2013年2月23日土曜日

讃岐 白鳥神社

白鳥神社(旧県社)
鎮座所 香川県東かがわ市松原69番地
祭神 日本武尊 両道入姫命 橘姫命

由緒
「日本武尊は人皇十二代、景行天皇の皇子に存らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し給ひ環啓の途次、近江国の伊吹山にて癘病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、遂に薨じ給ふ。
御年三十、実に、景行天皇四十一年なり、天皇其の功を録し武部を定め群臣に命じ其の地に山稜を造り厚く葬り給ふ、群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内には只衣冠のみ空く在す、其の白鶴は大和国琴弾原に、又飛て河内国旧市の邑に至り亦更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止り給ふ、依て此の所に神陵を建てさせ給ふ。
成務天皇の御宇、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武鼓王に従随せしめ給ひ讃岐の国造に封じ神陵を監せしめ給ふ。(武鼓王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)日本武尊の御子仲哀天皇の御宇神籬を建て封戸を寄せらる。
今の神社即ち其の御跡なり。爾後一盛一衰ありしも武家は弓矢の神と為し崇敬深かりき。寛文四年讃岐守高松藩祖松平頼重侯大に其の規模を拡め、社殿の修築をなし、領地を割き神領に寄し、幕府の朱印地に改めたり。明治五年県社に列せられ現在に及べり。」


大碓(オオウス)命と小碓(オウス)命の双生児がいました。しかし、あやまって小碓は大碓を殺してしまいます。そのことに帝は怒り、小碓を熊襲(くまそ)征伐という名目で大和から追放してしまいます。
熊襲の国ではタケルの宮殿が新しく造られ、各国造の客人で宴がたけなわです。その時、宮殿が闇となり、その一瞬にタケルが殺されます。そして混乱の中で、自分を討った小碓に、自分の名をとりヤマトタケルと強者の魂を授けました。
大和国に熊襲より帰ったヤマトタケルでしたが、父帝は蝦夷(えみし)征伐に行けと命じます。ヤマトタケル命は、伊勢の倭姫を訪ね、出発します。
相模の国造の計略で四方を火に囲まれ、倭姫にもらった火打石と剣で難を逃れます。
次に走水の嵐の中で橘弟姫は海に身を踊らせ、海を鎮めます。
大和への帰りに伊吹山の神の退治に出かけ、病に冒され、能煩野(のぼの)で息を引き取ります。しかし、ヤマトタケルは白い鳥となり、飛び去ったと伝えられています。
そして、讃岐の国松原村に舞い降りて、白鳥神社として祀られた。
白鳥神社ホームページより

さて、ここ讃岐白鳥神社の御由緒等には全く書かれておりませんが、徳島県の石井町にはやはり「白鳥神社」があり、その一の鳥居脇には、下の写真のように
「日本武尊 両國一社 白鳥宮」と刻まれております。
「阿波 白鳥神社」と「讃岐 白鳥神社」は両國で一社だと云う事に決めたのです(笑)
どちらが元宮かが分らなかったためです。
境内には代々の讃岐藩主が寄進した燈籠が所狭しと並ぶ。
阿波国風土記と常陸国風土記はこの御祭神である日本武尊(倭建命)を「倭建天皇」として記している。
ただ、記紀によれば日本武尊の魂は鵠(くぐい)となって飛び去った、とあるが、上に示したここ讃岐白鳥神社の由緒書きに寄れば「白鶴に化し西方に飛び去る」とある。
鵠(くぐい)はいわゆる白鳥。
白鳥(鵠)と白鶴、同じような鳥なの......でしょうか?
また、古事記によれば倭建命は、足柄坂(通説では神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。 wikipediaより引用

東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。
とありますが、この弟橘姫、讃岐の出身なのです。
下の讃岐の史書「西讃府志」の137ページ。
「弟橘姫ハ讃岐人穂積氏忍山宿禰ノ女也.....」とあります。
そして現在は讃岐の善通寺市「大麻(おおま)神社」に祀られております。
なのに「東国を望んで弟橘姫を思い出し」って?
それはさておき、WEBで検索をかけていると、この「亦更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止り給ふ、依て此の所に神陵を建てさせ給ふ」の段は、本居宣長の「古事記伝」に記録されているものなのだそうです。
そしてここから西へ進んで津田町に「鶴羽」の地名があり、さらに西に進むと鴨部の地名があります。
あるいは単純に地名の「鶴」「白鳥」から「倭建命」を祀ったなんて?
これは邪推ですね(笑)
でもね、上の様に、祝詞が「とほかみえみため」を唱える「先天の三種の大祓」。
吉田神道系列の祝詞ではありませんか。
あるいは、後年伝わったのか?
「先天の三種の大祓」がどうのと言ってる訳ではなく、「倭建命」にふさわしいのかと疑問が湧いて出るだけなのです。
あるいは「倭建命」以前の創建ではなかったかと思うだけなのです。
他の人の引用はできませんが、あるいは「鳥」を祀る「倭建命」よりも古いふるい神社ではなかったのでしょうか。
どうも通説というか、由緒にあるルートの「大和国琴弾原」に、又飛て「河内国旧市の邑」に至り亦更に飛て「讃岐国大内郡鶴内の里」というのもしっくり来ません。
いや、因縁付けてるんじゃないですよ(笑)
それにしても広大な社地を持つ神社でありまして、その規模においては、徳島の「白鳥神社」など足下にも及びません。
ただ、少なくとも、両神社の合意として「日本武尊 両國一社 白鳥宮」であることは憶えておいていただきたいものです。

