2013年5月27日月曜日

阿波國続(後)風土記について(7)土御門天皇御舊跡考證(里浦の部) のおまけ

鳴門の土人さんより清少納言関係の文献を考証して欲しいとのお話がありましたが、なかなか関連資料全部を考証というのも難しいのですが、ちょっとだけ出してみましょう、と言う訳で、この度出してみるのが「古事談」。
清少納言の話が出ているのは巻の二、五十五段と五十七段。
またまた「国史大系」より出してみますれば。
読んでみればそう難しくはないんですよ。
赤線を引いてあるところが、その部分。

清少納言零落之後。若殿上人アマタ同車。...云々とあります。
簡単に意訳すれば
若い殿上人たちが「清少納言も落ちぶれたものだ」と噂すると、すざましい形相の清少納言が簾を上げ、「駿馬の骨は買わないの」(骨でも名馬なら買い手があるという中国の故事に基づく言葉)と怒鳴った。

後段の部分は
清原致信を刺客が襲った時、一緒に泊っていた清少納言を男とカン違いして斬ろうとしたとき、清少納言は法衣をたくしあげ、女であることを証明して難を逃れた
というお話ですね。
「尼之由云エントテ惣出開云々」の部分ですね。
余計な説明ですが「開」が女性の部分の事、それを惣(すべて)出して、尼である事を云わんとした、とね。

これを見る限りは、相当な老醜をさらしてるようで、あまり書きたくなかった話です。
ですので、里浦に来たかどうかは別にして、男か女かも分らない姿では、蜑に辱められたと云うのは、まず無い話でしょう。

と、まずは「古事談」出してみました。
また機会があれば、別の資料も出してみますが、こればっかりにかかってもいられないので、いつになるかは不明です。
申し訳ありません。

2013年5月12日日曜日

阿波國続(後)風土記について(7)土御門天皇御舊跡考證(里浦の部)

タイトルがいよいよ、なんだか分らなくなってきました(笑)
前の記事も、もう忘れられてるでしょうしね(笑)

3月9日(土)阿波古事記研究会より、その7、なんですけど、今回からは純然たるおまけです。需要があるのかどうか不明なので、「土御門天皇御舊跡考證」シリーズ、アクセスが少なければ、止めときます(笑)


前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
阿波國続(後)風土記について(5)
阿波國続(後)風土記について(6)
読んでない方は見てから戻ってきてね。

今度のは「阿波國続(後)風土記雑纂」に収録されていたのではなく、別途残っていた資料からです。

「阿波國後風土記舊跡之部 土御門天皇御舊跡考證 草稿」

松浦長年の手によるものです。
土御門天皇についてwikipediaなどを見てみますと

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。

略歴 
建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇。
京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。
承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。
寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。

と、紋切り型の説明しか載っておりませんが、要はこの土御門天皇が土成において最期を迎えられ、その伝承が阿波国に数多く残っていると云うものです。
ボクも前にちょろっとだけ
で、つまみ食いみたいに書きましたが、こんなのより
「どなり古事記研究会」様の「民話に残る帝のご最期」などを見ていただいた方が、よっぽど分りやすいと思います。
さて、それでもって予備知識を入れていただいてからはじめます。
まずは鳴門市の里浦に「あま塚」というのがございまして、これが清少納言の墓であるとか、、この土御門天皇の墓であるとかという伝承が入り乱れておりまして
これも、以前に「清少納言の墓」でかいておりますし、「蜑(あま)の男狭磯(おさし)(上)」で、明治43年頃「田山花袋」の書いた「新撰名勝地誌」の「清少納言墓」の項目を引き合いに出しております。
いかん、いかん、前置きばっかで一向に始まらんではないですか。
憶えておいて欲しいのが
里浦に「あま塚」というものがあって


「清少納言」の墓か、「土御門天皇」の墓であるか、あるいは陰陽師「安倍晴明」の墓であるかという複数説があるので、そこを考証します、と言う一文なのです。
ひじょーに読みにくい文で、ワタクシ、勝手に区切りや改行を入れてます。
で、途中にワタクシの意訳(そんないいモノじゃないです)を色を変えて書いております、相当はしょってあるので、そこらはご賢察の程、疑わしきは本文をご参照くださいませ。(まあ、逃げですな)

