2012年10月30日火曜日

八人塚古墳はいかがでしょうか

話が出てましたので、眉山カントリーへ問い合わせのメールを送ってました。
今日、お返事いただきました。
OKです。
参加ご希望の方は連絡ください。
日時は決めてません。
前回、樫原神社のときは勝手に決めちゃったんで、今回はご希望の日に極力合わせたいと思っております。
眉山カントリーのお返事では「土日は混むので平日の方が・・・」とありましたが、残念ながら土日しか行けません。
11月23日の祭日なんかもいいな、と思ったりしてましたが「新嘗祭」だったりもしてひじょーに流動的です。
とりあえず、ご連絡いただければ、多数決を取ろうと思います。

八人塚古墳
徳島市名東町1丁目「眉山カントリー」内にある。
八人の武将を葬っていることからこの名前が付く。

集成、古墳(前方後円墳)。<立地>尾根先端。標高100m、水田からの比高90m、方位N10度W、造出なし、周濠なし、周庭なし、墳長60m、後円径30m・高4m・頂径約12m、前方幅15m・長30m・高1m、くびれ幅13.5m、後前高差-3m、葺石あり(後円部に積石)。 前方部に盛土。(内部主体)位置:後円部中央か(複数か)、槨:竪穴式石槨か。

古墳時代初期の積石塚古墳としては日本最大級の規模。

同じく名東町の地蔵院「穴不動」との関連をも伺える。


せっかく行くのなら、「穴不動」とかその他近所の「そこ、ここ」も廻ったら面白いかなとも思ったり。
ね。
人が集まらなくても、勝手に行っちゃいますけどね(笑)近所だし。

2012年10月28日日曜日

津田山 穴観音

皇太子殿下の御行啓で交通規制があり、今日の午前中川内に行く用事があったんですが、新聞の規制予告を見て、合間を縫ってバイパスを走り抜けると言う荒技(笑)を披露してまいりました。
それはさておき、この季節、狸祭りのお陰で(笑)日頃分りにくいお狸様の祠が幟などが立って非常に分りやすくなっております。
だから、というのではありませんが、行けていなかった津田山の麓、四国の狸の総大将「六右衛門大明神」を祀る、また本拠地であった「穴観音城」へ行って参りました。
場所はここ。
津田山霊園の中を通って行きます。

