2017年11月18日土曜日

麻植の系譜:願勝寺編(8)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)
麻植の系譜:願勝寺編(7)

 さて「願勝寺家系譜」に戻りますが、史料としては超一級でありますが、中途、皆様方の興味を引くような記載ではありません。
(手を叩いて喜ぶ人もいますけど(笑))
 で、説明なしで申し訳ないですけど二十代まですっとばします。

十三代忍海上人


了海上人上足の弟子なり俗姓は讃州香川郡笠居の人也

父真鍋又四郎祐宗下云平家一門下共に摂州一の谷合戦に一族真鍋五郎と同時討死し其妻源家の聞を恐れて阿波に来り一子宗千代了海上人に託し其身尼となり共行方も知れされは了海比孤を養育せしめ出家を逐させけるに適知識の大徳となり忍海上人の名四方に知らる年五十三にして生母に巡り遭ひ連帰り孝養を尽し天年を終へしむ国人皆其孝を称す

承久乱の頃麻植氏の一族阿波太郎入道淨心阿波三位信成鄉に同意し上方出勢して越後國願文山に塞を構へ閔東勢に打勝と雖東海東山両道の軍破れ将卒散々となるによつて三位殿伴類八千人を引て阿波國に婦り板東に大城を構へ四国勢を催す処北条左近将監四国へ渡り板東城を取囲む

依之一端防戰に及ふと雖終不叶千騎力原にて件類悉打死し信成郷も御腹召され阿川八郎佐々木中務等各落城して残らす

或は討たれ又戦場を遁れ身を隠せしものも皆尋出され夫々断罪行はるれ共願勝寺も落人を匿ひたりとて軍兵多く入来り寺中の僧俗を厳しく捕禁しむるの処

何者の所為にや本堂より火起り時に魔風吹て庫裏方丈護摩堂観音堂土蔵納屋物置の類残り少なく一日一夜三燒亡ふ衾也ける次第也

此時忍海上人は堂中にて水印を結ひたる故にや火に焼なから五体少しの捐ひもなく黒仏の如くなつて在りしを助け出し介抱を加へけれは終本快して後三年の寿を保ち貞応二年(1223)十月八日入寂す



十四代行智上人

俗性は麻植正径の次男也
幼年より忍海上人の弟子となり徳行世に知られたる智識なれは衆諸戮力して北条家に嘆訴し漸冤罪を解いて助成銀を請受諸方に勧化し僅十年の内に堂塔伽藍故の如く成就する事を得たり
且国守小笠原長房の祈願師となつて田畠千町の寄附に預り寺門の繁栄は反つて先代に超遇す京都より定肇力作の阿弥陀仏三尊の内の一軀を買得して帰て本尊とす
故に人猶其功を賞す


十五代行念上人

京師の人なり阿波へ来つて先住の譲りを受弘安四年(1281)蒙古襲來の時は勅命を奉て夷狄退治の祈祷をなす老京師に醍醐寺に偶居し終業を遂玉ふとなり

阿波国忌部郷木綿麻山山本にて読る歌は後世歌集に残り有けるを後人立石にほり付麻植の浜村にあり其歌に云
木綿麻山岩本菅の根によりて長き夜あかす浜千鳥哉



十六代行真上人


忌部大祭主麻殖親光の内室の弟にして北条遠江守在時の末子なり
鎌倉にて始禅宗なれ共後は真言門に入りて英知の聞へあるによつて親光求めて連帰り行念上人の跡を続かしめ当院の住職と定老年にしてご醍醐天皇の勅を奉し出家なからも四国中を巡回して大名小名多く南朝の味方たらしむ
貞和の比細川阿波守和氏か為に暗殺せらる



十七代浄真上人

俗姓は小笠原にして其長安と共に世に落魄して有けるか遂に出家となり行真師弟子となり在けるか
行真横死の後は当院の住職となる細川賴春公忌部十八坊にて長時の護摩をたかしめ大般若法華等購読仰付らるゝの時浄真上人も同しく武運長久の祈祷ら命せられ
是より阿波屋形細川公の祈祷寺となる


