前回までをお読みでない方は
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)
を見てから戻ってきて下さいませ。
と、一部記事の訂正です。
浮島八幡宮の前に池があったと思ってたんですが、すえドンさんにご指摘いただきました。
浮島八幡宮があった岩場を爆破した跡だそうです......。
マジでムチャクチャやねぇ.......。
爆破に使った火薬庫が史蹟になってるし。
なおかつ爆破跡、神社跡は再利用するとかではなく、囲んで入れなくしてしまうんですから、何をか言わんや。
これは北岸の「山ノ神」神社も同じ。
こうやって囲んであるだけで、跡は荒れ放題.....。
浮島八幡宮の方は痕跡を消したかったとしか思えない状況です。
さて、改めて「粟嶋史」に目を通してみますと、このような記載があります。
武布津の神が出雲を平定して天照大神に奉告するために事代主命を道連れにして阿波に来た。一行は讃岐の志度に上陸して日開谷を過ぎて伊笠山付近に来た。そのとき忌部族は高天族等の不意の進入を咎めて小ぜり合があったが、やがて忌部族天日鷲命は武布津神のために休息所を今の香美に建て事代主命を自分の妹阿波咩(あわめ)の館に迎えた。本須賀(善入寺島)の八條宮(現在の粟島神社)は阿波咩の遺蹟である。
結構、腰が抜けそうな内容ですが、この度は詳しい説明はスルーしますが(また卑怯モンだって言われるのが目に見えてますけど、これ説明してたら65回シリーズになるんでパスね)
ここで「阿波咩(あわめ)」の名が現れています。
天日鷲命の妹との説明がされておりますが、記紀等の書物に、この「阿波咩(あわめ)」の名が出てきた事はありません。
聞いた事ないでしょ(ふつーの人の話よ、ここらに寄ってくるふつーじゃない人は「なんでぃ」なんて言うから困るんですがねぇ)。
では、御祭神として祀られている神社はあるのか?
「あります」
東京都神津島の「阿波命神社」。
御祭神は「阿波咩命」
由緒として
阿波咩命は三島大社の本后にして神異を顕し、島を造りて其の造れる島に鎮座し
給う事は續日本後紀に承和七年九月乙末伊豆國言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
此島に坐ス阿波神ハ是三島大社本后也。又坐ス物忌奈ノ命ハ即前社ノ御子神也。
とみえ三宅記に神津島に置給う后をば長濱の御前とぞ申しけるとあり。
古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあるにて
明かなるべし。
変な人のブログの変なタイトル「すいませんでした(おまけつき)」
にこの記載があります(笑)
また「鬼籠野村(おろのそん)郷土誌」にも「阿波女(阿波咩)」の記載があり
粟國造家の祖神は「阿波女(阿波咩)」であると書かれています。
どちらにしても「阿波咩命」の名は伏せられ「天日鷲命」の名のみが御祭神として伝えられた訳です。
同様の例は、すぐ近くの川島町の「鎮守八幡神社」にも見られます。
吉野川市川島町大字児島字池北の「鎮守八幡神社」
境内の由緒書によれば
もとは秘羽目神社と称して、現在の社地の南側に鎮座していたが、天正年間、武士の起こした戦により火をかけられ神宝・社記など社殿とともにすっかり焼失した。その後、現在の位置に式内日羽女(ひわめ)神社として再建した。ところが、蜂須賀氏が阿波藩(徳島県)の領主となり、式内日羽女神社の社号はさしつかえがあるとされ、なまえを変えるように申し渡された。その結果誉田別命を合祀して、鎮守八幡神社と改称したのであると伝えられている。
式内社に比定される程の社名を変えろとのお達しが出ていたのです。
まあ、秘羽目神社の比定社は鴨島町の「中内神社」もそうなんですがね。
どちらにも「日和女」の字名があり、どちらにも「秘羽目塚」があるんです。
写真は川島町「鎮守八幡神社」近くの「秘羽目塚」。
「阿波咩」「阿波女」「日和女」「秘羽目」どれも同じ祭神を示しているのではないか、そんなことを考えてしまいますが、妄想だけで先に進まないのが、お茶目なトコロですね(笑)
そんな訳で、これほどの由緒を持つ、粟島の浮島八幡宮でありますが、ボクは粟島が粟がよく実ったので「粟島」と名付けられ「阿波國」の語源となったという説は違うと思います。
「阿波咩命」がいたから「阿波島」と名付けられ、「偶然」粟が良く実ったのと、「阿波咩」の名を何らかの理由で隠すために「粟」の文字を付けたのだと...
