2012年7月30日月曜日

困った時のお狸様

諸般の事情で更新が長らく開いてしまいました。
夏バテとか夏バテとか夏バテとかですね。
そして困った事に、何か書こうかなと思っても書く事がないじゃないですか。
頭が茹だってますのでねぇ。
なら書かなくてもいいのかな、といいながら書いてしまうのが業ですねぇ。
「郷」じゃないよ。(じゃぱ〜んとか叫んでもオヤジしか分ってくれない)
で、そんなとき助けてくれるのが「お狸様」。
津田八幡神社境内に鎮座まします。
場所はここ。
いわゆる「津田の鼻」を曲がってすぐの信号を山の方へ。

より大きな地図で 津田八幡神社 を表示

で、ここで衝撃の事実が判明。
津田八幡神社の写真が無い!
うわぁぁぁ、久々にバチ当たりモンになってしまったよぉぉ。
ま、それはいつもの事なんでおいといて。
「楠木大明神」を祀る「楠木神社」です、はい。
すっげえ立派なお社。お狸様のお社ですぞ。

 別名「お六さん」と呼ばれております。
 こんな由緒がございます。
当然、家内円満を祈るワタクシでございました。
(今日は家でいじめられなければいいな)
この楠木大明神、面白い事にといいますか、奇妙な事がございます。
下の写真がお供え物なんですが。
このように山盛りの「いなりずし」。
写ってるのは半分くらい量です。
とにかく大量の「いなりずし」。
なんで?「お狸様」に?
だれか津田近辺の方、ご存じないですか?
というわけで、謎が謎を呼んで(そんな大層なもんかい)
狐につままれたようでございます。
おあとがよろしいようで。(よろしくない?)

では、おまけに四国の昔話より(笑)

四国に狐がいなくなったわけ


むかーし、伊予道後の湯築城主「河野通直」が四国から狐を追い出したそうな。
あるとき通直の奥方が二人になったというそうな。
こりゃ、一方は化け物に違いないちゅうことで、思案の末、二人を並べて食事を
摂らせることとしたそうな。
すると一人の方は口に食べ物を入れる度に耳を動かすので、これが狐の化け物じゃと
ばれてしもうた。
そこで、城中の二本杉に縛り付けておくと狐の仲間がやって来て助けて下さいという。
通直が「四国から出て行くのならば許してやろう」というと、出て行くちゅうんで
それならばと許してやったそうな。
それ以来、四国に狐はいなくなったそうじゃ。

あらあら、最近だったのね(笑笑笑)
通直さん、やってくれるわね、四国中の狐を追い出すとは(笑)


ホントはもうちょっと違った事書こうと思ってたんだけど
今日はこの程度にしといてね。
ちょっと8月中頃までにやっとかなきゃいけない事もあるんで(笑)

2012年7月19日木曜日

狐の帰る國(追記)

すいません。
記事じゃなくて、お詫びなんですが、「狐の帰る國」のコメント欄で例の子守唄の
ページをスキャンしてpicasaにアップしたと書きましたら、picasaへのアクセスが
ちょっとえらい事になっておりまして、一応、著作権等も気になりますので
大事にならないうちに画像の公開を中止します。
すいません。
どうしてもと言う方がいらっしゃれば、個人的に画像は送らせてもらいますが
それも、私的利用の範疇でと言うお願いの上で。

で、これだけでは申し訳ないので、もうちょっとだけご紹介を。
ボクのブログでも前にちょっとだけ書きましたが

上板町の大山寺(たいさんじ)
には国指定の重要文化財である経筒があり、この経筒には次の文句が刻まれている。


大治元年才次丙午十月十二日甲辰日閻浮提日本国阿州於大山寺如法経書写供養畢願頌
僧西範為結縁法界六道三有受苦者也


以上の文面からすると、ただ供養を行ったとのみで、何の事でもないのであるが
山頂部にある奥院・黒岩権現参道入口に在った石碑に刻まれていた文を併せると
、明確にその年代が解かれるのである。


西範僧都六百年忌追福也
大治元年才次丙午十月十二日




大山寺には大治元年(1126)と彫銘された経筒が保管されている。

写真と右の文はは上板町HPからのパクリ

大治元年は1126年。
そのとき西範僧都六百年忌が行なわれていたということで、西範僧都が亡くなられたのが
526年
仏教伝来はそれ以前って事になりますよね。
まあ、年代はともかくとして(いいんかい!)「それ」が阿波の地だったことが
どういうことなのか、考えていただきたいと思っちゃいます。


2012年7月16日月曜日

狐の帰る國(補足)

前回の「狐の帰る國」についてですが、あまりにも舌足らずでしたので
少々補足しておきます。



著者の坂東一男氏は大正十二年徳島市八多町生まれ
昭和30年 徳島県議会議員
昭和42年 民社党徳島県連会長
との略歴がありました。
岩利大閑氏の2歳年上であるそうです。

