まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)
まとめ:大宜都比売命の裔(8)
おっと、リンク貼るだけで疲れてしまいます(笑)
まとめ:大宜都比売命の裔(9)において粟飯原家は自らの出自を露わにし、改姓を願い出たのですが、願いは聞き入れられることもなかったのですが、その文書を以って、今我々はその系統の一端をこのようにして目の当たりにできるのです。
が、見直してみれば、この「粟凡直」の一族、間違った名で記載しれることについては年季が入っておりまして(笑)
『続日本記』神護景雲元年3月(767)の条に、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められている記載が見られたりします。
乙丑。阿波国板野・名方・阿波等三郡百姓言曰。己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。自此之後。評督凡直麻呂等披陳朝庭。改為粟凡直姓。已畢。天平宝字二年編籍之日。追注凡費。情所不安。於是、改為粟凡直。
阿波国の板野・名方・阿波三郡の住民は「我らの姓は、庚午年籍ですべて直となったはずだが、戸籍にはまだすべて費の字が書かれている。」と申し出た。
また余談になりますが、『三代実録』の貞観4年9月の条には「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」とあることから、この吉野川北岸地域に相当数の粟凡直に連なる一党が存在していたことが推定されます。
このことは、「田上郷戸籍断簡」に、粟氏、凡直氏,粟凡直氏が圧倒的多数を占めていることからも実証されますが、それと同時に、この戸籍残簡には、忌部・物部の古代有名氏族とともに服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されておりますが、粟凡直氏を秦氏の一族とするべくの記載はなく、相当複雑な人口構成であったことは想像に難くありません。
「阿波国従五位下行明法博士粟凡直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」
また「千波足尼」が「千葉氏」と混同されたとの記載は前に書かせていただいた通りです。
いずれにしても、神護景雲元年3月(767)に「粟凡直」を名乗るべく願いを出し、およそ1100年余後の明治11年に「粟凡直」であるべく願いを提出していることは、偶然にしては出来過ぎだとの感を得てしまいます。
さて、この大宜都比売命の裔を名乗る一族は、一族であることを守るために多大な犠牲を払ってきたことも事実です。
今回は、本当は語ってはいけない話なのです。
末裔が存在する限り、部外者が書いてなならないのです。
粟飯原家住宅に伺った時、聞いた話によれば、「本家はもうない」。
とのことでした。
その時は、詳しく聞く余裕もありませんでしたが、考えてみれば本家というのは「三日月家」のことなのでしょうか?
で、あるならば、遅かったのです、多分。
粟國國造家の本家は滅びてしまったのでしょうか?
実際のところ確認は取れていません、今後調べなくてはならないでしょう。
粟飯原家文書では「國造本館」はおよそ300年前に消失してしまい、建物の灰のみが残されていたとのことです。
該当する文書の作成時期を考慮すれば、長宗我部の阿波侵攻時期に重なるやもしれませんが、それが原因であるかは不明です。
追記するならば、長宗我部氏は隣の木屋平には侵攻しておりません。
ただし、分家である山西家は厳然と残っています。
これも出すべきか散々迷って、修正の上掲示するという、なんとも中途半端なことをいたします。
現在の粟飯原家ご当主の方です。
誤解を恐れずに言えば、粟凡直の末裔であり、「千波足尼(ちはのすくね)」の末裔であり、あるいは大宜都比売命の末裔であるやもしれぬ、粟飯原家ご当主であります。
粟飯原家文書には幾つかの伝承を見ることができます。
曰く
家主ト為ルベキモノニハ必ズ身体ニ三日月形ノ痕跡アリト謂フ
曰く
子守ヲ雇シ時誤テ児ヲ跨ギタルニ忽チ體スクミ動クニナラス
曰く
宅地ノ裏ニ庵室アリ御庵(ごあん)ト称ス
「御庵」とは一般的には尼さんの庵(いおり)のことであるのですが
続く(と思う)
が、見直してみれば、この「粟凡直」の一族、間違った名で記載しれることについては年季が入っておりまして(笑)
『続日本記』神護景雲元年3月(767)の条に、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められている記載が見られたりします。
