2010年8月29日日曜日

徳島市 清玄坊神社

徳島城博物館で開催してます「徳島藩主蜂須賀家 歴代肖像画の世界」展を
見に行ってきました。
徳島中央公園といえば当然、徳島城博物館より前に行かなければならない
ところがある訳でして。
武道館跡の駐車場に車を置いて公園に入り

「とこどっこい坂」と書かれた所から城山を登っていきます。
正面から登っていくより坂が緩やかなのと、木陰が多いんですね。
なんせ、この猛暑ですから。
計算外なのが蚊の多さでしたが。
で、ここへ上がってきますと

見ての通り「護国神社」は跡形もありません。
平成15年に雑賀町に移転してます。その是非はここで書くことじゃないんで
置いておきますが。

そして、振り返りますと


「かの」「清玄坊」を祀った「清玄坊神社」であります。
阿波藩史上有数のミステリーなのでご存知の方も多いと思いますが。


清玄坊の由来について
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下に
あたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後
に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城
山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全
寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑とし
てこれに応じない為、公は一計を編み換地を
与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通
行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公
は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、
此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の
菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたか
で、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波
郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業を
しながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の
創始者であり初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を
得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。


由来書には以上のように書かれてます。
また、6月16日には徳島市一番町で「清玄坊祭り」が行われるそうです。
他のブログからの転載ですが
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『諸国風俗問状答 市中歳節記』(文化年間)には、江戸時代の清玄坊祭りの様子が詳しく紹介されています。

政元、頭は坊主、首元より蛇体にて、両手つき申候。(中略)
胴は厚紙にて仕立、長さ八間、尾先にて六尺の剣付、首元にて廻り一丈二尺也。胴は上下とも竹の輪にて仕舞申也。
背は鱗を彩色、蛇腹赤にて候。(中略)
右胴へ首をさし入、輪を結びつけ、両腕付き申候。此やうにして天窓に鉄の環をうち、是に綱を付、柱の上なる千力形の車に通して引上る也。斯すれば首元の輪より風を吹入れ、尾先まで横に吹上げうちなびき、両手へも風の籠れば、手をはり手を叩くやうになり申あり様、物凄く見慣れぬ子どもなどは大いに怖申事に候。
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「頭は坊主、首元より蛇体」って人間扱いされてませんね。
「物凄く見慣れぬ子どもなどは大いに怖申事に候」とまで。



さて、ここで考えるのは「なぜ清玄坊は神社移転を断ったのか?」ですね。
そして、元々「清玄坊が守っていた神社には誰が祀られていたのか?」
「道は阿波より始まる」を見るまでもなく、祀られていたのは「豊玉姫」でしょう。

