2018年1月14日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(追記:為朝伝説)

今年はホントにお寒うございます。
さて、
麻植の系譜:願勝寺編(5)
の追記となります。
ホントは稿を分けて書きたいくらい面白いんですが、成り行きで書くと5回くらいになってしまって、めんどくさいので(笑)追記で納めてしまいます。

願勝寺系譜「十一代隨伝」の項において




七十七代後白川院の朝保元の乱に新院の軍破れて讃州に遷され玉ひ藤原頼長家司藤内
左衛門範景入道して蓮心法師と号讃州に来り
白峯の御墓を拝し草庵を結御菩提を弔ふ処阿野大領高遠より障るの義あつて阿波へ移
り当寺に寄宿し三ケ峯の神社に新院の御霊を神と仰き祭るの所
是亦讃州に近きの故に禍の来たれる事を恐れ麻植の宮内に至り麻植為光を頼して此社
地に新院の御霊を白人宮と称し祭るの所鎮西八郎為朝も伊豆の大嶋より遁れ来り此白
人宮を拝し永代の祭りを為光に頼み置予州へ立越え三つが浜より九州に渡り後は琉球
国に至ると云

と記載いたしました。
ちなみになんですが「白人神社」については

白人神社(旧村社)(写真1)は穴吹町口山字宮内2番地に鎮座する。社地は宮内地区の南端にあり、穴吹川に臨み、境内は楠(くすのき)、杉、椋(むく)などの古木に覆われている。主祭神は瓊瓊杵尊(ににきのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)・崇徳天皇・源為朝。境内社に八幡神社、天神社、神明神社がある。神明神社は、白人神社南側の鬱蒼(うっそう)たる原生林の中に鎮座している。白人神社の奥社と言われ、頂上付近の石堤は古代の磐境(いわさか)とされる。
阿波学会研究紀要より



祭神は「瓊瓊杵尊(ににきのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)・崇徳天皇・源為朝」
となっておりますが、実際には「崇徳天皇」だったことがわかると思います。

さて、このように「源為朝」が美馬、穴吹までやってきたことが書かれておりますが、無論、「源為朝」は通説においては保元の乱の後、肘を外され自慢の弓を射ることができないようにされてから伊豆大島に流刑となり、嘉応2年(1170年)自害、加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた、となっております。


ちなみに沖縄には「源為朝公上陸之趾」の碑があるんですねぇ

ですので、何か物的証拠とか、他の伝承とかがあればいいんですが、と思っておりますれば、伝承が見つかってしまいました(笑)。
知る人ぞ知る「阿波國(続)風土記」麻植郡「学村」の部分



学村 この村往古は吉岡村と云し村成
此の村の謂れ根元吉岡村と云しは此の村巳の方より坤の方まで南は一円東山村にて、西は山崎村 北は三ツ嶋村 児島村 東は桑村にて、南へよりし所は山に添いて高く大水の時、峯八名の地に登りて、北吉野川の大水を見渡し、誠に此の処はよき岡なりと言いしによりて、かくは言いしとなり
然るにその後樂村となりし謂れは天平年中の頃、聖武天皇諸国御巡幸の折柄、この村に御出ありし時、不思議と虚空に紫雲靉靆(あいたい)し、中に音楽の音して異香薫じける故、帝の仰せには、此処こそ釈尊転法輪のなりとて、暫く御駐蹕(ひつ)あり、一寺御建立ありけるに、如意輪観の瑞慶により、行基菩薩に命令あり、大悲の尊像を彫刻なさせたまい紫雲山悲大寺と勅号賜り仏像供養の時、天人影向して音楽を奏しける
此の時に樂村と村号を御改めあそばしたり
その後鎮西八郎源為朝、強弓をあらわさんと、当村穴観音の岡より、勝命村明王院入道州加にありし時庇の柱を的にして射たるに、柱を射通したり
其の時傍観の者、「君の如き弓勢は古よりかつてあるまじ」と賞美しけるに、為朝の日く「諸芸とも学びぬれば、妙術は出来るなり」とありしかば村内の者共 学にしかじ と志を決す。

