番外の追記なんて、訳わかんないですけど書いておかないと忘れてしまうので(最近、物忘れが良くて、良くて)追記しておきます。
例の売却問題については現在進展はない様です、といいましても今回の記事はそれと関係ありませんので、ご了承ください。
さて、前回「
番外:大御和神社」にて「阿波志」の記載に
大御和祠
延喜式亦爲小祀在府中村即大巳
貴命今穪府中宮又穪印鑰或曰大
寶二年國司始給鑰囙名非印鑰童子也隣
村共祀其側有天照太神祠土人穪伯母宮
とあるのを紹介させていただきました。(下図)
で、この部分
其側有天照太神祠土人穪伯母宮
側に天照大御神の祠があり、地元では「伯母宮(おばのみや)」という。
という意味の記載です。
この「天照大御神の祠」というのは、無論「天石門別八倉比売神社」のことですよね。
大御和神社の御祭神「大己貴命」からすれば、伯母にあたりますので、こう言われても何ら違和感はございません。
が、下の画像を見ていただきますと。
史料は「寛保御改神社帳(かんぽうおんあらためじんじゃちょう)」でございます。
赤線部分に「伊勢伯母宮」という祠が存在していたことが記載されております。
ちなみにこのコピーは頂き物でございます(笑)。
まず口から出るのが「なんじゃこれは?」ですよね(笑)。
なぜ「伊勢」の「伯母宮」が「大御和神社」の側に?
(中村だから、すぐ近くだったはずなんです)
思い浮かんだのは「天石門別八倉比売神社」の遥拝所。
いやいや、いくらなんでも近すぎるんで、直接参拝すればいいんじゃない?などと自問自答が頭の中を駆け巡る訳ですよ。
「阿波志」にも「国府町史料」にも、記載はないし.....
なんやかやで、ようやく見つけたのが
「阿波國名東郡村誌」
さて、何人の方が狂喜してくれますでしょうか。
伊勢姨ノ宮 小社村ノ北方写(移)今八幡ニ鎮座ス 祭神倭姫命ト云
中村の八幡神社はここ。
同「阿波國名東郡村誌」によれば、御祭神は応神天皇、境内に末社一座となっております。
一つ見ておいていただきたいのが、境内の地神塔。
五角柱の地神塔が「亀」の上に乗っているのを見てください。
これは「亀趺(きふ)」ですね。
贔屓(贔屭、ひき、拼音:Bìxì)は、中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う。
概要
中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子の一つで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。
wikipedia
個人的な考えですが、早雲古宝が1789年(寛政元年)に藩主蜂須賀治昭に進言し阿波國全土の地神塔建立が始まった際、それ以前から残っていた「亀趺(きふ)」の様式を残したのではないでしょうか。
もし、そうならばここには応神天皇と系統の違う御祭神が祀られていた証拠の一つになるのではないでしょうか。
持論ですが、様式は嘘をつかないんです。
それにしても、「伊勢伯母宮」の御祭神は「倭姫命(やまとひめのみこと)」。
倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。
第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。 wikpedia
矢沢弦月、皇大神宮奉祀 部分
つまり、「伊勢」にいる「伯母」。
では「倭姫命(やまとひめのみこと)」を伯母と呼べるのは誰か?
甥である、草薙剣(天叢雲剣)を与えた「倭建命(やまとたけるのみこと)」その人なのです。
後は、言わずもがなでありましょう。
「倭姫命」「倭姫命世紀」「亀趺」などについいても書きたいことは尽きませんが、まずは阿波國においての「倭建命」の忘れられた旧跡を探すだけですよね(どなたかお願いします)。
で、追記とさせていただきます。
ああ、これでやっと『「ヤマトタケル」って誰?』の続きに戻ることができます。