徳島中央公園へ行ってきました

でも書きましたが、もう一度「阿波国式社略考」より『引用しておきます。

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天石門別豊玉比売神社

徳島城内ニ龍王宮ト云アリ、是也ト赤堀氏云ヘリ。
今城郭築キ玉ハサル巳前ヨリ在シ祠ナラバ、必此處ナリ。
恐ラクハ國初ノトキ勧請セサセ玉ヒシニハ有ス歟。
尚、尋正スベシ。
今按、備後國安那郡天石門別豊玉姫神社ト云ハ、此社ト
同神ト聞エタリ。(人へんに者の字)此社ニ天石門別テフ
語アル事ハ、土佐國吾川郡天石門別安國玉主天ノ神ノ
社ハ此社ノ御父神豊玉彦命ニシテ、彦火ゝ出見尊兄火酢
芹命ノ為ニ海宮ニ吟(さまよ)ヒ玉ヒシヲ其豊玉彦ノ
赤キ直キ清キ深キ智(サトリ)以テ、遂ニ皇統ヲ本ノ
ゴトシロシメシ玉ヒシハ言幕(いわまく)モ尊キヤ
天照大御神ノ無状(アジキナキ)ヲ榲(へんがりっしんべん)
リマシ、天岩戸ニ隠リ坐シゝニ八意思兼命遠キ思ヒ計ニテ
再ビ日神天石屋戸ヲ開キ出サセ玉ヒテ長ク目出度大御代ト
成シニ同ジケレバ、天石門別安國ト云御名ハ負玉ヒシナリ。
玉主トハ、干満ノ両珠ヲ傳ヘ持玉ヒシ故ナリ。
天ノ神トハ伊弉諾ノ尊ノ御子ナレハ也。
例セバ高皇産霊尊ノ御兒少彦名ニ命ヲ山城ニテハ五條ノ天神
出雲ニテハ手間ノ天神ト云カ如シ。
サル功勲高キ豊玉彦ノ御女メナレハ此冠辞アル事ト知ラレタリ。
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「清玄坊」については由緒書きを信じれば「清和天皇」の末裔。
そして、修験者、山伏でありますよね。
ぽっと出の蜂須賀家なんて歯牙にもかけないのは、あったり前でしょう。
豊臣家を裏切って徳川家に加担し阿波25万石をもらった蜂須賀家が、城を造るから
どけといわれて承服するわけがない。
で、謀殺されるんですね。
これで、「國初ノトキ勧請セサセ玉ヒシニハ有ス歟」が生きてくるんです。
「清玄坊」を謀殺した祟りを鎮めるには「清玄坊」を祀るだけでなく
「清玄坊」が守っていた「豊玉比売」をもう一度勧請する必要があったのですね。
「國初ノトキ」とは蜂須賀家入国の時だったのでしょう。
でも、もう一つ疑問が残ります。
なぜここに「豊玉比売」を祀っていたか。
不動町の「雨降神社」は分ります。なぜ城山か?
個人的に考えられるのは、ここ城山は縄文期には海岸だったですよね
海人族であった「豊玉比売」の権威がここまで及んでいた?
ここ城山から不動、石井の旧海岸線沿いが海人族の領地であった。

そんなことを考えながら蜂須賀家水軍の絵図なんかを見てると
もっと色々考えちゃって収拾着かなくなるので、今日はこのへんで。

2010年8月27日金曜日

国府町 西宮神社

どうも、記事を長らく書いてないと忘れ去られてしまいそうで
え?お前は誰だ?
あああ、とうとう見捨てられてしまう時が.......

などとバカなことを書いてないで、とはいいつつ、これもみんなが忘れているであろう
「さびしい神社シリーズ」第三弾
国府町の西宮神社です。
何がさびしいのか?
まずはGoogleEarthの画像を見てください。
あの「王子和多津美神社」からほんの200mくらいしか離れていない所にあるんです。
ちなみに「王子和多津美神社」はこんな感じです。
どっかのブログにもオアシスみたいだなんて書かれてました。
御祭神 豊玉媛命
式内社の和多津美豊玉比売神社(わたつみとよたまひめじんじゃ)に比定される
古社でございます。
有名なので、皆さんご存知だとは思います。

が、
こちらの西宮神社。はっきり言って忘れ去られております。
まるで3週間ほど記事を書かなかった時の「ぐーたら」のようです。
実際、2、3回お詣りはしてるんですが人を見かけたことはありません。
結構、町中なんですけど。

主祭神は事代主命となっておりますが、由緒は全く不明です。
国府町史関係を繰ってみても全く名前が上がってきません。


ご近所の王子和多津美神社の飛地境内社でもないようですし
ただ王子和多津美神社があるのは「国府町和田宮の元」
西宮神社があるのが「国府町和田宮ノ西」
摂社かな?と思ったりもしたけど
豊玉媛命と事代主命???
どうも疑問ばっかり残ってしまいました。


でも掃除は行き届いてるし、いい雰囲気なんですけど。
線路脇じゃなければね。
と、いうわけで、由緒を忘れ去られた、ちょっとさびしい神社でございました。

2010年8月20日金曜日

神の道 鉄の道

まとめて書く時間が、ほんっとに取れなくて間が空いてしまってすいません。
ぐーたらしてる訳です。いや違ったぐーたらしてる訳じゃありません。(かな?)

