2013年3月31日日曜日

延喜式内社 宇母理比古神社

阿波國続(後)風土記についてはもう少しだけ続きますが、こればっかりでも飽きてしまうので(書いてる方が)ちょっと違う記事も入れてみます。

徳島市八多町森時に鎮座する延喜式内小社「宇母理比古神社」です。
もしかしたら、県内の延喜式内社の中で最もネットに公開されてる写真が少ない神社ではないでしょうか(笑)
場所はここ

より大きな地図で 宇母理比古神社 を表示

そうそう、かの「速雨神社」のすぐ近くです。
御祭神 鵜鷲守神 鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の別名ともいう。
創祀年代 不詳
「宇母理大明神」、「森時大明神」とも呼ばれた古社。近くを流れる八多川の氾濫により、社殿や古文書等ことごとく失われた。明治8年(1875年)に村社に列した。
wikipedia
場所は分りにくく、駐車場は当然なし。
畑を通らずに近づくにも迷いましたとさ(笑)
道路からこうやってかすかに見えてなきゃ帰ってました(笑)


詳しい資料も見つからず、「神名帳考証 阿波國」の部には
古事記ニ ウモリ王アリ。敏達(びだつ)皇子 宇母理王母者庶妹豊御食炊屋姫命
「神名帳考証」がどういう意図で豊御食炊屋姫命(とよみけかしきやひめのみこと)の名を出してきたのか不明ですが、豊御食炊屋姫命とは推古天皇(すいこてんのう)の和風諡号であり、宇毛理王とは敏達天皇と推古天皇の皇子であるのですぞ。

また、ちょっと脇道にそれて
敏達天皇(びだつてんのう)について
欽明天皇の第二皇子。母親は宣化天皇の皇女・皇后石姫皇女。
ですがwikiには

皇后(前):広姫(ひろひめ、息長真手王の女) 敏達4年(575年)薨去
 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、麻呂子皇子)
 逆登皇女(さかのぼりのひめみこ、坂騰王)
 菟道皇女(うじのひめみこ、宇遅王) 伊勢斎宮
皇后(後):額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)
 菟道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ、菟道磯津貝皇女・静貝王) 聖徳太子の妃
 竹田皇子(たけだのみこ)
 小墾田皇女(おはりたのひめみこ) 押坂彦人大兄皇子の妃
 鸕鶿守皇女(うもりのひめみこ、軽守皇女・宇毛理王)
 葛城王(かずらきのみこ、古事記のみ)
 尾張皇子(おわりのみこ) 橘大郎女の父
 田眼皇女(ためのひめみこ、多米王) 舒明天皇の妃
 桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ、桜井玄王・由波利王) 
 押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃 
等とあり、微妙に御祭神と社名とでシンクロしてくるところがなんとも言えません。


古に、八多川の洪水により、社殿や古文書などすべて流出したとの話もあり、由緒については不明な点ばかりです。

で、社名が「宇母理比古」であるからには、やはり「宇毛理王」のことではないでしょうかね。鸕鶿守皇女(うもりのひめみこ)のあたりで、御祭神を「鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」の別名である鵜鷲守神と取り違えたのなら納得です。
ただし、「宇毛理王」って皇女なので「比古」が付くのはおかしいんですけどね。
一応、「大日本神名辞書」にも、こうありますしね。


、なんで「ど田舎、徳島」の、さらに田舎の「八多町」に(書いててつらいのよ)「宇母理」を冠する神社が祀られているのか、考えて下さい。
また、他に「宇母理」「宇毛理」を祀る神社があるのか、あれば教えていただきたいのです。

ま、こんなもんかな。
また「阿波國続(後)風土記について(6)」を書かねば(涙)


2013年3月28日木曜日

阿波國続(後)風土記について(5)


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その5。
前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
読んでない方は見てから戻ってきてね。
とはいいつつ、ほとんどエンドレスの様相を催してきました(笑)
でも、こんなこと書いた時は、案外すぐ終わるんだよーん。
前回は、純(夏菜)が眠っている愛(風間俊介)の手を祈るようにさすり、声をかけていたが、手術から二週間以上経過しても昏睡状態が続いていることから、医師は今の状態を維持することしかできないと純たちに告げる。
ここまで書いたと.......あ、違う?


後藤尚豊氏の「勝間の井を探る記」を出してたんですね(笑)

 観音寺村にしたらひの池あとてあるを、勝間の池なりと、この里の人、言傅へたるよしなるに、勝間の井の清水は、阿波郡勝命村にあり、とも聞しかば、いかなる事にや、と思ひしからに、勝命村にものして、行かふ里人に、さる名の付池ありや、と、たずねもとめしかど、しらずといへるは、またいぶかしくて、このむら長、がり人をやりてたづぬるに、しらずといへり。かくてかゑらんもあたらしくて、また行先々にてたづねしかば、家あるじと見し人は、しらずといへるに、かたへの人、そはちくさ池ならん、この池かみの御池とつたへしゆへに、と、いへれば、そはいずこぞとたづねしかば、指さしておしゆるがまに〵、行て見るにちひさくて水そこもみゆるばかりの池にて、小溝ありて水流れにいれるを、かたへび稻かる若人にとへば、日開谷の用水の小俣なりといへり。
 此池の名はととへば、みづたまりと申傅へるよし、またちくさ池ともいふや、と、とひしかば、壹人はしらずといへるを、壹人はテツサ池といふとぞいへり。此あたりに年よりありや、と、とへば、かの耳しひたる人なり、今壹人あるや、と、とへば、女なれどかしこにあり、と、ゆびさすまゝに、人をやりてとへど、こもしたずといへり。
 さるからに、かゑらんとせしかども、またかの女年寄がりものして、おのれもゆきて、 このテツサ池といへるより、ほかに池ありや、と、たづねしかば、なしとこたへり。
かの老人は、この三十年あまり、あなたよりやみて、ともに得いでずといへば、まづしき人のさばかり長くやみて、さぞくるしかるべしとて、ものなんどとらして、かの家をいでて、このむらよりちかき、中のむらには、しる人もあなれば、行てとはばやと、ものする道のかたへに、ちいさな池は處々にあり。
 行かふ人にこのむらの名は、と、とへば勝命なりといへるぞ、あとさきうちあわぬ、里人のいひことやと思へり。
 さてせんすべなみに、中野村へ行かばとひ見んとて、ゆきてかの心ざす人は、と、とへば、るすなりといへる。
 さるにはや日は、山の端にいりぬべきころとしなれば、とむるをいなみて、いそぎわかれをつげぬ。
 さて道をはやみ、ゆけども〵道はかどらで、火ともすころほひに、からうじて善次坂といふにいたれり。
 この坂地はいとど木ふかく、くらしともくらきに、足もとあしく、身もたをるばかりなるを、つゑもてさぐり、道をもとめてやゝ行々て、木だちもうすく、四日の日の月の雲の間に見えそめしぞ、ありがたしや。

