2019年12月31日火曜日

岐神再び(追記)

それ見たことか、書き忘れてるじゃない。
 「三輪高宮家系」より
天事代主籤入彦命について「母三島溝杭耳命女玉櫛比売命」とあるのが読めますでしょうか。

太田 亮著「姓氏家系大辞典」より、下図最後の方
これは以前にも書いたことがあるんですが、
「即ち三島溝杭耳の本名は観松彦色止命であるが、溝杭に住居して居た為に溝杭耳と云われたと考へるのである。」

また、同様の記述を鈴木 武樹 明治大学教授も「地名・苗字の起源99の謎―あなたの祖先はどこから来たか (PHP文庫) 」中に記しております。



「また、『先代旧事記』の〈国造本紀〉には、「都佐国造は三島溝杭の九世の孫である小立ノ足尼に始まる」とあり、阿波の長ノ国造・長ノ阿比古(「阿比古」は原始カバネのひとつ。「我孫子」とも書く)も同じく三島溝杭の後裔だとあるので、三島族はこの地方にまで進出していた ものとみられる。さらに、『先代旧事紀』、<国造本紀>の別の箇所には、「長ノ国造は観松彦色止の九世の孫である韓背足尼に始まる」としるされているので、これを前記の文章と合わせ れば、三島溝概耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」だったのではな いかと思われる。なお、阿波の名方郡には御間都比古神社がある

 「なお、阿波の名方郡には御間都比古神社がある」とありますが、実のところ「観松彦色止」を祀る神社は「御間都比古神社」しかないんですよね。

で、「玉櫛媛」については

玉櫛媛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

玉櫛媛(たまくしひめ)
別名 玉依媛、三島溝樴姫など
民族 天孫族
時代 神代
非婚配偶者 事代主神(『古事記』では大物主大神)、火雷神
子供 事代主神との子:鴨王、媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命
大物主神との子:比売多多良伊須気余理比売
火雷神との子:賀茂別雷命
父:三島溝橛耳神(陶津耳)、母:伊賀古夜日売
玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫、玉依媛、玉依姫、三島溝樴姫、『古事記』では勢夜陀多良比売)は、伝承上の日本神話の女性。神武天皇(初代天皇)の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命や、賀茂別雷神社祭神の賀茂別雷命などの母として知られる。

鴨建角身命(八咫烏)の子であり、兄に鴨建玉依彦命(賀茂氏の祖)がいる。「玉依媛」・「玉依彦」のように、ヒメとヒコの二者(この場合は兄妹)がペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれる。


と、もう一つ「三輪高宮家系」
率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)に祀られる「事代主」がこの「天事代主籤入彦命」であるということは、初代は「岐神」こと「猿田彦神」である(ややこしいな)「事代主神」であり、次代の「事代主神」は「観松彦色止命」の御子であり、阿波から勧請された。
もう一度書くね。

初代事代主(積羽八重事代主)
「岐神」こと「猿田彦神」で「経津主神」とともに「鹿島・香取」に赴き東国を平定した、多分「三島溝概耳」こと「観松彦色止命」。
出身は分からないけど本貫地は「神山」。

次代事代主(天事代主籤入彦命)
母が「三島溝概耳女玉櫛媛」なので普通に考えれば「三島溝概耳」の御子。
率川阿波神社に勧請された。
玉櫛姫、玉依媛には三人の御子がいたため、もしかしたら「天日方奇日方命」(鴨王)。
兄弟、姉妹に姫踏韛五十鈴姫命(神武天皇の皇后で、綏靖天皇などの母)。
五十鈴依姫命(綏靖天皇の皇后で、安寧天皇の母)。

追記終わり。
(別稿にしたらよかったかなwww)

2019年12月29日日曜日

岐神再び(8)END

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)
岐神再び(5)
岐神再び(6)
岐神再び(7)