土御門天皇御舊跡考證

里浦古跡
 撫養町里浦に今も現在せる所の古跡を土御門天皇乃廟陵の由申傅へます清少納言の塚とも申唱へ候さて松下西峯が前王廟陵記に里浦撫養村有土御門院陵平地積石と記し置申候
 又蒲生秀實か山陵志も此書に雷同し且は御祭日年毎の十月十一日なるを以て土御門院御忌日に當りきと傍證に出していよいよ此處を御陵の地に定め申候又細井知慎が諸陵周垣記にも里浦と記し申候

里浦にある土御門天皇乃廟陵を清少納言の塚と言ったりもするのですが、蒲生秀實の「山陵志」もそうだと書いてあり、祭日も土御門院御忌日と同じ十月十一日なんだよ。
ってことですね。

 又當國人先輩吉井氏も里浦とし赤堀永井の両氏は池ノ谷村歟と云ながら猶里浦をも捨兼候はよるべ定欠ぬ舟の心地に御座候
さはかり諸説どもの限りあきもあきも此里浦に大凡相決し申候へ共重し愚考仕候処惣帝陵は山陵と唱来り候如し多分は山岳により申候が古制にて御座候

吉井氏も里浦とし赤堀永井の両氏も里浦説が捨てきれない、とは言うモノの、大体、御陵っていうのは山に造るのがふつーじゃないっすか。

 尤も山城大和は海なき國にて激浪の憂いあらざるが故に山岳を放れたる平陵も多く相見へ候へ共海國は其例にては無御座候凡て山陵乃形象は丸山宮車の躰古法に假所嵯峨天皇薄葵の御遺詔ありて後にも又火化(大化?)など始り御陵の儀一定なく大に沿革仕り候へ共いつの御制度にも大川激流に近き地なとば甚く憚り除給ひて営み申候

大和(奈良)なんかは海が無いので、平地の例もあるようですがね。
でも大川激流に近いところは止めるでしょう。

 殊さら海國にての御處置はいよいよ山岳に寄候て相営み候事は既に隠岐國佐渡國などにて後鳥羽院は苅田山に順徳院は真野山に山陵の山陵たる古例に営み申たるにかねがね鎌倉に山なく思い奉る土御門院の御陵を(事?)も麁略になし奉り通例古實に違ひ山岳を隔てて里浦の如き海邊の平地ことさら本郡を難結し小島に至尊の御陵をいとなみ候儀は決して例なき御事に奉存候摠ての處置北條次第の時なれば彼の両帝の御陵に劣り給ふべくもあらば其は下文なる吉田村の條に相記置候如く厳重の御造営ありし意味にも矛盾仕候右等の時勢地理などを考合仕候へば返々も此浦は御陵地に無之御遊幸跡と相見え申候

隠岐國佐渡國など海に近いところはいよいよ山に(御陵を)つくってますよね、
後鳥羽院は苅田山に順徳院は真野山にってね。
それを考えたら、この(里浦の)地は御遊幸の跡じゃないっすか?

 右帝陵に限らず高貴な御墓地は専ら山地に(偏?)り営み候例にて海邊は激浪沈没の恐れ御座候故其筈の御事と存奉今以て里浦の地は本郡に續かざる離れし島にて往昔ハ木津浦まで波立ちり多(?)りて淡路の福良の驛より當國へ渡海致すには大谷村の石園と申処驛傅即ち船着にて候へば承久貞應の頃までも里浦近村は不残海中有之趣に相見え申候此事は當國古驛考と戸拙作に委しく記し可申儀に御座候

くりかえしますが、右帝陵に限らず高貴な御墓地は大体山地にあるし、海辺は水没するかもしれないんで、造らないと思います。
また淡路から阿波に渡る時は福良の驛から大谷の石園という驛に渡ったので、里浦には直接渡らないでしょう。ここらは「當國古驛考」と「戸拙作」に詳しく載ってます。

 また清少納言の事は里浦の申傅に六人の蜑(あま)ども打寄て殺害なし衣裳を剥取しとの儀に御座候
 此傅へは實に浮(る?)る説なるが上にさる情なき者共なれば清(女?)骸は其まま海中に投入申べきに今も其塚の邊を御墓と云い其地下に二間四方許の石面ありと申せばさばかり零落に及びし清女か墓てふは決して有ましき事に御座候

また清少納言の墓であると云う説は、もし、清少納言が六人の蜑(あま)に殺されたのならば、遺体は海中に棄てられ、墓なんて残る筈がないと思います。また、零落した清少納言の墓が地下に二間四方の石面がある(程の立派な)墓であるはずがないじゃありませんか。

 此は清明が墓と申志傅へし(は?)當國に阿部(原文まま)清明の縁なきにより玄旨法印百人一首抄に清少納言志の後には四國のほとりにおちぶれて有し由に傅ると云ふ附会し清明を清女と轉じ云へるにて好事の人の業と相見え申候