勝間井の清水にはあらで久かたの雲間の月を木の葉がくれに

となん、つぶやきながら、この坂本より拾町ばかりをゆきて、よべやどりしおのがうから、細井氏にゆきつきぬ。

明治五年正月以後に書かれたようです。阿波郡西林村に養母の実家があり、そこに泊まって、勝命村を調査した時の手記です。
ご覧のとおり、その辺りで尋ねまくっても「しらず」とか池があっても「みづたまりと申傅へる」とか。
「みづたまり」は笑ってしまいますね。
で、一日探し疲れて、日が暮れて「つゑもてさぐり、道をもとめてやゝ行々て」ようやく宿地の西林村與頭庄屋 細井栄次郎氏宅に帰り着く訳です。
そして、
「勝間井の清水にはあらで久かたの雲間の月を木の葉がくれに」
勝間の井なんて無かったじゃないか、などとぼやきの一句を呟きながら帰るのです(笑)

あー、自分を見てるようですな(笑)
写真は「勝命神社」


と言う訳で後藤氏の勝間井探索は失敗したのですが、後藤氏知ってか知らずか、これ以前にも勝間井を調べていた人がおりました。
阿波の国学者「野口年長」(1780-1858)
松浦長年の師でありますこの方、著書「粟の落穂(三)」の中で「勝間井の清水」と題する一文を記しております。






さて勝間井の冷水を亡友七條清川が考に、名東郡観音寺村に、元暦二年、源判官、勝浦より讃岐へ(き(「そうにょう」に「小」)給いし時、此所にて馬の口洗ひし冷水也とて、今も義経の馬の舌洗水といふあるを、それなりといへど、餘に據(よりどころ)もなければ、おのれは諾(うべな)はず。安政元年春、慶長二年の分限帳に所付あるを得たり。其中、赤堀某の知行462石の内36石、阿波郡勝間井とあるは、きはめて其所なるべしと思ひければ、何村ならむ、しらざりしを、勝命村に勝間井といふ池ありとききて、即ち彼地へゆかばやと思へど、其頃さはることありて、えものせで、中川真幸(阿波郡市場町伊月の式内社事代主神社の祀官)神主をたのみしに、やがてかしこにいたり、見もし、聞きもしに、勝命村の西に勝間井といふ小名あり、そこに冷水はなし。隣村大俣村の南にスケノカタと云ふ所に二坪計(ばか)り、深さ三尺五寸計りの冷水ありて、此水二反計りの田にかかれり。勝命村よりも六町程あり。是なん勝間井の冷水なるべしと云ひおこしけり。

なんと野口年長、七條(藤原)清川の友人であったのですね。
安政元年春に多分、老齢のため、自分はいけないので、阿波郡市場町伊月の式内社事代主神社の祀官である、中川真幸に調査を依頼しております。
結果「勝命村の西に勝間井といふ小名あり、そこに冷水はなし。隣村大俣村の南にスケノカタと云ふ所に二坪計(ばか)り、深さ三尺五寸計りの冷水ありて、此水二反計りの田にかかれり」と、スケノカタの池を勝間井ではないかと結論づけております。
友人である、七條清川の説は
「餘に據(よりどころ)もなければ、おのれは諾(うべな)はず。」
と却下しております。
この辺りは、官と在野の差で物言いが違ってくるんでしょうか。
が、やはり友人であります。
七條清川について最後の方でこうも書いています。

清川にも語りあひて、ともにたのしむべきを、年は年長にふたつ弟なれど、をとどし身まかりしはあたらしき事なりけり。さて上にいふべきをわすれたり。むかしは大俣村かけて勝間井といひしを、後に勝命村といひ、西の方を大俣村と名づけしも知るべからず。

「どうだ、俺の調査は。やはり、舌洗いの池じゃないだろう」とか、酒でも酌み交わしながら、夜通し語り明かしたかったに違い有りません。
二歳年下の七條が自分より先にみまかった、淋しさが滲むようです。

野口年長の調査にしても、「勝間井」の地名は有るものの、そこが件の「勝間井」である
証左とはなっておりません。
千数百年の流れは、確証をも流し去っていました。

よっしゃ、勝間井編は一応終わっときます。

あ〜ぁぁぁ。年度末なのにこんなの書いてていいんだろうか。
明日一日保つんだろうか。

阿波國続(後)風土記について(6)に続く。

2013年3月23日土曜日

阿波國続(後)風土記について(4)


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その4。
前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
読んでない方は見てから戻ってきてね。
では、恥さらしの4回目を、なんですが、ちょっと「阿波國続(後)風土記について(3)」の追記という形です。

後藤尚豊氏は、七條淸香(七條文堂)あるいは藤原淸香が「舌洗いの池」を古風土記逸文にある「勝間の井」であるとしたことに対して、反論の一文をしたためる訳なんですが、その全文を出しておきます。
前回でも「きっついなぁ」と思ってたんですが全文を見るとキツいなんてモノじゃない(笑)まずは見て下さいませ。


