2011年8月26日金曜日

入田村史

どうも、「ぐーたら」の下手な解説をみるより、直接「入田村史」
見ていただいた方が早いような気もしますので、画像をアップします。
ちょうど狙ったかの如く、家のスキャナが壊れておりますので、デジカメで写しました。
サイズが一定してないとか斜めになってるとかはそのせいです。
ワタクシの性根が曲がってるなんて事は決してありますので。

画像に関しては、出版が大正二年ということですし、公的出版物でもありますので
一般的には著作権の問題は少ないように思われますが、徳島県立図書館所蔵であります
ため、全ページの掲載は差し控えます。
最も関心があろうかと思われる、沿革から宗教の辺りまでを掲示致します。
最終ページを見ての通り、以降「教育」「戦役」「人情風俗」となりますので。

画像はほとんど縮小せずにアップしてます、クリックすれば元のサイズで表示される
はずですが、画像をクリックしても拡大表示されない場合は下のリンクより
ぐーたらのPicasa Web Albumに入ってください。
そっちの方が見やすいかも。
Picasa Web Album_入田村史

ではでは、ご堪能くださいませ。ご感想や解釈等いただければ「ラッキー」でございます。
(注)転載等はご遠慮ください。

表紙

序文

目録

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2011年8月25日木曜日

そうだ、葉っぱを売ろう

いつまでも残暑で暑いざんしょ。
ああっ、帰らないで!

というわけで、前の記事の続きをお待ちの御奇特な方もいらっしゃいますかもしれませんが
ここは、もう少々お待ちいただけますでしょうか。
ちょっと忙しくてバテバテなのと、書こうと思ってる事が案外底深くて書ききれません。
(浅くしか書いてない?承知しておりますです)

で、ちょっとお目汚しにこんな記事を。
「そうだ、葉っぱを売ろう」
映画化もされますこのお話は。あ、まちがっちゃった。
ワタクシがそんな話をするわけないじゃないですか(そんなこともないけどね)
今回は、入田町の広報誌「しょうじゅ」より。

入田町の歴史

前略

また、山林が全面積の70%を占めているにもかかわらず、この地区の林業には、何ら見るべきものもない。そのなかにあって、いま県内随一を誇っているのが、苗木・植木・盆栽などの生産販売である。これを育て上げたのが、海先の人、森本喜三郎(1805〜1909)である。
喜三郎は、文政三年(1820)山野に自生する古木・花木を掘出して、徳島市街の町家に売り歩いて好評を博した。これに自信を得て、さらに播種・挿木・接木の方法を研究し、これを公開して植木生産の指導に努めた。また、一方では従来の行商のほかに大御和神社・丈六寺・立江寺・地蔵寺・安楽寺などの市において、販売する事をすすめ、販路の拡張に努めた。大正元年(1912)には三十五万本を生産し、その収入は二万円に達したという。
当時の入田村の歳入が七三五八円余りであったことをみれば、いかにその生産が莫大なものであったかを知ることができよう。喜三郎は明治四十二年(1909)七月八日、百四歳の高齢をもって世を去った。海先に建っている記念碑は、いまも苗木・植木・盆栽の生産の繁栄を静かに見おろしている。

後略

へ〜、村の歳入7358円の時期に植木を売って、その3倍弱の2万円の収入。
横石さんもびっくり!
じゃないでしょうか。(写真はちょっとお借りしました)
いまでも植木市はやってますね。ちょっと個人では入って行きにくいですが。
値札がついてないんで、そうゆー交渉の好きな方はいいんじゃないですか。

では、本日はこれにて。

では、ちょっと淋しいんで入田村名の起源など。

埴土郷は入田より上山(神山)までの総称なりと神領の埴生女屋神と村名の関係趣味あり
埴土郷につきて按ずるに垂仁天皇御宇殉死の禁ありて野見の宿禰の言を御嘉納あらせられ
皇紀三十二年皇后後の崩御あらせらるるや出雲國土部壱百人を喚し上せ自ら土部等を領し
埴を取りて人馬及種々の物の形を作り以て生人に易へんと請う天皇大いに喜び給い
厚く野見の宿禰の功を賞給いて陶地を給い土部の職に任じ給ひしによりて本性を改めて
土部の臣とす
是より土部の連代々天皇の喪葬の事を掌り又太古は其職一定して此地の一部に住するものは即ち土師の民なるべく此等の子孫の繁殖せしを以て郷名を埴土(土師と通ず)の郷と命名せしなるべく後世に至るも製陶の業を以て専職とせる者の居住せしなるべし。
本県原始時代の製陶所は左の四箇所のみと
名方郡埴土郷=入田村に推定す
名方郡土師郷=天神、芝原、高原、第十、高畠等(菅原清公の領土たり三地方)
麻植郡土器谷
美馬郡曾江山(陶の山)

