2016年12月25日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(13)

写真は阿波国にて「天比理咩乃命」を祀る「麻塚神社」(通称インベさん)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)
まとめ:大宜都比売命の裔(8)
まとめ:大宜都比売命の裔(9)
まとめ:大宜都比売命の裔(10)
まとめ:大宜都比売命の裔(11)
まとめ:大宜都比売命の裔(12)

『伊豆国神階帳』では伊豆国田方郡に三嶋神の次に「一品きさきの宮」と記載されているが、これは阿波咩命が三嶋大社に招祭されたことによるとされる。wikipedia
との説もあるようです(下図)。
から進めます。

では、三嶋大社の御祭神である三嶋神は「大山祇命(おおやまつみのみこと)」なのか
「積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)」なのか?

粟飯原家系図として「積羽八重事代主神」の后が「大宜都比売命」こと「阿波女神」であり、静岡県下田市白浜の式内社(名神大社)伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、祭神に「積羽八重事代主神」の後后、伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)を祀り、この神社では三嶋神は「積羽八重事代主神」となっております。

阿波からの立場で言えば『どう見ても「積羽八重事代主神」だろ』と言いたいわけで
地元の方も、ちょっと変だと考えたのか、下図「一時代の大山祇命ハ事代主ト異名同躰ナルノ考」なる一文を認(したた)めたりされております。
さもあらんと思うばかりでありまして、もともとは三嶋大社の大山祇神が伊予三島の大山祇社(大三嶋社)」より勧請されたとの説によるものですが、伊予三島の大山祇社はもともと摂津の三嶋鴨神社より勧請されたことは明白であり、その三嶋鴨神社の御祭神が「大山祇神」と「事代主命」であり
創建
創建は不詳。当社は元々淀川の川中島(御島)に祀られていたといい、社伝では仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたという。
上記の『伊予国風土記』逸文によると、大山積神は百済から当地に祀られ、次いで伊予国の大山祇神社に遷座したとされる。同文に見える「津の国の御島」が当社であれば、大山祇神社が大三島瀬戸に鎮座したのが推古天皇2年(594年)とされているので、当社はこれ以前の創建となる。なお、当社では伊豆の三嶋大社へも当社から御魂が遷されたとしている。
一方、事代主神が祭神として祀られていることから、鴨氏の進出が指摘されている。そして、すでに淀川の渡船の神として祀られていた大山祇神(三島神)と事代主神(鴨神)が合祀されたことで、「三島鴨神社」の社名が生まれたとされる。wikipedia



あるいは勧請された御祭神を誤って「大山祇神」だと伝えた可能性も考慮すべきだと考えます。(個人的にはこれしかないと考えてますが)

何れにしても、阿波女神は神津島に渡り、伊豆三嶋に渡り(本人がとは言ってませんよ、阿波女神を祀る一族が移住したと考えるのが妥当でしょう)そこで史上より名が消えてしまうのです。
以降、神名として社史等に一切記録が現れてこないのです。
伴信友「神名帳考証」によれば伊豆より「阿氣大神」が駿河に遷された記録を基に
「安波」も「阿波咩」も「阿氣」も同神
であるとの結論に達しております。
これが天安三年(八五九)。
あるいは斎部広成、大同2年(807年)編纂の古語拾遺 以降、忌部系由来の祭神を祀ることに不都合が発生し、神名を変更せざるを得なかったのか?
どちらにしても「阿波女神」の名と出自が粟凡直の祖先であることが忘れ去られ、ある場合には忌部の祖神であると誤解されたのやもしれません。

関東に残るは忌部の残滓のみという訳で
例えば「房総叢書」によれば
また太田道灌が江戸城をきづきし時、安房の洲崎の神を移し祭りて神田明神とたたえたりと、永亨記に見えたり

また品川神社の由緒に
 後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理咩乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めた。
と記されているのを見ることができるのが精一杯のところなのでしょう。
写真は品川神社「天比理咩乃命」神影

うーん、今回はちょっとわかんないだろーなー。
もちろん、アタクシの文章力のなさが原因なんですけどね(涙)
もう一回くらい説明も追加して、続く













日が変わっちゃったけど
メリークリスマス

2016年12月11日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(12)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)
まとめ:大宜都比売命の裔(8)
まとめ:大宜都比売命の裔(9)
まとめ:大宜都比売命の裔(10)
まとめ:大宜都比売命の裔(11)

