2018年11月3日土曜日

倭の神坐す地(9)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)

言い訳なしで続けます。

前回ちょっと出てきました、太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963 を確認してみましたら、結構面白い内容がありましたので、ご紹介しておきます。




国造本記に「波多国造に瑞籬(みずかき)(崇神)朝の御世、天韓襲命・神教に依りて、国造に定め賜ふと云う」と載せたり。蓋し韓襲は長国造の祖韓背と同人にして、観松彦色止の裔と考へらる。したがって長、都佐(土佐)の両国造等と同族にして、賀茂、三島族の経営せし国なるべし。

賀茂はいいとして「三島族」とは?、と思っちゃいますよね。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)


大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。




溝咋神社(みぞくいじんじゃ)


創建は不詳。社伝では、第10代崇神天皇の頃に創建されたとしている。当社は祭神節にあるように三島溝咋耳一族を祀っており、『古事記』『日本書紀』の諸伝承との関係が指摘される。
『古事記』神武天皇段では、大物主神が勢夜陀多良比売(玉櫛媛)を見染め、丹塗矢に化して比売の陰部を突く。そして比売は驚いたが、その矢を床に置いたところたちまち壮夫となり、比売との間に富登多多良伊須須岐比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)が生まれたという。
『日本書紀』神代巻では、媛蹈鞴五十鈴媛命が大三輪神の子と記すとともに、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。『日本書紀』神武天皇即位前庚申年8月16日条にも同様の記載があり、ここでは玉櫛媛は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘と記されている。
これらの文献を踏まえた上で、さらに当社の境内社には大物主神でなく事代主神が祀られていることから、事代主を奉祀する鴨氏と三島勢力との交流が指摘される。実際、周辺には三島鴨神社・鴨神社といった神社や、鴨村・鴨林といった地名が残り、鴨氏の勢力がうかがわれる。後世になってこの交流が記紀神話に再構成され、出雲系の神が上記の様に強調されたと考えられる。また、三島溝咋耳一族の実態については明らかでなく、三島県主との関係を指摘する説はあるが定かではない。溝は「水」を象徴し、耳は「長」を表すことから、安威川水系の用水に関わる氏族と考えられる。

「溝咋(みぞくい)」については上記の説明にもあるように、一般的には「溝」は水を咋」は杭を顕し水利を司った氏族であるとの見方であるようですが、考えてみてください「用水に関わる氏族」ってなんなのでしょうか?
用水の工事ばっかりやってる氏族?
そんな氏族があったのでしょうか?
無論、あったとしてもおかしくはないでしょうが、それならばどこの治水工事を行ったとか、どこの洪水の時に活躍したとかの伝承がどこかにあってもおかしくないと思うのですが、それも見当たらない。
そこで、一つの考え方を提示いたします。
参考とするのは大阪市立大学講師、辻本 正教氏の「鳥から読み解く「日本書紀・神代巻」

要約はご勘弁願いたいのですが、要旨としては、日本書紀の神代巻に現れる神名は鳥のトーテムで説明がつくということなのです。
 イザナギ・イザナミはセキレイに交合を倣います。
「時に鶺鴒(にわくなぶり=セキレイ)あり、飛び来って其の首尾を揺す。二神見そなはして之に学ひて、即ち交の道を得つ」ですね。
例えば神代巻第1段冒頭の「葦牙(あしかび)の如」とされる神の「牙」は鴉の嘴(くちばし)を示している。
「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とも呼ばれる「阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神」はアジガモをトーテムとする神である。
等々、
ある時期の一つの系統の氏族が「鳥」のトーテムを持って自らの出自を示したという考え方はある意味納得できる部分が多いように思われます。
その考え方を延長とするならば、「溝咋(みぞくい)」の「咋」は「クグイ」ではないでしょうか。

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ガンカモ科の鳥

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ハクチョウの異称
鵠(くぐい)をコウノトリの古語とする説もありますが、これはどちらでも構わないでしょう。
この考え方に立って考えた時、鳥をトーテムとして持つ一族が日本建国に大きな役割を果たしてきたことと、そのルーツの一部が(敢えてこう書きますけどね)阿波に深く繋がっていることを認識していただきたいと思うのです