十八代真了上人


俗姓予州阿野家の人なり阿波へ来りて浄真師の弟子となり当院に住職す


十九代俊賀上人

始め讃州善通寺の弟子なりしか所縁を以て当院の弟子成遂に当寺の院主となる
俗姓は弘法大師の同姓佐伯助通の遠孫にして其国元山の住士佐伯弥六右衛門尉吉近の二子也と



二十代觉念上人

京師人也俗姓は平氏なりと雖二条家の猶子となりて仁和寺にて剃髪し東寺の灌頂院にて灌頂し且つ蘇悉地の法を受真言宗破戒無漸の僧を取正さんと四国に渡り先阿波国願勝寺を始として其他同宗の寺を仁和寺の末寺とし宗風を正しくするの処俊賀上人の依託によつ
て当院の住職となる
于時応永二十九年(1422)の春也阿波郡山の上の城跡に前城主大野氏の菩提の為大野寺を建立して大野平次信吉を始先代の先霊ら慰む
此時此地大野平次の霊魂人民を脳すによつて新在家なる西の岡にて平次信吉の墓を神に祝ひ平治権現と号し大野寺を別当と定む
其祭り怠りなきの故か平治信吉の霊反つて其地の守りとなれは郷民共に悦にて此神を崇信す、大野平次信吉と云は此郷の旧領主也しが割彊の論より事起り隣郷の城主伊沢氏の為に殺害せられ其地を失ひたる故に其怨念の残れども左も有へし後年其討たれたる処を平治村と云其谷川筋皆平治川原と号するも此権現の霊徳を恐れて也と云伝ふ


願勝寺歴代住職墓碑

そして、願勝寺歴代住職墓碑は、当然願勝寺にありますが、歴代本家(?)麻植氏はどこに祀られているかといえば。
麻植氏系図によりますと。


定光
麻殖太郎大夫
伊豫國岩屋ニ凶賊有唐戸丸ト云フ國民擾乱ス
久米山忌部氏族久米義基此賊ノ為ニ討タル定光憤リテ壱族共ニ此賊ヲ亡シ其首ヲ得ルト雖モ賊矢ノ為ニ疵ヲ受ケ久米山ニテ死ス
父荒人悲嘆ニ堪ス発心入道シテ名清高(たこ)ト云亡子定光ノ菩提ヲ弔ハント一寺ヲ建立シテ印部山定光寺菩提院卜号
是ヨリ此寺ヲ以テ麻殖氏歴世菩提所トシ墳墓地ト定

この「印部山 定光寺 菩提院」現在の一宇に現存しております。
 看板には「高天原係一族」と記載されております。
 麻植定光の名を以って「定光寺」。
印部山定光寺菩提院」と云うことは、ここも「忌部山」なのです。
 麻植定光以降の歴代忌部神社大宮司が祀られているのです。


うーん、猫の写真が尽きてきた

続く(けど次回が最後)

2017年11月12日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(7)

建礼門院(けんれいもんいん)

長らくお待たせいたしました。(待ってないって言われたらそれまでなんですけど😓)
死んでたんじゃないかと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、いつものやつですのでご了承くださいませ。

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
麻植の系譜:願勝寺編(6)

の続きとなりますが、今回は本題を外れて、前回書いた「安徳天皇生存説」ついて、ちょっとお遊びで書いてみました。
あくまで「願勝寺文書」「麻植氏系譜」などからの推測ですので、秋の夜長のお供として、鼻で笑って読んでみてくださいませませ。

さて、十二代了海上人の段において

帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前ノ国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ

と記載がありました。
では九州に安徳天皇伝説が残されているのかと調べれば

豊前国(ぶぜんのくに)
領域は福岡県東部に属す北九州市の東側(小倉北区・小倉南区・門司区)、筑豊地方の東側(田川市・田川郡)、京築地方の全域を中心に、大分県北部(中津市・宇佐市)にまで跨っていた。

この豊前国の安徳天皇伝承は「福岡県 隠蓑(かくれみの)」にあり

寿永四年(1185)に壇ノ浦で入水したと伝えられる安徳天皇は、平氏の公卿方に伴われて門司の田ノ浦に上陸、松ヶ江を越え長野城主を頼り、二、三ヶ月隠れておられたが、城主が亡くなったので、英彦山に向かって城を出られたという。横代を通り隠蓑(当時は城野村)まで来た時、村は名も無き庵寺の屋根葺替えの最中であった。源氏の追手が追って来るのを知った村人は同情申し上げ、有り合わせの茅や藁などの蓑を持って天皇を御隠し申し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにし、それにより天皇御一行は逃れることができたといわれている。
祭行事ではその年の年少者を安徳天皇に見立てて、藁しびをかぶせて子供の災難を除き無事成長を祈る。その際、にぎりこぶし大の安徳天皇のお姿や御靴型を収めた藁すぼを御供えし、祭りが終わると氏子たちがそれぞれに持ち帰る。
春には先帝祭と呼ばれるおこもりも行なわれている。
                                北九州市