また、ここから西へ数百mのところに「白鳥大神宮」という小さな神社があります。
GoogleMapでは「白鳥六神宮」となってますが「大神宮」のように見えます(笑)
ホントに小さな神社なんですが、見て下さい。
なんと地神塔が。
由緒などは不明ですが、何らかの形で阿波との関連があるのでしょう。
この辺りからも「鳥」と「山」を拝む形態を想像してしまうのです。
(うわぁ、すっげえ舌足らず。だれも分ってくれないだろなぁ)

すんません、考証も材料も足りないんで、妄想みたいな記事になってしまいました。
やっぱ、書くには早すぎたかな(涙)

しゃーないんで、こっち方面に来た時によく寄るうどん店を。
讃岐うどん、そのまんまの「讃岐屋」。
今日は「やさい天ぶっかけ」を。
これがね、おいしーの。
ちなみに、ボクが讃岐ですきなのは「長田」のかまあげ。
昔は志度に「源内」ってうどん屋さんがあって、そこは無茶苦茶美味しかったんだけど、大分前に閉店してしまいました、残念。

あ、書き忘れ、白鳥神社は駐車場はたくさんあります。
白鳥大神宮は軽が入りかねますのでご注意を。

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右のマークが「白鳥神社」左が「白鳥大神宮」



2013年2月10日日曜日

補陀洛山 清浄光院 志度寺

2月10日、今日行ってきた話です。
ホントは、もうちょっと資料をそろえてから書こうと思ってたんですが、面白い事があったので書いておきます。

補陀洛山 清浄光院 志度寺

志度寺(しどじ/しどうじ)は、香川県さぬき市志度にある寺院。宗派は真言宗善通寺派で、四国八十八箇所霊場の第八十六番札所。詳名は補陀洛山清浄光院志度寺。
謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』(志渡寺の段/しどうじのだん)などの舞台にもなっている。 wikipediaより

山号の補陀落山(ほだらくさん)については観音菩薩の住処、あるいは降り立つとされる山のことだそうです、香川の方には失礼ですが、志度はもともと補陀落山に向かう場所の事を指し、もともとは黄泉地へ向かう入口、つまり「死戸(しど)」と言っていたのが「志度」となったとの説もあります。


さて、ここ志度寺の縁起としては
本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたという。創建は626年(推古天皇33年)のこととされている。681年(天武天皇10年)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」として名づけたという。不比等に関わる「海女の玉取り」伝説は謡曲などでも知られる。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えている。 wikipedia

とあり、不比等に関わる「海女の玉取り」伝説についてはこうあります。

一人の海女の悲しい伝説が志度に伝えられている。

 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
 しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。  鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。
海女は「わたしが玉を取り返してきましょう。その代わり、房前を藤原家の跡取りに約束してください」と竜宮に潜っていった。
 腰に命綱をつけた海女の合図があり、不比等が綱をたぐると、海女の手足は竜が食いちぎっていた。が、十文字に切った乳房の下には、玉が隠されていた。
 房前は藤原家を継ぎ、大臣に出世した。ある日、不比等から母の死の理由を聞かされ、志度を訪問。千基の石塔を志度寺に建て、菩提(ぼだい)を弔った。



この「面向不背(めんこうふはい)の玉」は奈良の興福寺に納められたとの事ですが、現在はどうも滋賀県竹生島、宝厳寺の弁天堂にあるようです(違ってたらごめんなさい)

無論、海女と物語は作り話であるともいわれていますが、海女の墓と呼ばれるものが残っているのも事実です。
この「玉取り」にちなんで志度の浦は玉浦と呼ばれていますし、海女が玉を奪い返したという真珠島や不比等が住んだ淡海屋敷、玉を洗ったといわれる淡海堀やそれを祀ったお釈迦台、海女の腰掛け岩などの遺跡が残されています。


でねぇ(と突然口調が変わって(笑))ボクがこの「海女の墓」を拝もうとしてたとき、一人のお婆さんが話しかけてくるではありませんか。
「ここ海女の墓でよ、はよ、ここから拝みな」
正直、ウザかったです。

で、また言うには
「あんたはな、ワタシがこのロウソクを点してから燃え尽きん間にここへ来た、それはな、縁があるんでよ」
「毎月1日と16日はな、花を飾ってロウソクを立てるんでよ」
今日は10日だけど、なんで花を飾ってロウソクを点してるのかは聞けませんでした。
けど、ロウソクが燃え尽きるまでの数十分でしょうか、たくさんの参拝者、お遍路さんのうち、この「海女の墓」にお参りする人は誰もいなかったのも確かです。
「見てよ、まん中がお墓でその両脇のは中が空洞になってるんでよ」
ごめんね、一応知ってるのよ。
両脇のは「納経塔」ってことも。