前回から長期間空いてしまったのは理由もありますが、言っても仕方ないことで、兎にも角にも語り出した物語は終わらせなくてはならないものなのです。

とは言っても、大宜都比売命・阿波女の足跡を追ってかなり遠くまでやってきてしまいましたが、それにも自ずから限界がやってまいります。

ならば夫神である事代主命の行く先を追うべきでしょう。
それを示す系図が以前まとめ:大宜都比売命の裔(6)で出した

であるわけなのですが。
これまでにも何回か書いてきましたが大宜都比売命こと「阿波咩命」「阿波波神」「阿波神」が「事代主命」の本后として海を渡って赴いた地が 東京都神津島の「阿波命神社」であり、そこから安房神社、三嶋大社へ遷座されたとの由緒なのです。



まず「伊豆三嶋大明神由緒」を確認いたしますと。

御祭神が「積羽八重言代主大神」であり、その御后が「三島溝杭橛姫大神」「伊古奈比咩命」「活玉依毘売命」と見え。
 下の系図でそれが確認できます。
さらに言えば、その御子が「玉櫛媛」こと「媛蹈鞴五十鈴媛命」であり、後、神武天皇の王妃となります。
さらに「事代主神事蹟考」の付録に三宅神(「事代主命」のこと)が当初、三宅島阿古に上陸し后八柱を娶り二十七柱の御子神を設けた、いわゆる「三宅島の事代主」の系図がありまして。

三宅記によれば、三嶋神には八柱の后神がいて、そのうちの「阿波命神社」に祀られるのが「三嶋大社本后」である「長濱の御前」であります(下図)。



すっごく単純に「伊豆三嶋大明神由緒」、「三宅記」を並べて眺めれば「阿波神」「阿波命」つまり「大宜都比売命」が「三島溝杭橛姫大神」に見えてしまうのですが、これは気のせいなのでしょうか?
ただし、単純に決めつけるわけにもいきません。
現在、三嶋大社の御祭神は二柱
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
となっており

三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。
近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。wikipedia

でも、この
噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。
についても2002年頃の説であり、言わせて貰えば、最近注目されだした「三宅記」の記載と「阿波命神社」の存在と由緒を完全に無視しており、これでは余りに手落ちじゃないかと考えてしまいます。
ただ、「三嶋大社本后」である「長濱の御前」にしても「この時点」の本后であり、「三嶋大社」に祀られてからの本后であると断言はいたしません。
ただし、
『伊豆国神階帳』では伊豆国田方郡に三嶋神の次に「一品きさきの宮」と記載されているが、これは阿波咩命が三嶋大社に招祭されたことによるとされる。wikipedia
との説もあるようです(下図)。



「仮に」本后であったとしても、時代的な考証もできておらず、まさか「大宜都比売命」が「三島溝杭橛姫大神」であり神武天皇の王妃となった「媛蹈鞴五十鈴媛命」の母神などとは冗談にも書くことができないではありませんか(笑)。

続く

こんな感じで頑張りました




2016年9月21日水曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(11)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)
まとめ:大宜都比売命の裔(8)
まとめ:大宜都比売命の裔(9)
まとめ:大宜都比売命の裔(10)
というわけで
まとめ:大宜都比売命の裔(11)再開いたします。
前回より粟飯原家に伝わる伝承の幾つかを紹介してまいりましたが

曰く
家主ト為ルベキモノニハ必ズ身体ニ三日月形ノ痕跡アリト謂フ
曰く
子守ヲ雇シ時誤テ児ヲ跨ギタルニ忽チ體スクミ動クニナラス
曰く
宅地ノ裏ニ庵室アリ御庵(ごあん)ト称ス
等々の他、神山というか、大粟山近辺に伝わる伝承として「岩肩彦」あるいは「笑子岩(えびすいわ)」の伝承があります。
大粟氏の著す「大粟比売尊考證」には



神領村高根山に人面嶽といふ処あり
 数十丈の大巖を人面のかたちにきざみたり 目鼻口眉其あさやかに上作なるる見る内に語を問ふのと思ふどおりにて春のうららこのなる日にてみると笑ふめんにみえ天上自然のわざと思へとも必神作又は上代の作なるへし 是等の作者にて岩肩彦と名を伝えし