はい、最終回でございます。
なんとか年内間に合いました。

追記といたしまして、前に出した「側高神社」についてですが、一応史料が出てきましので、記載しておきます。



「香取志」よりの引用です。
側高神社 又作脇鷹

よろしいでしょうか?
脇にいる「鷹」、鷹は鷲の隣にいるものと思ってください。
そういうことです。
また、佐那河内の猿田彦大神社について説明が抜けておりました。


主祭神が「笑子大神」つまり「えびす大神」であるのです。
で、正座が「猿田彦大神」。
阿波においては「猿田彦大神」が「笑子(恵比寿)(夷)」つまりは事代主であることが分かっていただけるでしょうか。

なお、追記すれば三輪氏の系図では「事代主=猿田彦=大物主」となっております。(上図)
さらには「上一宮大粟神社御縁起略記」によれば、摂社「粟神社」の御祭神は「大物主神」であり、
また、本来は大粟山自体を神として信仰していますが、古くから口伝で宮司家は若宮神社を粟神社としてあわせてまつりました。
父神である大物主さまを祀ります。
大粟神社のもっとも重要な神社の一社がこの若宮(粟)神社です。
と「上一宮大粟神社公式Instagram」に記載されています。



この点については、今後の慎重な考察が必要であろうと思いますので誰か考察してください(笑)
だって宮司さん、こんなの書くんだもん(笑)

oawajinjaのブログ(https://ameblo.jp/oawajinja/)より。

で、前回の
「過去、木屋平の「岐神祠」を悉皆調査した際に「祠の本当の御祭神を語ってはいけない」とのことで、全て「おふなとさん」とした」と記載した件ですが。

全てではなく、六十祠程度だという話も後日聞こえてきましたが、どちらにしても、木屋平が「斎主神まこと伊波比主神」つまり「経津主神(ふつぬしのかみ)」の本拠地であった可能性が高くなってきたということです。
でも、「経津主神(ふつぬしのかみ)」って中臣の祖神であって、こんなトコ(いやぁ)に本当に祀られてんの?
って仰るかもしれませんが、以前に「備忘録:つるぎ町貞光「児宮神社」」で記載させていただいたように、

社記では

中臣之大祖天児宮社記
常社者式内之官社ニ面麻植之地名神大月次新賞式ト号ス麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮則
當社乎朝廷ニ厚ク尊敬シ賜ヒ而四國之大祭御時タン上シ官幣ニ預リ賜フ當社者木綿麻山児宮四固之大祭
トハ二月五穀祭六月十一月両度月次祭リ八月新嘗會也依而往古者年々官幣乎給布而社領モ相應ニ下シ置
佐礼志事ヲモンヅルニ神代之昔高天原ニ而天照大御神磐屋ニ隠毛里給フ御時御心勇之幣物之料ト而中臣之
大祖天児屋根命ニ寄成神業ニ麻格之二種平佐成シ賜ヒ而麻之波乎以青幣ト志格之波乎以弓白幣ト志瓊鏡
之二種ニ并テ根越之榊に掛テ奉志今諸社二奉掛留瓊鏡木綿乎懸而奉留其根元也皇孫瓊瓊杵尊筑紫二天降
里賜フ御時ヨリ天照大御神勅志給ヒ忌部大祖天太玉命中臣大祖天児屋根命ヲ左右之補佐神ト定賜フ後高
天原之祝乎以内分之御政事乎司賜フ神事乎兼而行奈波志牟阿波國ニ降良世賜フ初テ播種世志麻植定光木
綿麻山ト号ス常國ニ住居而神代之従吉例ニ天子御即位大賞会之節毎止志[本本]之衣由加物平奉里諸ノ御神事
之節ニ幣畠乎作シ事乎往古鎮座吉良川端ヨリ五拾八丁辰巳方木綿麻山ニ御鎮座有天掛留奪キ神恩平人登
志弖アニカンタヒ由来詳成事朝廷之御本録ニ委敷記

慶長八卯年七月吉日寫之

      東端山家賀村
            笠井龍藏所持

嘉永六丑年十一月吉日写之

とあるように、天児屋根命が天降り来たとされる社が存在し、そこに寄り添うように残っている祠。
これが「斎主神」の祠であるのです。
「経津主神」こと「斎主神」が「由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)」であれば、忌部の本拠地の中心に中臣の祭神だと「言われる」「斎主神」が祀られていても、何も不都合は生じないことはお分りいただけますでしょうか。
(ところで「伊波比主神」って、仙覚抄云う所の「天竺ニハ 阿字ヲ發語ノ詞トス、我朝ニハ 伊字を發語ノ詞トスルナリ」に依れば「阿波比主神」ってなるよなーとか思いませんか?)