だから「阿波」の名は元々の名ではなかったのではなかろうかと...
無論、結論が出るはずもないので、この辺りで浮島八幡宮の講釈、お開きとさせていただきたいと思います。
お土産は「アメリカ」の写真といたしましょう(笑)
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)の地図をみてね。
車で入れないので、延々歩いたのよ〜。
徳島県内で見つけた面白い物なんかを紹介できればと立ち上げてみました。 それこそみんなが知らない(知っていても役に立たない)重箱の隅をつついてみようというブログです。 根がグータラなものですので更新はほどほどです。
2014年3月21日金曜日
2014年3月16日日曜日
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(2)
前回をお読みでない方は
「善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)」を見てから戻ってきて下さいませ。
さて「粟嶋史」によりますと
「浮島八幡宮」は地図の下部川島橋を渡ったところ「宮ノ島八幡宮」が「それ」ですので、この場所にあった筈です。
では、実際に善入寺島に行ってみますと
行かれた事のある方はご存知だと思いますが、元社地であった場所はこのように厳重に柵とワイヤーで囲まれ、入る事ができなくなっています。
(ここは「戎社」のあった辺り)
あるいは「川島町史」によれば「ここ」より北西400mの竹林の中とも書かれておりますが「ここ」より北西400mは下写真の近辺であり竹林や穴の気配もありませんでした。
ならば、やはりこの池の周辺のどこかにあったと考えるのが妥当ではないかと考えるのです。
もう一回(多分)続く。
「善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)」を見てから戻ってきて下さいませ。
さて「粟嶋史」によりますと
「浮島八幡宮」は地図の下部川島橋を渡ったところ「宮ノ島八幡宮」が「それ」ですので、この場所にあった筈です。
では、実際に善入寺島に行ってみますと
行かれた事のある方はご存知だと思いますが、元社地であった場所はこのように厳重に柵とワイヤーで囲まれ、入る事ができなくなっています。
(ここは「戎社」のあった辺り)
その中でも、先ほどの地図の「宮ノ島八幡宮」のところにはこのような赤い鳥居が残されています。
無論、このようにコンクリートの柵とワイヤー、深い竹林で中の様子をうかがう事はできません。
が鳥居より数十m東の道路沿いにこのような石碑が建てられておりました。
ここより南つまり上の写真の奥70メートルに「宮ノ島八幡宮」があったのです。
辺りを歩き回って探したところ下写真のように一箇所、柵と竹薮が切れている場所がありました。
切れていると言っても、相当竹薮を潜らなければ先には進めません。
竹薮が切れたところが池、ここから先は崖になっているので進めませんが、写真右側が社地跡です。
無論、禁足地であろうと思われますので、詳しくは書きませんが、下の写真下部に見える池の下(南側)が「そこ」になります。
そして、「阿府志」によれば、そこから北方六十七歩の位置に「極楽壙(ごくらくこう)」があったということなのです。あるいは「川島町史」によれば「ここ」より北西400mの竹林の中とも書かれておりますが「ここ」より北西400mは下写真の近辺であり竹林や穴の気配もありませんでした。
ならば、やはりこの池の周辺のどこかにあったと考えるのが妥当ではないかと考えるのです。
もう一回(多分)続く。
2014年3月15日土曜日
善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)