入田村史より


2011年8月20日土曜日

龍神の社(1)

これまた不定期で龍神伝説の残る神社などについて書いていこうと思います。
シリーズばっかり増やして収拾つくのか?という自問自答を残しながら始めてみます。
まあ、大体「始めよければ全てよし」、と公共事業といっしょですね(笑)

「八大龍王神社」徳島県神社誌では単に「龍王神社」となっております。
住所としては石井町藍畑となりますが、Mapを見ても判りますように
(おーいGoogleMapさん「大龍王神社」になってるよ)
この辺りは「竜王」という土地でございます。

より大きな地図で 豊玉姫を祀る神社 を表示

御祭神は「豊玉比売命」
綿津見神の娘。邇々芸命が大山津見神の娘木花佐久夜毘売との間にもうけた
火遠理命(山幸彦)と結婚し、鵜茅不合葺命を生みました。その際、出産の姿を見てはならないと言っておいたのに火遠理命(山幸彦)は約を違えて覗いてしまいます。

すると、なんと豊玉比売命は龍の姿だったのです。(市原悦子風に)

日本書紀 神代編では
後豐玉姫、果如前期、將其女弟玉依姫、直冒風波、來到海邊。 逮臨産時、請曰、妾産時、幸勿以看之。 天孫猶不能忍、竊往覘之。 豐玉姫方産化爲龍。
と書かれております。

憶えておいてほしいのは豊玉姫と名の付く延喜式内社は全国に二社、それも阿波國にしか
ないってことです。
天石門別豊玉比賣神社(雨降神社)
和多都美豊玉比賣神社(王子和多都美神社) です。
なおかつ、この近辺には「豊玉比売命」を祀る神社がけっこうあります。
下のMapを見てください。
上に挙げた
雨降神社
王子和多都美神社
の他に「王子神社(豊玉比売神社)」「青木神社」「広浜(濱)神社」
そして今回の「八大龍王神社」などです。

より大きな地図で 豊玉姫を祀る神社 を表示
ついでのついでなんですが、「豊玉姫」の父親である「海神」「海神豊玉彦
(わたつみとよたまびこ)」を祀る神社は神戸に「海神社(わたつみじんじゃ)」として
ありますが、阿波にはズバリ「少童(わたつみ)神社」としてあることを書いておきます。

残念な事に、この「八大龍王神社」についてははっきりした由緒が残ってないのです。
洪水に見舞われ、今の場所に移った程度です。
あ、いかんいかん写真をまだ出してないっすね。
これがね、着いた途端に土砂降りになってやんの。
狙いすましたように(笑)いや、行く前から嫌われたかなって感じです。
雨粒が写ってるの見える?

神社内末社にはこのように「龍神祠」が祀られております。
あと、なぜか猿田彦神が祀られていたりしますが「船戸神」との関わりでないかと
思ったり、思わなかったり(どっちだよ)。
でね、「豊玉姫」についてはこの石井町に伝承が残ってて、むかーしに書いた記事の
豊玉姫の機織り」を見て欲しいんですけど
あろうことか、あるまいことか「豊玉姫」は石井町高原で82歳でみまかったそうです。
それが「烏の森」。
これも、むかーしに「烏の森」と「天皇さん」で書いたんですけどぉ。
一応ね。
だーれも、なーんにも言ってくれないけどぉ(←すねてんのかよぉ)
取ってつけたように王子神社(豊玉比売神社)こと烏の森の写真を貼っておきます。