文のはじめに曰く、風土記は元明天皇の和銅六年云々。
続日本紀巻の六に出たる文を取れしと見ゆれど、永代無盡蔵には和銅五年諸国の風土記を作る云々とも有、尚尋ぬべし。また朝野群載廿一の巻に、諸国に風土記を召す官符は、延長三年と見えたり、されば此の一條も此時のかもしられざれば、かく一むきには言いがたかり。また出雲風土記なる天年五年は、群書一覧に元明天皇の諸国の風土記を撰せられし、和銅六年よりは廿一年後にして、醍醐天皇の官符を以て諸国の風土記を召されし延長三年よりは、百九拾二年前なり、されば和銅より延長まで、二百年ばかりの間に、早く亡失するもの多かりしにやと書り、かゝれば仙覚大人がとりしは、いつのよなりしや、しられず。

何處のもうせて全く世に傅はれるは、たゞ二三ヶ国に過ぎざりけり。

これも群書一覧を見れば、今たま〵全部するものは出雲一国のみ云々、伊勢・豊後これに次ぐ云々とありて、伊勢国は桑名郡・員辨郡・度會郡の殘缺一巻、豊後のは球珠郡・大野郡・海部郡・大分郡・速見郡・國埼郡一巻とあれば、日田・直入・速水の郡々はなし、さればともに殘缺なり、かかればこゝに二三ヶ国に云々と書ては、書ざま如何におもほゆ、出雲をきわやかにしるし、餘は殘缺なるゆへよしを、記すべくなん。

名東郡観音寺村に、したらひの水といへる有て。

したらひとはあれど、したらひの水と書しは、御検地帳等にはなし、さればしたらひと書來れる有てと、書てよかるべし。

古老いへらく、元暦の昔、源廷尉、屋島の討人に云々。

古老いへらくとはしるされたれど、正等庵のかの縁起に、元暦の亂に廷尉源義経、讃州八島へ發向の時云々と、あるによくにたれば、全これをとれるならん。
里人、勝間の井と答へき。勝間とはよき祥なりとて、軍人皆手洗ひ、口そゝぎ、下つながれに馬ひきいれて、足あらはせしより、しかよび來れりといへる云々。
是もかの縁起に、士卒の喉を潤し、乗馬に水飼給ひしより、里人又此井を舌洗ひと名付けたり云々、水の名も元勝間の井といへるにより、才智の大将、吉例を祝し給ひ云々、と書るをとれりと見へたり。
此水に古へ髪を束ぬる時、狭根葛をひたして櫛けづりし由、記したる書ありしが、今はうしなへりと語り傅へたるは、かの大御櫛笥の忌てふことの餘波成云々。
是もかの縁起に、大師のいへる言の中に、時の后女の御くし笥の水に、とり用ひ給ひしにより云々の言に似たり。
そもそも、この淸香といひし人は、いにしへしぬぶ人とは見ながら、其人となりはしらず、世にはあしわざする人もあれば、勝間の井のふるごとを、仙覚大人が万葉集の抄に引用せるにて、めずらしく見いでて、その處をたづねわびしころ、したら井の清けき水と、かの縁起とを見て、おのがたづねわびしころなれば、めづらかには有ながら、かの佛ざまの、例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく、さながらすつるもおしく思へられて、かくしらずがほに、少し巻文をかへ、古老にたくして書きしものと、おのれはおもほゆ、いかにあらん、後の人かふがえさだめてよかし。
もし淸香ぬし、仙覚大人が抄をめづる人なれば、かならず別の紀より見いでしなれば、其書名をものすべく、はた今は此書書きしころより、三十四年をへてはあれど、里人に勝間の井となへしことは、淸香ぬしの言より前かたには、傅へもなかりしやうに言ればなり。もともかの縁起はあれど、これも天正の兵火、また追加には元禄庚午ともあり、庚午は元禄三年にあたれり、さればふるくもあらざるうへに、年號も名もなかゝるものを、うつしつたふるには、いできし年月をしるせし名ばかりは、近きよになりてはもらすべきにあらず、されば近きころ、ふるめかさむとての、しわざなるべし。もしくは淸香ぬし、あしわざする儈とはかりてものせしか、または淸香ぬしの、古老にたくして書おきしをきゝて、奸儈の淸香ぬしの言によりて、ものせしにもありもやせん。かた〵にうたがわしきことなりかし、今より後うごくまじにあかしを得て、さだめ給へかし。

読めました?
まずは風土記編纂の勅の和銅より延長まで二百年もあったんで、仙覚和尚がいつのことを思って書いたのか、わからんじゃないかと言い出してますね。
次に、御検地帳には「したらひの水」なんてどこにも書いてないと言い。
「古老いへらく...」と言うのも、見つけてきた正等庵の縁起の写しじゃないのか?といちゃもんを付け(笑)
仙覚抄もちゃんとした引用なら、他の書にも記載がどこか残ってるだろと、これも、いいがかりレベルの書き様ですな(笑)他の國の風土記逸文も複数の史書に残ってるものなんて無いのにねぇ。
また、追加の記載も元禄三年のものなんで、全然古くないじゃないと仰っております。
後年、新事実が発見されて、その時に記載されたのなら古くなくてもおかしくないと思うんですがねぇ。
そして「または淸香ぬしの、古老にたくして書おきしをきゝて、奸儈の淸香ぬしの言によりて、ものせしにもありもやせん」ってねぇ.....
淸香が古老が言ったと騙ってるんじゃないかって、言ってるんですぜ.......
最後には
「かた〵にうたがわしきことなりかし、今より後うごくまじにあかしを得て、さだめ給へかし」
と、「ひじょーに疑わしいので」「今後確たる証拠を調べ出して」証明してやるぜ、って