併せ、こちらもお読みください。


必ず全部ご覧ください。
ボクの書いてることと違うことが書いてあるのは当たり前、神代の事なんて「群盲象を撫でる」如きでありまして見解が全く同じなんてありえません。
ただ共通する部分が...ね(以下略)。

さて、話がずれてしまいました。
では「三島」とはなんぞや?
伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社、高槻の三島鴨神社が「三三島」と呼ばれた。
とのことであります。
まずは上で書いた、伊予の大山祇神社

大山祇神社
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

祭神
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)
別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。

大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。
wikipedia

次に伊豆の三嶋大社
三嶋大社
御由緒
御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
御祭神
大山祇命[おおやまつみのみこと]、
積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、
御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。
大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。
三嶋大社ホームページより

そして摂津の三島鴨神社
三島鴨神社

延喜式神名帳にも記載されている、日本で最初の三島神社で、大山祇神と事代主神を奉る。仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まりとされ、伊予と伊豆の三島と並び「三三島」と呼ばれる。
高槻市ホームページより

これら「三三島」の関係を見るにwikipediaの大山祇神社より年表を転記いたします。
年表
・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)

・大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三島宮御鎮座本縁』)

・霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三島宮御鎮座本縁』)
・養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三島宮御鎮座本縁』)

・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
については下図「釋日本紀」より

「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」
つまり、伊豫國風土記では、仁徳天皇の御宇に摂津の三島江に出現し、伊予へ移ったとされているわけです。

さらに
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)
については下図『三島宮社記』を参照願います。



 つまりは、摂津から大三島に移りさらには今治に移ったと。
ならば摂津の前は本当に百済であったのか?
摂津の三島鴨神社の御祭神は「大山祇神」「事代主神」の二柱となっていることと、あるいは「津の國の御嶋」が「三島鴨神社」ではなく西宮神社(大国主西神社)であったとすれば、御祭神は「えびす神」つまり「大国主」であり「事代主」。
「大山祇神」と「事代主神」の混同が考えられるのではないでしょうか。
ちなみに伊豆の三嶋大社についての研究者はこの説を採っており

この「事代主事跡考」を読むと、

伊豫國三嶋より伊豆へ大山祇神を祀った(御祭神は「大山祇神」と「事代主神」の2説ある)のは「いみじき謬りなり」だそうです。


逆に摂津の三島は伊豆の「事代主」が通ったため「三嶋」を冒称したのであると結論づけているのです。

仮に、「津の國の御嶋」は伊豆から移ったものであり、御祭神が「事代主」であるならば以前
まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(15)END
などでも、さんざん書いてきたように、大宜都比売命こと「阿波咩命」「阿波波神」「阿波神」が「事代主命」の本后として海を渡って赴いた地が 東京都神津島の「阿波命神社」であり、そこから安房神社、三嶋大社へ遷座されたことは明白です。
さらに言えば、この「事代主」は阿波から赴いた事代主であることも確実だと考えるのです。
話がくどくなりすぎたかもしれません。
要は「三島族」は阿波から伊豆の「御島」に渡った「事代主」と「大宜都比売命」の一族のことを示し、鳥の名をトーテムとして冠したことが言いたかったのです。
なので、「三島溝咋」は「御島」から渡ってきた「溝(水際)」の「咋(くぐい、白鳥)」を冠する一族であったと考えるのです。

さて、話は唐突に変わりますが「伊豫國」に「河野氏」の一族が現存しております。

河野氏(こうのし/かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる。第22代当主河野通清以降は「通」を通字とする。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書『予章記』と『予陽河野家譜』などではその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
wikipedia

いわゆる「越智氏」を祖とする一族でありますが

越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされる。5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられた。その内一つ「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされている(『国造本紀』)。
wikipedia

その系譜として『予章記』『予陽河野家譜』などが知られておりますが、ここに門外不出とされた「天徳寺所蔵 伊予国造家 越智姓河野氏系譜」なるものの存在を知ることができました。
いわゆる「越智系図」などでは
上図のように孝霊天皇から始まる系図として記されておりますが、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」においては


「天御中主大山祇神之後 天照皇太神曾孫 初代 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖 ト号ス」
と「饒速日命」を祖とする系譜として記されております。

21時から3時まで6時間ぶっ通しで書いたら、すっごく疲れたので、このあたりで

続く