おっと、何のテーマだか分らなくなってまいりました。
こんな事で続くのでしょうか。
不安を抱えたまま、本日はこの辺で。

次回はもうちょっと龍神の話を入れますんで。




2011年8月19日金曜日

大麻町 舞姫神社

いかんわ、書く事(書けと言われてる事)が溜まりすぎてパンク寸前ですわ。
「入田村史」に付いて書こうと思えば、てんこもりの資料を読まなきゃならないし
「阿王塚」について書こうと思えば、板野、鳴門の地名から地図から調べにゃならないし
「龍神」について書こうと思えば・・・

で、フェイント!
女性向けのオサレな神社を紹介して、ご機嫌を取ろう!
あ、これいいなあ。
「舞姫神社」
場所はここ。板野郡大麻町板東。

より大きな地図で 舞姫神社 を表示
ね、オシャレでしょ。一応Webで簡単に検索かけたけど全国で「舞姫神社」は他になさそう
です。で、場所は説明が難しい。二度目行っても迷ってしまいます。
此の写真ではちょっと扁額が見にくいですかね。
こじんまりした社殿です。
板東駅の近く、住宅地の間って感じです。
御祭神は「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」一柱のみ。
当然、日本最古のダンサーであり、芸能の神様でもあります。
舞姫神社とは言い得て妙でございましょう。
これもちょっと写りが悪くてごめんなさい。
ダンスとか、舞踊をやってる方がお参りに行くといいんじゃないですか。
で、なんでここへ行ったかって?
そりゃ、やっぱり受け狙いでしょう。
近くにもう一つの「宇志比古神社」があったり大麻比古神社にも猿田彦命が祀られて
パートナーの天鈿女命がこんな近くに居るとか、徳島市明神町に「大麻比古神社
(おおまひこ)」があってそこの御祭神が猿田彦命であるとか、そんなことは全く
気になりませんので。



2011年8月16日火曜日

宅宮神社 神踊り 2011

平成23年8月15日に行われた宅宮神社の神踊です。
デジカメの動画で撮影したので、あんまりきれいに撮れてないかも。
宅宮神社の神踊りについては以前に書いた
宅宮神社 神踊り」を見てね。










ちょっと毎日の更新はきついんで、説明等は割愛します。

2011年8月15日月曜日

入田町 麻能等比古神社

え〜、本当なら8月15日の宅宮神社の「神踊り」か龍神伝説シリーズ(1)を書こう
かなと思ってたんですが、急遽変更しちゃいます。
ちょっと前に県立図書館でコピーしてきた「入田村史」これがとんでもない。
読んでて腰が抜けるかと思いました(日頃「腰抜け!」と言われてるのは別ね)。
Wikipediaで入田町を見ると、


地名の由来 
『入田村史』によれば、景行天皇の代の121年、阿波国など5ヵ国に分置された蝦夷の俘囚が、この地を「ニウタ」と呼んだことが地名の始まりである。アイヌ語で「ニウタ」は周囲を山で囲まれた田園を意味する。


などと書いてありますので、「なんじゃこりゃ」と思ってた方もいようかと存じますが
改めて原典を確認致しました。
大正二年版です。
上の「アイヌ語」云々もそそられるところでございますが、今回は「麻能等比古神社」に
ついての記載をご紹介致しませう。
場所はここ


より大きな地図で 入田町 天神社 を表示

徳島市入田町天ノ原にある「天神社」に合祀されています。

入田町の天神社については、以前拙のブログでも「入田町 天神社」として書かせていた
だいております。
に詳しく書かれております。勝手に引用させていただいて恐縮ではございますが

「大嘗祭」の「阿波に秘められた古代史の謎」から引用させていただきます。
「阿波誌」は「麻能等(まのと)」は「水門(みなと)」也とし、水門の神である速秋津比古(はやあきつひこ)命とする。
私見としては「天ノ門(あまノと)」の彦(大人)の「あ」が落ちて「まのとひこ」となったと考える。
というのは、記紀では高天原のことを「天」とも「天ノ原」とも表しており、入田町天ノ原が地形上高天原の戸口(関所)にあたることや、すぐ上流の広野に高天原と葦原中つ国との境界を意味する「天返(あまがえし)」の地名があり、その間に古代の舟だまりの地に祀られた前掲の船盡比売神社が鎮座するからである。
つまり、神社名は、高天原の入口を守る神の意(天ノ門の大人 あまのとのうし)で、これにより奥には他者の舟は通さず、その掌職は岐(ふなと)を守る神でもあったので、水門の神(速秋津比古命・前掲の船盡比売は速秋津比売神)とされたものと思われる。