阿波には、昭和の初めの頃まで製鉄のため、多くの「踏鞴(たたら)」があり
それぞれに、たたらの組があったそうです。その数、数百組と言われています。

国府近辺では、
西矢野奥谷  日からす組
宮谷     都(みやこ)組
東矢野    東(あずま)組
延命     寿組
入田     滝天狗組
石井     日づる組
谷又     松葉組
一の宮    はしご組
内の御田   桜命組
和田     恵比寿組
花園     泥恵比寿組

等などです。

「たたら」の図面です。まんま「もののけ姫」に出てくるような造りになってます。
いくつか、「たたら音頭」も記録として残ってます。
たたら組の中でも有名だったのが西矢野奥谷の日からす組で「大のぼり」の話が伝わっています。面白いのでちょっと紹介を。
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明治40年に日からす組が徳島市新町を庭踏みして廻った時に、氏神県社八倉比売神社
(式内社)の大のぼりを借りて持っていった。
ところが新町の呉服屋の主人が飛び出して来て大のぼりを見るなり、こののぼりを
くれたら私の家の上等の反物を20反でも30反でもあげるから替えてくれとのことだった
が氏神さんの借りものなので替えることはできないと断った。

中略

この大のぼりは阿波藩主が参勤交代の時に使用したもので木地は当時のヒジタで当時は
ヒジタ、ゴフロク、ビロードが高級品で、ましてこの大のぼりは25万石の権威をもって
作ったものでヒジタを少女の血で染めぬいていた。
今でも氏神さんにあると思う。

後略

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西矢野のたたら組が藩主ののぼりを借り受けられるほどに権威があったことを示す
話でしょう。また、八倉比売神社への崇拝をもよく示しています。

なんでこんな記事から書き始めたかと言いますと、阿波にはあちこちにたたらの歴史
つまりは鉄を鍛えて来た歴史があったと言うことが言いたかったのです。
もっと時代を遡れば、入田町 天神社 でも書きましたが、天目一箇(あめのまひとつ)神
の祀られている神社、もしくはその近辺には鉄を作って来た跡があるはずなのです。
上で書きました。入田には滝天狗組というたたら組がありました。
これは天目一箇神が劔を鍛えて来たことの継承でしょうか。

さて、天目一箇神といえば本家本元「天目一神社」を外すことはできませんよね。

天目一(あめのひとつ)神社」です。場所はここ。






ちょうど、昭和の御造営時の資料がありましたので、書いてみます。

御祭神
祖神 天目一箇命(あめのひとつのみこと)
天麻宇羅命(あまつまうらのみこと)とも天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)
ともまた天久斯麻比都命(あめのくしまひとのみこと)とも申されて天津彦根命(あまつひこねのみこと)
の御子神に在して天照皇大神が天岩戸に御隠れ遊ばされた時に刀斧その他の刄物や鐵しゃく
などを御作り遊ばされた由、天孫が大物主神を奉祀なされた時にも種々の金物をお造り遊ばさ
れたのは、天目一箇命の御神裔であったと伝えられている。
斯うした由縁から古来鋳工鍛工等フイゴを使用する総ての業を営む人たちから御祖神として
仰ぎ祀られ崇敬され来った神様である。後世、筑紫忌部、伊勢忌部など云う氏人は、皆その
末裔である。

とあります。筑紫忌部、伊勢忌部など云う氏人は、皆その末裔である」なのです。

御神紋は鎚のようです。

裏手にはこんな碑が。


「炉」を祀ってあるようです。
たたら組から遡って天目一箇命に至れば、忌部にたどり着き、ならば神武天皇東征時に
鋳造、鍛造の技を持って軍に貢献した、というより必要不可欠の存在だったはずです。
この天目一箇命とたたら場の跡を追えば、神武天皇東征の実際の跡が出てくるのではない
でしょうか。
勝手に自慢すれば粟や麻、養蚕をもって忌部の跡を追う研究者はいても鉄と「たたら」と
神々の系譜を関連づけてた研究者は県内ではまだいないはずです。(いたらごめんなさい)

さてさて、長々と書いてきましたが、もう少しだけ時代を遡ります。
古墳時代、そうです「矢野古墳」です。


上が発掘のグリッド図です。家のすっごく近くですぅ。
で、南環状線工事をするのに「これだけ」しか発掘調査しないんですぜ。
どう思います?


