2021年2月18日木曜日

轟城の記

すっごい昔になりますが
石井町 轟神社
って記事を書いたことがありまして、この記事の書き方が「轟城」と「轟神社」を完全に混同しておりましたので、改めて書き直してみましょう、というお話なのです。

まず、正確な場所なのですが、下図の場所が「そこ」。
その下の写真が「その場所」であるわけなのです。




で、古文書に記された轟城としては『阿州古戦記』に記されるところの「轟城夜討」が有名であるのでして

天正十年(1582年)七月三日夜、長宗我部家臣北村閑斎、野中三郎左衛門池田肥後守ら三千の兵が轟城を攻める。正次は援軍二千余の側面攻撃と同時に城を出て、五十余騎で突撃。長宗我部勢は正面、側面からの攻撃により三百余名を討たれ、撤退。この合戦を「轟の夜戦」と云う。天正十年八月、長宗我部家に攻められ落城。

とあります。
そこここの史料を羅列いたしますれば

 ①『阿波志』の記事 轟在下浦村北臨河水南面諸山藤原正次拠此天正十年陥今為民居
 ②『井蛙堂蔵』 轟城 近藤勘右衛門藤原正次紋三ツ引添文字高千石 片の丸同孫太郎正行
 ③『阿波国一巻古城の部』轟城 下浦轟の城主近藤勘右衛門尉正次、子孫太郎正行、太田文云紋□、三好大状記云、近藤殿、藤原氏、紋三ツ引、添紋一文字、馬印幕紋四ツ戈、名乗忠久、一家八人、牛牧殿同前也。

 ④『古事雑記』 古城地轟の城、旧地小名轟にて城屋敷と言ふ所の地は北の手は西より東へ飯尾川流れ、元来此川諏訪の前筋よりの行通りにて此地北筋は半丁計も尚北を流れ居たりしを、轟の城要害の為にとて態々南へ掘込み水を引きたるより今 斯くの如しとなり、右川岸の地は大籔行廻り、実に一城の遺跡とは地姿に顕然たり、光南の手に至りては如何にしてありけ ん、之れぞと見ゆる構の形も存せず、されど右三方の地は城地たりし事勿論の義と見え、其上小名及び畠地の字、且又古老の伝説にも当所前の城主こそ近藤勘左衛門正次なりとは正しく言伝えたり、尚又此城地の西の手に国実村へ通する道ありて 爰に橋を渡したり、之れをば「御所の瀬の橋」といふ、されど件の城の辺なりとて御所とは更に言ふべくもあらず、しかの みならず是等の地よりして南へ至るに二、三丁四方の地は壱居の備ある所にして、且掘廻りありて之れをば外堀と言ふより 爰なる小名ともなれり、斯て右地東隣は高瀬某の居城地蹟、西隣は田村某の居城せし地なれども、何れも其構根元小さくし て西なる城の外堀と見る時は、其構不相応に広く、高瀬某の掘と見るには余りに近く、外堀とは言ふべくもあらず、何れ此 地は永禄・元亀の年、此等より当村に居住せし如き小身の居地とも覚へずなん、扱又件の外堀より却に当りて是又二、三丁 計の地なる山辺に、一間半四方計りにて高さ六尺計に築上たる芝渡りの塚あり、之れを旧来御墓と唱へ来れり、此称凡人の 言ひたらんこと甚覚束なく、ただ尋常の称ならざる御所かたがたに付て思へば、当村及び石井村にも数々王子権現と言ふ社 あるにも近くありせば、承久年間なる土御門院行在所なりけるにや、さにあらずとも中人以上なる人の在居なりけん、扱 亦、外堀に落来る水源、小見山谷と言ふより、彼の御墓の山裾に至り、是より山路を東へと渡りけん水を、左右に堤を構へ 態々外堀に引きたるなり、斯て此水脈垂れる所、凡てにはあらずして唯々外堀と言ふ所のみ、古へよりして今に到るまで姪の子を産むこと絶てなきも一つの奇異なり。

⑤轟の隠居城
轟の隠居城と言ひ伝へたる地、滝宮牛頭天王社地山の西に隣れる尾筋の下にあり、芝折とて其幅一間半計もやありなん、地築立る壇上の如く態々平にせし地と見へ、今は無用の地なりとて葬式等いとなみ、且、近来墓所とはなれりける。

