と、いう訳で(どーゆー?)まあ、恥をさらした3月9日の内容を改めてお出しいたしまするんですが、もしかしたら書いてるうちに内容が変わってくるかもしれませんが、そこはそれ、指差して笑っていただければ(やだなぁ)それもアリでございましょう。
ではでは
1.風土記(ふどき)とは
風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。
元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。
『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。
ただし、この時点では風土記という名称は用いられていない。記すべき内容として、
1
郡郷の名(好字を用いて)
2
産物
3
土地の肥沃の状態
4
地名の起源
5
伝えられている旧聞異事
が挙げられている。
完全に現存するものはないが、『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。
その他の国の風土記も存在したはずだが、現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみである。
ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。
Wikipediaより
ちなみに、いくらかの参考書を調べた限りでは、元明天皇勅の「古風土記」編纂の目的については定説が無いそうです。
つまり、何のために編纂されたか未だに不明だと言う事です。
事実、この「古風土記」後年利用された形跡がほとんど残っていません。わずかに一、二例を挙げるのみです。
編纂後すぐに庫蔵されたとの説もありました。
ただ、文書の性質としては、古事記のように官製の史書といったものではなく、上記にあるようにいわゆる伝承、説話等の色が濃く出ています。
それ故に、内容については逸文を含め懐疑的な立場を取る学者さんも多数いらっしゃるようです。
2.風土記逸文
阿波国風土記とは
「阿波国風土記」については逸文が残るのみで、一説には、明治初期まで阿波藩に存在したとの説もありますが、実際の所行方が判っていません。
これまでに確認されている逸文は主に五節。萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されているものがほとんどです。
下に出典を著しますと。
(1) 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
(2) 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)
中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
阿波國風土記ニ見エタリ。
(3) 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。
(4) アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。
(5) 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)
阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
下図は「仙覚抄」勝間井の部分。
また、『拾遺采葉抄』第三,二五四番歌條に
大門ナタセト,阿波國風土記曰,波高云云.明石浦セトナシ.ナタナルヘキヲヤ
と、あるそうですがこちらの方は出典が確認できてません。
※「拾遺采葉抄」
由阿(ゆあ、正応4年(1291年)- 天授5年/康暦元年(1379年)頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての時宗の僧・万葉学者。正しくは由阿 弥陀仏。
遊行上人2世他阿真教の門弟となり、相模国清浄光寺に住して『万葉集』の研究に没頭した。1365年(貞治4年/正平20年)関白二条良基に招かれ、翌1366年(貞治5年・正平21年)上洛して『万葉集』を講じて自ら著した『詞林采葉抄』を献上した。このとき74歳であった。仙覚の伝統を受け継いで実証的な研究を進め、『拾遺采葉抄』『青葉丹花抄』などを著した。
また、『日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』のなかに、
阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う。
という逸文があると紹介されています。
あるいは、最近見つけた「名西郡鬼籠野村 郷土誌」。
内容としては神山の鬼籠野村(当時)ないし神領村に阿波国造(くにのみやつこ)の館があったと云う内容です。
要は、風土記とは、天皇に献上させた「官撰の地誌」なのです。
天皇の勅命で、それぞれの地方の特徴や歴史を書け、と言われたのです。
ただし、素直に書いて提出したのではないような気配もあります。
自国の地誌を提出すると云う事は、地勢や地形、その他軍事的にも重要な項目を曝してしまう事にもなります。