鉄器が出土しています。上の写真は鉄の鏃(やじり)です。
弥生時代の古墳と言うことですが、弥生時代って長いですよね。




これも凄い「朱」付着土器




出土品に関する解説資料も開示されています。

さらに驚くべき出土品は、



「砂鉄」の入った壷です。さらに近辺では銅鐸も出土し、青銅器から鉄器への
工作技術の遷移期を伺える貴重な資料だと思います。

ただ、矢野古墳では原始的な炉しか発掘されてなく、勾玉等の研磨に使ったとの
推測や、高温精製技術がなかったとの見方もありますが、鋳造でなく鍛造ならば
日本刀の制作法でご存知の通り、備長炭程度の比較的低い温度で鉄器の作成が充分
可能なのです。

つまり神武東征は忌部の作成した鉄剣、鉄刀など圧倒的な軍事力を持って初めて
可能だったということが考えられるでしょう。

学生時代、「金属技術の歴史講座」の課題で、京都の寺院の梵鐘の鋳造技術を調べて
廻った者としては、この辺りに着目する方がいないのがひじょーに歯がゆい所です。

で、この矢野古墳の「砂鉄が入った壷」の出土跡、どうなっているでしょうか。



こうなっております(涙)。南環状線予定地です(涙、涙)
少し黒っぽくなっている辺りがそうです。(涙、涙、涙)
そして、こうなってなお再調査するそうです。


こんなのが立ってますけど、いまさら何をするんでしょうね。

矢野古墳出土品等については
を参考にさせていただきましたが、写真、図面等については独自に撮影、入手したものです。


もうちょっと、いろいろ書こうと思ってたんですが、なかなかまとまらないもんです。
で、キレイに終わればいいんだけど、そう行かないのが阿波の神様の深い所で、
じゃあ天目一神社」から分祀した八万町の「天一神社」はと調べると御祭神はなぜか
天之御中主であられられますし、入田や近辺の天神社を調べても「天目一箇命」
に関係してるような気配もなし、じゃあ「嵯峨天一神社」はとか調べてると全く収拾が
着きません。

うーん、「頭がはちはち」する。

2010年8月15日日曜日

宅宮神社 神踊り

今日8月15日は「宅宮(えのみや)神社」の神踊りの神事が行われる日です。
ここも以前にすえドンさんがブログに書かれてましたが。
とにかく、凄い神社です。
場所はここ。


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簡単に由緒を記しますと。
延喜式内社。
創祀年代不詳ではありますが、貞観十六年(874年)従五位下に叙せられております。
もと「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」と奉称。
御祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)、大年(おおとし)大神、稚武彦(わかたけひこ)命
式内社では「全国で」唯一、大苫邊尊を祀る神社です。
伊邪那岐命、伊邪那美命よりもまだ古い、神世七代の神です。
大年大神については素戔男尊と神大市比売の間に生まれた神とされています。
稚武彦命は孝霊天皇の皇子です。孝霊天皇は欠史八代といわれる実在しない天皇と言われて
ますが、なぜか皇子の稚武彦命が祀られてます。なぜかな、なぜかな。
ほんとにとんでもない神社ですね。

宅宮神社の神踊りは平安朝の末頃から始められたと伝えられ五穀豊穣、悪病退散を祈願して
毎年旧暦7月16日に氏子13馬組によって古式豊かに奉納されて来た。
昭和24年からは8月16日に改められ、昭和38年に徳島市の重要文化財習俗技芸に指定
されている。
と、いう事でございます。

ここらの写真は以前のものです。今日なんか撮れないの判ってますから。
行ってみると、すでに神籬(ひもろぎ)が用意されておりました。
写真では判りにくいですが宝珠の飾り付けがしてあります。
神籬(ひもろぎ)もしくは桜花八方乱を立てるそうです。
この「桜花八方乱」と言うのは境内資料館に神主河野家のおばあちゃんが
和紙でジオラマを作って再現してありました。


写りが悪くてすいません。80歳を過ぎて腰が大分お悪いようですが
今日もおいでておりました。
少しだけお話を聞く事ができましたが、このジオラマの和紙が色あせて来たので
作り直すそうです。すっごい意欲です。感服いたしました。
ちなみに「神踊り」はこんな字を書きます。


