つまりエネルギースポットをワタクシは知っておりますが
もちろん書きません。

ただ、ほとんど詰まってますので、もし行ったとしても、効果はあまり期待できませんよ。
ここらが、徳島県産業の停滞の原因なのかな?
(ホントにテキトーな事書いてるなあ)


と、いう訳で、建治寺はとってもステキな所ですという結論でございました(笑)

2011年2月13日日曜日

八万町 銅の鳥居から天一神社へ(4)END

前回までの記事をご覧になってない方は
八万町 銅の鳥居から天一神社へ(1)
八万町 銅の鳥居から天一神社へ(2)
八万町 銅の鳥居から天一神社へ(3)をご覧下さって下さいませませ。


で、どこまで書きましたかねぇ。ムバラク大統領国外逃亡まででしたか?
あ、違うって。運動不足のオヤジがへばったところ?あ、そうそう。
で、やっとこさ天一神社の鳥居まで到着したという訳です。

ちなみに銅の鳥居の中身はコンクリートだそうです。
そして
ひぃぃぃぃ。まだ階段があるぅ。
泣きながら到着いたしました。
立派な社殿でございます。

八万村史より由緒などを転記いたしますと

御祭神 天之御中主命
昔時南方(那賀郡坂野村)に祀られしが周囲に汚れ多
きを厭ひ元禄二年(紀元二三四九年)御幣の飛びて、
現在の馬塲、長谷の中間に聳ゆる馬塲山の頂上に留ま
られしにより其處に社を建てゝ奉祀したりと傅ふ。
以下略

これが、現在の由緒書きでは、こうなっております。
いつの間にか、国之常立神(くにのとこたちのかみ)大己貴神(おおなむちのかみ)
が増えております。
天之御中主命は古事記では、天地の初め高天原に最初に出現した神とされ、その後に
高御産巣日神、神産巣日神が現れました。
この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)といいます。
それでもって、銅の鳥居の所に「日本最古の神」などと書かれてるんですねぇ。

それで、那賀郡坂野村から遷座されたとありましたが、那賀郡坂野村は今の小松島市
坂野町です。なんでここから遷座されたのか、「周囲の汚れ」はなんだったのかが
さっぱり分りません。

元禄二年に何かあったのかな?と思って調べても
当時、農業と回船問屋を営んでいた金磯町の多田助右衛門が、南小松島駅から阿波赤石駅
の北方までの区間の西側一帯の干拓、開拓を開始した。
くらいしか出てきません。

天之御中主命については妙見信仰、つまりは北斗を祀るという説もあり、「天一」が
北斗信仰で言う所の「太一」と似てるんで関係あるかな?と思うんですが・・・
妙見山は鳴門だし、小松島から那賀町近辺で太一信仰も思い当たらないし。
天之御中主命を水天宮として祀る、もう一つの系統があるんですが、そうだとすれば
山の頂上に遷座する理由が分らないし、もう何がなんやら。
(「結局分らんのかい」といわれれば、「すんません」としか言えんのです)

でも、最後にこのルートの神社と御祭神をまとめてみると、
八幡神社(応神天皇)

日出神社(稚日女尊:天照大神の妹神)

農神社 (草野姫命:伊弉諾尊 ・伊弉冉尊 の間に生まれた)

天一神社(天之御中主命)

だんだん、時代を遡っていってますよね。やっぱり何かあるんでしょうね。

と、分ったような分らないような呟きで終わってしまうんです、が
それにしても、八万町は面白いんです。
ここ馬場山から、北東へ夷山(えびすやま)、黒岩神社のある福万山、「あの」恵解山、
そして勢見山と見所てんこもりです。
市内にこんな所があるなんて、ちょっと驚きです。
もうちょっと、この辺りを廻ってみるかもしれません。黒岩神社はサクラサクさんに
おまかせということで(笑)

2011年2月12日土曜日

八万町 銅の鳥居から天一神社へ(3)

前回までの記事をご覧になってない方は
八万町 銅の鳥居から天一神社へ(1)
八万町 銅の鳥居から天一神社へ(2)
をご覧下さいませませ。

前回の日出神社御祭神の稚日女尊のところで色々出てきたんですが、個人的には
丹生都比賣大神(にうつひめ)で、天照大神の妹神だと言うのが妥当な線じゃな
いかと思ったりもします。
でも、そうしたら天照大神は、スサノオに妹を殺された事になり、後の話が納得
できなくなるのも確かです。

では、先へ進みます。(稚日女尊の話はほったらかしかよ)
日出神社社殿の裏から、写真は無いけどアップダウンのきつい道を通ってさらに
進むと。
「農神社」です。ここもホントに小さな社殿でございます。
御祭神は草野姫(かやのひめ)命
日本書紀に現れる草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)のことで、古事記では
鹿屋野比売神であり、別名は野椎神(のづちのかみ)とされています。

Wikipediaを見ますと
伊弉諾尊 (いざなぎ)・伊弉冉尊 (いざなみ)の間に生まれた。 
『古事記』においては、山の神である大山祇神との間に、4対8柱の神を生んだ。
神名の「カヤ」は萱のことである。
萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く
草の霊として草の神の名前となった。
別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。

とされております。
この由緒書きはすっごく読みにくいんですが

農神社
御祭神 草野姫(鹿屋野比売神)
野原を司りすべての作物を
守護し給ふ私等の生活に
直結する神様であります
御鎮座年月日 由所不詳

であります。ここもなぜ草野姫命が祀られているのか、全く分りません。
社殿裏には小さな祠がありました。
で、ここから尾根道を通って375メートルほどで、天一神社に着くはずなんですが
「道が通れない」