⑥阿州轟城夜討
天正九年秋九月、土佐かたの兵一宮より出て、轟の城を攻んとす、兵将には土州西寺の堅済、池田肥前守、野口三郎左衛門なり、城主は三好家近藤勘右衛門尉正次、同孫太郎正行、其外氏族名を得たる武士五十余騎、惣兵三百余盾籠ける、此城は地勢堅固にして、多兵といへども囲みかたき要地也、北は川、南は山、順を切立屏風の如くなる切岸なり、 其上岩石けはしくそはへて、足たまりもなき所也、然るを南の山手より取寄て大寺、堅済、池田、野口を大将として、一宮 、より大兵を以て相臨む、勝瑞より後詰として、存保みつから二千余兵を以て、延明の山より尾つたひに、東の峯に諸勢を打上、谷越に鉄砲を打かくる、漸く日も暮ぬれは、土州勢も互に挑み戦て、陣屋を取固め、終に戦に疲たり、然る所に城中の 兵五十余人すくりて、手足達者を指出し、夜軍かくる他矢なく射ければ、土佐勢三千余人、大に驚き騒て、取合さんとする 所を射るほどに、百人許射ふす、五十人の者共、鯨波を揚れは、東の峯より同音に鬨を作り山河一同に崩るる計鳴りわたれ ば、攻手の多兵乱立て、敵を拒く方術もなく、少兵追立られて、嶽より崩落て死する者もあり、敵に遇て死する者もあり、□死凡三百人と也、攻手破て退ければ、存保も城兵を加へ、用心して勝瑞に帰陣す。(『阿州古戦記』) 

⑦轟城古文書写 (近藤氏蔵)
藤原家抑々右大臣藤原□□従弟近藤六鎌田隼人両人源氏に従ふ源義経大将当国勝浦郡へ下向なされ、平家の逆族を目指して川岸を数度渡り漸く彼の麓に行き山に登り給ひしに行 き暮れ陣所へ一宿有て味方の勢を見給うに勢夥敷見え給い大将不思議に被思召則ち鎌田隼 人、坂西近藤六両人を被召被仰様者は「逆族無之哉味方の軍勢を改め見よ」と有ければ慎 んで両人申けるは「当なき改めもの也如何いたして宜敷哉窺ひ奉る」と申ければ大将宣ふ には「味方の軍勢にはAの下紐に小鈴を付け有り是を目当に被改よ」と有りければ猶予な く改めしに程無く逆族数多顕れ出で逃げ散らんとする処大要不洩さす討留む大将御感不浅大悦に被思召併し乍この度国の帝都に平家の逆族在りと知り 「是より双士は引返し帝都に止り守護せよ」との命に依り則 ち鎌田隼人は名西一楽郷に乗り込み又坂西近藤六は轟の御所 に二手に分れ尋入すれども更に一士も敵対ものも無之居城し 坂西近藤六藤原の近家と号す源義経退出の交流人と相成り其 れ己来る孫之者先祖の名近藤六豊後守と相名乗り流人住居 に暮す時に男子なくして一宮城主小笠原家の三男相続に来り て近藤六藤右衛門藤原正興と号す正興子近藤勘右衛門尉藤 原正次と号す三好長春に見出し預り城主に被居銀高三百貫を 賜う先に藤右衛門鎮守八幡宮にならべ祀り来る元祖近家己来 代々の先祖を轟棋権現と合せ祭り之有るに勘右衛門代に当り て不思議ありて東の丸にうつし奉る故に廟所の事也と写し置かれ天正惣乱之比落城に及ぶといへとも一に先祖之流礼に近藤六藤右衛門尉正興近藤勘右衛門正次此両祖轟祇権現に近藤図書合祭り置もの也


等々、の史料が散見されますのですが、武将名などで詳しく書き残されているのが「三好記」でして、ちょっと長いのですが転記しておきます。
あ、出所は「群書類従」でありますです。(画像は一部)




轟之城夜軍之事

轟ノ城、近藤勘右衛門尉正次。同孫太郎正行。其外同名親類。名ヲ得シ兵五十餘騎楯籠テ居タリ。此城ト申ハ。北ハ川。南ハ山ノ岨ヲ。屏風ヲ立テタル如ク。數十丸切立タル切岸也。其上 岩石鹸クソビエテ。懸引自在ナラザル處二。一ノ宮ヨリ土州ノ西寺ノ堅済。池内肥前守。野中三郎左衛門尉フ大將ニテ。一千餘南ノ山手ヨリ取卷タリ。

勝瑞ヨリ存保公轟ノ城へ為ニ加勢ト二千餘騎ニテ延明ノ山ヨリ尾傳ヒニ。存保公東ノ峯ニ諸勢ヲ打チ上。谷ヲ隔テ。矢合ノ鉄炮軍ヲシ給ケル。漸夕陽傾キ。已ニ暗夜ニ成ケレハ。土佐勢互ニ挑合テ陣取堅メタル處へ。城中守。赤澤入道宗傳。赤澤鹿之丞。西條益大輔。馬詰三四郎。岡甚之丞。七條孫次郎。坂東肥後守。弟五郎右衛門。三好何右衛門。竹內笹大輔。大代內匠。姬田甚左衛門。野本左近。長鹽六之進。北原右近。大寺松大輔。近藤內藏助。野中玄番。香美馬之進。光富新左衛門。堀江藤大輔。佐藤久右衛門。安養寺左馬ノ助。瀬部喜右衛門。原田久左衛門。高志右近。清久三之丞。內藤助大輔。奈良太郎兵衛。片山岸右衛門。角田平右衛門。飯尾善ノ丞。智惠嶋源次兵衛。乘嶋入道來心。甘利奥右衛門。白鳥左近。高畠宇右衛門。飯田半右衛門。弟十拾大輔。田村盤右衛門。鎌田九馬右右衛門。鈴江新兵衛。古川龜右衛門。粟飯原平ノ丞。 石川六之進。櫛淵左近。湯淺豐後守。新居川洲右衛門。宇奈瀨龜之進。芥河兵庫。四ノ宮外記。由木善左衛門。古津竹右衛門中庄主膳。延野兵衛ノ進。其外名ヲ得シ勇士クッキャウノ侍三百餘一騎討死シケレハ。存保公モ討死シ給イントテ。