仰っております。
そこまで言わずともって、ため息が出てきますねぇ。

個人的にはあの近辺、観音寺木簡も出土してる程、古くからの要衝ですし、なにしろ「国造本紀」にあるところの、阿波國造の祖として、倭建命の皇子である「長田別命」が国府町の尼木にいたほどですので、全くない話じゃないと思うんですがね。

写真は出土した観音寺木簡

すんません、寄り道してしまいました。
勝命村へ行きましょう。
後藤尚豊氏の「勝間の井を探る記」よりです。

観音寺村にしたらひの池あとてあるを、勝間の池なりと、この里の人、言傅へたるよしなるに、勝間の井の清水は、阿波郡勝命村にあり、とも聞しかば、いかなる事にや、と思ひしからに、勝命村にものして、行かふ里人に、さる名の付池ありや、と、たずねもとめしかど、しらずといへるは、またいぶかしくて、このむら長、がり人をやりてたづぬるに、しらずといへり。かくてかゑらんもあたらしくて、また行先々にてたづねしかば、家あるじと見し人は.........

あ、ここまでしか入力できてないや(笑)続きは
「阿波國続(後)風土記について(5)」で。

(あぁぁぁぁぁ、石を投げないで下さい〜)

ところで、このまま続けてもいいのでしょうか?ちょっとは面白いんでしょうか?

2013年3月19日火曜日

阿波國続(後)風土記について(3)


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その3。
前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
読んでない方は見てから戻ってきてね。
では、恥さらしの3回目を(笑)

かつて、国府町観音寺には「勝間井」なるものがあり、その畔には「正等庵」なる庵があり、一枚の板碑があったと言う。
後藤翁はこう記す。

觀音寺村の舌洗の池といふを勝間井などといへる㕝につきて
此池をかの風土記なる勝間の井なりといへる㕝(こと)は、辨財天・正等庵の縁起に見ゆるぞ、おのが見しはじめなりけり。されどことふみ作りし人の名も、年月もしるされず、また七條(藤原)淸香ぬしの天保十亥年の文あり、その文、板にえりて摺りしものを見たり、されど其文おのれがめには、いかにぞやと見なすところのあなれば、そをいひいでゝ、後の人のかふがへをまたましとて、あげつらふこと左のごとし。もとも名も年月もしるされざるものには、名東郡圖、または、村附舊跡記、抔あり、こは淸香ぬしの文より、後とも前ともうつせしものにあなれば、見わきがたかり。尚つぎつぎたずぬべし。

その板碑は下図のようであったという。
ちなみに大正三年の舌洗い池の写真
平成25年の舌洗い池と説明の看板




七條(藤原)淸香の記す全文に着いては下記....なんですが
ごめんなさい、入力する気力が切れてしまったので画像で......
いわゆる、源義経が屋島に向かう際にこの井の名を村人にたずね、勝間の井と答えたところ、勝間とはよい兆しであると喜び、兵士や馬の口をそそいだとの伝説を紹介しており、元は「したらひの水」であるという話です。
ここが、阿波國(古)風土記に云う「勝間の井」であると書かれております。

この文に対して後藤翁はこう書きます。

そもそも、この淸香といひし人は、いにしへしぬぶ人とは見ながら、其人となりはしらず、世にはあしわざする人もあれば、勝間の井のふるごとを、仙覚大人が万葉集の抄に引用せるにて、めずらしく見いでて、その處をたづねわびしころ、したら井の清けき水と、かの縁起とを見て、おのがたづねわびしころなれば、めづらかには有ながら、かの佛ざまの、例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく、さながらすつるもおしく思へられて、かくしらずがほに、少し巻文をかへ、古老にたくして書きしものと、おのれはおもほゆ、いかにあらん、後の人かふがえさだめてよかし。

うわぁ、強烈な一文でありますこと。
この七條淸香(七條文堂)あるいは藤原淸香という人は板野郡七条村字中村馬立の出身で徳島に出て、名医と云われた人だそうです。国学、和歌を京で学び、「阿波國風土記」の「勝間の井」に興味を持ち調べるほどに、この結論に達したようです。
その淸香を後藤氏は
「世にはあしわざする人もあれば」とか「例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく」とか、きっついですなぁ。
で、この「例のきたなき處よりいでし縁起」なんですが、後藤翁が探し出してきております。なんで「例のきたなき處よりいでし縁起」なのかが分らないし、読んだ限りでは特におかしな縁起でも無さそうなんですがねぇ。
まあ、この観音寺近辺も後藤氏の管轄であったようでいわば所領内のこと、充分すぎるほど知ってる場所なんで、なにか思うところもあったんでしょう。

すんません、これも転記する気力、体力が失せてしまったので画像にさせて下さい。
「舌洗辨財天縁記(起)」


要は弘仁年中、嵯峨帝の御宇に僧空海がここにどんな旱魃にも涸れることのない井戸を掘り、里人が「渇を」「免れた」ので「渇免(かつま)の井」と呼び、それが「勝間」となったとの大意です。
後は、この地に龍石ありとか、善女龍王を勧請して雨乞いを行なったとか、お決まりの縁起がつらつらと書かれております。
ちょっと気になる箇所もありますが、おおよそは、そんなもんです。
これを見る限りは、古風土記に云う「勝間の井」とは考えづらいところがあり、後藤翁もこれを見て「あーあ」と思ったとか思わなかったとか、ですかね。
どちらにしても、「ここじゃない」と思ったことは確かです。
でも、ここで諦めてはいないんですね。
さらに「勝間の井」が「阿波郡勝命村」にあるとの情報を得ます。
そうですね、勝命村に調査に出かけるのです。

この「勝命村」の「勝間の井」のことは、かの野口年長も知っており、勝命村の隣、大俣村「スケノカタ」にあるのではないかと、考えていたようですが、老齢のため調査に出向くこともできなかったそうです。
この勝命村に勝間の井があるというのは、どうも水戸藩の「大日本史」が出処らしく

