木曜日に久々、数年振りにやってしまいました、「腰」。
そうです、グキッとね。(笑)(←笑わにゃシャーない)
とは言っても、大したこと無さそうなので、トレッキングポール持って出かけようと
したら(笑)「お前はアホか」と、横山ホットブラザーズ(知らんやろな)のような
声が掛かりました。
「外出禁止!」あとはその一言のみ。あー、あそこ行こうと思ってたのにぃ。
(通称「城の王」ってとこ、さあ、どこでしょう)
しゃーないんで、撮り置きの写真と持合わせの資料で書いてます。
えと、今日は「矢野城山神社」というか「矢野城跡」でもあります。
場所はここ、(あー腰痛い)徳島県徳島市国府町西矢野。
徳島市考古資料館駐車場すぐ南の道路から入って行きます。
くれぐれも車で進入しないように、考古資料館の駐車場にでも駐車させてもらってね。
ついでに資料館でここらの史蹟地図をもらえばカンペキ。
(頼めばもらえます、わぁ、地元の人みたい)
より大きな地図で 矢野城山神社 を表示
ご覧の通りの小高い丘の上にありますが、言わずと知れた「古墳」でございます。
こんな感じで急坂を徒歩で登って行きます。
バイクも止めてね、ここらの人の迷惑になりますので(行けば分るけど)。
登って行くとこんなのがいっぱい落ちてて・・・
ここは狙っても無駄ですよ、近所の人が早いもんね。(←誰に言ってるんだ)
ごめんなさい、正面からの写真がなぜか見つからない、撮ってたはずなんだけど。
で、矢野城跡ということで
矢野城
矢野城(やのじょう)は、徳島県徳島市国府町矢野にあった日本の城。
築城年代は不明だが永禄年間(1558年-1570年)に矢野国村が築いたとされる。
天正7年(1579年)12月、脇城下で三好康俊・武田信顕らの謀略によって、矢野国村は
三好軍と長宗我部軍との狭撃に遭い、討死した。それ以降の矢野城の経緯については
不明である。
四国八十八カ所十五番札所・国分寺の北西500m、西方から突出した標高28mの山尾根の
先端に位置する。西方の尾根続きに空掘を掘り、その堀を傾斜の比較的緩い南側へ回して
いる。
城内は東西約60m、南北約25mで、からナズ氏も整地された曲輪ではない。
所々に気延山古墳の破壊された跡などもある。
とWikipediaにございますが、城についてはこの通りです。(あー腰痛い)
で、城山神社が矢野城跡に建ってる、いや多分逆なんですがね。
この社殿は平成16年に東矢野出身のマルヨシスーパー創設者である矢野憲作氏が
私財を投じて再建したのもです。
もちろん碑文にある矢野駿河守の子孫です。
でまあ、歴史ロマンを偲ぶためということで、こんな碑も建てられておりますが
下の石碑に文句を言う筋合いじゃないけど
ホントは1552年に山口で、宣教師コメス・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した説が正しいような気がする(笑)
いや、けなしてるんじゃないですよ。(あー腰痛い)
いかん、いかん。で城山神社についてなんですが
はっきりした由緒はわかりません。(あー腰痛い)
平成16年の遷座祭のときに旧社殿の棟札が発見されております。
それが安永三年(1774年)11月。
その棟札には
(表)
八咫鏡
八坂瓊勾玉 若宮太明神御本社鎮座
草薙劔
(裏)
无上 安永三年 名西郡矢野村神主冨崎日向守藤原常夏
宗源神道三元三妙壇氏子繁榮長久祈攸
霊寳午ノ十一月吉祥日 矢野村氏子中
とあります。
矢野城が永禄年間(1558年-1570年)の築城ですので、それより200年後の鎮座。
同時に寛政九年(1798年)の棟札も発見されております、火災があったようです。
それには
正一位椙尾山神主藤原常夏
とあります。
ちなみに杉尾山の八倉比売神社が正一位となったのが元暦2年(1185年)。
なにかしらで、そこらを受けて正一位と付けたようですが、深読みするには材料が
足りません(笑)
けど場所が場所だけに永禄年間より以前に神社があったとしてもなーんの不思議も
ありませんがね。
ただし、ここに関しては古墳の盗掘跡も多々あり、考古学的な発見はどんなもん
でしょうか?
というわけで、なーんもひねってませんが腰が痛いんで、こんなところでございます。
さて、湿布とっかえよ。