そこらを踏まえ、「岐神」は海を越え「香取」「鹿島」へ赴いたと考えます。
経路については、今後の課題としたいとは思ってます。

さて、最後に「岐神再び(6)」にて


このような思わせぶりな書き方をしておりましたが、「岐神」は「鹽津老翁」つまり「塩土老翁神 」であったのか?
陸奥国一宮である、宮城県塩竈市にある志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)(二社が同一境内に鎮座)。


鹽竈神社
別宮:塩土老翁神 - 主祭神
左宮:武甕槌神
右宮:経津主神
となっており、
鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
「岐神」こと「事代主神」は後年「塩土老翁神」として陸奥国まで赴いたことが想像されます。
また、同じ「事代主」かは分りませんが、次代の鹿島神とともに、「鹿【児】島」へ赴いた可能性も否定できませんが、他の事代主の冒険譚となるやもしれず、また別のお話といたしましょう。
一旦【完】

それでは皆さま良いお年をお迎えくださいませ、ワンワン。

2019年11月4日月曜日

岐神再び(7)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)
岐神再び(5)
岐神再び(6)

さて、と。
側高神社(そばたかじんじゃ)は、千葉県香取市大倉にある神社。香取神宮第一摂社で、旧社格は郷社。
利根川下流域には「そばたか」と社名を読む神社が多く分布するが、当社はそれらの本社とされる。
wikipedia



(由緒:パンフレットより)
側高神社は元来が香取神宮第一の摂社であるから、側高神社の由緒は香取神宮の由緒でもある。
又香取神宮の由緒は側高神社の由緒でもある。このことは香取神宮と鹿島神宮との関係についても言へる。
一口に"香取鹿島"という様に、香取神宮(祭神・経津主大神)と鹿島神宮(祭神・武甕槌神)とは左右一体の神で、
両神は神代の昔、天照大神の勅命を奉体して相共に国土平定の大任を成就せられた建国の大功神である。
従って香取、鹿島両神宮の間には密接不離なる関わりのあることは申すまでもなく、各摂末社のことについても又同様である。
そこで両武神が何故この東国の香取・鹿島の地に御鎮まりになられるのか、その理由について考えてみたい。
二柱の神は単なる武力の神ではなく、天神奉齋の重責をも兼任された祭祀の神でもあった。
経津主大神は別名を齋主神と申し上げる如く天神を側高の地に奉齋され、武甕槌大神は"高天原"と呼ばれる
聖地に天神を奉齋され、祭祀の大使命も成し遂げられたものと考えるのが至当であろう。
香取神宮の側高山、鹿島神宮高天原両聖地共に両神宮の東北東約二粁半ばかりの所に位置していることも偶然の符合ではない。
そして、更に東北東という方向は高千穂(宮崎県)や大和地方(奈良県)よりしても略同方向である。
このことは瓊々杵尊以来、御歴代の天皇が天神遙拝せられた方向、即ち地上に奉齋された高天原の方向であったことを示す。
経津主神社三十六ヶ深秘書に"遙宮側高之山也"と記されていることに依っても古代祭祀の形態は明らかである。
斯く両武神は聖地守護の大命を遂行して香取、鹿島の地に御鎮りになったものである。

下の写真は2017年に再興された徳島県吉野川市鴨島町「向麻山」麓に鎮座する「天日柱神社」旧の祠に祀られてあった御祭神を記した札でありますが「黒高大明神」と記されております。
この祠については「天日鷲命」の「御陵」の遥拝所であることは、ほぼ間違いないと思われます。
ならば、「黒高」が「黒鷹」であることについては異論は無いと考えております。

つまり「高」「鷹」であり、「鷲」に使えていた役割の呼称であるのでしょう。

ならば「側高」は?