とあり、粟飯原家住宅近辺より高根の山を撮影したのが下の写真でありますが、四角い枠で囲んだ中を見ていただければ



四角い枠の中を拡大いたします。
「春のうららこのなる日にてみると笑ふめんにみえるところを撮影いたしました。

いかがでしょうか?
「目鼻口眉其あさやかに上作なるる見る」「岩肩彦」がこれだというのです。
さらには、この「岩肩彦」粟飯原家のある栗生野近辺、ほんの2百メートル程度の範囲でしか見られないそうなのです(確認はしてないですけどね)。
粟飯原家当主によれば、これは粟飯原家の守護神であり、大粟家文書によれば、これは「味鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)命」であるというのです。
大宜都比売命こと阿波女神が自分の御夫の像を岩に彫らせたと....
阿遅鉏高日子根神は別名「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とも呼ばれ、「古事記」では、葦原中国平定の段で現れる下照姫の夫であり、鴨氏が祭っていた大和の神であるとの理解が一般的であろうと思いますが、ここでは阿波女神の御夫であるとの記載であります。
この通説と異なる件についての説明は無論「十分に」可能なのですが、相当長くなりますので別稿とさせていただき、本稿ではこういう説が伝わっているとまでにさせていただきます。

さらには大粟家文書によれば
味鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)命ハ阿波女神ノ御夫ニテ粟国造粟直凡等之父神也
名東 名西 板野 阿波 勝浦 那賀 海部等七郡本来ノ人種ハ皆此神ノ氏子ナレハ何レノ人モ詣テ来リテ此神石ヲ拝スヘシ

いわゆる「長の国」に該当する(あるいは重なる)地域が挙げられており、「麻植」などの「粟の国」であった地域は書かれておりません。
これが何を意味するのか。
あるいは「阿波三國説」の傍証となるのか、そのあたりも別稿とさせていただきます。
ただ「個人的」には「大宜都比売命」は長国の出自であると考えており、賀志波比賣命との関連性を検証しております(「今出せ」と言われても困っちゃいませけどね)。
下の写真は 阿南市鎮座の式内社「賀志波比賣神社」と「小門(おど)神社)。



ヒントだけ書かせてもらうと、
下の神社の存在が確認されたから、なんですけど、考証は先が長そうなんで...
千葉県成田市
延喜式内社 麻賀多(まかた)神社
摂社 加志波比売神社(祭神:賀志波比賣命)

ちょっと話が逸れてしまいました。
次回でホントにまとめてこの稿については一旦終わらそうと思います。
でも、ワタクシのビョーキが治ったと思ったら、それは金露梅(県外の人は知らんやろ〜)並みに「あまーい!」。

最終回に続く

2016年7月3日日曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(10)

いよいよ大台の(10)に乗ってしまいまして、そろそろ収束させるべきなんでしょうが実際書けてない事が多すぎて、こんなので終わらせていいのかとの疑問が湧いてくるのですが、そこはそれ無責任を4Kで動画に撮ったような人間ですので、あと数回でなんとなく終わってしまうものと推測いたします(自分の事を推測するなよって?)。

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)
まとめ:大宜都比売命の裔(8)
おっと、リンク貼るだけで疲れてしまいます(笑)

まとめ:大宜都比売命の裔(9)において粟飯原家は自らの出自を露わにし、改姓を願い出たのですが、願いは聞き入れられることもなかったのですが、その文書を以って、今我々はその系統の一端をこのようにして目の当たりにできるのです。

が、見直してみれば、この「粟凡直」の一族、間違った名で記載しれることについては年季が入っておりまして(笑)

 『続日本記』神護景雲元年3月(767)の条に、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められている記載が見られたりします。
乙丑。阿波国板野・名方・阿波等三郡百姓言曰。己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。自此之後。評督凡直麻呂等披陳朝庭。改為粟凡直姓。已畢。天平宝字二年編籍之日。追注凡費。情所不安。於是、改為粟凡直。

阿波国の板野・名方・阿波三郡の住民は「我らの姓は、庚午年籍ですべて直となったはずだが、戸籍にはまだすべて費の字が書かれている。」と申し出た。


画像は「国史体系」より

また余談になりますが、『三代実録』の貞観4年9月の条には「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」とあることから、この吉野川北岸地域に相当数の粟凡直に連なる一党が存在していたことが推定されます。
このことは、「田上郷戸籍断簡」に、粟氏、凡直氏,粟凡直氏が圧倒的多数を占めていることからも実証されますが、それと同時に、この戸籍残簡には、忌部・物部の古代有名氏族とともに服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されておりますが、粟凡直氏を秦氏の一族とするべくの記載はなく、相当複雑な人口構成であったことは想像に難くありません。


「阿波国従五位下行明法博士粟凡直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」

また「千波足尼」が「千葉氏」と混同されたとの記載は前に書かせていただいた通りです。
いずれにしても、神護景雲元年3月(767)に「粟凡直」を名乗るべく願いを出し、およそ1100年余後の明治11年に「粟凡直」であるべく願いを提出していることは、偶然にしては出来過ぎだとの感を得てしまいます。