香美(今の香美村に、香美原あり、秋月の西南にあり)に勝間井有り。日本武尊、櫛笥を井に遺す、因りて名づく。(仙覚の万葉抄に、阿波風土記を引き、本書に云ふ、俗に櫛笥を謂ひて、勝間と為すと)

とありますが、どこから香美村の名が出てきたのかは不明です。
さあ後藤氏、調査に出かけるのですが、

ごめんなさい「阿波國続(後)風土記について(4)」に続きます。
(ぜんぜん、話が進まんなぁ(涙))

2013年3月16日土曜日

阿波國続(後)風土記について(2)

3月9日(土)阿波古事記研究会より、その2。
前回は「阿波國続(後)風土記について(1)」読んでない方は見てから戻ってきてね。
では、恥さらしの2回目を(笑)


4.後藤家文書について

この「阿波国風土記編輯御用掛」のメンバーのうち、後藤尚豊氏はは国府、早渕の庄屋であり、重要な責務を負っておりました。
(写真左が後藤氏。明治十年)

その一部は鳴門教育大学に残る「後藤家文書」に一部かいま見ることができます。
この、後藤家文書のうち「阿波國続風土記」に関係する文書23通、そのうち筆者名の記載されているものは、わずかに一通でありますが筆跡を見るに後藤氏のものであることは間違いないように見受けられます。
下に文書の一部を出しますが、これも鳴門教育大学の許可を得ておりませんので、部分といたします。

 
これは文書が保存されていた包み。

調査項目や範囲を規定した文書や「阿波国風土記編輯御用掛」就業規則(笑)についての文書も残されていますが、今回はその部分は割愛いたします。

後藤尚豊氏は「阿波国風土記編輯御用掛」に選任された後(多分明治2年頃)、直ちに「阿波國史逸文」の編纂に着手します。
これは古今の文書より、阿波の来歴を探ろうと云う試みです。
この文書の本文は現存していないませんが、目録と引用書目だけがかろうじて記録されていたので、下記に資料として掲示いたしますが、その前に「阿波國史逸文」の序文を転記いたします。



阿波國史逸文

こたび、みけむかふ阿波の國の、風土記を編輯せよと、玉だすきかけまくもかしこき、大御ことをかかぶるからに、まづこの國のことを、ふるくもあたらしくも、ふみちふふみの、あるがままに、あさりもとめて、そをしも、ものにしるしつけてなん、そのよさあしさを、かふがへみばやと思ひなりぬ。かくてまづはじめに、おのがいへにもたるかぎりを、ともをわかちしるしいでて、こたびこのふみゑらむことをすべしり居つる人、松浦ぬしに見せてなん、このひとのひめもたるところのふみども、おのが見しらぬふみどもをもかり、またこの國に住と住諸人のもたるかぎり、あさりもとめてさきのことどもをわかち、この國のことゝしいへば、あさぢはらつばら〵に、のこるくまなくかきしるし、さておのがちからのかぎり、よさあしさをあげつらひさだめて、さてこのことうけたまわれるもろびとにみせてなん、よさあしさのゑらみをこひもとめ、さだかならぬ名どころをばゆきもし、またはさとびとのおいびとなどのいひつたえをきゝもし、またはところのさまを見あきらめ、そがありさまをかきととのへて、松浦ぬしにみせてなんかのひとにあげつらひ、さだむることをもとめなばよかましとなん、けふのあかときごろよりしるしそめて、巻の名を阿波國史逸文となん名付ぬ。
かくゆふは延長の頃、勤子内親王のおほんおほせをうけて、源順朝臣の和名類聚抄かゝれしころは、ところの名を名方のゑくりのさとといひしを、今は名東郡早淵村といふところの民、後藤麻之丈、明治四年文月廿九日の日の、朝日の豐さかのおるとき、かくなんこのふみのはしにみづからしるす。
御國内の物ら事らをあさり見て紀撰め言御言かしこし
おふけなき御言にし有らば朝霄のいぬるをかきて労む我は


自分の家に持っている限りの文書を別けて印をつけ、松浦主に見せ、この人の秘蔵する文書、自分が見も知らなかった文書を借り....(意訳)
調査を始めます。
前回書いたように「阿波国風土記編輯御用掛」のメンバーに選ばれたのは神職をも含む、いわゆるえり抜きのメンバーでしょう。
そして相当な知識階級であったと思われる庄屋の後藤氏が「見も知らぬ」文書を松浦主が秘蔵していたと.....。
目録と引用書目は転記する手間がなかったので、参考とした「後藤尚豊雑稿」を掲示します(まぁ、手抜きですな)
 クリックして拡大↓
書名については、知ってるのも知らないのもあります。2、3調べてみた限りでは

●「正卜考」は1844(弘化1) 伴 信友(ばん のぶとも)著
対馬國の卜部亀卜に関する文書

●神代正語(かみよまさごと) 本居宣長著
「古事記」上の巻つまり「神代の部」を仮名書表記したものです。
「古事記伝」の出版を前に出されたもので、弟子で尾張徳川家家臣の横井千秋の要請によって著したと序文にはあります。本来「漢字のみで表記されている『古事記』本文」を仮名交じりで表記することにより、「古への意(こころ)」を失うことなく、読みとることができるのではないかと考えられて、主に古学(国学)初心者対象に書き著したとのことです。

●「神字八文伝」は「神字日文伝」の誤記か?