神主さんの祝詞から始まります。

神籬(ひもろぎ)を囲んで、4人の子供が向かい合って太鼓を打ち、踊り子はその周囲を
囲んで円陣を作って踊ります。
ちなみに太鼓を打つ子供は長男に限られているそうです。
(最近じゃ、多分怪しいぞ)
そして、踊りはその場からほとんど動きません。
扇を持って神籬をあおぐような動きを繰り返します。

歌の歌詞は十二種あり、歌によって動作は替わり、休憩を挟みながら2時間ほどかけて
踊り終えます。



で、とにかく暑くて暑くて。
踊ってる人の事を思えばそんな事言えませんが、でも暑かったよおぉぉぉ。

と、言う訳で一通り見て来たんですが、この宅宮神社、もう一つ凄いのが


この神社略記の右下に書いてある所。拡大しますと、
この神社なんと神代文字の版木が残されているんですね。
(これも、すえドンさん書いてました)
徳島県内では有名な話です。
で、神代文字とか阿波文字と言われてるのが、
これです。阿比留文字にちょっと似てますね。
で、県内には神代文字がわりと残ってるみたいで、この前の徳島新聞にも


神代文字で書かれた「鯰の歌碑」が記事になってました。
すごいでしょ。徳島県では神代文字が新聞に載るんですよ。

後半の神代文字については蛇足でしたが。「神踊り」なかなか興味深い神事でありました。

2010年8月13日金曜日

今日、思った事

先に書いときます。今日の記事はつまんないですよ。

基本的には、神社や古墳、史跡などについて自分が言った所、調べた事
などを書くだけにする方針でやってるんですが、今日だけはちょっと
違った事を書きます。

8月15日は終戦記念日です。日本においては、日本政府がポツダム宣言
受諾文書に調印し、無条件降伏を認めたいわゆる第二次世界大戦が終わった
日となってます。

もちろん私自身は第二次世界大戦を経験したわけじゃありません。
間接的にも、戦争によって不利益を被った自覚は全くありません。
ただ、父方、母方両祖父とも大戦によって亡くなっています。
終戦後たくさんの子供をかかえて筆舌に尽くしがたい苦労をしたのは
ある程度想像できますが両祖母ともその話を全くしませんでしたし
祖父がどこで戦死したかすら聞いた事がありませんでした。

父方の祖父については後年遺族手当の手続きをするうちに、「海南島
で重砲の直撃を受け死亡」と書かれた書類を見つけて、ああこれかと
解ったほどです。
また、法事などで昔話を聞くうちに、徳島の空襲の時には佐古に住んで
いて、山に逃げた者は助かり、川に逃げた者は死んだなどの話を断片的に
聞く程度でした。

そう言う事などで戦争に対する実感はありませんが、戦争の悲惨さ、残さ
れた者の苦しさなどについては、充分理解しているつもりです。
もちろん、実際に従軍した方が「そんなもんじゃない」とおっしゃるなら
「無理解でした、ごめんなさい」と言うしかありませんし、家族がもっと
苦労したとおっしゃる方がいても、あやまるしかありませんが。

それでも、最近のゲームやコミック等に見られる描写は、目に余るものが
ありますし、さらに悪いのは「無知、無関心、無理解」でしょう。
ろくなケンカもした事が無い者が言うのも、口はばったいんですが。
今日もNHKで特集をやってましたが、子供はつまらないの一言で終わりです。
安っぽい小説や、ブログなどにも、訳の分からない技や呪文で、訳の分からない
敵を倒して終わり、なんて話がよく書かれてますが、これも憤懣やるかたない
です。
第二次世界大戦で逝ってしまった人々は、敵味方云々でなく、善悪をも超えた
ところで戦い、死んでいったのですから。

だからどうしたとは言いません。読んだ人にどうしろとも言いません。
信仰も宗教も関係ありません。
私が、8月15日には、ただ畏敬と感謝の念を込めて手を合わすでしょう
と言いたいだけなのです。

ひねくれものなんで、8月15日のちょっと前にこんな文章を書いてみました。
ね、つまんなかったでしょ。
次回からは、ふつーのブログに戻ります。

2010年8月11日水曜日

「阿波国続風土記」第五巻 と阿波弁クイズ

えー、わたくしめもお盆休みなどございません。
交代で休む場合もありますが、お盆だからと言う訳ではありません。

なんの関係もない話から入りましたが、
「阿波國続風土記」第五巻リリースします。

http://sites.google.com/site/awakokufudoki/home

お待たせいたしました(まってた?)。
やっと全部載せました。でも内容の解読はこれからなんですけどね。(ふう)

