2017年5月4日木曜日

麻植の系譜(5)END

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
麻植の系譜(4)

前回、
亨保年間の編纂に係る國内神明帳を厳重に焼棄せしめ寛保三年忌部関係社を削除した國内神明帳を発表す(今世に流布する神明帳は是なり)。
と書かせていただきました。
享保(きょうほ)は、正徳の後、元文の前。1716年から1735年まででありますので、この期間に阿波国内の神名帳は「厳重に焼棄せしめ」られたと。
よって天明二年(1782)成立の「阿府志」には「麻植氏」関連の記載はなく。
 また「阿波志」は文化 12 (1815) 年の刊。
当然どこを読んでも「麻植氏」についての記載は現れてきません。
やはり、「麻植氏」は何らかの形でその名と実績がつせられてしまっているように思えます。
(ただ、前回書いた「秘羽目神社」については延喜式神名帳にはちゃんと「秘羽目」で記載されておりますので、八幡社に変えられてことは蜂須賀の指示で間違いないでしょうが「秘羽四神社」とあったというのは、ちょっと違うような気もします。)

ここに元和二年(1616年)の「麻殖先代家領記」を示し「麻植氏」がいかに阿波国に重要な位置を占めてきたかを記しておきます。

麻殖先代家領記
吾麻殖氏ハ神代天日鷲命ノ正統トシテ神日本磐命ノ朝遠
祖忌部諸神ヲ始メ比伊宇山ニ麻ヲ取荢ヲ績テ荒妙柔妙ノ服ヲ織ラシメ
又紙ヲ漉蓑笠ヲ縫ハシメ陶造シテ其術ヲ普ク諸國ニ弘通シタル勲績ヲ以テ孫子
天日和佐命比麻殖ノ縣主ト成其後麻殖郡主トナリテ縣ヲ
郡ト改メ麻殖郡領ト号シ領内ニ神田ヲ領チ初穂ヲ以テ岡山ノ如ク積備
大御祭ヲナス比地ハ東射立山石立山ノ両峯ノ間ニヲ波多伊登ノ双岸ヲ限
伊豫土佐ノ高山ヲ隔後ハ阿波ノ中川ヲ境ヒ内ナル伊宇山テハ樹々ノ精
ニ赤白ノ伊宇ヲカケ (略)


麻殖氏人集リ来リテ吾大御神ヲ斎キ祀レバ神代ヨリ皇孫ヲ守護
シ奉リシ勲績ヲ思召出サレ歴朝ノ天皇御崇敬不浅幾度トナク
奉幣ノ勅使ヲ立サセラレ神人其位階モ赤四國第一等ナレハ
四國第一ノ大宮トシ三里四方ヲ玉垣ノ内伊宇山ト称シ霊廟ノ地ナルカ故
ニ不浄ヲ禁シメ汚穢物彊内ニ入ル事ヲ許サス山分ヲ二ツニ別チ忌部射立
ノ両立ニ属シテ二郷トシ西ヲ忌部ト称シ眞正ノ誠ヲ守リ赫々ノ神威ヲ表シ
東ヲ射立ト号シテ偽ノ醜ヲ払ヒ蕩々ノ霊跡ヲ示ス山ナキ処ヲ里分トシテ
二ツニ別チ川島ノ郷ニハ御祓ノ氏人ヲ居エ末代不易ノ冥福ヲ祈黒島ノ郷
ニハ信仰ノ侘族ヲ住セシメテ本社常守ノ幸徳ヲ感セシム共ニ(略)

・・・・安堵シ比ノ内ヲ別当社人楽人ニ迄是分與シテ如斯祭式
如在ノ禮敬ナシヌル処豈圖ランヤ天文二十一年八月三好氏細川家ヲ亡シ自
カラ阿波屋形ト號シ忠良ノ徒ヲ誅シ又神社仏閣ヲ破却シ焼尽ス比時神田
供免迄横領スルニヨツテ吾一門ノ輩トモ敵封不叶讃岐國丹生ノ
山中ニ身ヲ退ケルノ世ヲ忍ヒ潜居セショリ只今ノ如ク衰敗ノ極ニ至リ神明ノ
加護モナク天道ノ衰憐モナキ澆季ノ秋ニ逼リヌレトモ日月末タ地ニ墜チ子ハ遥々頼
シク思ヒ侍リテ子々孫々ノ形見トシ斯ノ系譜ラ寫シ留置者ナリ若又後裔興ラントスルノ
時比記録ヲ見テ麻殖一郡ハ及ハストモ忌部祖神御神霊在麻殖内山ノ兵火ノ障リナキ
是耳神ニ祈ルナリ
上古社領拾五萬貫モ武家ノ世ニ改マテ四千貫トナリ共後千五百貫ニ減少ナリ
無念ニ月日ヲ患ヒテ過参リ一党ヲ保ツ事ノミ修徳新ノ如シ

元和二丙辰春弥生三日 麻殖景光書

玉垣の内外の固めをかたくしていう内山を守れ氏人
故郷のいう内山の志けるには比ここになげける涙なるらん

そして「麻植」の名はもう一度消されてしまいます。
平成の市町村合併の大波の中、消えてしまいました、今度こそ本当に。
新市名についての住民投票は行われたものの。

市名の由来
はがき、封書、FAX、メールにより、2002年(平成14年)7月1日(月)から8月5日(月)にかけて実施された新市名称募集に対し、2396通(うち有効2284通)の応募があった。その結果896種類の名称が集まり、一位の麻植市と二位の吉野川市に絞り込んだ上で第七回合併協議会で協議し、吉野川市の名称が決まった。
wikipedia

麻植郡合併協議会より
投票結果のように「麻植市」と「おえ市」で408票、「吉野川市」の205票の2倍近い得票数がありながら結果は「吉野川市」となってしまいました。
済んでしまった結果に異を唱えても詮無いことでありますので、今更蒸し返すこともありませんが、当時の議事録を読んでおりますと、ほとんどの委員が「麻植」の由来を全く知らなかったということに愕然といたしました。
建国に大きな役割を果たした「麻植」の名は永久に失われてしまったのです。
「吉野川」の名を使っておかないと、どこかに先に使われたら困る、とかの理由の為に。
まあ、それだけでもないようですけどね。


議事録(部分)を見てみますと、

最初には

との認識は示したものの


委員会としては「吉野川市」を推すとし


との歴史を鑑みての意見も出ておりましたが

の意見の後

との意見を以って結論は出された模様です。

こうやって「忌部」の名が冠せられる遥か以前より連綿と続いてきた、あるいは二千年に垂(なんなん)とする「麻植」の名は、今度こそ完全に途絶えてしまったのです。
もう二度と復活はしないでしょう。
まあ、今更言ってもしゃーないですけどね・・・

もうちょっと書き足りないこともありますが、上の文を書いたら何だか気が抜けてしまったので、一旦ENDとさせていただきます。
機会があれば追記の形で出させていただきます。

こんな気分(笑)