その辺りも踏まえて「入田村史」の「麻能等比古神社」の項を見てみますと


麻能等比古神社
は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや、下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社の本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。
神像は大古のものにして、其材料は木か、金か石か、土かは鑑定に苦む程なれども圖の如き神像にして、底面に麻能神社小工生(?)五郎作とあり(圖は略す)

猿田彦神社の本社(元社)は三重県伊勢市の猿田彦神社や鈴鹿市の椿大神社ではなく
ここ」だと言っているのです。
とんでもないですよね。でもワタクシ的には「ここならば繋がる」んです。

天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。 wikipedia

これは、まんま「オフナトはん」じゃないですか。

また、
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。
天狗伝説は「すぐそこ」の西龍王山(建治寺がある場所)で有名ですよね。
そして

邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
とあります奥様の「天宇受売神」は?
これも近くの「天石門別八倉比売神社」末社の「松熊神社」に祀られております。
でも、伊勢に帰ったのでは?
下の地図を参照してね、「伊勢神社」があります。

より大きな地図で 入田町 天神社 を表示


一般的には「元伊勢」と呼ばれてるようですが
下の写真と前に書いた
オフナトはん(1)〜(5)」までを見てくださいね。(リンクは(1)ね)

どう見ても「おかまご」じゃないですか。
合祀される前の位置がはっきりしませんが、「麻能等比古神社」は間違いなく
猿田彦神社の本社」です。
そして西龍王山の麓、伊勢神社のある、ここへ帰ったのです。
あくまで私見ね、と逃げを打つワタクシでした(笑)

それにしても恐るべし「入田村史」。
「天石門別八倉比売神社」についての記載を見てください。
(国府町西矢野はもと入田町でした)

余切に謂ふ、是は、皇太神駐驛の處也。神號に、天石門別と冠す、乃ち天石門別が斎所八倉姫の義なるならんか。八倉は、八重席を謂ふ。諸(これ)を彦火々出見ノ命及び橘姫の事に徴して知るべきなり。
抑々神代に謂所高天原は、皇都の在る處にやあらん。
蓋し、阿波國は、吉野川両岸の境域と、勝浦郡の一部を言ふ。吉は安及び八湍と通す。後人は皇都大和に在り、大和に吉野川有るに因り遂に艶美比べ擬して以て轉化を致すのみ。大神嘗て、矢野神山及び、忌部山の各所にあり、故に天石門別及び、神明山大神の説を傅ふるなり。後に伊豫に遷り、日籠山いまし、豊前中津に臨む、皆天津日等の號を存す、亦怪しむに足るなし。

「大和に吉野川があるので後の人が勝手に皇都だと言っている」という意味です。
大正二年に村史でここまで言い切るか!

「入田村史」驚愕の内容に付いては近日ご紹介!ComingSoon!!

平成23年8月15日

わたしたちが連綿と続く生命の繋がりの中で、いまここに生きていることに
そして先に旅立って行った先祖とこれからの未来を担う子たちに

合 掌

2011年8月13日土曜日

板野町 亀山神社(下)

板野町 亀山神社(上)から続けます。
さて「ぐーたら」の運命やいかに!ってか。
は、さておき今回は支離滅裂だぞ。
うん、やっぱし「歓喜天」だなあ。
阿王塚山歓喜天と言うようです。
で、早速なんですが、これが「亀山天皇陵跡」の塚と思われます。
ピンぼけでしょ。「阿王塚山歓喜天」で撮った半分以上の写真がこのようにピンぼけ
でしか写ってません。(これは冗談じゃないです)
それにしても「阿王塚」って何なんでしょうかねぇ。
いくつか考えられます。(ここから、支離滅裂)
一つは「阿王」は「倭王」ではないかということ。
もう一つ。
香川に東讃では神櫛王、西讃では武卵王のこととされている讃留霊王(さるれお)が
いましたが(ノラネコ大先生の「倭建命と讃留王」参照)
阿波の関連でそれに相当する名を持つものとして「阿久留王」が思い浮かびます。
これが千葉県の伝説なんですねえ、つまりは安房の国。
阿久留王が景行天皇の皇子の居城である高坂城を攻めたことに対し、天皇の命をうけた日本武尊はが東征軍を率いて安房攻め入り、阿久留王を倒したというものです。
忌部建国の安房、そこに伝わる「阿久留王」伝説、「阿波に久しく留まる王」ですよ。
通説では「悪路王」が転じたことになってますがねぇ。
安房の伝承「阿久留王」はこの近辺の話か?
証明、傍証等々一切ありません。
どちらも倭建命に関係してるところだけです。近くに白鳥神社があるのは書きましたよね。

