ところで、コメをいたいております皆様へ、名前の欄に何も入れないと「匿名」になるのですが、そうすると「匿名」さんが増えすぎて、どこの「匿名」さんか分らなくなりますので、できれば何かしら入力いただければありがたいです。
ところで「匿名」さんからのご質問は
「勝命という名称はどのようなところから名づけられたのか ご存じでしょうか?」
というものでございます。
より大きな地図で 阿波市 勝命神社 を表示
大体この辺りが「勝命」なんですが、確かに「勝命」って気になる地名ですよね。
「匿名」さんが仰るように地名に「命」が付くのは珍しいように思います。
正直モンなんで書いてしまいますが(笑)確たる由来は出てきませんでした。
一番有力な説が「阿波國古風土記」逸文に記されてます。
「倭建命」が大御櫛笥を落とした泉「勝間の井」があったという故事に寄るというものです。ちなみに「阿波國古風土記」逸文では「倭建命」は「倭建天皇命」と記されているのは有名な話です。
また、慶長二年の分限帳には「勝名」とあり、慶長年間の絵図には「かつミやう」とあり、寛永年間の絵図には「かつみやう村」、やはり「勝間の名」より「勝名(かつみょう)」となり「勝命」と記されるようになったと思われます。
(写真は「勝命神社」)
では「勝間の井」はどこにあったのか?
ここらは
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
阿波國続(後)風土記について(5)
で、みっちり書いたつもりだったんですが、まだまだ修行が足りませんでした(笑)
これを調べてると、出てきました(笑)
画像はありませんが、文面としてありました。
「阿州久千田庄勝間井於善福寺」
これは京都北野社所蔵の一切経奥書に記されているそうです。
この一切経は、当時の将軍足利義満が、明徳三年、氏清とその一族、あるいは戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、壱千百人の僧侶を集めて供養せしめ、引続き応永8年に北野社の社頭に、東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、「北野経王堂願成就寺」と名ずけ毎年10月、10日間に亘って万部経会並経典書写などの仏事を行い供養したものです。
上記奥書はその後数度行なわれた一切経書写のうち應永十七年(1410年)のものです。
善福寺は廃寺となっていて場所は分りませんが(まだ調べてないんっす)久千田庄は久千田村近辺のことと思われ、今の阿波町では久原、大道南、新開、大次郎、大坪、庚申原、四歩一、川添、北ノ名、山王などを言います。
ここに阿波國古風土記」逸文に記される「勝間井」があった訳です。
つまり、「倭建天皇命」がここにいた、少なくともここを通ったということですね。
ちょっと話がズレかけてきました、要は「勝間井」があったため、とワタクシなりには結論付けさせていただきたいと思います。
こんなもんでよろしいでしょうか?
反論は.....していただいても結構です...けど.....(笑)