乙丑。阿波国板野・名方・阿波等三郡百姓言曰。己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。自此之後。評督凡直麻呂等披陳朝庭。改為粟凡直姓。已畢。天平宝字二年編籍之日。追注凡費。情所不安。於是、改為粟凡直。
阿波国の板野・名方・阿波三郡の住民は「我らの姓は、庚午年籍ですべて直となったはずだが、戸籍にはまだすべて費の字が書かれている。」と申し出た。
画像は「国史体系」より
また余談になりますが、『三代実録』の貞観4年9月の条には「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」とあることから、この吉野川北岸地域に相当数の粟凡直に連なる一党が存在していたことが推定されます。
このことは、「田上郷戸籍断簡」に、粟氏、凡直氏,粟凡直氏が圧倒的多数を占めていることからも実証されますが、それと同時に、この戸籍残簡には、忌部・物部の古代有名氏族とともに服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されておりますが、粟凡直氏を秦氏の一族とするべくの記載はなく、相当複雑な人口構成であったことは想像に難くありません。
「阿波国従五位下行明法博士粟凡直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」
また「千波足尼」が「千葉氏」と混同されたとの記載は前に書かせていただいた通りです。
いずれにしても、神護景雲元年3月(767)に「粟凡直」を名乗るべく願いを出し、およそ1100年余後の明治11年に「粟凡直」であるべく願いを提出していることは、偶然にしては出来過ぎだとの感を得てしまいます。
さて、この大宜都比売命の裔を名乗る一族は、一族であることを守るために多大な犠牲を払ってきたことも事実です。
今回は、本当は語ってはいけない話なのです。
末裔が存在する限り、部外者が書いてなならないのです。
粟飯原家住宅に伺った時、聞いた話によれば、「本家はもうない」。
とのことでした。
その時は、詳しく聞く余裕もありませんでしたが、考えてみれば本家というのは「三日月家」のことなのでしょうか?
で、あるならば、遅かったのです、多分。
粟國國造家の本家は滅びてしまったのでしょうか?
実際のところ確認は取れていません、今後調べなくてはならないでしょう。
粟飯原家文書では「國造本館」はおよそ300年前に消失してしまい、建物の灰のみが残されていたとのことです。
該当する文書の作成時期を考慮すれば、長宗我部の阿波侵攻時期に重なるやもしれませんが、それが原因であるかは不明です。
追記するならば、長宗我部氏は隣の木屋平には侵攻しておりません。
ただし、分家である山西家は厳然と残っています。
これも出すべきか散々迷って、修正の上掲示するという、なんとも中途半端なことをいたします。
現在の粟飯原家ご当主の方です。
誤解を恐れずに言えば、粟凡直の末裔であり、「千波足尼(ちはのすくね)」の末裔であり、あるいは大宜都比売命の末裔であるやもしれぬ、粟飯原家ご当主であります。
粟飯原家文書には幾つかの伝承を見ることができます。
曰く
家主ト為ルベキモノニハ必ズ身体ニ三日月形ノ痕跡アリト謂フ
曰く
子守ヲ雇シ時誤テ児ヲ跨ギタルニ忽チ體スクミ動クニナラス
曰く
宅地ノ裏ニ庵室アリ御庵(ごあん)ト称ス
「御庵」とは一般的には尼さんの庵(いおり)のことであるのですが
宅地ノ裏ニ庵室アリ御庵(ごあん)ト称ス 三日月家は昔女子アリシ時ハ同族中又ハ由緒アル家ノ外縁組ヲナサス猥(みだり?)ニ 他家ニ嫁スル時ハ夫ノ方位負シテ不幸アリト云 女子ニシテ縁組スヘキ家ナキ時ハ尼トナシ終身庵室ニ居ルトスルヲ家法トス
「終身庵室ニ居ルトスル」
ここまでして、一族の血筋を守ろうとしてきたのです。
ちなみに、無礼を承知でご当主に聞くところによれば、やはり女系を(これまでは)守ってきたとのことでした。
書こうか書くまいか逡巡してたんですが、村史の付録に記載があったので、まあ古記録の一部ということで転記ご容赦願いたいのですが、たかだか百数十年前の出来事、差し障りのある場合もございます。
この辺りも個人的に差し障りがあるようならば修正・削除等、如何様にもいたしますのでご連絡願います。
ちょっと短めではありますが、いつもなら5月くらいにいらっしゃる「ウツ」くんが、季節外れの7月にやってきましたのでここいらで一旦切ってしまいます。
いろんな、コメントとかお返事類、返せていない方がいれば、ごめんなさい。
しばらくお待ちください。
一応予定としては(12)くらいですが、時期はわかりません。
続く(と思う)