さて、この大宜都比売命の裔を名乗る一族は、一族であることを守るために多大な犠牲を払ってきたことも事実です。

今回は、本当は語ってはいけない話なのです。
末裔が存在する限り、部外者が書いてなならないのです。

粟飯原家住宅に伺った時、聞いた話によれば、「本家はもうない」。
とのことでした。
その時は、詳しく聞く余裕もありませんでしたが、考えてみれば本家というのは「三日月家」のことなのでしょうか?
で、あるならば、遅かったのです、多分。
粟國國造家の本家は滅びてしまったのでしょうか?
実際のところ確認は取れていません、今後調べなくてはならないでしょう。
粟飯原家文書では「國造本館」はおよそ300年前に消失してしまい、建物の灰のみが残されていたとのことです。
該当する文書の作成時期を考慮すれば、長宗我部の阿波侵攻時期に重なるやもしれませんが、それが原因であるかは不明です。
追記するならば、長宗我部氏は隣の木屋平には侵攻しておりません。

ただし、分家である山西家は厳然と残っています。
これも出すべきか散々迷って、修正の上掲示するという、なんとも中途半端なことをいたします。
現在の粟飯原家ご当主の方です。

誤解を恐れずに言えば、粟凡直の末裔であり、「千波足尼(ちはのすくね)」の末裔であり、あるいは大宜都比売命の末裔であるやもしれぬ、粟飯原家ご当主であります。
粟飯原家文書には幾つかの伝承を見ることができます。

曰く
家主ト為ルベキモノニハ必ズ身体ニ三日月形ノ痕跡アリト謂フ
曰く
子守ヲ雇シ時誤テ児ヲ跨ギタルニ忽チ體スクミ動クニナラス
曰く
宅地ノ裏ニ庵室アリ御庵(ごあん)ト称ス
「御庵」とは一般的には尼さんの庵(いおり)のことであるのですが

宅地ノ裏ニ庵室アリ御庵(ごあん)ト称ス 三日月家は昔女子アリシ時ハ同族中又ハ由緒アル家ノ外縁組ヲナサス猥(みだり?)ニ 他家ニ嫁スル時ハ夫ノ方位負シテ不幸アリト云 女子ニシテ縁組スヘキ家ナキ時ハ尼トナシ終身庵室ニ居ルトスルヲ家法トス

「終身庵室ニ居ルトスル」
ここまでして、一族の血筋を守ろうとしてきたのです。
ちなみに、無礼を承知でご当主に聞くところによれば、やはり女系を(これまでは)守ってきたとのことでした。

書こうか書くまいか逡巡してたんですが、村史の付録に記載があったので、まあ古記録の一部ということで転記ご容赦願いたいのですが、たかだか百数十年前の出来事、差し障りのある場合もございます。
この辺りも個人的に差し障りがあるようならば修正・削除等、如何様にもいたしますのでご連絡願います。

ちょっと短めではありますが、いつもなら5月くらいにいらっしゃる「ウツ」くんが、季節外れの7月にやってきましたのでここいらで一旦切ってしまいます。
いろんな、コメントとかお返事類、返せていない方がいれば、ごめんなさい。
しばらくお待ちください。

一応予定としては(12)くらいですが、時期はわかりません。



続く(と思う)

2016年6月24日金曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(9)

やっと(9)まできましたか、今回で一山越せそうですかね。

まとめ:大宜都比売命の裔(8)

では(8)より続けます。
下図は粟飯原家に伝わる「粟飯原家家譜」であります。


 第五十代、桓武天皇から始まる系図が記されており...

 ご覧のように下総、千葉氏に連なる系図が連綿と記載されております。
あるいは「粟飯原家」に伝わる「千葉氏系図」も粟飯原家文書の中に見ることができ
「平氏千葉姓 粟飯原家系図」と記されております。
内容も「粟飯原家家譜」と同様、人皇五十代、桓武天皇より平氏、千葉氏への系図となっております。

