2020年3月15日日曜日

「ヤマトタケル」って誰?(2)

「ヤマトタケル」って誰?(前口上)(これはもういいかな)
「ヤマトタケル」って誰?(1)

んじゃ、まあ阿波国内にて「息長田別王」もしくは「ヤマトタケル」に関わりのありそうな神社をいくつかピックアップして、ご紹介していきたいと思いますですます...。

まずは、徳島県美馬郡つるぎ町半田字逢坂に鎮座する「建神社(たてじんじゃ)」
扁額には「式内 建神社」と記されております。


式内社 阿波國美馬郡 建神社
旧村社
御祭神 素盞嗚命
徳島県神社誌にも主祭神は素盞嗚命とありますが、「阿波志」によれば

建祠
前略
建部公日本武尊之後旧事記云日本武尊児息長長田別命阿波君等祖....
後略
などとあり、この記述より「息長田別命」が「日本武尊」を祀ったとの説があり。
例えば「玄松子の記録」にも異説として紹介されております。

また「阿波國(続)風土記」においても
同様の記載があり、「息長長田別命」もしくは「息長長田別命が日本武尊を祀った」神社であろうことは間違いのないように思えます。

「式内社 建神社」についてはもう一社、論社があり、
徳島県美馬市脇町猪尻建神社下南1の
「建神社(たてじんじゃ)」であります。

鳥居の扁額には、「天王宮」

社殿正面からは写真が撮れません(笑)

ただ、「阿波志」には「半田村竹権現是成」の記載があり、「阿波國(続)風土記」にも「半田山」の記載があることと、脇町の「建神社」は「天王宮」で明治までは「牛頭天王」と称していたそうですので...。

今回最後のご紹介は那賀郡那賀町出羽字宮崎の「倭武神社」。
そのまま「倭(ヤマト)武(タケル)」を冠した神社でありまして、場所は下図のようにえらいところに鎮座いたしております。
ここはワタクシも行ったことがありませんので、写真はネットよりお借りいたしまいた。



木沢村誌をみると、この「倭武神社」、那賀町出羽と、那賀町小泉とで二社あるそうなのですが、調べて出てくるのは「出羽」の方ばかり、ただしご祭神は両社ともに「日本武尊」。
で、面白いのが「木沢村誌」の神社一覧



ご覧の通り「宇奈爲神社 」と「倭武神社」を除く「ほぼ」全社に「息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)」と「大雀命(おほさざきのみこと)」が祀られております。
この「息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)」とは言わずと知れた「神功皇后(じんぐうこうごう)」のことであり、「大雀命(おほさざきのみこと)」は、これも言わずと知れた「仁徳天皇」のことですね。

「神功皇后(じんぐうこうごう)」

「仁徳天皇」のことはちょっと置いときますが(笑)、「息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)」がこれだけ祀られていることで、この近辺がいわゆる「息長氏」の拠点であったこと、つまりは「息長氏」として「日本武尊」を祀っていることが分かっていただけるのではないでしょうか。
つまり、「ヤマトタケル」と「息長氏」には密接な関係があるということ、そして前回で書きました。

息長田別王の母、つまり「ヤマトタケル」の妃は、古事記においては一妻として不詳、先代旧事本紀では「弟橘媛(おとたちばなひめ)」。

「弟橘媛(おとたちばなひめ)」は

「相傳フ弟橘姫ハ讃岐人穂積氏忍山宿禰ノ女也」(西讃府誌)

であって「息長氏」じゃない。
「一妻」が「息長氏」だった可能性はありますが、もう一つ考えられるのが

「ヤマトタケル」が「息長氏」

だということですね。

続く

2020年3月11日水曜日

「ヤマトタケル」って誰?(1)

「ヤマトタケル」って誰?(前口上)

ではでは、本題へと進んでいくわけでございますが、最近歳のせいか長文が書けなくなってまいりまして、今回もあんまり長くないのです。
しょーもない話ならいくらでも書けるのですが、そこはそれ、やっぱそれなりのプライドという何の役にも立たないものが、あったりするじゃありませんか。

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
wikipedia


で、ありますが
同じくwikipediaに

『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。

とありまして、ワタクシも複数の英雄を統合したという点には賛同致しますのです。
つまり「ヤマトタケル」は「倭」の「武」であり、「建」(勇猛な、猛々しい)なのですよね。
また、「ヤマトタケル」の墓所についても

日本書紀
景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。

古事記
景行天皇記では、倭建命は伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。

延喜式(延長5年(927年)成立)
諸陵寮(諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)。

と複数の墓所が記載されており、これも複数の「ヤマトタケル」の存在を示唆しているのではないかと考えられます。

例えば、古事記の景行天皇の条に

又伊那毘能大郎女の弟、伊那毘能若郎女を娶して、生みませる御子、真若王 次に日子人之大兄王 又倭建命の曾孫、名は須賣伊呂大中日子王の女、訶具漏比賣を娶して生みませる御子、大枝王