で、傍証でもなんでもないんですが、地図を見てください。
水没地図。水面上昇5mで表示してみました、板野近辺です。
霊山寺、極楽寺、金泉寺、全て水際だったことが見えるでしょうか。
大麻比古神社は港の神だったことは皆様ご存知でしょうから今更ですよね。
倭建命が伝承の残る金泉寺近辺から東征するならばこのルートですか。
またこの付近の神社の御祭神に倭建命が多いのも事実です。

余談の余談になりますが、これ又のらねこ大先生のブログで高知の「桂浜」は「勝浦浜」
が転じたものとの記載がありましたが、もしかして、もしかしたら
「葛城(かつらぎ)」は「かつら城(かつらぎ)」→「勝浦城(かつらぎ)」か?

イコピコさんにもいわれましたが、ここらは建国に繋がった、大きな謎があるのは
間違いございません。
あ、もう一つだけ、「金泉寺」は板野町大寺地域全てと言えるほどの寺領を持つ
巨刹でございました。

と言う訳で、「ごめんなさい」訳が判らなくなったと思います。
自分でも支離滅裂な文章だと思いますので、今回のは忘れてしまいましょう。

おまけ
八万町近辺の水没地図5メートル上昇版
宅宮神社近辺まで海岸が迫ってるでしょ。



2011年8月11日木曜日

板野町 亀山神社(上)

板野郡板野町大寺字亀山
亀山神社
主祭神 須佐之男命、春日四柱神、日本武尊、船戸神、大山祇命、迦具槌命、倉稲魂命
捲土重来を期して行って参りました。体調は?
うむ、お腹は痛くないぞ。ティッシュペーパーも持ってるぞ。
由緒 もと天王社(須佐之男命を祭る)が前身
神社の付近一帯に古墳が散在し、亀山天皇の御陵とも云われる阿王塚が
神社の裏山にあり、
金泉寺の裏山に「長慶天皇の御陵」と伝える古墳もある。
徳島県神社誌

阿王塚古墳からは画文帯神獣鏡2面が出土しております。
舶載画文帯神獣鏡  


うーん、亀山天皇陵ですか。
Wikiなどを見ますと

遺体は荼毘に付され、嵯峨野にあった浄金剛院や亀山殿法華堂、法皇御願の南禅寺、高野山金剛峯寺にそれぞれ分骨されたが、亀山殿法華堂を以って陵とし、現在は京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の天龍寺境内にある亀山陵(かめやまのみささぎ)である。法華堂形式の陵である。また、天龍寺に隣接した右京区嵯峨亀ノ尾町の亀山公園には火葬塚がある。

とありますなぁ。金泉寺が長慶天皇、亀山天皇の崇拝篤く、京都の蓮華王院にならった三十
三間堂を設立、さらに千手堂を安置して、山号を亀光山と称したそうですので、それにあや
かったのでしょうか?
まだ、後亀山天皇のほうが陵がはっきりしないだけにありそうかな?
でも縁がないですしね。
それにしても主祭神 須佐之男命、春日四柱神、日本武尊、船戸神、大山祇命、迦具槌命、
倉稲魂命って凄いなあ。
で、近隣の神社が合祀されておりますので、このように地神塔も二つあり、狛犬に
至っては四対ございます。写真は一対だけね。
で、ここまで来て裏山へ行かないで帰ってしまっては、皆様方から非難囂々で石など
投げられてはたまりませんので、炎天下タオルを首に巻いて行って参ります。
二の鳥居から北へ舗装路を登って行きます。車止めがあるので徒歩でね、トホホ。
ん、石段?上に鳥居が?
階段は嫌いなんだよぉ。
あああああ、またしても「歓喜天」。

さて、またも「歓喜天」に魅入られてしまった「ぐーたら」の運命やいかに。

変なヒキを作って下巻に続く。