という感じで、その他の書名に関してもGoogleで検索した程度では全く引っかからないほどです。
が、結局「阿波國史逸文」が完成した形跡はなく「ともをわかちしるしいでて」終わってしまったのかも知れず、あるいは書物として完成させる予定がなかったのかもしれません。最終的には「続風土記」の形になればいいんですから。

続いて「阿波国後風土記起稿」の方針に基づき、あるいは松浦氏の指令により「阿波風土記逸文」の調査に取りかかります。

前回(1)の「風土記逸文」で見ていただいた「萬葉集註釋」いわゆる「仙覚抄」に記載されている「阿波國(古)風土記」逸文の中で、実際に調査し得る項目はいくつもありません。
もう一度記載すると

(1) 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
 阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

(2) 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)
  中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
 阿波國風土記ニ見エタリ。

(3) 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)
 阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。

(4) アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
 阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

(5) 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)
 阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。

このうち実際に調査できるとすれば「(5)勝間井(萬葉集註釋 卷第七)」しか無さそうなのは理解いただけると思います。
なにしろ「勝間井の冷水。此より出づ」ですから。

そうです。
後藤氏は、この「勝間井」の調査に取りかかるのです。



引きを作って(笑)次回「阿波國続(後)風土記について(3)」に続くってか。
ちょっと前回より短い?

2013年3月15日金曜日

阿波國続(後)風土記について(1)

と、いう訳で(どーゆー?)まあ、恥をさらした3月9日の内容を改めてお出しいたしまするんですが、もしかしたら書いてるうちに内容が変わってくるかもしれませんが、そこはそれ、指差して笑っていただければ(やだなぁ)それもアリでございましょう。

ではでは


1.風土記(ふどき)とは

風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。
元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。
『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。
ただし、この時点では風土記という名称は用いられていない。記すべき内容として、

 1 郡郷の名(好字を用いて)
 2 産物
 3 土地の肥沃の状態
 4 地名の起源
 5 伝えられている旧聞異事

が挙げられている。
完全に現存するものはないが、『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。
 その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。
ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。
Wikipediaより

ちなみに、いくらかの参考書を調べた限りでは、元明天皇勅の「古風土記」編纂の目的については定説が無いそうです。
つまり、何のために編纂されたか未だに不明だと言う事です。
事実、この「古風土記」後年利用された形跡がほとんど残っていません。わずかに一、二例を挙げるのみです。
編纂後すぐに庫蔵されたとの説もありました。

ただ、文書の性質としては、古事記のように官製の史書といったものではなく、上記にあるようにいわゆる伝承、説話等の色が濃く出ています。
それ故に、内容については逸文を含め懐疑的な立場を取る学者さんも多数いらっしゃるようです。


2.風土記逸文

阿波国風土記とは
「阿波国風土記」については逸文が残るのみで、一説には、明治初期まで阿波藩に存在したとの説もありますが、実際の所行方が判っていません。
これまでに確認されている逸文は主に五節。萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されているものがほとんどです。
下に出典を著しますと。

(1) 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
 阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。

(2) 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)
  中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
 阿波國風土記ニ見エタリ。

(3) 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)
 阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。

(4) アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
 阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。

(5) 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)
 阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。

下図は「仙覚抄」勝間井の部分。


また、『拾遺采葉抄』第三,二五四番歌條に

大門ナタセト,阿波國風土記曰,波高云云.明石浦セトナシ.ナタナルヘキヲヤ
と、あるそうですがこちらの方は出典が確認できてません。

※「拾遺采葉抄」
由阿(ゆあ、正応4年(1291年)- 天授5年/康暦元年(1379年)頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての時宗の僧・万葉学者。正しくは由阿 弥陀仏。
遊行上人2世他阿真教の門弟となり、相模国清浄光寺に住して『万葉集』の研究に没頭した。1365年(貞治4年/正平20年)関白二条良基に招かれ、翌1366年(貞治5年・正平21年)上洛して『万葉集』を講じて自ら著した『詞林采葉抄』を献上した。このとき74歳であった。仙覚の伝統を受け継いで実証的な研究を進め、『拾遺采葉抄』『青葉丹花抄』などを著した。


また、『日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』のなかに、

  阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う。

という逸文があると紹介されています。

あるいは、最近見つけた「名西郡鬼籠野村 郷土誌」。
内容としては神山の鬼籠野村(当時)ないし神領村に阿波国造(くにのみやつこ)の館があったと云う内容です。


要は、風土記とは、天皇に献上させた「官撰の地誌」なのです。
天皇の勅命で、それぞれの地方の特徴や歴史を書け、と言われたのです。
ただし、素直に書いて提出したのではないような気配もあります。
自国の地誌を提出すると云う事は、地勢や地形、その他軍事的にも重要な項目を曝してしまう事にもなります。
当時、まだ天皇に従わなかった(従いたくなかった)國もあるでしょう、完成までに数十年から百年近くかかった國もあるようです。

では、この萬葉集註釋にある阿波国風土記逸文を見ていきましょう。

(1)は、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。書く理由がありません。
そのところを気に留めておいて下さい。

(5)は、倭健(やまとたける)命の伝説です。この「勝間井」は現存します。
倭健命は各地をまたに掛けて活躍していますが、阿波に寄ったという歴史は、通説ではないということになっています。
もちろん事実はその正反対で、命の生まれ育ったのが阿波なのですが、解説は省略します。
阿波国風土記では、倭健天皇命(やまとたけるのすめらみこと)と記され、常陸国風土記とともに「天皇」と称されています。
しかも「天皇」は本来「すめらみこと」と呼ばれ、「天皇」よりも「天皇命」のほうが書き方として正確と指摘する学者さえいます。

(4)は、阿波の郷土史家が、阿波が日本の本つ国であるという根拠として多用する一節です。
各国風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ、という主張の根拠のひとつとなっています。
しかもその内容は、
「天」より「降り下りたる大きなる山」が阿波の「元山」で、
「ソノ山ノクダケテ」、「大和國に降り着きたる」、のが「天の香具山」
だというのです。
これをもって「大和国」は「阿波の分国」と解釈します。

但し、研究者によっては異論もあります。大和国成立の時代は、風土記が記された時代よりも後なので、本来の原文には「大和国」ではなく「倭国」と記されていたはずだというのです。
これはもっともな指摘で、平成の現在でも混同されていますが、その混同は千年も前からのことと考えられ、写本の際に書き換えられた可能性は非常に高いと言えるでしょう。