1ページ目に美しく「阿波國風土記」のタイトルが。
2ページ目から川田村拝村神社について
63ページ以降は怒濤の記載。見せ消ち, 胡粉, 紙片の貼付による修正がてんこもり。
ちなみに「見せ消ち」とは線を引いて修正するが、下の文字は見えるままで置いて
おく修正方法のこと。何をどう修正したかが分る。
同じページが続いてる場所が数カ所ありますが、紙片を貼ったままと、はがした後です。
涙ぐましい修正後が見られます。
113ページからが驚天動地の「麻植郡麻植塚村旧跡伝」
天日鷲命の御陵は麻植塚にあった?
で書きました文書です。


さて、お盆ですので(意味なし)、皆様方のお暇つぶしに、唐突に
「超レア阿波弁クイズ」でもやってみましょうか?
わたくしめの近辺でのレア阿波弁ですので、県内その他の地域の方が「普通だよ」って
言われても困りますので。
ではでは。言葉の意味を選択してください。

1. あたまがはちはちする
(1)頭に蜂が寄ってくる
(2)頭を8の字に回す
(3)いらいらする

2. 〜を、まつぼる(例:なんでもまつぼるけん部屋が片付かんのじゃ)
(1)松の木の下を掘る
(2)まつぼっくりを投げる
(3)(物を)貯めておく、取りのけておく

3. ももぐる(例:何をいつまでもももぐっとるんじゃ)
(1)桃が流れてくる
(2)股をくぐる
(3)(物事が)混乱している

4. うろにきょろがくる
(1)木のウロにカエルがくる
(2)木のウロにチョコボールのキョロちゃんがくる
(3)うろたえる

5. おねおねする
(1)尾根から尾根へ渡る
(2)重ねてお願いする
(3)だらだら(のんびり)する(している)


1は職場の池田出身の人は知りませんでした。
2の「まつぼる」ですが、うちのオジは徳島まつぼり会の会長といわれております。
3は井川町出身の上司がよく言ってます。
4はうちではよく言ってます...............
5の「おねおね」は、調べてみると、まんま京都弁なんですね。うーん。
(いやいや京都の人は京ことばって言わないと怒るんです)


いかがでしょうか。正解は......書く?もういいっしょ。
言ったように、うちんくの近所のいうこっちゃけん。ほかんとこの言うんはしらんじょ。
何かの話の種にでもどうぞ。


あ、「阿波國風土記」も見てね。

2010年8月7日土曜日

入田町 天神社

「阿波國続風土記」第五巻はもう2、3日お待ちください。
この時期ってお盆前で忙しいでしょ。
ほんと、国府からだと入田も神山も近いのになぜか行ってませんでした。
と、いいつつお呼びがかかったので入田へ1時間くらい行ってきました。
入田町天ノ原にある「天神社」です。
すえドンさんも以前にブログにアップしてましたが、行って来たんだから
仕方ないっしょ。
主祭神は
天目一箇(あめのまひとつ)神、菅公、天児屋根(あめのこやね)命、
武甕槌(たけみかづち)命、武経津主(たけふつぬし)命、麻能等比古(まのとひこ)神
となっております。

上の主祭神は「徳島県神社誌」からですが、普通「菅公」なんて書きませんよね。
「菅原道真公」って書きますよね。実際他の天神社については「菅原道真公」って
書かれてます。この神社だけ「菅公」。
著者もぜっったい「菅原道真公」は祀られてないと思ってたはずです。社名が天神社
なんでいつの頃か勝手に付け加えられてしまったんでしょう。
だって「天目一箇神」と言えば、天津彦根命の子であると「古語拾遺」にありますし
鍛冶の神、もしくは鉄や火の神でもありますので、菅原道真公の関係は無いと勝手に
思ってます。
えーと、神紋は「梅」ですね。「徳島県神社誌」にも「境内に梅多く学問の神として
知られる」とあります。このあたりから菅原道真公と関わりがあるとされたのでしょうか。


地神塔はご覧のようにあります。阿波の神様ですね。やはり菅原道真公あんまり関係
ないような気がするんですが。(しつこい)



この石塔がよく解りません。五角形なんですが「南無水神宮」と刻まれています。
神仏習合によって作られたのでしょうか。
それとも別の意味があるのでしょうか?

