2018年12月31日月曜日

倭の神坐す地(10)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)
倭の神坐す地(9)
前回よりだいぶ間が空いてしまいまして申し訳ございません。
いろんなところから「はよ書け」などの脅し激励をいただいておりましたが、諸般の事情で全く書くことができませんでした


さて、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」をもう少し見ていきたいと思います。
愛媛大学の川岡教授らによれば、この「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」については他の多くの「河野系図」よりも史実を反映している可能性が高いとされており、この冒頭部は物部氏系の流れをくむ形で書かれており、現在では物部氏系に属するとする見方が有力視されているそうです。



天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖ト号ス

二代 天山命ヲ生ム

三代 宇摩志麻治命
と続き
四代 味饒田命(うましにぎたのみこと)
五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)  
六代 出石心命
七代 大綜麻杵命

八代 欝色雄命
九代 伊香色雄命
と続くわけですが、上の図、五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)の部分を見ていただきたいのですが

神八井耳命(かんやいみみのみこと、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している。
また『古事記』では、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
wikipedia
この「長狭国」については太田亮氏の 『姓氏家系大辞典』を確認してみれば

安房国の東部であり「奈加佐」と同じとあります。
「長狭」は「長」であり、「奈加佐」は「奈佐」であると容易に想像できるではありませんか。無論、安房国の東部といえば忌部氏の進出した地であることは論を挟まないでしょう。
さらに「多氏の祖」であるという部分を調べてみれば
多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。
日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」意富「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。
皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。

この部分「意富」(おお、おほ)は阿波国「宅宮神社(えのみやじんじゃ)」の比定社である「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」を連想することも容易でしょう。
ちなみに
宅宮神社(えのみやじんじゃ)は徳島県徳島市上八万町に鎮座する神社である。
創祀年代不詳である。『延喜式神名帳』阿波国名方郡の「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されている(式内社)。式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社である。名方郡12社の1位に挙げられる名社で、貞観16年(874年)に従五位下の神階を得ている。主祭神は家宅・建築の神であるとされる。旧郷社。
と式内社の中でも異彩を示す神社でもあります。

写真は「宅宮神社」


七代「大綜麻杵命」については、度々、幾度も記載してきました。
『先代旧事本紀』では、大綜杵命は伊香色謎命の父とされています。

先代旧事本記の記載では
五世孫 鬱色雄命
此命 輕境原宮御宇天皇御世 孝元 拜為大臣 奉齋大神
活馬長沙彥妹 芹田真雅姬為妻 生一兒
妹 鬱色謎命 此命 輕境原宮御宇天皇 孝元 立為皇后 誕生三皇子
則 大彥命
次 春日宮御宇天皇 開化
次 倭姬命是也
春日宮御宇天皇尊皇后曰 皇大后 磯城瑞離宮御宇天皇 崇神 尊為 太皇大后
弟 大綜杵命 此命 輕境原宮御宇天皇御世 孝元 為大禰
春日率川宮御宇天皇御世 開化 為大臣 則皇后 大臣奉齋大神 高屋阿波良姬為妻 生二兒
弟 大峰大尼命 此命 春日宮御宇天皇御世 開化 為大尼供奉 其大尼之起,始發此時矣
六世孫 武建大尼命 鬱色雄大臣之子 此命 同天皇御世 開化 為大尼供奉
孫妹 香色謎命 大綜杵大臣之子伊 此命 經境原宮御宇天皇御世 孝元 立為皇妃

誕生 彥太忍信命也
天皇崩後 春日宮御宇天皇 開化 即以庶母立為皇后 誕生皇子
即是,磯城瑞籬宮御宇天皇也.崇神
崇神天皇御世 尊為 皇太后 纏向天皇御世 垂仁 追贈 太皇太后
弟 伊香色雄命 大綜杵大臣子 此命 春日宮御宇天皇御世
となっており

これも今まで何度も記載してきた『麻植郡郷土誌』によれば、
御所神社「祭神大麻綜杵命を祀る」
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」
「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし」

写真は御所(五所神社)


といくつかの接点を確認し、さらには五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)との関係を窺える神社が存在するのです。

 「伊豫王子大権現」


この「号伊豫皇子」の部分ですね。
神八井耳命(かんやいみみのみこと)の名を冠した神社であります。
実際にこの場所地名、字名自体が
「徳島県徳島市渋野町伊予王子」となっております。
渋野丸山古墳、渋野天王の森古墳のすぐ近くです。

とは言うものの、徳島県神社誌にも記載は無く、関係ありそうなのが
「阿波國勝浦郡村誌」渋野の項
越智通春墓 本村北方字 伊豫王子谷ノ田圃ノ内ニアリ
碍碑石高サ二尺茸苔石ヲ蝕ス傍ニ梅ノ一樹アリ
古老云 通春ハ伊豫人ニシテ河野四良太夫ト稱ス
民部太丈通久之子 元亀元年軍敗シ 本郡中角村ノ城主 中角河内双(?)ハ
母ノ実家ナルヲ以テ来リテ居ル 后本村ノ新開右京進ノ招ニ応シ来リ同居ス
元和七年正月七日没ス 其ノ末孫本村ニ存ス

ただし、越智通春、永享元年(1429)泉州堺で戦死というのが通説のようで、なぜ渋野に墓があるのかは全く解っていないことを追記しておきます。

それと、もう一つワタクシが伊豫王子(皇子)と関係があるのではないかと考えておりますのが神山町阿野字神木(じんぎ)の伊豫神社
下の「神山地名考」の記事にもありますように神社庁でも由緒等が分かっていない、曰く付きの神社です。



無論「徳島県神社誌」にも記載はありません。
ただ、愛媛県伊予郡松前町の「伊豫神社」の御祭神などから類推するに、あるいは
(以下略)。
ちなみに「伊豫神社」の御祭神は「彦狹嶋命」、配祀「愛比賣命」「 伊予津彦命」「 伊予津姫命」「 大日本根子彦太瓊尊」「細媛命」「 速後神命」「 伊予親王」「 藤原吉子」となっております。

つまりは「多氏」(凡直(おおしのあたい)に見られるように粟凡直の系譜)の流れの元に、物部の系譜と忌部の系譜が付いたり、離れたりを繰り返しているようにも見えるのです。
いわゆる「集合離散」(ドラマ)ってやつですね。
ただし完全にイコールじゃないところがミソなんでしょう。

さて、分かりにくさに輪をかけまくってきましたこのシリーズ、次回で一旦まとめようと思います。
力尽きなければ、書けると思いますので少々お待ちくださいませ。

あ、と、良いお年を🙏

写真は、美馬の山中で出会った子イノシシ