さてここで簡単に一般的な千葉氏と粟飯原氏の由緒を引用しておきますと

千葉氏
千葉氏は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えました。
 平安時代末期、千葉氏の惣領であった「千葉介」は、下総国(千葉県北部から茨城県の一部)の在庁(国府に出仕する地方官僚)としての「介」を称した千葉庄を本拠とする地方豪族で、平家に敗れた源頼朝を同族の上総権介広常とともに、挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島にいたるまで、全国各地に領地を与えられました。
 千葉一族は「妙見」という神を信仰し、移り住んだ全国各地の領地に妙見神を祀りました。妙見は北極星(または北斗七星)を神格化したもので、もともとは「尊星王(そんじょうおう)」という大陸から伝えられた神様です。千葉一族の代表的な定紋である月星紋や曜星紋は妙見を表しているとされます。

粟飯原氏
千葉一族。「あいはら」「あいばら」とよむ。粟飯原氏には二流があって、ひとつは千葉氏の祖・平良文の兄である平良兼の次男・盛家と三男・良定がともに粟飯原郷を領して粟飯原を称した。もう一流は、良文の後裔平常長の四男・粟飯原常基が「粟飯原孫平」を称したともされる。のちにこの二流はひとつになった。

で、阿波粟飯原氏は前回も引用したように
 細川氏の阿波入部に軍監として随従して阿波国へ入った粟飯原氏がある。 細川陸奥守顕氏が建武4(1337)年、阿波・讃岐守護職となって以来、細川一族は阿波・讃岐・土佐・伊予の四国全域の守護職となっていった(伊予守護はのち河野氏)。粟飯原氏については、貞和3(1347)年から2年間、「幕府政所執事」という、幕府最中枢の長官になっている粟飯原下総守清胤があり、この一族が下っていったものか。

 阿波粟飯原氏の当主が明治期に作成した系譜では、古代氏族の粟国造であった粟凡直の子孫とする。ただし粟飯原氏に伝わる系譜及び家紋、伝わる什物などから、古代氏族末裔説はあくまで伝承であり、千葉氏流粟飯原氏流である事は間違いないだろう。この系譜についての論文でも古代氏族と粟飯原氏との接点については否定的である(『阿波国一宮社と「国造」伝承』)。

ただし、一般的な解説によっても
しかし、下総国内に「粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原氏は、武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、「粟飯原」「藍原」を称している。ただ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないだろう。

との見解もあり、千葉氏の氏族が多肢に渡って分派してきた経緯も含め、一部混乱していることは否めないのではないでしょうか。

ちなみに千葉氏家紋は
       ●月星   ●三日月に星  ●三日月    ●九曜
       ●陰九曜  ●丸の内に九曜 ●八曜に三日月 ●丸に三つ星
       ●七曜   ●五つ星    ●丸に六つ星  ●鉄砲角に七曜
       ●並び九曜 ●八曜に三日月

阿波の屋号山西「粟飯原家」家紋は「八曜に月星」のように「見えます」ね。
千葉氏が「妙見」信仰を持って家紋を月星紋に定めた故事に倣ったようにも見えますが、全く同じ紋は千葉氏には見られないのも奇異に映るところです。


ちなみに「女紋」はこのように桐紋となっておりました。

ならば、やはり「粟飯原家」は「千葉氏」の傍流じゃないかとの声が聞こえそうです。
ワタクシもそうじゃないかと思っておりました、これを見るまでは。
 明治十四年に提出された「復姓証左書」

「粟飯原氏」「元の姓である」粟凡直(あわのおおしのあたい)」姓に復す(もどす)ための証拠を提出した書面であります。
         復姓 証左書
     己等一族粟飯原氏ハ本姓粟凡直姓ニ
     シテ粟國造ノ裔ナリ遠ツ祖ハ粟國開
     主大宜都比売神ナリ









ちょっと一休み



上記、驚愕すべき出自、
「己等一族粟飯原氏ハ本姓粟凡直姓ニシテ粟國造ノ裔ナリ遠ツ祖ハ粟國開主大宜都比売神ナリ」
を明白に記したのち、国史における証左を綿々と記し
私云ク粟國造ハ大粟姫神の裔ナルヲ高皇産霊尊ノ孫ト云ヘルハ遠祖ニ係ケタル傳ナリ

 千葉ヲ用ルモ更ニ平氏ニ由アル事ナシ粟飯殿ト云ウ曩租(どうそ)ハ國造本紀ニ云千波足尼ノ名ヲ以テ世々千葉を称セリ故ニ平氏族中ノ千葉氏と混同シテ竟ニ平氏ト誤リ記セシモノニテ....
要は、遠祖「千波足尼(ちはのすくね)」の名を「平氏千葉」と混同して使われたと主張しているのです。

私等は本姓「粟凡直」であるので元の姓に戻して子孫に伝えたい........
一族の名を以っての嘆願であります。

続く