またまた、ちなみに「学」の由来は「角川日本地名大辞典」によれば

学(がく): 徳島県吉野川市川島町学(がく)
この地が忌部氏の本拠地で、忌部氏が教育のために設置した学校に由来すると言われる。
地名の由来については諸説がある。「川島町誌稿本」によれば、善勝寺縁起に、悲大寺という寺があり、某帝がこの地に巡幸のみぎり、寺の上に紫雲がたなびき、妙なる楽の音が聞こえたことから楽村と呼び、のち同音の学の字をあてたとあり、また昔字唐戸に了慶寺という寺があり、住職が住民に学問を教えたため,人々は学に行くというようになったからという。しかし定説としては上古阿波国の国学が置かれたからという。

となっております。
つまり、「某帝がこの地に巡幸のみぎり、寺の上に紫雲がたなびき、妙なる楽の音が聞こえたことから楽村と呼び」のところまでは同じ。
「のち同音の学の字をあてた」の部分が「その後鎮西八郎源為朝、強弓をあらわさんと…」と「阿波國(続)風土記」では記載されている、とね。

ただ、学村の「穴観音」てのがどこだかわかりません。


一応「阿波志」もチェックはしましたけど、載ってません。
どなたかご存知でしたらご教授願います。

まあ、それにしても「学」から「勝命村明王院」の庇を射るなんてのは、あまりにも無茶振りなんでしょうが、もしかしたら「為朝」ならなんて思ってしまう…
訳はないでしょう。😅😅😅
それにしても「角川日本地名大辞典」、「某帝」なんて書かずに
「聖武天皇諸国御巡幸の折」って、ちゃんと書いてくださいよね、なんか都合の悪いことでもあるの?

ああぁぁぁ、寒くて起きられないよね〜
まあ、簡単に書けば
川島町「学」は「聖武天皇の巡幸があり、源為朝も立ち寄った地であります」
という、追記でございました。


さて、次は大ネタやろうか、小ネタでごまかそうか悩んでおります(笑)

2018年1月3日水曜日

異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!(下)

異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!(上)
から続けます。

あ、その前に
「あけましておめでとうございます」😀
本年もこんな感じなんで、よろしくお願いいたします。
と、
発端は「田所眉東」氏の「土御門院奉祀地問題と徳島」でした。



長文でもありまして、翻刻もめんどくさいんで(笑)、要旨を勝手にまとめるならば

1.土御門上皇、阿波国にご入国された場所
2.阿波国入国の際、最初にご逗留された場所
3.ご崩御の際の火葬場所について
この三点であります。

1.土御門上皇、阿波国にご入国された場所

土御門上皇、阿波へご入国された日には数説ありますが、ここは「吾妻鏡」から引用して貞応2年(1223)5月の記載を確認しましょう。



土御門院土佐の国より阿波の国に遷御有るべきの間、祇侯人数の事これを尋ね承り、 注進すべきの旨、阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる。
四月二十日御迎えの為すでに人を土州に進せをはんぬるの由、長経言上する所なり。

土御門院が土佐国より阿波国へ遷す…云々との記載ですが、通常、高位の方が入国するときは「国府」へ入るのが通常なのです。
単なる御行倖ならいざ知らず、上皇が居所を遷すという一大事には、「国司」が「国府」にて出迎えなければならないはずなのです。
上記、吾妻鏡にも「阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる」と上皇遷座の報が阿波国守護職に伝えられたことが見られます。

2.阿波国入国の際、最初にご逗留された場所
これについては
嘉禄3年、12月10日改元され安貞元年丁亥となる。
嘉禄3年2月13日の段に

嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥
嘉禄3年2月13日 癸巳 晴
阿波院御所造営の事その沙汰有り。
寝殿に於いては、守護人小笠原の弥太郎これを造進す。
薬屋外郭の用途料は、諸御家人に差し宛てらるる所なり。各々所課の用途行事に付す。
豊後の前司返抄を執り進せしむべきの由仰せ下さる。
但し臨時に土民に徴下せしめば、定めて弁済に泥み、本所の乃貢懈緩の基たるべきか。
地頭得分の内を以てその沙汰を致し、敢えて百姓を煩わすべからざるの旨、面々に仰せ含めらるべきの由と。

