『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)七月乙酉《十四》
◯乙酉。阿波國麻殖郡人外從七位下忌部連方麻呂。從五位上忌部連須美等十一人賜姓宿祢。大初位下忌部越麻呂等十四人賜姓連。
とあります。
ここに現れる宿祢姓を賜った「從五位上 忌部連 須美」。
從五位の階位というのは律令制度の地方官にあっては国司や鎮守府将軍に相当する位で、從五位下を得ることが貴族の条件であったそうで、從五位上はなかなかの立場であったと思われます。
ちなみに古語拾遺の斎部広成(いんべのひろなり)は最終的に從四位下の階位を賜っております。
このような国史顕在の人物が阿波ではあまり見当たらないのが残念なところですが、これを例の「麻植氏系図」より見てみますと。
下のページの一番右。
三十四
従五位上忌部宿禰大祭主 後ニ須見ヲ以氏トス
と見えますね。
この「從五位上 忌部連 須美」、「阿波志」麻植郡の部を見てみますと。
「須美祠
在山崎村八幡祠側◯須美即.....」とあり。
これはもちろん、今も厳然と鎮座いたします「山崎八幡宮」のことでありまして。
このすぐ側にあるんですが.....。
うーん、ここなんですけどね.....。
裏側から見るとよくわかるんですが、完全に崩れちゃってるんですね。
当時のものかどうかはわかりませんが、これはちょっと酷いっすよねぇ。
案内表示もないし、ブロックの上に積んであるし......。
この崩れた部分が本体なんだから、まさか撤去とかしませんよね、ね、ね。
とは書いたものの、どうもこの「須美祠」在るのは麻生家の敷地内らしいので、参拝されるときはご注意ください。
(注)下図の麻生氏系図は斎藤貢氏著「阿波の忌部」からの出展で、現在麻生家に遺っているとされる系図は「社雄」から始まる系図ということであり、下図とは違っております。
赤く囲んであるところが「須美」ですね。
麻生氏系図に「須美 従五位下」とあるのは、左下(阿波志)の記載を「従五位上」と書いてありますので、誤記に違いないですね。
一般的に麻生氏といえば
麻生氏(あそうし)は、日本の氏族。系統を異にする以下の氏族がある。
常陸国の桓武平氏大掾氏一族(常陸麻生氏)。
長門国の一族。
筑前国、豊前国の一族。
wikipediaより
常陸国の桓武平氏大掾氏一族(常陸麻生氏)は50代桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫なので、天長2年(825年)以降の系譜。
筑前国、豊前国の一族である麻生氏は、「筑前国遠賀郡麻生郷の大身で宇都宮氏の一族城井氏の庶家」らしいので、遠祖のそのまた遠祖として藤原北家があるのですが、あまりにも遠すぎて追っかけるのに一苦労したので、ここでは書きません。
つまり何が言いたいかといえば、桓武平氏や宇都宮氏の系譜と離れたところに 「阿波の麻生氏」が存在していたことを考えていただきたいと思うのです。
(最近こんなの貼ってなかったんでwww)
上の「麻生氏系図」を見れば、さらに遡って「作賀斯(古語拾遺)」「子麻呂(日本書紀)」と現れるのですが、「須美」については祠まで遺ってるということで追記とさせていただきましたとさ。