また逃亡してるんじゃないかと思われてるかも知れないので、ブログなど書こうと思ったら、書き方なんて完全に忘れてるのよね〜。
まあ、それはともかく、最近ブログを書こうとしたら怪しい事が起こるんで、あまり書きたくないんですがねぇ(言い訳か?)。
と、まあ、書いていきましょうか。
徳島県吉野川市川島町宮島。
いわゆる善入寺島は、吉野川の河口から約30km付近にあり、広さが約500ha程もある、日本最大級の川中島。
東西約6km、南北約1.2km。
吉野川の第一期改修によって遊水池として全島買収される大正四年までは、約500戸・3000人余りが居住していた。
現在は農地のみが残り、建造物は無く、無住地となっている。
ちなみに、善入寺島はまとまった1つの村ではなく、川島町宮島・学島(がくしま)村児島(こじま)・市場町香美(かがみ)・八幡町粟島(あわしま)・大野(おおの)・伊月(いつき)・柿島(かきしま)村柿原(かきはら)・土成村郡(こおり)の一部で構成されていた。
島全体を粟島と称していたが、古くはこの地に「善入寺」という寺院があったことから内務省が善入寺島と命名した。
あるいは神代よりの歴史を持ち、最盛期には「八條宮」「浮島八幡宮」「戎社」「金毘羅宮」などの神社が建立されていた。
また弘法大師とのゆかりも深く、下写真にあるように、粟島渡しは空海が吉野川を渡る時は必ずここを通って行かれたとの伝承が残っている。
ちなみに、「粟島渡し」は吉野川南岸の乗り場で、北岸の方は「大野島渡し」となっています。(下写真)
寺院についても阿波國最古の寺院の一つとされている「大野寺」が建立されていた。
この大野寺は現在、阿波市市場町山野上に移築されている。
簡単に紹介しておくと
寺伝によれば白鳳年間に天智天皇により大野島「御所が原」に創建された。開創当初は七堂伽藍十二の僧坊が軒を連ね、法門講義が盛大に行われたという。
当時は寺院数が少なかったので、当寺と同様の寺伝をもつ阿南市宝田町の隆禅寺(創建時の遺跡が残り、白鳳期の瓦が出土する)との間に、住職欠減の際は互いに住職が交流したと両寺の古記録にある。
創建百数十年、諸堂荒廃のため嵯峨天皇は再び勅願して七堂伽藍を修復し、寺門興隆のため14か寺(切幡寺=市場町 光福寺=秋月 妙憧寺<常慶寺>=篠原 宝憧寺=粟島本須賀 実相坊<輪蔵庵>=水田 智賢坊<大場の薬師庵>=日吉 良珍坊<薬師庵>=大野島 梵光寺<仏殿庵>=山野上 岡ノ坊=香美西岡平治社内 南泉坊円常寺<薬師庵>=香美田渕 賢貢坊永福寺=香美田渕春日社内 宮ノ坊善入寺=香美善入寺 真福寺<虚空蔵堂>=西香美 真如坊<観音庵>=尾開)を建立した。
以後国司守護の外護と庶民信仰で栄えたが文亀年間(1501-1504)吉野川の水禍のため山野上白坂(大日屋敷の名が残る)に移転した。天正年間(1573~92)、長宗我部の兵火で堂塔、仏像、経巻、古文書等を失ったが当時の住職龍意は豊臣秀吉の尊崇を受け、朝鮮の役の記念として「九頭竜王」「般若十六善神」「涅槃図」および陣羽織の寄進を受けた。その後蜂須賀家政は本堂、方丈、庫裏などを再建、寺領を寄進した。
享保年間(1716~36)讃岐白峯寺から転住した道鳳は吉野川の変遷のため現在地に本堂、庫裏を移築、また虚空蔵堂を西香美から田渕へ移転、改築した。
徳川時代は中本寺として寺門を栄え、年賀、藩主の葬儀には本行列で登城したという。また八幡の八幡神社、西岡の建布都神社など阿波川東二十数社の別当に任ぜられた。明治4(1871)年8月、阿波郡東郷学校を当寺に置き「教英校」と称したが翌年学制が敷かれると「山野上小学校」と改称し、明治13(1880)年まで続けられた。
明治21年(1888)田渕から寺内に移った虚空蔵堂は毎年1/13に露天、植木市が並び往時の盛大さはないが参詣者で賑わっている。
写真は現在の「大野寺」