「大和国」は、仙覚律師の解釈で書き変えられた可能性があります。
「倭国」が阿波であるということが分からず、「香具山」は「奈良の山」という固定観念があれば、頭を捻るしかないからです。

そもそも、仙覚は万葉集でも歌われる有名な「香具山」を調べようとして「大和國風土記」を見るのですが、そこに香具山は登場せず、他の風土記を当たって「阿波國ノ風土記」に行きつくのです。詳細は省略しますが、「倭」も「カグ山」も阿波のことなのです。

この一節に関係する逸文は、伊予國風土記にも見えます。

天山 (釋日本紀 卷七)

伊予の國の風土記に曰はく、伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。

この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになります。
 伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要があります。

また、『神代紀口訣』に、
風土記にいわく、天の上に山あり、分れて地に堕ちき。 一片は伊予の国の天山と為り、一片は大和の国の香山と為りき。
という記述があります。
ただし、この「風土記」を「大和国風土記」と解釈する説、上記の「伊予國風土記」逸文のこと、と解釈する説の両方があります。



3.阿波國続風土記あるいは阿波國後風土記

明治政府は政府発足後、修史事業を開始します。
 1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。
しかし1877年(明治10年)に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。
またこの際、『大日本史』を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。

この過程で阿波藩も明治政府、あるいは明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。
これが、「阿波国風土記編輯御用掛」です。
ただし正式に発足されたとの記録は残っていません。
長久館は明治2年の発足であるが「小杉年譜」には「藩学に於て着手せる所」との記載があり、それが長久館の前身である「寺島学問所」のことであれば、発足は明治以前に遡る可能性もあります。
というか、「古風土記」の研究はそれ以前、あるいは蜂須賀家の阿波國入国の時より続いていた可能性もあるのです。
かの「野口年長」も「勝間の井」の調査を行っていた記録もあります。


さて、「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」には

明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模な編纂が企てられたが、同五年の廃藩とともに廃止された。この編輯掛には多田をふくむ多くの国学者・儒学者が出仕していた。

とあります。
この「阿波国風土記編輯御用掛」とは?
昭和8年12月、阿波国国府町の後藤尚豊翁手記の記録が子孫である後藤捷一氏の書簡として残っているという記載が「阿波郷土会報」の文書を集めた「ふるさと阿波」に「阿波国書誌解説」としてありました。
その手記の内容は「風土記編纂掛名面」。
上記「阿波国風土記編輯御用掛」メンバーの一覧です。
以下自分のブログに書いた文章を記載します。

土記編輯御用掛 長久館出仕 松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤 士族五人御扶持
常三島 渡辺 圓
八木 正典
御弓町 郡 一郎平
佐古 椎宮下神職 生島 瑞穂
南分右同惣而士族御用取扱 板野郡坂東村神職 永井 五十槻
郷学所ヘ出ルニ付除ク 阿波郡尾開村士族 四宮 哲夫
同郡香美村神職 浦上 美澤
美馬郡上野村神職 二宮 香取
三好郡盡間村神職 近藤 忠直
麻植郡山崎村郡付卒 久富 永治郎
名西郡諏訪村神職 多田 義高
明治四年末七月二十三日 名東郡早渕村郡付卒 後藤 麻之丈
勝浦郡小松島浦 八木 佳七
那賀郡吉井村 服部 友三郎
同郡大京原村 高石 延吉
海部郡郡奥浦 桂  弥平
同郡牟岐浦神職 榊  枝直
従事セヌウチニ転 同郡同浦神職 阿部 三豊
ジタラシキニ付除ク
徳島 小杉 榲郎
                 名東 新居 正氏ヲ脱セルカ

とありました。小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。

そして名面の説明です。

◆松浦 宗作(長年)
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」
松浦氏は、大彦命の裔との説がある。
また出雲には100代以上続く式内社・水神社を祭祀してきた松浦氏がおり、関連が伺える。

◆渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿

◆生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。

◆永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)

※永井精古 ながい-きよひさ
1772-1826 江戸時代後期の国学者。
安永元年生まれ。家職の阿波大麻比古神社の神職をつぐ。讃岐の山中豊前,備前(岡山県)の小寺清先(きよさき)に,のち伊勢(三重県)の荒木田久老(ひさおゆ)に師事し,神典復古学をとなえた。文政9年3月19日死去。55歳。著作に「引板音(ひたのおと)」「阿波国式社略考」など。


◆四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四

◆浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四

◆近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。

◆久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七

◆多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。

◆後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六

◆八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇

◆服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)

◆高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)

◆桂  弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)



●小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)
天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)国学者。
徳島の人。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に
師事。
安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。
文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。
明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。
廃藩ののち、名東県に出任した。
明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として
『古事類苑』の編集に従った。
明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、
その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事し、
明治32年(1899年)、美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。
明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある

●後藤麻之丈(後藤尚豊)氏については、国府町早渕の人で、後藤家文書にも出てきます。
庄屋を勤め、後藤家文書内では「麻之丞」となっています。
後藤捷一氏がその子孫です。
●名西郡諏訪村神職 多田義高氏についてはきちんと調べてはいませんが、現在の石井町
浦庄近辺の神社、日吉神社、王子神社、斎神社の神主が多田姓の方なので前記の神社の
神職であった方だろうと思われます。
また鴨島町近辺の神職が多田姓の方が多いです。