「安徳天皇御陵・隠蓑」

肥後国(ひごのくに)領域は熊本県の伝承地は「熊本県上益城郡」

壇ノ浦より生きてこの地に逃げてこられ、十七歳で崩御されこの地に埋葬さたそうです。その後 源氏から隠す為 宇土の花園の晩免古墳に移されたそうです。

伝安徳天皇御陵 (熊本県上益城郡山都町緑川)

安徳天皇陵(晩免古墳・花園陵墓参考地)

と、以上のように願勝寺文書にある九州、福岡・熊本にも安徳天皇伝説が残されております。
「隠蓑」の伝承などは、天皇一行はこの地よりさらに逃れたとあるにもかかわらず、「安徳天皇御陵・隠蓑」と記載されている不可解さ。

前回書きました、
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地だけでも以下の五箇所。
鳥取県鳥取市国府町岡益    安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉    安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山      安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎  安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免    安徳天皇陵(花園陵墓参考地)

これだけあるということは、ふつ〜に考えれば「安徳天皇生きてるよな〜」って感じですよね。
まともに平家の再興を企ててるなら、安徳天皇逝去は伏せ、生存ならば「死んだ」って情報を流しますよね〜。
特に複数の陵墓は、源氏の捜索を分散し、再興の時間を稼ぐ意味があると思います。


帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ



あくまで「願勝寺文書」と「麻植氏系図」から安徳天皇生存説を考えた場合、安徳天皇は治承2年11月12日(1178年12月22日)の生まれ。
廿一歳の年は数えで計算すれば1198年、これは土御門天皇即位の年でありますので、一つの推測ですが、後鳥羽天皇即位(寿永2年8月20日 1183年9月8日)は神器無き新帝践祚であるため、安徳天皇が神器を持って都に変えることができたならば、天皇位はまだ奪い返せると考えていたのではないでしょうか。
なにしろ

皇子御剣ヲ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納石立神後御劔ノ宮ト称ス奉祭式朝廷ノ古式ヲ用ユ
(麻植氏系譜より)

ですのでね。
あ、ご存知とは思いますが「石立山」というのは「剣山」のことですので、念のため。

それが土御門天皇即位となれば、もうひっくり返すことは不可能。
それがため、源氏の手の届かない(と考えた)九州へ赴いたとは考えられないでしょうか。

後鳥羽天皇

土御門天皇


もう一つ、安徳天皇生存説の傍証となるのが、三野町太刀野に残される「建礼門院五輪塔」であります。



伝承「建礼門院五輪塔」の由緒
 建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。徳子は、承安二年(1172年)高倉天皇の中宮になり、治承二年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永二年(1183年)七月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦二年(1185年)三月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院(左京区大原早生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、十二月十三日、享年六十歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。
 しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇は屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教盛)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を東に向かい三野町と琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。
 建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。
 平国盛(教盛)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御泰安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの八○○余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。
 平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉るの次第である。
                            平成十五年(2003)錦秋 三野町・三野町教育委員会

ま、ゆっくりしてくれたまえ

それと、何よりも確信に結びつくのが「建礼門院」に最後まで仕えていたとされる「阿波内侍」の存在です。

洛北大原 寂光院 建礼門院御自作阿波内侍張子の像
(戦前の絵葉書)

これまでも何度か書いてきたように、「阿波内侍」の母「紀伊局」こと藤原朝子は阿波忌部大祭主麻植正光の娘なのです。

もし、「建礼門院」が三野町太刀野まで来たとすれば、手引きをしたのは、当然「阿波内侍」の命を受けた阿波忌部一党。
ちょっと理由は書けませんが、個人的には「建礼門院」と「安徳天皇」は再会していたような気がするのです。
いや、そうだったらいいんですがねぇ。

とまあ、今回はちょっとお遊びで書いてみましたがいかがでしょうか。
次回から「願勝寺家系譜」に戻ります。