 「海女の墓」
納経塔
「両脇のは中が空洞になってて、元は◯◯◯とか◯◯◯が納められとったけど、今はお経とかが入っとるんよ」

うわぁぁぁぁぁ〜、ホンマかいなぁぁぁぁ!!!
これは書けんなぁぁぁぁぁぁ..................(大げさすぎ)

「どっから来たんで?徳島?徳島の人は皆いい人じゃ」
「また友達や知り合いを連れて、絶対に来るんでよ」
絶対と言われてしまいました(笑)
「絶対また来るわな」
としか返事のしようがないではありませんか(笑)
しまった、言挙げさせられてしまった!
どっちにしても、不比等を追いつめにやって来てますので(笑)、真珠島や淡海屋敷を調べにまた来るでしょう。
あと「死戸」の在処を確認できればと思ってましたが、これはもうよしと。
それにしても、ねぇ.........
あと、何枚か写真を出しておきます。


五重塔
ところで、これはなんなのでしょうか?
誰かご存知の方いませんか?


2013年2月4日月曜日

藍住町 伊比良咩神社

1月27日に腰が「うぐぐぐぅぅぅ」となってから1週間。
治りません(涙)
こんないい天気なのに湿布貼って寝てるのもヤダし。
山じゃなけりゃいいかなと、ちょっとだけお出かけしてみます。(←まあ、バカですね)
近場で、平地でということで行ってきたのが藍住町の「伊比良咩神社(いひらめじんじゃ」「咩(め)」の文字はちゃんと表示されてますかね、口編に羊「口羊」と言う字です。
場所はここ
GoogleMapでは「伊比良【美】神社」となってますが、まあ、漢字が出ないでしょう。

より大きな地図で 伊比良咩神社 を表示

伊比良咩神社
徳島県板野郡藍住町徳命字前須西
御祭神 阿比良比咩(あひらひめ)命 大己貴命 素盞鳴命

なのですが、御参拝に行く前にまず腹ごしらえ(笑)
いや、特定の人への嫌がらせじゃないのよ、ホントに。
いつもここ、えらい行列で待ってるけど、今日通りかかってみたら奇跡的に空いてるので、こりゃ入らにゃならん(何がじゃ)とダッシュです。
いや、ホントに、肉入り小メンマ追加トッピング。
いつもながらの濃厚スープ。
あちちち、ふはふはふは、ぷは〜。
さて行きましょうか(笑)
ここからはすぐ。車で2分。
まず、手前にあるのが御旅所の鳥居。
あ〜、天気いいなぁ。
ご覧の通り「青石」を使った貴重な鳥居です。
ここから100?200mくらいかな。
で、今回、写真が大分消えてしまったのです。(涙)
帰って来て整理しようとしてたら、画像ソフトがフリーズして、SDカードから今日撮ってきた写真が読めないではありませんか。
急いで、復元ソフトで回復したんですが、何枚かは使用できなくなっておりました。
所要時間1時間、あ〜めんどくせ〜。
まあ、大事な所はいつも同じアングルで数枚ずつ撮ってますので、大勢に支障はなかったんですが、それでも使いたいのが使えないのはクヤシイです〜(ザブングル風に)。

ちなみにこの神社、駐車場はございません。
入口にもチェーンが張られていて、境内にも入れません。
無論入れなくていいんですが、その点ご注意を。
で、まあ当然の事ながら、ボクより前にのらねこ師匠が「伊比良咩神社 板野郡藍住町」を書いておりますので、説明はご参照ください。
でも、付け加えておけば、仙覚抄に言うところの「阿」は「伊」と同義ですので社名の「伊比良咩」すなわち、御祭神の「阿比良比売命」とも同義であるとは分っていただけると思います。そして、「阿比良比売命」は神武天皇の妃神であります。
そして、そして、「阿比良比売命」を祀る神社はいくつかあれども。社名に「阿比良比売(伊比良咩)」を掲げる神社は全国一社である事を知っておいていただきたい。
そして、そして、そして(笑)あまり資料にはなく、時代もはっきりしませんが、ここには藍住町の有形文化財として「伎楽面」が保管されております。
ここにも書かれておりますように、延喜式式外「大社」であります。
古代からの「大社」とも書かれてますね。
社名に神武天皇の妃神を掲げる全国唯一の当社が式外というのは、元は東中富にあったのを遷座したと云う事、何か意図的なものを感じたり(あっ、いや〜ん)します。
何回も言ってますが、藍住の中富は「中臣」ですのでね。
こっそり社殿を覗きますと(こっそりするなよな)このように迫力ある古面が納められております。
社殿裏にはこのような、古くて大迫力の狛犬が残されておりました。
もう一体の写真は、先に書いたように「消えてしまいました」(涙)
それにしてもこの神社、ホントに塵一つ落ちておりません。
地元の崇敬ただならぬものがあります。
高速道路の傍ですが、ここだけ空気が違うような気すらします。
あ〜「よいお参りでした」。
さて、腰が治るように、もう一社お参りして帰ろうかな(笑)
近くの、あそこですけどね。