前回の記事から2ヶ月近くほったらかしで、もう更新は無いものと諦めてる方が多いと思いますが、何事も無かった如く、あるいは白々しく書いてまいります(笑)
忌部神社遷座考(1)
忌部神社遷座考(2)
忌部神社遷座考(3)
忌部神社遷座考(4)
忌部神社遷座考(5)
忌部神社遷座考(6)
忌部神社遷座考(おまけ)
に関する追記です。
上のリンクについては読んでいただかなくても構いませんが、読まないと今回の記事は「なんじゃこれ?」となってしまうと思いますのでご注意を。
(なんの注意にもなってない(笑))
ただ、「忌部神社遷座考(1)」を書いたのが、2010/9/17と、4年近く経っていて、思わず笑ってしまいます。
さて、「
忌部神社遷座考(6)」において忌部神社正蹟争いに終止符が打たれます。
こうして、繰り返される上申争いに政府もやっとその気になったのか、忌部神社の
正蹟争いを避けるため、明治十八年(1885)十一月二十五日太政大臣三条実美名で
徳島市富田浦(現、徳島市二軒屋町二丁目)に社地を選定し、明治二十五年(1892)
遷座鎮祭し、社地論争に終止符を打ちました。
下記が太政官布告の内容です。
太甲第一六九号
忌部神社
今般別紙ノ通リ御達ニ相成候条此段相達候事
明治十八年十一月廿六日
内務卿伯爵 山形有朋
国幣中社忌部神社社地之儀明治十四年一月七日相達置候処更ニ阿波国名東郡富田浦町ヲ以テ社地ト被定候条此段相達候事
但旧跡所在五所神社は社殿修造其儘保存スベシ
明治十八年十一月廿一日
太政大臣 三条実美
中略
ともあれ、徳島市二軒屋町に決まったのですが、「なぜ」なんでしょうか?
国幣中社は県庁所在地に集めて管理しやすくすると言う意図はあったでしょうが。
実は、はっきりとは判りませんでした。
などと書かせていただきました。
で、この度一応の結論が出ましたので追記として書かせていただきます。
簡潔に書けばやはり場所で「御座船入江川」が近いからという理由です。
御座船入江川(ござぶねいりえがわ)は、徳島県徳島市を流れる吉野川水系の河川である。御座船川や明神川の別名を持つ。wikipedia
との記載にもあるように徳島市の中心を流れる(ホントはあんまり流れていない)川で徳島藩時代は、蜂須賀家が参勤交代に使う「御座船」が出入りしていた川です。
御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。 西洋でいう遊行用のヨットに相当する性格の船である。 河川用のものは川御座船、海用のものは海御座船とも呼ぶ。wikipedia
とあり、ちなみに徳島藩の御座船としては
徳島藩御召鯨船「千山丸」
蜂須賀家が、安政4年(1857)に建造、全長約10m。藩主が御座船に乗り移る時に用いた船。
徳島城博物館蔵。全国で唯一現存の和船である。平成8年6月27日国指定重要文化財指定。
が残されております。
ここまで書けば分っていただけると思います。
御座船を使って上陸するとき、最も近い場所が、「現 忌部神社」が鎮座する「勢見山」なのです。
地図を御覧下さい。
より大きな地図で 忌部神社 を表示
更に言えば「現 忌部神社」横の「金刀比羅神社」の前まで海岸線が来ていたのです。
金刀比羅神社前の大灯籠に「牡蛎」の殻がこびり付いているのは有名な話です。
マップにも御座船入江川が途切れた辺りからも、細い川が未だに残っているのを見ていただけると思います。
これならば御座船から降りてほんの少しで「忌部神社」に到着いたします。
では、誰が「御座船」で忌部神社に御参拝するのでしょうか?
藩主のはずはありません。
徳島城から参拝するのにわざわざ徳島城から現新町川を通って御座船入江川に入り、上陸する理由は無いでしょう。
御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。
ですよね。
蜂須賀公が乗って忌部神社に参拝したのでないのなら、それ以上の方がお使いになるはずですよね。
忌部神社が遷座された頃、当然将軍はいません。ならば、あとは「明治天皇」しか考えられないのではないでしょうか?
そうです。
忌部神社に明治天皇をお迎えする用意があったのでしょう。
勢見山のすぐ隣、大滝山に明治天皇像、神武天皇像があるのも偶然ではないのです。
(今回の内容についてご教示いただいたO宮司様に感謝)