2013年4月29日月曜日

大瀧寺と太龍寺

すんません、間が空きすぎてるんですが、いつもの鬱だと思ってやって下さい。
入力してる資料を前にして、一日に3行しか打てなかったりするんです(涙)
(と、こうやって言っときゃ同情してくれるかな)

ところで4月28日の日曜日美馬にある「西照神社」の太々神楽祭に行ってきたんですが、そこには四国八十八箇所総奥の院、四国別格二十霊場二十番札所として「大瀧寺(おおたきじ)」がございます。


縁起として寺内の碑にはこのように刻まれております。


當山は奈良時代(神亀三年)行茎菩薩が、塩江より御登山になり、阿讃山脈秀峰に一宇を建立し、阿陀三尊を安置されました。平安時代の初期、延層十年(西暦七八八年弘法大師も、「三教指帰」と云う大師の著書にはっきりと記されています様に求聞持修法され、弘仁六年(西暦806年弘法大師四十二才、二度日の登山の時に、現世の男女厄難消除、万民安楽の為に、西照大権現の御専像を安置し、法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修されました。又、天安二年(西暦八五八年)聖宝尊師(理源大師〉が登山され、高野槙を御手植になり、男女厄除厄流の大護摩を修法されました。その法が今に伝わり厄流しの寺として有名です。又、八十八番大窪寺との関係が深く東大窪寺、西大瀧寺の名で呼ばれ、別格二十ケ寺中で最も高い海抜九百四十六mの大瀧山上にあります。徳川時代には、高松藩〈徳川)と徳島藩家老の稲田氏の祈願所と成っておりました。當寺は
度々と炎上して現在寺宝としては、別に有りませんが、江戸時代には、阿波讃岐登山道に鳥居の数十八基有りました。



なるほど、と読んでおりましたが、気になる点を発見!
「三教指帰と云う大師の著書にはっきりと記されています様に求聞持修法され」
ん?求聞持修法され(変な日本語だな)たのは二十一番の「太龍寺」じゃなかったの?
三教指帰(さんごうしいき)にはっきりと書いてあるそうですので、見てみませう。

あんまりいい資料が見つからなかったので、明治十五年版のを。
二ページ目右から3行目に
「阿國大瀧嶽ニ勤念ス」
とありますが阿國大瀧嶽としかありません。全ページ読みましたが「阿國」とか「大瀧嶽」とか出てくるのは此の部分だけです。
そんで細かいところをつつけば、上の石碑に「阿国 大瀧嶽 大瀧寺」とありますけど、ここは「福大山(ふくだいさん)大瀧寺」なのよね。

そして、「太龍寺」ですが公式ホームページを見てみますれば

「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高61メートルの太龍寺山の山頂近くにある。樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約6メートルの「舎心嶽」という岩上で、1日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは、大師が24歳のときの著作『三教指帰』に記されており、よく知られている。虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法で、大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼしている。縁起によると延暦12年、桓武天皇(在位781〜86)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。

おーい、どっちが本当なんだよぉぉぉ。
「大瀧嶽」見れば「大瀧寺」のようにみえますが(太龍寺は「舎心山(しゃしんざん)」だし、舎心嶽ですしね)、三教指帰の続きを読めば「土州 室戸ノ岬......」云々と続きますしWikipediaなど見ましても

空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。

もう笑わにゃ、しゃーないですな。
まあ、両方で修行しても、ぜんぜん構わないんですがね(笑)
ここから先は、言わぬが花。
いまさら、ほじくりかえす趣味もございませんので。
(なら、こんなの書くなよって?はい、御説のとおりでございます)
牽強付会は世の常、人の常ということですな。

さて、阿波國(續)風土記の続きはもう少々お待ちくださいませ、そこそこ読み応えがあるようには思いますので。

2013年4月13日土曜日

阿波國続(後)風土記について(6)異聞、阿波國名東郡郷名實地略考


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その6。
「異聞、阿波國名東郡郷名實地略考」

前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
阿波國続(後)風土記について(5)
読んでない方は見てから戻ってきてね。

