ちょっと話題を変えて一回きりの考察を書いてみたいと思います。
オノゴロ島、又はオノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島。特にイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっている。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「磤」と表記する。 wikipedia
国生み神話
神話内容のうち、オノゴロ島が登場する箇所を記述
イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が、国生みの際に、「天の浮き橋(あまのうきはし:天と地を結ぶ宙へ浮く橋。神はこの橋を渡って地へ降りるとされる[2]。)」に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
オノゴロ島に降りた2神は「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの:広大な殿舎)」を見立て、イザナギノミコトは左回りにイザナミノミコトは右回りに天の御柱を巡り、出会った所で相手の魅力を褒めあい、この島で成婚する。
古事記 下巻
黒日売(くろひめ)が吉備の国へ帰郷した際に、大雀命(仁徳天皇)は後追い吉備の国へ行幸するが、道中詠った歌にはオノゴロ島が登場する。
原文
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、
『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』
乃自其嶋傳而幸行吉備國。
口語訳
是(ここ)に天皇、其(そ)の黒日賣を恋ひ、大后欺き「淡道嶋を見むと欲(おも)ふ」と曰いて幸行する時、淡路島に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く
『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、アハ島 オノゴロ島 アジマサの島も見える、サケツ(先つ)島も見える。』
乃(すまわ)ち其の島傳(つた)いて、吉備の国に幸行する。
「押してるや」は難波の枕詞。「我がくにみれば」は、歌を詠んだ仁徳天皇が現在地辺りから眺めると、という意味であり、国見を行ったと解釈されている。国見とは国の地勢や景色、人々の生活状態などを、地位の高い人物が望み見ることを言う。
wikipedia
となります。
また
オノゴロ島は、神話の架空の島とする説と実在するという説とがある。
伝承が残る地域は近畿地方が中心で、平安前期の古代諸氏族の系譜書である『新撰姓氏録』では、オノゴロ島は沖ノ島など友ヶ島の島々と一説がある。
同じく平安前期に書かれた『新撰亀相記』と鎌倉後期成立の『釈日本紀』では、オノゴロ島の説明に沼島を当てており、近世以降のほとんどはこの沼島説が定説となっていた。明治時代に発行した地名事典である『大日本地名辞書』でも、「オノゴロ島を沼島と為すは至当の説なるべし」と、沼島説を有力に見なしている。
江戸中期の国学者、本居宣長は『古事記伝』により、オノゴロ島は淡路島北端にある絵島と見立てており、絵島説は大神貫道の『磤馭盧嶋日記』でも記載がある。オノゴロ島の候補地は様々な見解があるものの、淡路島周辺の小島であっただろうと考えられている。
また、前述の仁徳天皇が詠んだ『古事記 下巻』の歌を参考にすれば、アハ島(阿波志摩)を淡島明神(和歌山市加太の淡嶋神社)として沼島をオノゴロ島とすれば淡路島から一望できる。またアハ島(阿波志摩)は四国の阿波方面を指すという見方もあるが徳島と浪速を一望できる場所はない。アハ島についても諸説存在する。
と、いわゆる通説ではこの様に解釈されております。
阿波説を主張する方々には異論もあろうことかと思いますが、列挙していけば二十回くらいになってしまいますので、それは勘弁いただいて、ひとつだけ代表的な説を挙げるならば「やまと研究会」の「舞中島」説でしょう。
概略を記せば
淤能碁呂島(おのごろじま)は美馬市の木屋平(高天原)から穴吹町の舞中島に降りてきた話である。
一般には、オノゴロ島を淡路島や沼島に当てはめるが、そこに当てはめると、次に書かれる水蛭子や淡島の説明ができない。
中略
水は岩津で堰き止められるので、渦と舞って徳島県美馬市穴吹町の舞中島が形成された。
中略
また、式内社の伊射那美神社は、全国にある式内社三一三二社の中で阿波国美馬郡に一社のみであるから、高天原から開拓に降りたオノゴロ島は、美馬市穴吹町舞中島である。
なのですが、通説と阿波説を踏まえた上で第三の説を出してみようと思うのです。(汗)
阿波説においては
・式内社において全国唯一となるイザナミ神社が祭られていること
・高天原として比定する美馬市の木屋平から流れ出る貞光川と穴吹川が、吉野川に流れ込み土砂が堆積する地域であり、古事記記載の、”沼矛で国土を掻きまわし、矛を引き上げると、沼矛の先から滴る潮が積もって島になった。
また「鹽」は、海水ではなく、岩塩(どろみず)を指す。
上記が主旨となるでしょう。
それまでは、川田村、瀬詰村、山崎村、三ツ島(三島)村、児島村は全て水中であったのです。