原生林(ほんとはちょっと違うけど)を持つ山として貴重な存在であります。
でも最近の大気汚染や異常気象、松食い虫等の被害により、生態系に相当なダメージを
受けてます。
山の為だけならず、自身の為にも環境を守っていきたいものです。
そのシンボルとして「城山を大事にしよう」とタイトルしました。
(出だしカッコいい!!、でも嘘っぽいなあ)
さて、この城山の沿革から入ります。
室町時代の至徳二年(1385年)に細川頼之が小城を築き、この地の風光を中国の渭水に例え
渭津(いのつ)と名付け、山を渭山(いのやま)と名付けた。
と、記録にあります。
が、わたくし、ひねくれてますので「なんで渭水に例えなきゃならないんだよ」という
素朴な疑問を提示しておきます。が、それはさておき。
天正十三年(1585年)に蜂須賀家政入国、当初は徳島市西部にあった一宮城に入城しま
したが一宮は大分山寄りであり、何かと不便だという事で、現在の地にな平山城を築造
し、徳島藩蜂須賀氏二十五万石の居城となり、明治を迎え廃城となります。
で、この築城時に起こったのがで徳島市 清玄坊神社で書きました事件です。
まだ読んでない方は見てから、帰ってきてくださいね。
この清玄坊ですが蜂須賀家の入国前から、この城山に住んでいた修験者、山伏で
「大林院素月」と言います。
で、この素月(清玄坊)を慰霊するために「清玄坊神社」ともう一つ「素月堂」が
作られました。じゃあ散歩がてら見てこようじゃないかという訳です。
(前置き長いなあ)
まず、これが助任川方面から見た城山です。
高さは60m程しかありません。
でも、これ見て「中国の渭水」を連想するのか?
また、この城山なんですが、太古、海面が5〜10mも高かった頃は完全に島であった
と思われます。
眉山上から見た写真がこれですが
こう見ると、島(もしくは岬)であった事は想像しやすいでしょう。
で、「素月堂」なんですが徳島城東二の丸の山麓下にあったらしいんですが。
こんなの見ても載ってないし....
まあ行ってみよ。
石段....
あ〜やだやだ。
この東二の丸跡の少し下。
この奥辺りのはずなんですが
「はいらないでね!」と「!」マークつきでお願いされたら、ちょっと入りにくいので
残念ながら諦めてしまいました。
でも、もう一つ伝説がありまして、蜂須賀家政侯、供養のために五輪塔を城の石垣に
組み込んだと言う伝説です。
これは確認できました。
ここですね。もう一箇所あるらしいんですが、それは見つかりませんでした。
さあ、この「清玄坊」こと「大林院素月」が生命をかけて守った城山、実は多くの
神社が祀られていた、いわゆる霊山であるのです。
山頂には神明社(伊勢神宮、後に城の鬼門の守護神として中常三島に遷座)
山麓の東寄りに諏訪社(佐古の諏訪山に遷座・・・ちょっと個人的に異論あり)
山麓西側には住吉社
南側には弁天社
南嶺西寄りには稲荷社、龍王宮(これは以前に徳島中央公園へ行ってきましたで書ききました)
西側に竜王神社(これも以前に徳島中央公園へ行ってきましたで書ききました)
弁天社については徳島中央公園内に記載があります。
「七福神の一つである弁財天をまつる小社があり」とあるでしょ。
写真は「なんだかな」なんですが、これが弁天池です。
GoogleEarthの画像に記入してみました。
相当歩き回ってみましたが、諏訪社、住吉社、稲荷社、神明社の位置は推定です。
それぞれの神社の由緒は調べられてませんが(資料なんてあるのか?)
ちょっと凄いと思いませんか。
まさに霊山。
これが「清玄坊神社」のみ!
そこで提案、「天石門別豊玉比売」を祀る龍王社を再建すべし!!!
「清玄坊神社」は「素月」を祀るのみで「天石門別豊玉比売」は祀られていない。
以前は護国神社があって、「ある意味」では(阿波)国の守りの要となっていたのが今や
それもなし、「清玄坊神社」だけで守られている有様です。
ここは往古、島であった事を考えると阿波国の東端の要であったのではないでしょうか。
それ故に神社が集まり、霊山の体をなしていたのでしょう。
龍王宮再建!!!
だれか賛同してくれないかな。