●同様に「浦上美澤氏」も現在の市場町、天満神社、若宮神社、八幡神社、住吉神社
八坂神社、建布都神社等の神職が浦上姓の方です。

●美馬郡上野村神職 二宮 香取氏は忌部神社の神職が二宮氏です。

ほんとに藩を上げての一大プロジェクトだった訳ですね。
で、麻植郡川田村神主早雲兵部所藏。

というわけです。
徳島県民で多少なりとも県史をかじった方なら、これがどんなに凄いメンバーか判っていただけると思います。

代表者は松浦 宗作、サポートが、かの「小杉榲邨」。
「阿波国風土記編輯御用掛」は明治五年の廃藩とともに廃止されましたが、編纂の過程で
多田直清「村邑見聞言上記」、後藤尚豊「阿波国名東郡郷名略考」、久富憲明「麻植郡風土記」などの資料が残されました。

後から判ったのですが、やはり一部では存在が知られていて「阿波国続風土記」と呼ばれてもいたようなので、以降「阿波国続風土記(あわのくにしょくふどき)」と記していきます。
内容は上記解説にあるように「阿波國風土記編輯雜纂 」。
中止された、阿波藩庁版、「阿波国風土記」の「原稿」です。
前書きと第一章は松浦 宗作氏の手に寄ってなされ
第一巻は久富憲明の署名で始まり、ほとんど校了前の状態が伺えますが、二巻目以降は全くの「雜纂」状態です。


さて、この「松浦宗作」の手に寄る「巻之一初稿」「阿波国は本当に粟国なんですか?」でも書かせていただきましたが、とんでもない内容です。
全部を書き下ろす作業がまだできておりませんので、内容は徳島県立図書館のライブラリをご覧いただければと思いますが、県立図書館には公開の許可を得ておりませんので、最初の数ページだけをご紹介と云う事で掲示いたします。


この「松浦宗作(長年)」野口年長の門人とありますが、野口年長が「阿波の国は粟のよく実ることより名付けたる」などと書いているにもかかわらず、これほどの説をしたためております。
まさに、タダモノではありません。
機会があれば、きちんと説明したいと思いますが、大和連も尾張連も海部と同祖であるとも書いております。
思うに、これはまだ遠慮した書き方で、実は海国(あまくに)の海部氏が大和連や尾張連の祖であると書きたかったかのようにも見えてしまうのです(あくまで個人的にね)



さてと、出だしはこんなもんでいかがでしょうか?
なかなか「ぐっ」と来る物があるでしょ(飲み過ぎで気分悪いのかって?違〜う!)
それでは「阿波國続(後)風土記について(2)」でお会いいたしましょう。





2013年3月11日月曜日

ちょっと待ってね(いや、待たないで)

3月9日に阿波古事記研究会にてちょっとだけお話をさせていただきました。
石やタマゴが飛んでこなかっただけメッケものです。
まあ、まさか待ってる人はいないでしょうけど、ろくな記事もないので、その時の話をアップしようと思ってたんですが、今週ホントに忙しくて週末頃になりそうです。
資料は、石井古事記研究会の会長さんに渡した、ボクの説明用に作ったのがフルバージョンなんですが、それだけでは「なんでぃ、これだけかい」って言われるのが関の山なんで、ちょっとだけ追加してアップしますんで
「待たないで下さい」


2013年3月6日水曜日

淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)

ちょっと徳島県外が続いておりますが、個人的には関連してる先にしか行ってるつもりはありません(笑)
で、今回は、淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)です。
場所はここ

より大きな地図で 淳仁天皇 淡路陵 を表示

本当なら「西淡三原インター」で降りて、31号線を南に10分くらいで着くはずなんでしょうが、ケチ臭く「淡路島南インター」で降りたもんで、余分に20分位かかってしまいました。

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。 wikipediaより


代数:第47代
■天皇名:淳仁天皇(じゅんにんてんのう)
■御 父:舎人親王
■御 母:大夫人山背
■御陵名:淡路陵(あわじのみささぎ)
■陵 形:山形
■所在地:兵庫県南あわじ市賀集
宮内庁ホームページより



760年の光明天皇薨去後、孝謙天皇と弓削の道鏡と関係に、危機感を感じた藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、二人の関係を告発する。孝謙天皇はやむおえず出家し高野上皇となったが、ほとんど院政に近いかたちで実権を握っていた。
藤原仲麻呂の新羅出兵の近づいた天平宝字8年(764年9月11日)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱は起きる。激戦の内に、高野上皇(孝謙天皇)から仲麻呂は逆臣としてみなされ、一転して仲麻呂軍は反乱軍となった。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)らは、みな高野上皇(孝謙天皇)の側についた。藤原仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味徒党34人が捕らえられ、湖畔で斬られた。
淳仁天皇は、仲麻呂の率いる軍勢もなく、衣服もはきものもそこそこに、母と3、4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まって、淡路流配の身となった。翌年の天平神護元年(765年)10月、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」と記されている。死因不明。
薨年33才。

「続日本紀」には「天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽慎ニタエズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、接高屋連 並木等、兵ヲ率イテコレヲサエギル。公、還リテ明日院中に於テ甍ズ」とある。


この淳仁天皇陵より南に数百mのところに、母親である「当麻山背(たぎまのやましろ)」の墓がある。
 先の淳仁天皇陵もそうだけど、ここも訪れる人もなく、とにかく静かに佇んでいるだけでした。

両方ともご覧の通り、古墳に陵墓が作られております。
無論、誰の古墳であったかは不明ですが、系統の一族であったであろう事は想像に難くありません。

また、藤原仲麻呂は藤原不比等の孫、率川神社に阿波神社を勧請した藤原是公は藤原仲麻呂の甥。仏教に傾倒する孝謙天皇に対して感じていたのは、道鏡に対する政治的危機感だけではなかったでしょう。
あるいは藤原是公は737年の藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂ら、いわゆる藤原四兄弟の天然痘による死に何かを感じていたのかもしれません。

暗殺の疑いが濃い淳仁天皇は、怨霊としてやがて、皇室を悩ますが故に、宝亀3年(772年)に、光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めました。

うーん、書きたい事の十分の一も書けてませんが、話は「大和大國魂神社」に移りますが、少し間が空いてしまうかもしれません。