先陣近ク押寄セ給ヒケルヲ。家臣東村備後守ト云老功ノ兵進ミ出テ申ケルハ。敵ノ進ム時ハ其勢ヲ拔ス事。是レ太公カ兵道ノ秘術二テ候。又長 良ガ兵書モ見ル其ノ虚ナルハ則進。見其實則止ト云リ。敵今實也。先進ム敵ノ勢ヲ御抜カシ候得ト。再三理ヲ盡シテ申ケレハ。存保公此義ニ同シ給ヒ。靜ニ人數ヲクリ引ニ勝瑞ヘゾ被引ケル。

元親モ静ニ跡ヲ被レ付ケシガ。二万餘騎ノ兵ニ中飯ヲ調サセ。夕景ニ勝瑞へ被寄ケル。勝瑞ノ城ト申ハ。墓々敷堀ヲモホラズ。僅ニ屏一重バカリ塗テ。方一二町ニハ不過。其內ニ櫓十四五程掻雙ヘタリ。僅ニ五千餘騎ノ小勢ニテ大敵ヲモ不恐。誰ヲ頼ムトモナク防ギ戰給ケル。存保公ノ心ノ程コソ不敵ナレ。家臣木村新之尉。近光勝瑞ノ在家二火ヲ付。一宇モ不殘焼排ヒ。城中靜マリ返テ居タリ元親ハ勝瑞ノ在家ヨリ北ナル龍音寺ニ本陣ヲ堅メ士卒、在家ノ焼跡ニ陣ヲ取テ居タル處ニ。九月五日。日已ニ西山ニ際ナントスル時。俄ニ天カキ曇リ。風吹キ雨降事車軸ノ如シ。雷ノ鳴事山ヲ崩スカ如シ。寄手是ニ恐レ騒テ。爰彼ノ木ノ陰ニ立寄群リ居タル處ニ洪水出來テ。 忽ニ梢ヲ浸シ。或ハ牛馬數ヲ盡シテ流拾リ。

或ハ近邊ノ民屋流出タリケレバ。土佐勢失為方テ。森林ノ梢ニ昇リ。或ハ民屋 ニ上リ居ル處ニ。森志摩守方ヨリ存保公ノ城中思仕不寄處へ。兵粮米數十俵小舟數多ニ積テ入。柿原三五義長ト云侍三好家ノ恩愛ヲ不忘シテ。玉薬一廉入タリケレハ。籠城ノ兵共龍地ノ黒雲に飛翔スル如ク。勢強ツテ各舟取乘リ。寄手梢ニ居ヲ。舟ニテ行キ。下ヨリ突殺シ。或ハ民屋ニ上リ居ヲ射殺ス 事其數ヲ不知。寄手忍エ兼テ。急ギアツカイヲ入テ和談ッタリ。

元親モ陣ラ被引存保公モ城ズ被明讃州へ立退給フ。 篠原自遁モ 木津ノ山ヲ立退キ。淡州へ渡海シタリケレハ。則木津ニハ元親ヨリ城ヲ構ヘテ。 東條紀伊守カ甥。東條關之兵衛ヲ被置。關之兵衛カ人質トシテ。弟東條唯右衛門ハ土州へ遣ハシ置。渭ノ山ノ城ニハ吉田孫左衛門尉康俊ヲ被置。一ノ宮城ヲハ江村孫右衛門尉 親俊ニ令守。脇ノ城二ハ元親ノ甥長會加部新右衛門尉 親吉ヲスエ。大西白地ノ城ニハ。中內善助ヲ置。富岡ノ城ニハ元親ノ弟長曾加部內記亮親康ヲ被居。海部鞆ノ城ニハ。田中市之助政吉ヲ置ル。何モ用害堅メテゾ守護シタリ。

誤字、脱字は「やさしく」ご指摘ください。
最近(昔から)メンタル弱いんです。

で、下写真が、「轟神社」というわけです。




おまけ

近藤勘右衛門尉正次の弟である孫太郎正行の居城「片の丸城」が「轟城」の60メートルほど西にあったことも記録に残っております。(下図)