より大きな地図で 穴観音 を表示

由来

天保8年(1837年)。阿波の日開野(現・小松島市)で、大木の中に棲んでいる金長(きんちょう)という狸を大勢の者が燻り出そうとしていた。そこを通りかかった染物屋・茂右衛門は金長を哀れに思い、その者たちに金を与えて金長を救った。
しばらく後、茂右衛門の家へ奉公に来ていた万吉という少年が自らを「金長」と名乗り、守り神として店のために尽くすと言い出した。茂右衛門に恩義を感じた金長が万吉に憑いたのであった。以来、茂右衛門の店は良い仕事や良い客に恵まれるようになった。また、仕事で迷うことがあると万吉が助言をし、その内容は必ず正しかった。こうして茂右衛門の店は繁栄し、金長の評判も高まっていった。
何年かがたち、金長は「自分はまだ無位無官の若造」と言い、狸としての位を高めるため、子分の藤の木の鷹(ふじのきのたか)と共に、名東郡津田浦の化け狸・六右衛門(ろくえもん)に弟子入りした。六右衛門は四国の狸の総領であったが、人を化かして物を奪うなどの悪事を働く狸であった。六右衛門は噂に聞く金長の才覚を早くも見抜き、案の定、厳しい修行の最中でその才覚はめきめきと伸びていった。子分の鷹ですら、六右衛門の息子の千住太郎(せんじゅたろう)を上回るほどだった。
六右衛門は密かに金長を恐れ、今の内に身内に加えようと考えた。丁度、六右衛門の娘の小安姫(こやすひめ)が金長に恋焦がれていたこともあって、金長に対し、小安と結婚して自分の養子として跡を継ぎ、千住太郎の後見人になることを勧めた。しかし金長は、茂右衛門への恩を返すまでは他のことに気を使えないとして辞退。殊勝な言い分に六右衛門も反論できず、日開野へ帰っていく金長と鷹を見送るしかなかった。
しかし六右衛門配下の狸は、金長をこのまま帰してはいずれ大きな脅威に育つ、身内に入らないのなら片付けるべきと助言。頷いた六右衛門は数十匹の狸を金長たちのもとへ放った。小安からの報せで闇討ちを知った金長と鷹は追っ手を迎え撃つ。腕に覚えのある金長たちではあったが、2匹では多勢に無勢。鷹は倒れ、かろうじて金長のみが日開野へ逃げ遂せた。
金長は仇討ちのため仲間の狸たちを呼び集めた。早速、鷹の息子たちが父の弔い合戦のために駆けつけ、日頃から六右衛門の非道ぶりを好ましく思っていなかった狸たちも立ち上がった。一方で六右衛門側では、娘の小安が父の闇討ちを非難し、金長が死んだら自分も生きてはいないとまで言ったが、六右衛門はこれを嘲笑。小安は遂に自分の命をもって父を咎めるべく自刃するが、娘の死は金長に対する六右衛門の憎悪を増長させるだけでしかなかった。また金長も自分を愛してくれた小安の死を知り、六右衛門討つべしとの決意を固めた。
勝浦川を挟み、金長軍総勢600匹余り、六右衛門軍総勢600匹余りが対峙した。こうして俗に「阿波狸合戦」と呼ばれる狸の2大勢力の壮絶な戦いが幕を開けた。
勝浦川下流を舞台とし、死闘は3日3晩に及んだ。空に叫び声がこだまし、川の水は血で真っ赤に染まり、川床は狸たちの死体で埋め尽くされた。弔い合戦故に押しの強い金長軍に対し、六右衛門軍は籠城作戦をとった。守りの堅い城を相手に金長軍は手も足も出ないかに見えたが、遂に門を突破し、城内での血みどろの激闘の末、遂に金長は六右衛門を討ち取った。だが金長もまた、刀による致命傷を負った。金長は死力を振り絞って日開野へ帰り、大恩ある茂右衛門に礼を述べ、力尽きた。
これで合戦は終わったかに見えたが、六右衛門の息子・千住太郎が修行先の屋島の禿狸のもとから急遽駆けつけ、敗れ去った六右衛門軍を再召集して日開野へ攻め入ろうとした。金長軍もやむなくこれを迎え討ち、合戦が再開されたが、そこへ屋島の禿狸が仲裁に入り、ようやく合戦は終結を迎えた。
金長は後に、その生き様に心を打たれた日開野の茂右衛門によって正一位金長大明神として祀られた。現在でも金長大明神は小松島市中田町の金長神社に祀られ、崇拝者たちに厚く信仰されている他、各所に狸の銅像が飾られて人々に親しまれている。 wikipediaより


で、ここが「六右衛門狸」の本拠地であった「穴観音城跡」。

おお、ステキなスマイル。


 ここが「穴観音城」の入口。
ここから津田の鼻、水神社まで地下をつながっていると言う伝説もあるようです。
入口を「不動明王」がお守りしております。

 で、この奥に「如意輪観音」様が鎮座しておられますが、お写真は控えさせていただきますので、御参拝の時にお確かめくださいませ。

そしてすぐ脇に「六右衛門大明神」と娘の「鹿の子大明神」がお祀りされております。

 看板の由来書きは狭くて全部写せませんでした。
そして、面白い事に上で書いた「狸合戦」の古戦場跡が残っているのです。
勝浦川の堤防脇にありました。

 この附近で狸合戦が展開され、無数の屍が累々として川床を埋めたとされます。
それがこの辺りです。
この狸合戦の模様は江戸時代(天保)の頃に面白おかしく草子本に書かれたため創作であると言われておりますが、徳島県内に狸の伝承がやたらと多いこと、未だに化かされた等の話が聞かれる事などから、一概に創作だでは済まされない部分も多分にあろうかと思われます。
ただ一般的に言われる「狸」はいわゆる「アナグマ」のことであり、人を化かす「狸」は「狢(むじな)」であることは憶えておいていただきたいなと。
いやぁ、どうでもいいですかね(笑)
(狐の話はどうしたなんて聞かないでね(笑)ちょっと一筋縄では書けません)

2012年10月21日日曜日

吉野川市山川町 淤騰夜末神社

一日家の用事で忙しくて、書く気分じゃなかったんですが、明日からまた仕事がてんこもりなんで、書けるうちにと思い立ちまして、資料等揃っておりませんが、とりあえずという感じでございます。
吉野川市山川町祇園に鎮座いたします、忌部七社の一。
淤騰夜末神社、「おどやまじんじゃ」と読みます。
以前すえドンさんも書かれてましたが、あまりにも知られてないようなので、もう一度って感じで書きませう。