とありますが、この訶具漏比賣(かぐろひめ)、倭建命を初代として数えると、景行天皇から5代目から6代目にあたり、実際に娶すことは不可能なのです。

訶具漏比売
訶具漏比売(カグロヒメ)・迦具漏比売(カグロヒメ)は古事記に登場する人物名。日本書紀に対応する人物名は見られない。ただし、孫にあたる大中津比売命は日本書紀にも大中姫として見られる。
女性。
出自としてはヤマトタケルの玄孫。
しかし、ヤマトタケルの玄孫でありながら、ヤマトタケルの父の景行天皇の妃でもある。景行天皇(12代)から見ると自分の息子の玄孫と結婚したってことになる。そんなわけがない。
日本神話・神社まとめより

この辺りについては古田史学会の会報を見ていても、「少なくとも四人の倭建が区別できる」との記載を見ることができ、さらには『「倭建」は職位名』であるとの説を記しております。

ここらあたりを前提に、話を進めていきたいと思うわけでございます。
で、「ヤマトタケル」の事跡等については、こんなブログを見にこられる方々は、重々ご承知のことと存じ上げますので、以降よほどのことでない限りは省略させていただきまして、と。(単にめんどくさいだけ(笑))

というわけで、まずは「ヤマトタケル」からではなく、阿波国に所縁の深い、その御子である息長田別王(おきながたわけのみこ)より話を進めていこうと思います。

一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)
息長田別王(おきながたわけのみこ、紀なし) - 河派仲彦王の父、息長真若中比売(応神天皇の妃)の祖父、稚野毛二派皇子の曽祖父、忍坂大中姫・衣通姫の高祖父。阿波君らの祖(旧事本紀)。

古事記 景行天皇段より
凡此倭建命平國廻行之時 
久米直之祖名七拳脛恒爲膳夫 以從仕奉也 
此倭建命娶伊玖米天皇之女布多遲能伊理毘賣命 
【自布下八字以音】 
生御子 帶中津日子命【一柱】 
又娶其入海弟橘比賣命生御子 若建王【一柱】 
又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遲比賣 
生御子 稻依別王【一柱】 
又娶吉備臣建日子之妹大吉備建比賣生御子 建貝兒王【一柱】 
又娶山代之玖玖麻毛理比賣生御子 足鏡別王【一柱】 
又一妻之子 息長田別王 
凡是倭建命之御子等幷六柱 
故 帶中津日子命者治天下也 
次稻依別王者【犬上君建部君等之祖】 
次建貝兒王者【讚岐綾君伊勢之別登袁之別麻佐首宮首之別等之祖】 
足鏡別王者【鎌倉之別小津石代之別漁田之別之祖也】 

次息長田別王之子 杙俣長日子王 
此王之子 飯野眞黑比賣命 
次息長眞若中比賣 
次弟比賣【三柱】 
故 上云若建王娶飯野眞黑比賣 
生子 須賣伊呂大中日子王【自須至呂以音】 
此王娶淡海之柴野入杵之女柴野比賣生子 迦具漏比賣命 
故 大帶日子天皇娶此迦具漏比賣命生子 大江王【一柱】 
此王娶庶妹銀王生子 大名方王 次大中比賣命【二柱】 
故 此之大中比賣命者【香坂王忍熊王之御祖也】 