ところで主祭神の「天目一箇神」は、天照大神の岩戸隠れの時、刀斧・鉄鐸を造った
とされております。天岩戸立岩神社とごく近い入田に鎮座されてますのは、もちろん
偶然ではないでしょう。

ただ、天目一箇神は播磨国風土記の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で記されて
いるそうですので、残っている記録だけ見れば、そちらの方が古そうなんです。

また、「天目一箇神」はダイダラボッチ伝説(ダイダラボウ、一本ダタラとも言われる)
の元、一つ目小僧の元とも言われてるそうですので、ご参考までに。

そしてもう一つだけ、Webで検索かけてたら、アニメに「灼眼のシャナ」ってのが
あるんですかね?
それに「天目一個(てんもくいっこ)」っていうキャラが出てるそうです。
それが隻眼でどうも「天目一箇神」からの引用みたいです。
こんなキャラですが、最近のアニメはよくわからんです。

どうも、取り留めがなかったですね。(反省)

2010年8月3日火曜日

石井町 轟神社

いわゆる古社ではないんですが、さびしい神社シリーズ第2弾として
(おいおい、いつシリーズ化したんだよお)
石井町浦庄の轟神社です。

大きな地図で見る

場所は地図に見える王子神社のすぐ南です。もちろん地図になんか載ってません。
ほんとはこの王子神社(いわゆる西王子神社)を含めて東王子神社、中王子神社
この三王子神社のことをたっぷり書きたい所なんですが、シリーズでありませんので
(まだ言ってるよ)今回はパス。
前回行った時はこの王子神社社殿横からの脇道を通って行きましたが。入り口に
ちゃんと案内があります。
↑これは王子神社の鳥居。実はここも結構さびしい神社なんです。


こんな道を登っていきます。でも、ほんの100〜200メートルくらいです。
苔むしていて、すっごく滑ります。


「轟神社」です。なんとも言いがたい神社です。
三好氏家臣「近藤勘右衛門正次」の居城であった「轟城」跡です。
記録には、天正十年(1582年)七月三日夜、長宗我部家臣北村閑斎、野中三郎左衛門
池田肥後守ら三千の兵が轟城を攻める。正次は援軍二千余の側面攻撃と同時に城を出
て、五十余騎で突撃。長宗我部勢は正面、側面からの攻撃により三百余名を討たれ、
撤退。この合戦を「轟の夜戦」と云う。天正十年八月、長宗我部家に攻められ落城。
とあります。

側面からの援護はあったにしても、五十余騎で正面から三千の兵に向かっていった訳です。
当時、各地で土地の首領を蹂躙していた長宗我部に対して決死の覚悟で一矢報いたものの、結局は滅びていく運命だったのです。

祠の右に見える石碑に
拡大すれば「近藤....」と彫られてる辺りまでは見えるかな?。
石碑が崩れたのか、五輪塔か何かがあったのか?
くずれた破片が何とも言えない気持ちにさせます。
そしてさらに奥へ進むと。


崖っぷちに末社?「近藤勘右衛門正次」本人のものか、家臣のものかは分りません。
ここも相当崩れています。末社?祠?は新しそうなので、もともとあった祠か何かの跡に
作られたのでしょう。
ただ、こうやって石井町を見渡せる場所に祀られています。
さびしい神社と言うより、悲しい神社です。
ただ、武士(もののふ)は戦って死ぬ事で名を残すよりなかった時の事です。

西原理恵子の「パーマネント野ばら」の台詞です。
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子供のころじいちゃんが教えてくれた
「人はなあ二回死ぬで
一回目は生きるのがやまってしまう時
二回目は人に忘れられてしまう時や」

「人の心の中におらんようになったらいよいよ最後なんや
今度こそ本当に死ぬ
二度と生きかえらん」
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「近藤勘右衛門正次」は、まだ生きているようです。
















うわあ、今回カッコいい!(←書かなきゃいいのにね)