側高神社は元来が香取神宮第一の摂社であるから、側高神社の由緒は香取神宮の由緒でもある。又香取神宮の由緒は側高神社の由緒でもある。

と由緒にはあります。
香取が「経津主大神」であり、「由布洲主命」であるのならば、言わずとも意味は通じるでしょう。

社伝に、神武18年の創建という。古来、祭神は神秘として口にすることを許されず。俗に言わず語らずの神とのみ伝う。

ともありますので、御祭神を記するのは控えますが、「鷲の側にいた鷹」なのですよ、御祭神は。

また、茨城県には高天原と呼んでいるところが3ヶ所ありまして

 1、鹿島神宮の飛び地の境内地で、本宮から約三キロ東にいった高台。


2、筑波山の中腹にあって、岩石が重なり合っていて眺望の良い場所。
3 水戸市外。
この三ヶ所ですが、先の伝として考えると「高天原」は
「鷹天原」なのでしょうか?
まあ、これには自分自身にも異論があるので、ちょっと保留にしておきます。

さて、話を経津主神に戻しまして、阿波国におきまして「経津主神」を祀る神社として有名なところで

高越神社(齋主神)  徳島県吉野川市山川町木綿麻山4
建布都神社    徳島県阿波市土成町郡字建布都569
建布都神社    徳島県阿波市市場町香美字郷社本18

と数社ありまして、「建布都神社」については式内論社でもあり、由緒としては問題ないのですが、本拠地とするにはこの一社では弱いのではという意見も出てくると思います(出ないんなら、それでもいいです(笑))。

ちなみに土成町の建布都神社は「建布都・西宮神社」となっており、ちゃんと「事代主」とセットになっているのがお分りいただけますでしょうか。(下写真)

えと、本拠地とするには一社では弱いと言うならば(言わんかなwww)107社あればどうでしょうか。
 前にも出した「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」からの引用図ですが、この中心部神山町に接する木屋平村「岐神祠」107祠となっておりますが、これが「岐神祠」でなかったら、どうします。



書いていいのか悪いのか、この木屋平村「岐神祠」107祠は実は「岐神祠」ではなく、「斎主(いわいぬし)命」の祠であると言うのです。

ボクも伝聞でしか確認していません。ですので、古い木屋平関係者にぜひとも確認してみてください。
過去、木屋平の「岐神祠」を悉皆調査した際に「祠の本当の御祭神を語ってはいけない」とのことで、全て「おふなとさん」としたと言う話を。

では「斎主(いわいぬし)神」とは?

経津主神(ふつぬしのかみ、正字:經津主神)は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。 wikipedia

木屋平には107の経津主神祠が存在している............?!!!

続く(次回最終回...かな)

2019年10月12日土曜日

岐神再び(6)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)
岐神再び(5)

前回の追記でございます。

入田村史に猿田彦大神の本社と書かれる「麻能等比古神社」ですが
「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」とありますように「矢野村」とは現在の国府町西矢野でありまして、そこの「松熊」といえば、ここになります。


ただし、現在の御祭神は「手力男命」と「天宇受女命」となっており「猿田彦大神」ではございません。

松熊二神の神とは櫛盤間戸(くしまど)神•豊盤間戸(とよいわまど)の神にて天石門別の神なり。
櫛盤間戸の神、豊盤間戸の神の弓矢を持ち給う御像もこれによる。
名西郡矢野村の弓の丸より二十間ほど戊亥の方に辰巳向きの社、松林のうちにあり。
今にては松熊大明神という。
杉の小山の記より


画像は 出雲宿禰俊信著 杉の小山の記

ここらを見ても天孫降臨の際、三種の神器を守った「思金神」「手力男命」「天石門別神」とその時に道案内を行なった「猿田彦大神」と混同しているようにも思えますので、そこらは注意してください(何を)。