前書きから抜粋いたします。

又、私の大叔父がかつて同じ長国であった佐那河内村の宝蔵寺の住職であった関係で、二歳から六歳まで此の住職や先の老僧から村々の事を教わり、家に帰ってからは祖母の手枕で昔話や昔の歌、近所の事や村々の事、各地の寺や神社のこと等ずいぶん色んな話を聞かされた。
そうして最後には、「大昔の事はこの辺の事でよ、都はここから行ったんでよ、ほんでもな、こんなことよそで言うたら、くくられるきに、言うたらあかんのでよ」と言いつつ涙ぐむのが常でした。


中略


私は元来聞き上手の話下手で、文章を書く事は本当に不得手であったから、彼・岩利大閑に私の知っている事のすべてを話し、彼の参考にしてもらって来た。


と、書かれております。
そうして完成させたのが此の地図。
クリックで拡大します。
見て唸って下さい。ワタクシは初見、唸り続けてしまいました。

2012年7月15日日曜日

狐の帰る國

この本は、紹介していいのかどうか分りません。
ただfacebookの「阿波古代史(基礎編)と日本のルーツ研究会」でも話題になって
おりましたし、最近、神山の上一宮大粟神社と大宜都比売神が何かと話題になる事が
多いように思われます。
出せと言う事かもしれません。
著作権とかその他の問題で都合が悪いようならば即座に削除いたします。
ご了承ください。


本書の大部分を占める万葉歌の解釈については、今回は言及いたしません。
大労作であることは、当然なのですが今回紹介したいのは、著者の家の
子守唄として代々語り継がれて来たという歌です。
当家以外では歌わないようにと躾けられていたとも書かれております。
「狐と狸」について歌われた子守唄だそうです。
少々の解説もありますが、掲載いたしません。
内容を見て解釈願いたいと思います。
個人的には、ある意味で背筋が寒くなりました。
ご覧下さい。

オオゲツネタト イイタヨリヨコセ
タタケヨリワケ エエヒメダケバ
ヤガテヤヤコモ デキルダロ

モシコヤヤコガ ヒメゴナラ
オンバヒガサデ ニギタエキセテ
テナデアシナデ カワイガリ
ヤガテ十五ニ ナッタナラ
十二ヒトエニ ヒノハカマ
タンスナガモチ ナラベタテ
セマノトノゴニ ソワセヨウ

デキタヤヤコガ ヒコナレバ
ウミノムコウノ オオキナシマノ
トヨトアキツル カラクニワケテ
オノコ五ヒャクニ メコゴヒャク
フトイハシラニ ヒハデフイタ
オオキナゴテンデ ネカセヨウ
サスリヤオオゲツ メヲサマス
ホラスンダ コレホンマ


解説は掲載しませんと書きましたが、一箇だけ書きましょう。
最初の行の「オオゲツネタト イイタヨリヨコセ」
「大宜都寝たと 良い頼りよこせ」
と読めますが、もう一つの意味は「オオゲツネ」より「オオギツネ(大狐)」
の転であるそうです。そして「イイタヨリ」は「イタヨリ」転じ「飯依」。

これ以上は書きません。
大倭豊秋津島はすべて空の国であるのです。
本土は大宜都の根別の国であり、大狐別の国であるため全てが空っぽ
「天御虚空豊秋津根別」であるのです。

2012年7月13日金曜日

降魔山 密厳寺

うわあ、間が結構開いてしまいました。
だって書く事無いんだもん。
で、脈絡も無く徳島県徳島市不動本町の「降魔山 密厳寺(みつごんじ)」。
お寺には失礼なんですが、ふつ〜のお寺です。


四国三十六不動尊霊場十三番札所。別名は不動院。
大宝年間に行基が不動の尊像を刻んでこの地に安置した。その後、長宗我部元親の兵火に罹ったが、蜂須賀至鎮の加護を受け毎年正月28日、7月28日、両縁日には諸災消除万民豊楽の記念日となった。
とあります。
不動名は新居不動と申し、三十六不動の内、伊醯羅童子(いけいらどうじ)を祀ります。

大宝年間に行基が不動の尊像を刻んでこの地に安置した。


とあり、文武天皇の御宇、701年〜704年の間、なかなかに由緒あるお寺です。
場所はここ

より大きな地図で 密厳寺 を表示
春は桜がきれいな所です。


車不動尊も祀られてますが、いつの間にか交通事故防止の不動尊になっちゃってます。
ところで。
ここには、こんなのがあるんです。
「天保飢饉供養常夜燈」
ご覧のように天保の飢饉で144人が亡くなったとあります。
飢饉なので餓死ですね。
天保八年は1837年、いわゆる天保の大飢饉の末期です。
優恤(ゆうじゅつ)を蒙るもの幾千人不幸にして死者144人とあります。
(優恤(ゆうじゅつ)は哀れんで悲しむ事の意味ね)
多分村内の人口が数千人だったのでしょう、その中で144人が餓死。
全国的な飢饉で大阪では毎日約150〜200人を超える餓死者を出していたと
いいますから、それに比べれば被害は少なかったのかもしれませんが・・・