当時、まだ天皇に従わなかった(従いたくなかった)國もあるでしょう、完成までに数十年から百年近くかかった國もあるようです。
では、この萬葉集註釋にある阿波国風土記逸文を見ていきましょう。
(1)は、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。書く理由がありません。
そのところを気に留めておいて下さい。
(5)は、倭健(やまとたける)命の伝説です。この「勝間井」は現存します。
倭健命は各地をまたに掛けて活躍していますが、阿波に寄ったという歴史は、通説ではないということになっています。
もちろん事実はその正反対で、命の生まれ育ったのが阿波なのですが、解説は省略します。
阿波国風土記では、倭健天皇命(やまとたけるのすめらみこと)と記され、常陸国風土記とともに「天皇」と称されています。
しかも「天皇」は本来「すめらみこと」と呼ばれ、「天皇」よりも「天皇命」のほうが書き方として正確と指摘する学者さえいます。
(4)は、阿波の郷土史家が、阿波が日本の本つ国であるという根拠として多用する一節です。
各国風土記のうち、天地初発より記された風土記は阿波国風土記のみ、という主張の根拠のひとつとなっています。
しかもその内容は、
「天」より「降り下りたる大きなる山」が阿波の「元山」で、
「ソノ山ノクダケテ」、「大和國に降り着きたる」、のが「天の香具山」
だというのです。
これをもって「大和国」は「阿波の分国」と解釈します。
但し、研究者によっては異論もあります。大和国成立の時代は、風土記が記された時代よりも後なので、本来の原文には「大和国」ではなく「倭国」と記されていたはずだというのです。
これはもっともな指摘で、平成の現在でも混同されていますが、その混同は千年も前からのことと考えられ、写本の際に書き換えられた可能性は非常に高いと言えるでしょう。
「大和国」は、仙覚律師の解釈で書き変えられた可能性があります。
「倭国」が阿波であるということが分からず、「香具山」は「奈良の山」という固定観念があれば、頭を捻るしかないからです。
そもそも、仙覚は万葉集でも歌われる有名な「香具山」を調べようとして「大和國風土記」を見るのですが、そこに香具山は登場せず、他の風土記を当たって「阿波國ノ風土記」に行きつくのです。詳細は省略しますが、「倭」も「カグ山」も阿波のことなのです。
この一節に関係する逸文は、伊予國風土記にも見えます。
天山 (釋日本紀 卷七)
伊予の國の風土記に曰はく、伊與の郡。郡家より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山(あめのかぐやま)あり。
天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ。本(ことのもと)なり。
この天の山に関する逸文は「阿波」と「伊予」の風土記にのみ見られるものであり、二つを合わせてみると、
まず、「天」があり、そこから「阿波」に降り下った山が「元山」であり、その元山から砕け別れ着いた山が「倭」の「香具山」である。
「伊予」の「天山」は、倭の香具山の兄弟山で、親山は「元山」ということになります。
伊予國風土記には、「大和」ではなく「倭」と記されていることにも注目する必要があります。
また、『神代紀口訣』に、
風土記にいわく、天の上に山あり、分れて地に堕ちき。 一片は伊予の国の天山と為り、一片は大和の国の香山と為りき。
という記述があります。
ただし、この「風土記」を「大和国風土記」と解釈する説、上記の「伊予國風土記」逸文のこと、と解釈する説の両方があります。
3.阿波國続風土記あるいは阿波國後風土記
明治政府は政府発足後、修史事業を開始します。
1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。
しかし1877年(明治10年)に財政難のため修史局は廃止され、代わって太政官修史館が設置された。
またこの際、『大日本史』を準勅撰史書と定め、編纂対象も南北朝以降の時代に変更された。
この過程で阿波藩も明治政府、あるいは明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。
これが、「阿波国風土記編輯御用掛」です。
ただし正式に発足されたとの記録は残っていません。
長久館は明治2年の発足であるが「小杉年譜」には「藩学に於て着手せる所」との記載があり、それが長久館の前身である「寺島学問所」のことであれば、発足は明治以前に遡る可能性もあります。
というか、「古風土記」の研究はそれ以前、あるいは蜂須賀家の阿波國入国の時より続いていた可能性もあるのです。
かの「野口年長」も「勝間の井」の調査を行っていた記録もあります。
さて、「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」には
明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模な編纂が企てられたが、同五年の廃藩とともに廃止された。この編輯掛には多田をふくむ多くの国学者・儒学者が出仕していた。
とあります。
この「阿波国風土記編輯御用掛」とは?