さてと、話を鹿島・香取の方に戻しまして
茨城県鹿嶋市大字神向寺115 鹿島神宮のほど近い場所に鎮座するのが
「阿波神社」

 御祭神は「猿田彦命」
 「鹿島」の「阿波神社」の御祭神が「猿田彦命」。
もう説明はいいかなってモノでしょう。

あと、茨城県稲敷市阿波に鎮座するのが「大杉神社」で「あんばさま」と呼ばれます。
 主祭神
倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)
配祀
大己貴命、少彦名命
これも説明は要りますまい、「阿波」に鎮座する「大物主」ですね。
と、もう一度前に出した香取系図を見ていただくと
「経津主尊」の次代に「苗益命」の名が見られますが、この「苗益命」wikipediaなどで調べてみますと「天苗加命」の項目で出てきます。

天苗加命(あめのなえますのみこと)は日本の神で、香取神宮の神職首座(大宮司、大禰宜)を代々つとめる香取氏の祖神である。(天)苗益命朝彦命、朝彦ノ命とも称し、物部小事や天太玉命あるいは天日鷲命かその子の大麻比古命(麻比古命)の別名との説も。

香取氏の系図によれば経津主神の子(兄という説もある)とされる 。 神社の祭神としては香取神宮の摂社の一つ、又見神社(または、若御児神社ともいう)に祭られている。
また、安房神社の極めて近くに香取神社(梶取神社)が大正5年までは存在していたが、その祭神は経津主神ではなく、天富命に従ってこの地に来たと言われる宇豆毘古(槁根津日子)だったという。

弘化二年(1845)『下総国旧事考』:朝彦ノ命の別名「苗加(ナヘマス)ノ命」

香取神宮の主祭神
・香取神宮:普都の大神、経津主神、斎主(イハヒヌシ)の神
・『日本書紀』の一書の二:「経津主神」または「斎主」「斎の大人」。岐神をクニの導きとして各地をめぐり歩き平定し、従わない者を斬り殺し、帰順するものには褒美をあたえ、この時に帰順したのが大物主神と事代主神とある。
・『日本書紀』『続日本後紀』『文徳実録』等の正史や『延喜式』の春日祭祝詞:「伊波比主命」
・『常陸風土記』信太郡の項:「天より降り来たれる神。名は普都大神と号す。」
・『常陸風土記』香島郡の項:「其処にいませる天の大神の社。坂戸の社。沼尾の社。三処を合せて惣べて香島の大神と称う。」
・『先代旧事本紀』:「今下総国香取に坐す大神是なり。」
・大同二年(807)斎部広成『古語拾遺』や『旧事本紀』:「経津主」
・吉田大洋『謎の出雲帝国』『竜神よ、我に来たれ!』:クナトノ大神
・経津主は天太玉命の孫又は曾孫とする説もある。(香取神宮第一の摂社とされる側高神社の祭神は、一説に忌部氏系の天日鷲命とも。)

香取神宮の本殿からほど近いところに不開殿(あけずどの)という摂社があったが、不開殿とは鹿島神宮の正殿のことをいい、毎年三月には、祭神が不開殿に神幸されたというが、斎主が御在世のころ、その住居処のかたわらに神籬を設けて、常時フツノミタマの神に奉仕しておられた

念の為、出典である「下総国旧事考」を確認しますれば
「朝彦命」は「苗加命(苗益命)」と記載されております。
ただね、「安房国忌部家系」によれば、「大麻比古命」の御子が「由布津主命」となってますので世代が逆転するのですよね。
香取系図を見ると、「経津主命」の系譜として「若経津主命」「武経津主命」「忌経津主命」などが見られ、混同があったものか、あるいはwikiにもあったように「苗益命」が(何代目かの)「天日鷲命」であったかも考慮しなければならないかもしれません。

(念の為出しときますけど「天日鷲命」は早雲家系図に
おいては六代続いたことになっております)

どちらにしても、「経津主尊」の系譜が、阿波から「岐神」としてやってきた「猿田彦神」こと「事代主命」に案内され、当地を平定したことは間違い無いでしょう。

だいぶ煮詰まってきたでしょう(笑)。
あと1回くらいでどうにか終わらせたいと目論んでおるのですが、今回の終わりにあと一つだけ。
「鹿島神宮傳記」より
前に説明した「息栖(いきす)神社」の部分。