下の写真中央は鎌倉時代のものと思われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
では、やっとのことで本題の「浮島八幡宮」。
口碑では白鳳2年(673年)の創立とされている。
祭神は「天日鷲命」。
寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳には「麻植郡宮島村浮島八幡宮、当社は古くから忌部神社と申して来た所、天正中(1573―91年)に八幡と改め」云々と書かれている。
大正5年川島神社に合祀。
その頃祭日には善入島の川原に2艘の舟を出し、1艘には神輿、1艘には見物人を乗せて川を渡り、川原で祭の儀式を終え、氏子のお詣りがすむと舟を綱で曳いて帰る。当屋はこの屋台舟を曳く人達のため約100個の弁当を用意した。この弁当は握り飯に芋や大根を串刺しにしたとのことである。
そして、この善入寺島(粟島)には古来独特の風習があり、葬儀の際には墓を作らずに極楽壙(ごくらくこう)と呼ばれる穴に被葬者を投げ入れるというものです。
この風習については、阿波國最初の歴史書である「阿府志」に
極楽壙
在宮島八幡祠 北方六七歩、篠竹環生
この村古朴葬不要 浮屠(ふと)無 塚墓死者皆
投葬
于此
との記載があります。
また川島町史によれば
宮島八幡宮の鎮座した宮島は、八幡宮を尊崇するあまり神ノ島といわれ、神聖な土地として、死者はすべて八幡神社の西北400mくらいの地点にあった極楽壙と称する大穴に投葬して、お墓も寺僧もなく神代さながらの埋葬であったという。
とあり、その場所にいささかの相違があります。
ではこの「浮島八幡宮」と「極楽壙」どこにあったのか。
そうです、予想通り「次回へ続く」のです。
まあ、それはともかく、最近ブログを書こうとしたら怪しい事が起こるんで、あまり書きたくないんですがねぇ(言い訳か?)。
と、まあ、書いていきましょうか。
徳島県吉野川市川島町宮島。
いわゆる善入寺島は、吉野川の河口から約30km付近にあり、広さが約500ha程もある、日本最大級の川中島。
東西約6km、南北約1.2km。
吉野川の第一期改修によって遊水池として全島買収される大正四年までは、約500戸・3000人余りが居住していた。
現在は農地のみが残り、建造物は無く、無住地となっている。
ちなみに、善入寺島はまとまった1つの村ではなく、川島町宮島・学島(がくしま)村児島(こじま)・市場町香美(かがみ)・八幡町粟島(あわしま)・大野(おおの)・伊月(いつき)・柿島(かきしま)村柿原(かきはら)・土成村郡(こおり)の一部で構成されていた。
島全体を粟島と称していたが、古くはこの地に「善入寺」という寺院があったことから内務省が善入寺島と命名した。
あるいは神代よりの歴史を持ち、最盛期には「八條宮」「浮島八幡宮」「戎社」「金毘羅宮」などの神社が建立されていた。
また弘法大師とのゆかりも深く、下写真にあるように、粟島渡しは空海が吉野川を渡る時は必ずここを通って行かれたとの伝承が残っている。
ちなみに、「粟島渡し」は吉野川南岸の乗り場で、北岸の方は「大野島渡し」となっています。(下写真)
この大野寺は現在、阿波市市場町山野上に移築されている。
簡単に紹介しておくと
寺伝によれば白鳳年間に天智天皇により大野島「御所が原」に創建された。開創当初は七堂伽藍十二の僧坊が軒を連ね、法門講義が盛大に行われたという。
当時は寺院数が少なかったので、当寺と同様の寺伝をもつ阿南市宝田町の隆禅寺(創建時の遺跡が残り、白鳳期の瓦が出土する)との間に、住職欠減の際は互いに住職が交流したと両寺の古記録にある。