昭和8年12月、阿波国国府町の後藤尚豊翁手記の記録が子孫である後藤捷一氏の書簡として残っているという記載が「阿波郷土会報」の文書を集めた「ふるさと阿波」に「阿波国書誌解説」としてありました。
その手記の内容は「風土記編纂掛名面」。
上記「阿波国風土記編輯御用掛」メンバーの一覧です。
以下自分のブログに書いた文章を記載します。
土記編輯御用掛
長久館出仕
松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤
士族五人御扶持
常三島
渡辺 圓
同
八木 正典
御弓町
郡 一郎平
佐古 椎宮下神職
生島 瑞穂
南分右同惣而士族御用取扱
板野郡坂東村神職
永井 五十槻
郷学所ヘ出ルニ付除ク
阿波郡尾開村士族
四宮 哲夫
同郡香美村神職
浦上 美澤
美馬郡上野村神職
二宮 香取
三好郡盡間村神職
近藤 忠直
麻植郡山崎村郡付卒
久富 永治郎
名西郡諏訪村神職
多田 義高
明治四年末七月二十三日
名東郡早渕村郡付卒
後藤 麻之丈
勝浦郡小松島浦
八木 佳七
那賀郡吉井村
服部 友三郎
同郡大京原村
高石 延吉
海部郡郡奥浦
桂 弥平
同郡牟岐浦神職
榊 枝直
従事セヌウチニ転
同郡同浦神職
阿部 三豊
ジタラシキニ付除ク
徳島
小杉 榲郎
名東 新居 正氏ヲ脱セルカ
とありました。小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。
そして名面の説明です。
◆松浦 宗作(長年)
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」
松浦氏は、大彦命の裔との説がある。
また出雲には100代以上続く式内社・水神社を祭祀してきた松浦氏がおり、関連が伺える。
◆渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿
◆生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。
◆永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)
※永井精古
ながい-きよひさ
1772-1826 江戸時代後期の国学者。
安永元年生まれ。家職の阿波大麻比古神社の神職をつぐ。讃岐の山中豊前,備前(岡山県)の小寺清先(きよさき)に,のち伊勢(三重県)の荒木田久老(ひさおゆ)に師事し,神典復古学をとなえた。文政9年3月19日死去。55歳。著作に「引板音(ひたのおと)」「阿波国式社略考」など。
◆四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四
◆浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四
◆近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。
◆久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七
◆多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。
◆後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六
◆八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇
◆服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)
◆高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)
◆桂 弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)
●小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)
天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)国学者。
徳島の人。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に
師事。
安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。
文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。
明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。
廃藩ののち、名東県に出任した。
明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として
『古事類苑』の編集に従った。
明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、
その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事し、
明治32年(1899年)、美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。
明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある
●後藤麻之丈(後藤尚豊)氏については、国府町早渕の人で、後藤家文書にも出てきます。
庄屋を勤め、後藤家文書内では「麻之丞」となっています。
後藤捷一氏がその子孫です。
●名西郡諏訪村神職 多田義高氏についてはきちんと調べてはいませんが、現在の石井町
浦庄近辺の神社、日吉神社、王子神社、斎神社の神主が多田姓の方なので前記の神社の
神職であった方だろうと思われます。
また鴨島町近辺の神職が多田姓の方が多いです。
●同様に「浦上美澤氏」も現在の市場町、天満神社、若宮神社、八幡神社、住吉神社
八坂神社、建布都神社等の神職が浦上姓の方です。
●美馬郡上野村神職 二宮 香取氏は忌部神社の神職が二宮氏です。
ほんとに藩を上げての一大プロジェクトだった訳ですね。
で、麻植郡川田村神主早雲兵部所藏。
というわけです。
徳島県民で多少なりとも県史をかじった方なら、これがどんなに凄いメンバーか判っていただけると思います。
代表者は松浦 宗作、サポートが、かの「小杉榲邨」。
「阿波国風土記編輯御用掛」は明治五年の廃藩とともに廃止されましたが、編纂の過程で
多田直清「村邑見聞言上記」、後藤尚豊「阿波国名東郡郷名略考」、久富憲明「麻植郡風土記」などの資料が残されました。
後から判ったのですが、やはり一部では存在が知られていて「阿波国続風土記」と呼ばれてもいたようなので、以降「阿波国続風土記(あわのくにしょくふどき)」と記していきます。
内容は上記解説にあるように「阿波國風土記編輯雜纂 」。
中止された、阿波藩庁版、「阿波国風土記」の「原稿」です。
前書きと第一章は松浦 宗作氏の手に寄ってなされ
第一巻は久富憲明の署名で始まり、ほとんど校了前の状態が伺えますが、二巻目以降は全くの「雜纂」状態です。
さて、この「松浦宗作」の手に寄る「巻之一初稿」「
阿波国は本当に粟国なんですか?」でも書かせていただきましたが、とんでもない内容です。
全部を書き下ろす作業がまだできておりませんので、内容は徳島県立図書館のライブラリをご覧いただければと思いますが、県立図書館には公開の許可を得ておりませんので、最初の数ページだけをご紹介と云う事で掲示いたします。
この「松浦宗作(長年)」野口年長の門人とありますが、野口年長が「阿波の国は粟のよく実ることより名付けたる」などと書いているにもかかわらず、これほどの説をしたためております。
まさに、タダモノではありません。
機会があれば、きちんと説明したいと思いますが、大和連も尾張連も海部と同祖であるとも書いております。
思うに、これはまだ遠慮した書き方で、実は海国(あまくに)の海部氏が大和連や尾張連の祖であると書きたかったかのようにも見えてしまうのです(あくまで個人的にね)
さてと、出だしはこんなもんでいかがでしょうか?
なかなか「ぐっ」と来る物があるでしょ(飲み過ぎで気分悪いのかって?違〜う!)
それでは「阿波國続(後)風土記について(2)」でお会いいたしましょう。