鹽津老翁は「鹽土老翁神」ですね。
それが「岐神」とは?
続く

2019年10月7日月曜日

岐神再び(5)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)

ちょっと前回の訂正(汗)
中辺りに「忌經津主命」の記載が見えるでしょうか。
左のほうに「斎事代主」の記載が見えるでしょうか。
あるいは、「忌經津主命」の「忌」は「忌部」の意味なのか、「斎事代主」は阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する「延喜式式内社 事代主神社」の事代主のことなのか
の部分ですが
「斎事代主」じゃなくて、「斎事主」が正しいです。
あとで「事代主」とは関連があることは書かせてもらいますが、この時点では、まだ「斎事主」です(先走ってしまいました)。
ただ
経津主尊-苗益命-若経津主命-武経津主命-忌経津主命-伊豆豊益命-斎事主命-神武勝命
と続く系譜の中で、伊豆豊益命-斎事主命の部分、「斎」は「イズ」もしくは「イツ」と読み、「伊豆の事主」つまり、「斎主」でフツヌシのことだという説もあります。
訂正と追記いたしまして、お詫び申し上げます。

こんなの貼るトコ見ると、こいつ絶対反省してないな。

で、続きますのですが、そろそろ核心を書かないと、この方に叱られそうなので

にゃあ

では、神山の「おふなとさん」の特徴はといえば

・足神(足痛を治す神・足を丈夫にする神)
・草履をまつる。
・わらじをまつる。
・手足の神(手足通を治す神)。
・足腰痛を治す神。
・子供の守り神。
・岩上より子供が落ちても怪我させない。
・子供が衣類に不自由せん。
・子授け。
・子供が三歳になるまで祀り、以後まつらない。
・家族の守り神。
・家族の健康を祈る。
・主人の身体を守る。
・屋敷の守り神。
が御神体だから塩はまつらない。(修正:ぐーたら)
・塩はまつらない。
・塩ぬき赤飯祭る。
・岐神が祟った結果、祀るようになった。
・講中に災難がない様に又健康祈る。
・悪病を防ぐ。
・畑の守り神。
「徳島県下における岐神信仰に関する言説」より

とありますが、「御神体が蛭」となった時に考えられるのが「蛭子」ですよね。
他に「蛭」のつく神様なんてありません。
さらに「蛭子」と言えば「事代主」、「恵比寿」様のことですよね。
確かに阿波国には「事代主」を冠する式内社「事代主神社」が存在いたします。

阿波町「事代主神社」
また「岐神」は「猿田彦神」だとも書きました。


あぁぁぁぁ、これは何か違うような気が.....

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。

などと、wikipediaでも説明されておりますので、「猿田彦神」についても簡単に説明を載せておきます。



『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。

猿田毘古神を祭神とする神社
全国
 白鬚神社(総本宮:滋賀県高島市)
 猿田彦神社(全国各地)
 猿田彦神社(総本宮:三重県伊勢市)
東日本
 菅布禰神社(福島県郡山市)
 御園神社(東京都大田区西蒲田)
 籠祖神社(東京都千代田区神田神社境内社)
 男石神社(長野県上田市殿城)
 鼻節神社(宮城県七ヶ浜町)
 佐那武神社(石川県野々市市)
 本土神社(岐阜県多治見市)
三重県
 二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)
 椿大神社(総本宮:三重県鈴鹿市)
 都波岐神社・奈加等神社(三重県鈴鹿市)
 阿射加神社(三重県松阪市大阿坂)
 阿射加神社(三重県松阪市小阿坂)
中国・四国・九州
 長澤神社(岡山県井原市大江町)
 塩屋神社(広島県広島市)
 佐太神社(島根県松江市)
- 神社では「佐太御子大神」となっており、母は神魂命の子の枳佐加比売命、加賀の潜戸で生まれたと『出雲国風土記』にある。
 大麻比古神社 (徳島県鳴門市大麻町)
 荒立神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
wikipediaより(一部編集)