前回までで「勝間井」までの話が終わった訳なんですが、今回はちょっと補記として、これもやはり後藤豊尚翁が記した「阿波國名東郡郷名實地略考」について書いておきます。
後藤家文書として遺されている資料にも「阿波国郡名の事」との書簡が残っておりますが

下図は後藤家文書該当部分


「阿波國名東郡郷名實地略考」の中で名東郡の郡名と郷の名についての考察を行なっております。
その口上として
これの名東郡は、古へ名方ノ郡にて、今の名西郡をも、まとめての名なり。さるを、寛平八年九月になん、東西を分ちて、名方東ノ郡・名方西ノ郡と改めさせ給ひしなりけり。さるを延喜式巻第十に、名方ノ郡ともにあるは、分かれざりしまへつかたより、書上しまゝなるべし。其後三十年計をへて、延長の頃、勤子内親王のおほんおふせをうけて、源順朝臣のものせし和名類聚抄には、名方西ノ郡、郷の名四つ、名方東ノ郡、郷の名六つとぞのせたり、さるを今、名方東ノ郡村・名方西ノ郡村名とぞなれりける。かくなれること、また御代の頃などは、未思ひ得ず、近き頃新田なりしが、村名のごとなれりしこと、あまたあり、この名、さだかにわかりしは、下にいふべし。され代を経るまにまに、ふるき郷名のさだかならぬものすら、いで来ぬ。さるからに、またいにしへにたちかへり、かの名方東ノ郡の郷名、六つの名義をあかし、それらの郷名は、今のこのむら、これは、この浦と、古くもあたらしくも、書にのこりし、または言傅をば、あなぐりもとめ、そがよさあしをなん、おふけなくも、千年にちかきあなたより、書傅へ言傅へしことを、今のおつつにくらべ、そをあげつらひさだめんとするなりけり。さてなん、はじめには、名方といへる名の義をあかし、つぎには郷の名と、その處の今の村浦とを、あげつらふこと、左のごとし。さてはあれど、おのがみしふみはいささかなれば、つぎつぎ誰やしの人もかゝることの、見聞んまにまにあげつらひ直してよ。さるはこれまでの、あげつらひふみの、いささけくて、くらべかふ見るふみの、すくなければなり。

ご存知とは思いますが、上記口上にもありますように、名東郡、名西郡は古(いにしえ)名方郡(なかたぐん)と呼ばれていたのが東と西の二つに分れ、名東、名西郡となったのですが、その由来と、郡に属する「郷」についての由来と所属を書き記してあるものです。
もともと「名方郡」であったのが二つに分かれたのが「寛平八年九月(896年)」宇多天皇の御宇の時です。
それ以前は、延喜式にも「名方ノ郡」としか書かれておりませんでした。

 下図は延喜式巻第十 

それが「其後三十年計をへて、延長の頃、勤子内親王のおほんおふせをうけて、源順朝臣のものせし和名類聚抄」には(下図)
名方西ノ郡、郷の名四つ、名方東ノ郡、郷の名六つとぞのせたり
となっています。
そこから、さらに時代が下って「名東郡」「名西郡」となったわけです。
ちなみに「名東」は「みょうどう」と読んじゃいけません。
「なの ひむかし」と読むのです、ならば「名西」は「なの にし」と読むのは分りますね。
で、
はじめには、名方といへる名の義をあかし、つぎには郷の名と、その處の今の村浦とを、あげつらふこと、左のごとし
と、その名義を明かしてしまおうと言っております。

知ってる人は知ってますが、一般的には(全然、一般的じゃないけどね(笑))石井町に鎮座する「式内郷社 多祁御奈刀弥神社」御祭神の建御名方神よりの由来であると言われております。
本居宣長の「古事記伝(ふることふみのつたへ)」にも阿波の名方郡名方郷に由来すると書かれておりますが、これに対して後藤氏、こう言います。