これが(安倍)晴明の墓であると云う伝承もあるようですが、当国には(安倍)晴明との縁も無く、清少納言の伝承を聞いた誰かが「清明」と「清女」を混同したんじゃないでしょうか。

 讃岐國に清女が墓あるよしものに見え候へ共夫も慥(たしか)ならぬ事に奉存候
 老後迠(まで)も父元輔が家の跡に往きし事は新古今集に明文御座候
 さて清明の由緒は土御門たる同称の混亂なる事吉田村古跡の條に記置候まず(?)里浦の文書に此浦に土御門院を奉蔡と申傅御陵の高さは一尺七八寸方八尺許の古墳と記し御座候よし是則廟陵記に所謂平地に石積とあるに同し趣にて石を積事高さ一尺七八寸方八尺許も相営み天皇の御衣尉などを石櫃に納め奉りて假宮の御跡を遺せし昔時質素の面影にて後人の業たる今の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
(注)宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。
に勝せ(?)る事遥かにて御座候

清少納言は老後までも父親の元輔の家で住んでいた事は新古今集にもあるので、間違いないですよ。(安倍)晴明の由緒は土御門家なので土御門院と混同してるんじゃないでしょうか。

 いづれ里浦の古跡は天皇海邊御遊覧の節此浦は殊更名高き名所なる故に深くも叡慮の留らせ給ひしより別ての御旧跡に相成候義と奉存候早雲氏も假宮の廃跡にて可有之哉とのみは(?)疑い置き多(た)る如くにて御座候

どっちにしても里浦の古跡は土御門天皇の御遊覧の趾だと思います。早雲氏も天皇の仮宮って言ってるので、他の事は疑わしい事が多いでしょう。

 さて古来より御墓と唱へ奉り或年毎の御祭日十月十一日なるも聖忌に符合し或は二間四方の石面の事の只ならぬ或は里俗土御門院御陵と申傅へ候事など何きも近来の義と相見え不申候既に先輩の諸説大半此地と定め申程の事にて一朝一夕の義にては無御座候

でも、昔から御墓と言い伝えて、御祭日も十月十一日で聖忌に符合してますし、地元の人や先輩方も言ってますね、最近云い始めたんじゃないようです。

 尤(もっとも)今に外廻拾間程の所耕作等も不仕荒地にいま(?)し置候事は元禄巳来の義と奉存候凡ての御模様一通ならず相見え候へ共上にも申す如く山陵にては決して無之御遊幸地の御舊跡なる事はさらに疑いなく奉存候猶下文に相記志(し)御座候
 大炊天皇(淳仁天皇(じゅんにんてんのう)?)崇徳天皇後鳥羽天皇順徳天皇など御例を御引合せ御覧被下度候古語に觸類得活法と申候はかゝる事にて御座候かと存奉候

でも、やっぱり山に造ってる訳じゃないし、御遊幸地の御舊跡だと言う事で、間違いないと思います。

以上 里浦古跡の部

すごい、はしょり具合だなんて言わないでね。見ての通り、文章が「くどい」(笑)。
人の事を言うなって、聞こえてきそうですけど(笑)
ですので、松浦長年の説は、土御門天皇御遊幸の地跡だという結論ですね。
上で出した「田山花袋」の「新撰名勝地誌」にも「里浦は即ちその行在にやと疑わるる説....」とあり(行在は行宮と同じ)、やっぱこの線なんでしょうかね。
安倍晴明の墓なんて説は、ボクは聞いた事がなく、松浦氏もあっさり却下してるようなんで、スルーしときます。
ま、安倍晴明の墓の可能性がちょっとでもあるようなら、最近の歴女にウケそうなんで、鳴門市観光課などが大々的に売り出せばいいんじゃないかと思ったりもしてたんですが(笑)そうもいかないようですね。

さて、まず里浦はこの線でカタが付きそうなんですが、この後「池ノ谷村古跡」「下ノ庄村古跡」「吉田村古跡」「柿原村古跡」と続きますが、需要はあるのか?
なければ、次の稿へ進むんですが。

いや、単に転載するのがチョーめんどくさいだけなんですけど。
(この一文入力するのに、すっごい時間かかるのよ)


2013年5月5日日曜日

豊受皇太神御鎮座本記

一応、人前で説明はさせていただいたのですが3分くらい喋って、資料を配って終わりという、顰蹙ものの説明だったので、もうちょっとだけ説明しておきます。

聞く所によると、伊勢には伊勢神宮という大きな神社があるそうでして(笑)



伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも言う。

伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされている。


主祭神は以下の2柱。
皇大神宮:内宮(ないくう)
天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ) - 一般には天照大御神として知られる
豊受大神宮:外宮(げくう)
豊受大御神 (とようけのおおみかみ)
以上 wikipediaより

内宮は垂仁天皇期に祀られ、外宮は雄略天皇の御宇に今の場所に祀られたとの伝承が起源となっております。
外宮の祭祀を代々司ってきたのが度会(わたらい)氏で、度会氏に伝えられてきたのが度会神道、一般的に言われる伊勢神道であります。
その伊勢神道(度会神道)の根本経典として伝わるのが「神道五部書(しんとうごうぶしょ)」。
鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとされており、奥付には奈良時代以前の記載であるとの記述があるそうですが、確認はできておりません。一般的には14世紀頃の成立であるようです。

この「神道五部書」はその名の通り5つの経典の総称でありまして

『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
『倭姫命世記』
の五書からなっております。
今回、ご紹介するのは、そのうちの『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)でありまして、外宮である「豊受大神宮」鎮座に関する由来を記したものです。


伊勢神宮公式サイトには


豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祭り申し上げる豊受大神宮は、内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも申し上げます。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年の昔のことです。
 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。
 内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。



との説明が記載されています。
御鎮座の時期は、ボクが喋ったのとは大分違っていて、どうも勘違いしてたようです、ごめんなさい。
ま、それはそれとして『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみますれば
見ていただきたいのは赤線の部分。

天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也

これだけで、詳しい説明は不要かなとも思いますが...
阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であると記してあるのです。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者、あるいは......
(ここを書かないから常々『ずるい』って言われるんだなぁ)

内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だったのです。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの本紀を記したのでしょう。

ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指しまして、天照大神を祭神とするのは皇大神宮(内宮)で、穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)の本紀として、この記述があるのは、非常に疑問です。
あと、神皇産霊神、云々の話もでてましたよね
この辺りは今後の課題となるでしょう(だれか調べてよ〜)。

が、通常世間に出る事の無い「御本記」に、ここまではっきりと国名、郡名を出して、その起源を主張するには、並々ならぬ事情があったことと推測されます。

「道は阿波より始まる」にも伊勢神宮は「阿波王子神社」を遷座したものだなんて書いてありましたしね。一つの裏付けにはなるでしょう。

ってトコですかね。
いかがなもんでしょうか?

2013年5月4日土曜日

いちごジャムつくりました。

毎年、ゴールデンウィークの恒例みたいになってきました。
いちごジャム作り。
奥様が庭に少しだけイチゴを植えておりますので(二畝ほど)てきとーにまとまった量が色づいたらジャムにしております。


今年は600グラム程行ってみましょう。
へたと、痛んだ部分を取り除いてキレイに洗います。 
グラニュー糖を220グラムまぶして数時間置きます。
砂糖の量はお好みで。長期保存するのならイチゴの半量ぐらいは必要でしょう。
ワタクシはちょっと控えめに。
あとレモンを適量。フレッシュがなかったので今回はポッカレモンで(笑)
ダイダイ(橙)は庭に実ってますけど、ジャムには使った事が無いので、今年もパス。 
数時間後、鍋で煮詰め始めます。
 最初は弱火でなくちゃ、砂糖が焦げてしまいます。

30分くらい煮詰めているとこんな感じになってきます。
もちろん、途中アクはマメに取りましょう。
ボクはちょっとだけ形を残します。
最初は、ほとんど形を残してたんですが、使いにくくて不評だったので、最近はこの程度にしてます。
見た目は、形が残ってる方がキレイなんですけどね。
 仕上がる直前に容器を煮沸します。
 熱いうちに容器に入れて密封します。
1、2週間で食べきるのがいいと思いますが、ちゃんと密封して冷蔵庫で保存すれば、この時期なら1ヶ月は大丈夫です。
奥様の実家からのいただきものもあるので、もう一回ぐらい作れるかな、と思ってます。




あ、このサイトがクックパッドに変わったんじゃありません(笑)
違うサイトに迷い込んだと勘違いする方がいらっしゃったらいけませんので(そんなヤツいね〜よって?)間違ってない証拠に(ヲイヲイ)。
西麻植八幡神社
陶製の狛犬
両部鳥居(四脚鳥居)
太鼓橋
吉野川市有形文化財のてんこもりですな。