創建百数十年、諸堂荒廃のため嵯峨天皇は再び勅願して七堂伽藍を修復し、寺門興隆のため14か寺(切幡寺=市場町 光福寺=秋月 妙憧寺<常慶寺>=篠原 宝憧寺=粟島本須賀 実相坊<輪蔵庵>=水田 智賢坊<大場の薬師庵>=日吉 良珍坊<薬師庵>=大野島 梵光寺<仏殿庵>=山野上 岡ノ坊=香美西岡平治社内 南泉坊円常寺<薬師庵>=香美田渕 賢貢坊永福寺=香美田渕春日社内 宮ノ坊善入寺=香美善入寺 真福寺<虚空蔵堂>=西香美 真如坊<観音庵>=尾開)を建立した。
以後国司守護の外護と庶民信仰で栄えたが文亀年間(1501-1504)吉野川の水禍のため山野上白坂(大日屋敷の名が残る)に移転した。天正年間(1573~92)、長宗我部の兵火で堂塔、仏像、経巻、古文書等を失ったが当時の住職龍意は豊臣秀吉の尊崇を受け、朝鮮の役の記念として「九頭竜王」「般若十六善神」「涅槃図」および陣羽織の寄進を受けた。その後蜂須賀家政は本堂、方丈、庫裏などを再建、寺領を寄進した。
享保年間(1716~36)讃岐白峯寺から転住した道鳳は吉野川の変遷のため現在地に本堂、庫裏を移築、また虚空蔵堂を西香美から田渕へ移転、改築した。
徳川時代は中本寺として寺門を栄え、年賀、藩主の葬儀には本行列で登城したという。また八幡の八幡神社、西岡の建布都神社など阿波川東二十数社の別当に任ぜられた。明治4(1871)年8月、阿波郡東郷学校を当寺に置き「教英校」と称したが翌年学制が敷かれると「山野上小学校」と改称し、明治13(1880)年まで続けられた。
明治21年(1888)田渕から寺内に移った虚空蔵堂は毎年1/13に露天、植木市が並び往時の盛大さはないが参詣者で賑わっている。
写真は現在の「大野寺」
下の写真中央は鎌倉時代のものと思われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
下は江戸時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(と思う(笑))
で、ここらのことはよく知りませんが、これには何故か
「天子将軍本國大守歴代尊霊」と刻まれてます。
裏には「先祖代々諸聖霊菩提....」と刻まれてますので、これは普通だと思いますが、表の「天子...云々」は何故???
まあ、余談ですのでここらは一旦スルーしておいて。では、やっとのことで本題の「浮島八幡宮」。
口碑では白鳳2年(673年)の創立とされている。
祭神は「天日鷲命」。
寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳には「麻植郡宮島村浮島八幡宮、当社は古くから忌部神社と申して来た所、天正中(1573―91年)に八幡と改め」云々と書かれている。
大正5年川島神社に合祀。
その頃祭日には善入島の川原に2艘の舟を出し、1艘には神輿、1艘には見物人を乗せて川を渡り、川原で祭の儀式を終え、氏子のお詣りがすむと舟を綱で曳いて帰る。当屋はこの屋台舟を曳く人達のため約100個の弁当を用意した。この弁当は握り飯に芋や大根を串刺しにしたとのことである。
そして、この善入寺島(粟島)には古来独特の風習があり、葬儀の際には墓を作らずに極楽壙(ごくらくこう)と呼ばれる穴に被葬者を投げ入れるというものです。
この風習については、阿波國最初の歴史書である「阿府志」に
極楽壙
在宮島八幡祠 北方六七歩、篠竹環生
この村古朴葬不要 浮屠(ふと)無 塚墓死者皆
投葬
于此
との記載があります。
また川島町史によれば
宮島八幡宮の鎮座した宮島は、八幡宮を尊崇するあまり神ノ島といわれ、神聖な土地として、死者はすべて八幡神社の西北400mくらいの地点にあった極楽壙と称する大穴に投葬して、お墓も寺僧もなく神代さながらの埋葬であったという。
とあり、その場所にいささかの相違があります。
ではこの「浮島八幡宮」と「極楽壙」どこにあったのか。
そうです、予想通り「次回へ続く」のです。
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