さらに
故に小笠原氏は鳥坂城を本拠として府内の城ノ内に屯在したと見るが至当であらう。当時の守護は上皇のお世話掛りである。之れが爲めに新殿を御造営し奉るとしても先づ國分寺にお入りになるものである。
「土御門院奉祀地問題」より

まず、到着が「国府」であることを既定とし「敢えて百姓を煩わすべからざる」を鑑みるならば、逗留地は「国分寺」これ以外には考えられないというのが、この説の要旨となります。




あるいは、この地図内のいずこかに御在所を設えたやもしれないという説ですね。

3.ご崩御の際の火葬場所について
この部分を「土御門院奉祀地問題」より提示いたします。


次に残されたる問題は御火葬場であらう。古来古墳築造は普通は其常住地より程遠からぬ 所に葬るが原則らしい。仮令上御一人の上皇にても、何んの理由もなきに遠隔の地まで其御遺骸を運び御火葬申す其理由の発見に苦しむ。必ずユカリあるべき所でなければならん。其候補地点に好適の理由がない。堀江村のは考証學の幼稚なる時代の明治当初、其筋より下問に封する答案の地形が荘厳とか、荷馬のスクムとの事に依りて決定せしものなれば別に確実なる史料がない。彼れが前方後円墳はすでに明にして神社名丸山がすでに古墳を意味する。行宮附近に御火葬場はなければならん。昭和十一年「早淵の御墓に就てー土御門上皇御火葬場候補地」と題して徳毎紙上で書いたことがある。近藤辰郎氏の「國府町史資料」の早淵の御墓を以て擬したことがある。 
御墓(名東郡再調帳抄·原文)
氏宮(早淵)新宮大明碑より東南の方二丁程隔て御墓といふ有この中のなるは高さ五尺計幅三尺餘又は四尺餘のものありて数三つ有ゆへ三墓か又は御墓の意が定めがたし。いづれも割石にて仏像且は蓮台杯も少し見れども多く損して完成らず。十ヶ年ばかり以前に二統大明社と祭る。因み此御墓は何人の塚とも知らぬ。



そして、下の写真が国府町早淵の「新宮神社」

で、ここから東南の方二丁程隔てて「御墓(みはか)」が「あった」と言うのですが。
東南の方二丁って現在はこんなところなんで…
はっきり書いておきますが「御墓(みはか)」は痕跡すらありません。
何日もかけて歩き回ったヤツがそう申しておりました(笑)


上記昭和十五年の「土御門院奉祀地問題」でも、現在はないとの記載が見られ、いまとなっては…というところです。
また国府町史史料においても、誰の「御墓」であるか不明であるとの記載です。
これじゃあ、と思ってしまうんですが、ちょっと古い記事ですが
2011年11月6日
「もうひとつの土御門上皇伝説」
2011年12月25日
もうひとつの土御門上皇伝説(追記)
で書かせていただきました。
 石井町「御瀧神社」


土御門上皇が火葬に附されたとき、そのお骨を狙って追われ、お骨は御付の者が背負い
ここまでやってきたが力尽きてこの神社のある木の株の根元に埋葬し追っ手には遂に
渡さなかった。
西へ向いて少々階段を上ると左側に地神社がある、その横を南に行き自然石の石段を
西に一間位上がると東向きに板碑や刻まれた石塔がある。
この南側に朽ちた木の株がある。
御代若君の墓として残っている。

石井町の民話か伝承に記載されていたはずです。
これがなければ早淵の火葬場などとは一笑にふすべし話なんでしょうが、前に見つけちゃってたんでねぇ…。
と、言うわけで確たる証拠は出てきませんでしたが、謎の多い土御門院奉祀地を更に混ぜ返そうとの意図でこんなの書いてみました(笑)

概括すれば阿波國に行くとは其國府に行く事。
守護職は國府を離れられぬ。
國分寺存在なれば此所が行宮であると推定する。
「土御門院奉祀地問題」より


おしまい