大麻比古神社については下の由緒書きの通り
大麻比古大神、猿田彦大神となっております。
大麻比古大神については今回書くと、ややこしくなって収拾がつかなくなるので、別の機会にさせていただくとして(◯◯さんから文句ありそう(笑))。



また、佐那河内の「大宮八幡神社」にも
「天石門別豊玉比売神社」と「猿田彦神社」があったことが碑と残っております。

また「阿波国続風土記」にも「猿田彦大神社」として存在していたことが記載されております。



では、上記を踏まえて、これを見ていただきましょう。
「三輪叢書」より

ああ、やっと出てきたかという声が「ごく一部」から聞こえてまいりました(笑)。
大神氏の系譜を綴る「三輪高宮家系」です。

「都美波八重事代主命  又名猿田彦神、大物主神」

「積羽八重事代主命」は「猿田彦神」であり「大物主神」であると「大神神社」を司る大神氏が仰っておるのですね。
では、率川神社(いさがわじんじゃ)をご存知でしょうか。

率川神社(いさがわじんじゃ)は奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子守明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。

率川神社末社の住吉神社と春日神社の合間に鎮座するのが「率川(いさがわ)阿波神社」でありますが。

率川阿波神社の御祭神は「奈良市最古のえびすさん」と記されておりますが
社伝によると宝亀二年藤原是公が夢のお告げにより阿波国より勧請した...
つまり宝亀二年まで「事代主神」は奈良にいなかったので、阿波から勧請した事代主命は「猿田彦神」ということでよろしいでしょうか。

そして、上でも記載いたしましたように「猿田彦大神」は
「大麻比古神社」に祀られ、佐那河内には「猿田彦大神社」が存在しており、さらに
入田村史によれば




「猿田彦神社」の「本社」が「麻能等比古神社」として存在していたおの記載を見ることができます。
「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」

「阿波国続風土記」によれば「麻能等比古神社」の御祭神は「舟戸神」とあり、この点でも一致しております。

つまり、阿波、それも神山周辺を「岐神」の本貫地として考えることで次のような想定(個人的には、いいと思いますがね)ができるのではないでしょうか。

1. 「岐神」は地元である神山周辺では「オフナトさん」と呼ばれる(呼ばれていた)。

2. 地元を離れた、あるいは道引の神として各地を巡幸していた時には「猿田彦神」と呼ばれた。

3. 役目を終え、もしくは新たな役目のため「事代主」という職名を与えられた。

1.について言えば道祖神の呼び方について徳島県以外で「フナト」と呼ぶ地域がほほ存在しないこと。


例えば、2について海陽町においては「猿田彦神」を祀る神社が異様に多いということ。
旧海南町が平成4年に発行した「海南町総合学術調査報告書 第二編」に「海南町の神社建築」という記事がありここに面白いことが書かれてあった。猿田彦命に着目していて主祭神として祀っている。神社の数を調べたところ旧海南町は29の神社のうち10を占め、率にして0.345と際立って大きいのだ。
海部川紀行 海部川流域の猿田彦 より引用させていただきました。

3については「事代主」が役職名であることは何度も書いてきた通りです。
下図のように日本書紀には「阿閇臣事代」についての記載があり、「任那」まで出仕していることが見えます。
つまり「事代主」はこの「事代」という役職の「主」トップであるのです。


さらに「阿府誌」に曰く
阿部氏
名西上浦町浦方ト云家有当家元祖成務
天皇朝高志國造阿閇臣祖屋主思命三世孫市
命定賜國造高志此地ノ郷名也当象其今徹
リ式内神社ノ部ニ詳ナリ但シ家始リ二千年
ニ及フ阿閇ハ阿部也今ハ阿部阿倍等同姓也

と「阿閇氏」の本拠地があったことを示唆し、
上一宮大粟神社の摂社、上角の八幡神社が「阿閇宮」と呼ばれていたことは、最近の上一宮大粟神社「阿部」宮司の研究にもある通りです。
上角八幡神社
(正面の写真がどっか行ってしまった)
続く
ラストスパートかな(汗)