見に行ってきました。
徳島中央公園といえば当然、徳島城博物館より前に行かなければならない
ところがある訳でして。
武道館跡の駐車場に車を置いて公園に入り
「とこどっこい坂」と書かれた所から城山を登っていきます。
正面から登っていくより坂が緩やかなのと、木陰が多いんですね。
なんせ、この猛暑ですから。
計算外なのが蚊の多さでしたが。
で、ここへ上がってきますと
見ての通り「護国神社」は跡形もありません。
平成15年に雑賀町に移転してます。その是非はここで書くことじゃないんで
置いておきますが。
そして、振り返りますと
「かの」「清玄坊」を祀った「清玄坊神社」であります。
阿波藩史上有数のミステリーなのでご存知の方も多いと思いますが。
清玄坊の由来について
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下に
あたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後
に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城
山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全
寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑とし
てこれに応じない為、公は一計を編み換地を
与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通
行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公
は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、
此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の
菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたか
で、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波
郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業を
しながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の
創始者であり初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を
得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。
由来書には以上のように書かれてます。
また、6月16日には徳島市一番町で「清玄坊祭り」が行われるそうです。
他のブログからの転載ですが
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『諸国風俗問状答 市中歳節記』(文化年間)には、江戸時代の清玄坊祭りの様子が詳しく紹介されています。
政元、頭は坊主、首元より蛇体にて、両手つき申候。(中略)
胴は厚紙にて仕立、長さ八間、尾先にて六尺の剣付、首元にて廻り一丈二尺也。胴は上下とも竹の輪にて仕舞申也。
背は鱗を彩色、蛇腹赤にて候。(中略)
右胴へ首をさし入、輪を結びつけ、両腕付き申候。此やうにして天窓に鉄の環をうち、是に綱を付、柱の上なる千力形の車に通して引上る也。斯すれば首元の輪より風を吹入れ、尾先まで横に吹上げうちなびき、両手へも風の籠れば、手をはり手を叩くやうになり申あり様、物凄く見慣れぬ子どもなどは大いに怖申事に候。
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「頭は坊主、首元より蛇体」って人間扱いされてませんね。
「物凄く見慣れぬ子どもなどは大いに怖申事に候」とまで。
さて、ここで考えるのは「なぜ清玄坊は神社移転を断ったのか?」ですね。
そして、元々「清玄坊が守っていた神社には誰が祀られていたのか?」
「道は阿波より始まる」を見るまでもなく、祀られていたのは「豊玉姫」でしょう。
徳島中央公園へ行ってきました
でも書きましたが、もう一度「阿波国式社略考」より『引用しておきます。
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天石門別豊玉比売神社
徳島城内ニ龍王宮ト云アリ、是也ト赤堀氏云ヘリ。
今城郭築キ玉ハサル巳前ヨリ在シ祠ナラバ、必此處ナリ。
恐ラクハ國初ノトキ勧請セサセ玉ヒシニハ有ス歟。
尚、尋正スベシ。
今按、備後國安那郡天石門別豊玉姫神社ト云ハ、此社ト
同神ト聞エタリ。(人へんに者の字)此社ニ天石門別テフ
語アル事ハ、土佐國吾川郡天石門別安國玉主天ノ神ノ
社ハ此社ノ御父神豊玉彦命ニシテ、彦火ゝ出見尊兄火酢
芹命ノ為ニ海宮ニ吟(さまよ)ヒ玉ヒシヲ其豊玉彦ノ
赤キ直キ清キ深キ智(サトリ)以テ、遂ニ皇統ヲ本ノ
ゴトシロシメシ玉ヒシハ言幕(いわまく)モ尊キヤ
天照大御神ノ無状(アジキナキ)ヲ榲(へんがりっしんべん)
リマシ、天岩戸ニ隠リ坐シゝニ八意思兼命遠キ思ヒ計ニテ
再ビ日神天石屋戸ヲ開キ出サセ玉ヒテ長ク目出度大御代ト
成シニ同ジケレバ、天石門別安國ト云御名ハ負玉ヒシナリ。
玉主トハ、干満ノ両珠ヲ傳ヘ持玉ヒシ故ナリ。
天ノ神トハ伊弉諾ノ尊ノ御子ナレハ也。
例セバ高皇産霊尊ノ御兒少彦名ニ命ヲ山城ニテハ五條ノ天神
出雲ニテハ手間ノ天神ト云カ如シ。
サル功勲高キ豊玉彦ノ御女メナレハ此冠辞アル事ト知ラレタリ。
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「清玄坊」については由緒書きを信じれば「清和天皇」の末裔。
そして、修験者、山伏でありますよね。
ぽっと出の蜂須賀家なんて歯牙にもかけないのは、あったり前でしょう。
豊臣家を裏切って徳川家に加担し阿波25万石をもらった蜂須賀家が、城を造るから
どけといわれて承服するわけがない。
で、謀殺されるんですね。
これで、「國初ノトキ勧請セサセ玉ヒシニハ有ス歟」が生きてくるんです。
「清玄坊」を謀殺した祟りを鎮めるには「清玄坊」を祀るだけでなく
「清玄坊」が守っていた「豊玉比売」をもう一度勧請する必要があったのですね。
「國初ノトキ」とは蜂須賀家入国の時だったのでしょう。
でも、もう一つ疑問が残ります。
なぜここに「豊玉比売」を祀っていたか。
不動町の「雨降神社」は分ります。なぜ城山か?
個人的に考えられるのは、ここ城山は縄文期には海岸だったですよね
海人族であった「豊玉比売」の権威がここまで及んでいた?
ここ城山から不動、石井の旧海岸線沿いが海人族の領地であった。
そんなことを考えながら蜂須賀家水軍の絵図なんかを見てると
もっと色々考えちゃって収拾着かなくなるので、今日はこのへんで。