読み下し
凡(おほよそ)此の倭建命(やまとたけるのみこと)国を平(たひら)げて廻(めぐ)り行きし[之]時、 久米直(くめのあたひ)之(の)祖(おや)、名は七拳脛(ななつかはぎ)を恒に膳夫(かしはで)と為(し)たまひて、[以ちて]従(したが)ひ仕(つか)へ奉(まつ)る[也]。 
此の倭建命(やまとたけるのみこと)、伊玖米(いくめ)天皇(すめらみこと)之女(むすめ)布多遅能伊理毘売命(ふたぢのいりびめのみこと) 【布自(よ)り下(しもつかた)八字(やじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる】を娶(めあは)せ、 御子(みこ)帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)を生みたまひ【一(ひと)柱】、 又、其(その)海に入りし弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を娶せ、御子若建王(わかたけるのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、近淡海(ちかつあふみ)之安国造(やすのくにのみやつこ)之祖(おや)意富多牟和気(おほたむわけ)之女(むすめ)布多遅比売(ふたちひめ)を娶せ、 御子稲依別王(いなよりわけのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、吉備臣(きびのおみ)建日子(たけひこ)之妹(いも)大吉備建比売(おほきびたけひめ)を娶せ、御子建貝児王(たけかひこのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、山代(やましろ)之(の)玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)を娶せ、御子足鏡別王(あしかがみわけのみこ)を生みたまひ【一柱】、 又、一(ある)妻之子(みこ)は、息長田別王(おきながたわけのみこ)、 
凡(おほよそ)是(これ)倭建命之御子等(ら)并(あは)せて六柱(むはしら)なり。 
故(かれ)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 
次に、稲依別王(いなよりわけのみこ)者(は)【犬上君(いぬかみのきみ)、建部君(たけるべのきみ)等(ら)之(の)祖(おや)】、 次に、建貝児王(たけかひこのみこ)者(は)【讃岐(さぬき)の綾君(あやのきみ)、伊勢之別(いせのわけ)、登袁之別(とをのわけ)、麻佐首(まさのおくび)宮首之別(みやのおくびのわけ)等(ら)之祖(おや)】、つぎに、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)者(は)【鎌倉之別(かまくらのわけ)、小津(をづ)の石代之別(いはしろのわけ)漁田之別(すなたのわけ)之(の)祖(おや)也(なり)】。
次に、息長田別王(おきながたわけのみこ)之子(みこ)は杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)、 此の王(みこ)之子(みこ)は飯野真黒比売命(いひのまくろひめのみこと)、 次に息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)、 次に弟比売(おとひめ)【三(み)柱】。 
故(かれ)、上(うはつかた)に云(まをしし)若建王(わかたけるのみこ)真黒比売(まくろひめ)を娶(めあは)せ、 子(みこ)須売伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこのみこ)【須自り呂に至るは音を以ちゐる。】を生みたまひ、 此の王(みこ)淡海(あふみ)之(の)柴野入杵(しばのいりき)之女(むすめ)柴野比売(しばのひめ)を娶(めあは)せ子(みこ)迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)を生みたまふ。 
故(かれ)、大帯日子天皇(おほたらしひこすめらみこと)此の迦具漏比売命を娶(めあは)せ、子(みこ)大江王(おほえのみこ)を生みたまひ【一柱】、 
此の王(みこ)庶(まま)妹(いも)銀王(しろがねのみこ)を娶せ、子(みこ)大名方王(おほなかたのみこ)、次に大中比売命(おほなかつひめのみこと)を生みたまふ【二柱】。 
故(かれ)、此(こ)之(の)大中比売命(おほなかつひめのみこと)者(は)【香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)之御祖(みおや)也(なり)】。 

また、先代旧事本紀によれば



「ヤマトタケル」の御子であり「阿波ノ君等ノ祖」として記載されております。
なお、息長田別王の母、つまり「ヤマトタケル」の妃は、古事記においては一妻として不詳、先代旧事本紀では


弟橘媛(おとたちばなひめ)との間に生まれたとされております。
ちなみに、この弟橘媛は讃岐の出身であることを覚えておいてください。
「相傳フ弟橘姫ハ讃岐人穂積氏忍山宿禰ノ女也」(西讃府誌)

まあ、続いてみましょうか。
(まだ面白くないでしょwww)


全然関係ないけど「阿波池田駅」がアニメの舞台になったって知ってました?
(と、関係ない話題で誤魔化す)


2020年3月5日木曜日

「ヤマトタケル」って誰?(前口上)

「ヤマトタケル」って誰?

あなたは、こう問われた時、即答できますか?
ワタクシは即答できません「でした」。
事跡を滔々と羅列することはできるでしょう、でもそれは「ヤマトタケル」が誰かという説明にはならないと思うんです。
少女から発せられたこの問いに、おぢさんはどう答えるべきだったのでしょうか。
で、身の程知らずに、このシリーズをおっぱじめようってご趣向でございます。(涙)


では、まず極めて安易にwikipediaより引用してみましょう(笑)

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

また

『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』・『先代旧事本紀』
本の名:小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)
亦の名:日本童男(やまとおぐな)
のちの名:日本武尊(やまとたけるのみこと)、日本武皇子(やまとたけるのみこ)
『古事記』
本の名:小碓命(おうすのみこと)
亦の名:倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
のちの名:倭建命(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ)
「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子(大碓命・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする。「ヲグナ(童男/男具那)」は未婚の男子の意味。「ヤマトタケル」の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる。

とあります。
つまりは、景行天皇の御子で、名は「小碓命(おうすのみこと)」というのが大意であります。
ですが、冒頭に申し上げましたように、こんな説明で納得してもらえるとは露にも思っておりません。
南のお嬢様を折伏するために(笑)数回頑張ってみようと思います。
下手な前口上はここまでとして、次回より本題へと進んでまいります。

続く

年度末のクソ忙しい時に始めるなんて、あー自己逃避の典型じゃないっすか。
どーせコロナでどこにも行けないしなんて自分を誤魔化すんだろーなー。
あーあー。