いや、良かったですよ。
天気がもひとつだったのが玉に傷でしたけど。
でも今回書くのは違う事。
書いとかなきゃすぐに忘れてしまうんです。
もう歳なんで、物忘れが良くてよくて。
で、阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」。
「勝命」は「かつみょう」って読みます。
人名とかでは「しょうみょう」と読む場合もあるようですが、ここは「かつみょう」。
場所はここ
より大きな地図で 阿波市 勝命神社 を表示
まず見て下さい。どこを?
どうです、「菊」「菊」「菊」「菊」いいのかい、こんなの(笑)
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)なんですから。
そして、『日本書紀』の一書(あるふみ)にありますように
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。 wikipediaより
伊奘諾尊と伊弉冉尊も祀られております。
創立年代不詳
「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。
菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia
と言われておりますが、よくよく読めば、確たるものは無く
白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041-1111)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている。
で、扶桑明月集(大江匡房記)には
客人宮(女形)第五十代桓武天皇即位延暦元年、天降八王子麓白山。菊理比咩神也。
とありますが、白山に「天降」っただけでなんで白山比咩神なのかは書かれて無くて
「大日本神名辞書」にも
諸説一致せざるを就て考ふるに其白山比咩と称して太古よりの鎮座は菊理媛神にて...
とありますので、やはりいわれなきように思われます。
なんで、こんな事をくだくだ書いたのかといいますと、「徳島県神社誌」を眺めておりますれば、もう一説が出てくるからでございます。
この神社は文化年代に菊理社と称えていたが、天保期の文書に、菊理または九栗と記され嘉永年間より古称に復して九栗と呼ぶようになったという。「徳島県神社誌」
明治四十三年に「九栗若宮金比羅川人神社」を合併し勝命神社となります。
「九栗」が古称なのです、ここは。
名東郡の矢野、延命、尼寺付近が「植栗郷」と呼ばれ、気延山の「気延」は
「木の戸(きのべ)」ではないかと言われます。
また「菊池」姓などは「久久智」より来ている事は明らかです。
ならば「九栗」は「久久里」か。
木の神である久久能智や大気都比売の子の久久年ともつながるのでは、との妄想を
抱きつつ、ここらで体力が尽きてしまう情けないオッサンでございます。
もう一つ材料があればなぁ、もうちょっと面白く書けるのになぁ。
と思いつつ、今日はこの辺で。
あと、この見事な彫り物は文化年間に改築したときの棟梁、麻植郡児島村の大工喜市の手になるものだそうです。