今の時代では餓死なんて普通じゃ考えられません。
いわゆる飽食の時代です。
テレビを見ても、この前なんか一食8千円のランチなんて放送してるんですぜ。
自分もえらそうな事は言えないけど、食べ物を粗末にする事は決して無いつもりです。
(だから体重が減らないんだなぁ)
でもそんな事言ってもダメなんでしょうね。
100円出せばハンバーガーが買える昨今、食べ物を残すなって言っても、欲しくない
ものを無理矢理食べさせるのは正しくないなんて言われるんですぜ。
情けないったらありゃしない。
ちょっとは、こう言う事もあったんだって思いを馳せてもらいたい、古くさいオヤジでした。

2012年7月2日月曜日

国府町 井上八幡宮

最近、小ネタばっかりなんだよなぁ。大ネタやりたいけどパワーが無いんだよなぁ。
月曜日から無茶苦茶仕事が遅くまであって、腹立ちまぎれに書いちゃおかな
って言うのが小ネタ(笑)。
ちゃっちゃと書いて寝よう寝よう。
国府町井戸、井戸寺のすぐ東側に鎮座ましましております「八幡神社」。
上にな〜んにも付かない「八幡神社」
場所はここ。

より大きな地図で 国府町井戸 八幡神社 を表示
まあ「井上八幡宮」とも言ってたようです。


もう眠たいんで、さくさく書いていきますぜ。

是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年
宇佐八幡宮ヨリ御分遷誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至
迄幾度改修....
以下略

御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)

まあ、なんちゅう事の無い御由緒でありますが。
白鳳二年は一般的には674年ですね。井戸寺(妙照寺)開基と同時です。
寛保改神社帳にも「別当同村妙照寺」とありますので間違いないでしょう。
さて勧請した宇佐八幡宮(宇佐神宮)の開基は725年

ん?

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮
より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。また社伝等に
よれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立
ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂
(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、
宮寺禄事抄)とある。 wikipedia


のでホントは571年が正しいの?
でも宇佐神宮のHPには


御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、聖武天皇の勅願により現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創立です。


ってあるのよ。
やっぱ725年の創立じゃないの?
なおかつ
宇佐神宮にある由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」には筑前国穂波郡の大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であると明記されている。


で、「大分八幡宮」については
奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。
あ〜、訳分んない。
どっちにしても、725年か726年より前じゃないってことでしょ。
じゃあ井上八幡宮はどこの宇佐八幡宮を勧請して来たのでしょうか。

徳島県神社誌に、ここ井上八幡宮は「古くは宇佐八幡宮とも称した」との記載もあります。
もっと意味不明ですね(笑)







ß




あ、寝てた(笑)
と言う訳で
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ」
いや、意味深ですな。
おやすみな・さ・・

2012年7月1日日曜日

八倉比売神社「輪ぬけ神事」

今6月30日、23時40分会社から帰って来て座った所です。
何してたかって、会社の電気工事の立ち会いですがな。
なんでかって?「け・い・か・く・て・い・で・ん」の対応ですがな。
詳しくは言いませんが「何かおかしくな〜い?」。
大規模量販店は節電だけで停電対象にはなってない、阿波踊り期間は
対象外、いや、おかしいっしょ。

そ・れ・は・さ・て・お・き。
本日は八倉比売神社の「輪抜け神事」でございました。
一般的には「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」って言う方が多いんでしょうかね。

茅の輪(茅草(かやくさ)で作られた大きな輪)は、正月から六月までの半年間の罪穢(つみけがれ)を祓う夏越しの大祓(おおはらえ)に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるといわれています。 くぐり方は「水無月(みなつき)の夏越しの祓する人はちとせの命のぶというなり」という古歌を唱えつつ、左まわり・右まわり・左まわりと、八の字を書くように三度くぐり抜けます。 こうして、心身ともに清らかになって、あとの半年間を新たな気持ちで迎えるのです。 茅の輪の起源については、善行をした蘇民将来(そみんしょうらい)が武塔神(むとうのかみ)(素盞鳴尊すさのおのみこと)から「もしも疫病が流行したら、茅の輪を腰につけると免れる」といわれ、そのとおりにしたところ、疫病から免れることができたという故事に基づきます。「神社と神道」より


で、神社に行ってみれば、すでにこのような「茅の輪」が据えられておりました。
といっても昼の2時頃にいったんですけどね。
雨のせいもあったでしょうが、悲しいかな誰一人居りません。
じゃあ、潜り放題じゃないっすか、百回くらい潜ろうかな。
って、そんなおバカじゃございません。
ちゃんと、このような手作り感満載の「輪抜け神事次第」を読んでからですよ。
でも三度潜るとは書いてないなあ。12回ぐらい潜ろうかな(いやいや)。
え?そのくらい潜らないと半年の穢れがはらえないだろって?
仰るとおりです(涙)
そして、後は10月秋の大祭に向けて突き進むのです(何が、誰が)。
去年の写真ですし、ちょっと分りにくいんですが「神撰田」にこのようなお札が
立てられます。写真のお札は雨の後でこんなになってますが。
また、「虫除けのお札!!!」も配られたりしてます。
まさか笑ったりする人はいませんよね。
というわけで(ど〜ゆ〜?)もう7月なんだなぁ。
今年は剣山の神輿渡御行けるかなぁ。