名方ノ郡 奈加多
この郡名の義二つあり。まづひとつには、阿波志抄に、此郡の號は美名方之命の御名の上下を畧、云々とのせたり。こは延喜式名方ノ郡多祁御奈刀彌神社あり、此御神は建御名方彌命の御事にや、建御名方彌ノ命は信濃國諏訪郡の神社と古史傅百十八段に師云々とてあげたり。この御神この郡の名に、よしありとは見つれど、今は御社もさだかならぬは、あたらしきことなり也。あなかしこ。今一つは、古史傅百三十四段に云々地名云々、舊は佐那方(さながた)と號りしを、後に佐を省きて、名方と爲たること著名なり。(此はかの諸國郡郷の名を、二字に約めて好字を用ひられし故の事なるべし、是をもて和名抄にも、名方は奈加多とぞ書れたる、猶諸國に地名の此にうつり彼に移れる類は計ふるにいとまあらず。)と、しるされし。このもとの義は當國の神社帳に二社(天石門別八倉比賣神社、天石門別豐玉比賣神社)ともに名東ノ郡佐那川内村と云に在て、二社をすべて今も天磐戸別社といふ由見えて云々とも、古史傅五十一段にいへるぞ、平田大人の考なれ。かくてかの伊勢の佐那縣に座す、佐那乃神社の一座を、當國佐那川内村にうつして、天乃磐戸別神社とするとの由にはあれど、當國の神社帳といふも、年頃しるされねば、たづぬるよしなく、はた今存在する神社帳には、上佐那川内・下佐那川内ともに無し。かの里人にたづぬれど、かゝる社は不明といへりき。郡の名によしある神社の、今しられざれば、いかにともせんすべなし。されど此地を名方のもとつ名として、六つの郷の地名をもとむるに、みちのついで、かの阿波志抄(捷一云、阿波志抄の題名はあれど、市原本・後藤本の阿波志、佐野憲の阿波志、その何れの抄録本にも非ず、柴野升の編みたる別本なり)または、野口・木内の兩氏天保年中に調し帳(捷一云、野口徳兵衛・木内榮之丞の天保調書に二あり、天保十一子三月附のものを名東郡御取調帳、壬寅(天保十三年)三月附のものを名東郡再調帳といふ、本書に引用せるは専ら前書なり)に、いへるにもまされりと思へれば、一つの説として下にもいへり。

この郡名の義二つあり
一つは
阿波志抄に、此郡の號は美名方之命の御名の上下を畧
これは本居宣長「古事記伝」と同説ですね。
ちなみに「古事記伝」の完成が天明八年(1788)頃
「阿波志」が文化十二年(1815年)となっています。
今一つが
佐那河内村の旧名「佐名県(さなのあがた)」より
舊は佐那方(さながた)と號りしを、後に佐を省きて、名方と爲たること著名なり
というものです。
これは「平田 篤胤(ひらた あつたね)」「古史傅」の説であります。
上記文章を読んでいただければ分ると思いますが、後藤氏、どちらの説をも疑っております。
ただ、後藤氏は多分「多祁御奈刀弥神社」御祭神の建御名方神が宝亀十年に信州諏訪大社へ勧請された事を知らなかったと思われます、知っていれば
この御神この郡の名に、よしありとは見つれど、今は御社もさだかならぬは、あたらしきことなり也」とは書かなかったはずです。
また、「伊勢の佐那縣に座す、佐那乃神社の一座を、當國佐那川内村にうつして」と思っていたようで、その辺りも、仕方ないんですけどね。

後藤氏、最終的にはこの文章中には書かれていませんが、名方の由来は倭武尊命の皇子であり、阿波國造の祖である「長田別命」からの由来であると考えていたようです。
まあ
さてはあれど、おのがみしふみはいささかなれば(己が見し文はいささかなれば)」
と調べた資料の少なさを感じていたようですので、責めるのも心苦しいですね。

個人的には、建御名方彌ノ命の御神名を縮めることは考えにくく、佐那の県ならば、「佐」は狭いの「狭」なので二字にする時でも省略でき、こちらの説が近いと思ってます。
今回はちょっと寄り道ということで。
郷の名と、その處の今の村浦とを、あげつらふこと」は省略します。
関連する記事の時に書くかもしれませんが。

では次回、「阿波國続(後)風土記について(7)」に続くということで。
それにしても、地震が心配ですね。
このシリーズがエンドレスになる事も心配ですけど(笑)