2015年9月11日金曜日

備忘録:「倭」はなんと読む?

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある(印文と解釈を参照)。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(西暦57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
『日本大百科全書』(小学館、1984年)「金印」の項では「1892年(明治25)三宅米吉により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である」としている。


つまりは「かんのわのなのこくおう」と読み、金印における「委奴」を『漢書』の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆)ているという。
もし「委」の文字が減筆でないならば、当然「イ」と読むのでしょうが、もし減筆であったとすれば「倭」の文字は建武中元2年(西暦57年)にはなんと発音されていたのでしょうか?

まずは「説文解字(せつもんかいじ)」なる文書を紐解いてみようではありませんか。


説文解字(せつもんかいじ、拼音: Shuōwén Jiězì)は、最古の部首別漢字字典。略して説文(せつもん、拼音: Shuōwén)ともいう。後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立し、建光元年(121年)に許慎の子の許沖が安帝に奉った。本文14篇・叙(序)1篇の15篇からなり、叙によれば小篆の見出し字9353字、重文(古文・籀文および他の異体字)1163字を収録する(現行本ではこれより少し字数が多い)。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを解説し、字の本義を記す。
wikipedia

この世界最古の漢字字典の清朝復刻版「倭」の項目を見れば

「順皃从人委聲詩曰周道倭遟 於為切」

「委」聲(声)つまり「委(イ)」の発音であると記載されています。

解説本である「說文解字注」にも
順皃。
倭與委義略同。委、隨也。隨、從也。廣韵作愼皃。乃梁時避諱所改耳。
つまり西暦100年頃には「倭」と「委」の発音は同じ委声。為(ヰ)の(反)切。であるから音は「ヰ」、カタカナ表記ならば「イ」(厳密には「イ」と「ヰ」は少し発音が違いますが)。

大枠の発音としては「イ」であり「ワ」の発音は記載されておりません。
ここまでいいですか?

続いて時代を下って「切韻」(せついん)をみてまいります。
『切韻』(せついん)とは、隋文帝仁寿元年(601年)の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐代、科挙の作詩のために広く読まれた。最初は193韻の韻目が立てられていた。


上田正 『切韻逸文の研究』 汲古書院、1984年。

「切韻」(せついん)については、良い画像がなかったのですが、下記に表示した『切韻逸文の研究』はトルファン出土の『切韻断簡』等を徹底的に収集した大労作であり、ここから引用させていただきますと。

「韻書曰倭烏禾切....」
と記載されています。

では、この「烏禾切」(烏禾と発音)をどう読むか。
以前に紹介した「臺灣大學中國文學系和中央研究院」の「漢字古今音資料庫」より検索してみます。
「烏」は当然「u」(ウ)音。
「禾」は、なんと「wa」と発音します。
つまり「烏」(u)「禾」(wa)で(uwa)との発音、カタカナ表記ならば「ワ」ですね。
西暦601年時点の発音は「倭」は「ワ」なのです。
永元12年(西暦100年)から仁寿元年(西暦601年)の間に「倭」の発音が「イ」から「ワ」に変化しているのです。

ついでというか、念のため後世の韻書を参照して確認しておこうじゃないですか。

では「集韻」(しゅういん)なる韻書を見てみましょう。
ちなみに「韻書(いんしょ)」というのは
韻書(いんしょ)とは、漢字を韻によって分類した書物。元来、詩や詞、曲といった韻文を作る際に押韻可能な字を調べるために用いられたものであるが、音韻は押韻の必要以上に細かく分類されており、字義も記されているので、字書などの辞典のもつ役割も果たした。wikipedia

だそうでして、漢字はとかく表意文字だと思われておりますが、表音文字としての側面も濃く、このような韻書によって当時の発音を確かめることもできちゃうんですねぇ。
で、
集韻(しゅういん)とは、宋代に作られた韻書の一つ。景祐6年(1039年)丁度らによって作られた勅撰の韻書である。平声4巻・上声2巻・去声2巻・入声2巻の全10巻。





前に掲示した「切韻」(せついん)と同じく「烏禾切」と表記され。発音は「ワ」であることが確認されます。
「イ」の発音は見られません。

では最後に「広韻(こういん)」を。
広韻(こういん)は、北宋の大中祥符元年(1008年)陳彭年(ちんほうねん)らが、先行する『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書。正式名称は大宋重修広韻。





 上下に分かれて見にくいので囲ってみました。
これは「烏戈切」と表記されています。
発音をまたもや「漢字古今音資料庫」で確認いたします。

「戈」は「wa」との発音です。
「烏(u)戈(wa)」で、やはり発音は「ワ」となってしまってます。

西暦100年  「説文解字」(発音「イ」)
   この間に発音の変化があった。
西暦601年  「切韻」  (発音「ワ」)
西暦1008年 「広韻」  (発音「ワ」)
西暦1039年 「集韻」  (発音「ワ」)
ということですね。
ちなみに
中国の言語学者である李恕豪も『揚雄《方言》與方言地理学研究』(巴蜀書社、2003年)の中で『漢書地理志』の「音聲不同」、『説文解字叙』の「言語異聲」、『経典釈文』の「楚夏聲異、南北語殊」「方言差別、固自不同、河北江南、最為鉅異」など、殷周以来の方言の実在性に着目し、秦晋方言区から呉越方言区まで12の方言区について詳説しており、久米と同様、金印問題を考えるのに「方言論」的視座が不可欠であることを示唆している。
などの指摘もありますが、国司が、朝見国に与える国璽ともいうべき金印に方言なんて使うのかと、素人でも疑問が沸き起こるような指摘は如何なものかと。
どうでしょうか?

では、何が原因で発音が変化したのでしょうか。
ヒントは日本書紀私記、いわゆる「弘仁私記」にありました。



弘仁私記序文より
夫日本書紀者 日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云山跡。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。

「訳文」
それ日本書紀は、日本国、大唐より東に去ること一万余里なり。日、東方より出るに、扶桑を昇る。故に日本(ひのもと)と云う。古くはこれを倭国(ワコク)という。ただ「倭(ワ)」の意味は未詳。あるひと曰く、我(わ)という音を取り、漢人が名づけたる字なりと。かよいて、山跡(やまと)という。山、これを耶麻(やま)という。跡、これを止(と)という。(止の)音は登 - 戸の反し。下も同じ。それ天地二つにわかれたるとき、泥がしめって、未だかわかず。これをもって山にすみ、往来すれば、もとより自ずと足あと多し。故に邪麻止(やまと)という。また古語に居住をいうに、止(と)を言(こと)になす。山に住むなり。(止の)音は上に同じ。
武玄之曰く、東海の女国なりと。

推測するに、倭人が自分たちの国のことを「ワ」の国と呼んでいたので、漢人が「倭」と記載されてところを、読み方については、もともと「イ」の読み方であったのを「ワ」と変えてしまったということなのでしょうか。
その後の記載も非常に興味深いのですが、この記事ではここまでとさせていただきます。