山道でよくある事ですが、最短の尾根道は倒木があったり、雑木が茂っていて通行
不可能になってました。
100メートルくらいは頑張ったんですが、道自体が怪しくなってきたので、上の
農神社まで引き返しました。
そこで、尾根道から右下(北方向)を覗くと舗装路があるじゃないですか。
多分、天一神社に直接つながってる道だろうと判断して、その道まで降ります。
そして、天一神社方向へ歩き出したんですが、
ここで来ました。
「デッド・ポイント」じゃあ。
ジョギングなんかしてて一番苦しくなるところがありますよね。
心拍数の上昇に酸素供給がついて行けなくなるあたりでこうなります。
普通に平地でジョギングしてるのなら、辛抱して少しペースダウンするくらいで
走ってるとまた急に楽になりますよね。「セカンドウィンド」って言うそうですけど。
日頃体を動かしてない、おっさんは、この「デッド・ポイント」がとにかく長い!
それでまた、道は舗装してあるけど「激坂」。
油汗たらして、ぜーぜー、ひーひー言いながら、亀さんのペースで足を引きずって
登って行きます。知らない道に入ってるから、神社までの距離は分らないし、ホントに
道が合ってるかも不安だし・・・
最悪、迎えにきてもらうにも、道の説明ができないしねぇ。
道はこんな感じです。
写真に見えるよりは、相当急勾配です。
山側にはこんな石組みもあって、怪しさ抜群ですな。

で、目の前がかすんできた頃に、こんな鳥居が。
農神社から尾根道を進んでくれば、ここに出るはずだったんですね。
鳥居脇に灯籠と祠跡のようなのが、ここもすっごく怪しいでしょ。
本当なら、◯◯神社とつく社殿が祀られていたように思います。
一応ルートMapを書きました。


より大きな地図で 天一神社 を表示

南側の道が本来の尾根道ルート、上(北側)にもう一本引いてある線が今回歩いた
ルートです。
結果的に距離はあんまり変わらないように見えますが、舗装路は「激坂」です。
軽自動車で4人乗りなら登らないんじゃないかと思うほど。

で、天一神社まで、あとちょっとなんだけど、もう一回だけ「続く」にさせてね。
See you !

2011年2月11日金曜日

今朝の気延山

雪の朝です。
建国記念日でよかったんですが、出勤の方はご苦労様です。
ホントなら京都に日帰りで行こうと思ってたんですが、これでは中止せざるを得ません。
それはともかく、犬属性のわたくしめは、雪が降ると外へ出てしまうのです。
(ウソ、ホントはこたつネコ属性)

家から見える国分寺も白くなってます。
窓から見える気延山もかすんでます。
宮谷古墳も真っ白です。ん、誰かいるぞ。
元気ですねぇ、というか、お父さんご苦労様です。
宮谷古墳上から見た市内方面です。
ああ寒い寒い、さあコタツだ。






八万町 銅の鳥居から天一神社へ(2)

前回までをご覧になってない方は八万町 銅の鳥居から天一神社へ(1)をどうぞ。
別に見てなくてもなんてことはないですけどね(←ひねくれもの)
前回では八幡神社の本殿までたどり着きました。
さて、日出神社はと言いますと本殿からすぐ左の道へ入ると。
すぐ(20メートルくらい)こんな鳥居があります。
なーんでぇ、すぐじゃん。と思って進んでいくと
ん?また鳥居?
なんか、凄い所になってきたでしょ。
モノクロにしてみるとほとんど異世界。
社殿は無いのかな、と更に進むと。
え〜っ。ここ登るのぉ?
自慢じゃないけど、体力に自信はありません。どうだ、まいったか。
えっちら、おっちら登ってと。
ところで「えっちら、おっちら」って語源はなんなんだ。
え〜、いきなり扁額でゴメンね、ゴメンね〜(U字工事風)
社殿と崖の間、ホントに無いのよ。
でも、この日出神社、徳島県神社誌には「載ってる」のよ。
主祭神 稚日女(わかひめ)尊
由緒  寛政以前の奉祀と伝う。流行病に霊験あらたか。
    八幡神社裏山山頂に鎮座する。
と、あります。

稚日女(わかひめ)尊は『日本書紀』神代記上七段の第一の一書(あるふみ)にでてきます。
古事記には出てきません。
高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、スサノオが天斑駒(あまのふちこま)を生剥にして投げ入れました。生剥(いきはぎ)の天津罪(あまつつみ)ですね。
稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)を突き刺して亡くなります。

神戸市、生田神社の御祭神でもあります。生田神社では天照大神の幼名であるとされて
いますが、幼名を祀るなんて、変ですよね。
和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比賣神社では、丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名
が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしているそうです。
また、様々な説があるようです。
(ホツマツタエにも瀬織津姫(斎名:ホノコ)の妹、稚姫(斎名:ハナコ)って
 あるそうですがねぇ)
要は分らないってことですし、なんで、ここに祀られているかも、分りません。
なんで流行病に霊験あらたかなのかも分りません。(でた!いいかげん)

で、本殿前から振り返ると
ううっ。高所恐怖症なのよ(いいとこなしやねぇ)。
と、いう訳でまたもや「続く」となってしまうのです。
そうなんです、眠いんです。

「パトラッシュ、なんだかとっても眠いんだ」などと、呟いております。

ゴメンね、ゴメンね〜(再びU字工事風)
I shall return.