場所はここ。

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老人ホーム美山苑のすぐとなり。
速須佐之男命 櫛稲田姫命 だそうですが、徳島県神社誌には記載が無く、山川町史を
見ようと思いながら図書館に行く間が無くて(涙)。

淤騰夜末(おどやま)とは聞き慣れないでしょうが古事記に出てきます
イザナギが軻遇突智を切り殺した時、カグツチの体から生まれた山津見八神の
一でございます。
古事記の件の行を出しますれば

次集御刀之手上血 自手俣漏出 所成神名訓漏云久伎 闇淤加美神淤以下三字以音下效此 次闇御津羽神
 上件自石拆神以下 闇御津羽神以前 并八神者 因御刀所生之神者也
 所殺迦具土神之於頭所成神名 正鹿山上津見神 次於胸所成神名 淤縢山津見神淤縢二字以音 次於腹所成神名 奧山上津見神 次於陰所成神名 闇山津見神 次於左手所成神名 志藝山津見神志藝二字以音 次於右手所成神名 羽山津見神 次於左足所成神名 原山津見神次於右足所成神名 戸山津見神自正鹿山津見神至戸山津見神并八神 故 所斬之刀名 謂天之尾羽張 亦名謂伊都之尾羽張伊都二字以音


つぎに御剣の柄にたまった血が、指の間から漏れ出たなかから生まれた神の名は闇淤加美神(クラオカミ)、つぎに闇御津羽神(クラミツハ)である。
 以上の石拆神から闇御津羽神まであわせて八柱の神は御剣によって生まれた神である。
 また殺されたヒノカグツチの頭から生まれた神の名は正鹿山津美神(マサカヤマツミ)である。
 つぎに胸に生まれた神の名は淤縢山津美神(オドヤマツミ)である。
 つぎに腹に生まれた神の名は奥山津美神(オクヤマツミ)である。
 つぎに陰部に生まれた神の名は闇山津美神(クラヤマツミ)である。
 つぎに左の手に生まれた神の名は志芸山津美神(シギヤマツミ)である。
 つぎに右の手に生まれた神の名は羽山津美神(ハヤマツミ)である。
 つぎに左の足に生まれた神の名は原山津美神(ハラヤマツミ)である。
 つぎに右の足に生まれた神の名は戸山津美神(トヤマツミ)である。
 そしてイザナキがお斬りになった剣の名は天之尾羽張(アメノヲハバリ)といい、またの名は伊都之尾羽張(イツノヲハバリ)という。

(こじんまりした感じですね)

ワタクシも「淤騰山」「淤縢山津美」を冠する神社が他に無いか調べてみたんですが
「淤縢山津見神」を祀る神社は多く見受けられますが、「淤騰」と名のつく神社は
ここ以外に見つけられませんでした。
あるいは阿波に一社のみかもしれません。

(山川町「祇園」です)

それにしても今日は暑かったです。庭のスダチが黄色くなりかけて
もう穫らなくちゃならないので、頑張ったんですが。
1時間くらいかけてバケツに4杯くらい収穫しました。
腰だけじゃなく、肩にもキソウな予感(涙)

2012年10月18日木曜日

美馬市穴吹町 伊射奈美神社

というわけで(ど〜ゆ〜)、皇太子殿下が国文祭のときに美馬市御巡幸というニュースが流れておりましたので、脈絡無く書かせていただきます。
美馬市穴吹町三島字舞中島に鎮座いたします式内社「伊射奈美神社」。
御祭神 伊射奈美命 武甕槌命 経津主命 猿田彦命
場所はここ

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三代実録に貞観十年三月十二日授阿波国正六位上伊奘再神従五位下
とあってそこらがベースで貞観期の創建だと言われておるようですが、難しい事はよく分りません。神名帳考証見てもおんなじ事しか載ってないし〜。
本殿は岩盤の上にあり、洪水の時もここは浸水しなかったそうです。
舞中島で一番安全な場所なんでしょう。
まあ、難しい話は止めて写真でも貼って行きましょうか。
延喜式神名帳において、「イザナミ」の名を持つ神社は、全国で唯一「ここ」にしか無い事なんて、今さらですよね。
で、ここ「伊射奈美神社」下の写真の由緒書きにもありますように、以前は
「十二所神社」と言われておりまして。
神社の北側の道路を走っていると、なぜか全然違う方向を向いた鳥居があったり
新しい鳥居ですけど。

 「十二所大権現」の灯籠が残っていたりします。
皇太子殿下の御行啓でここらにもおいでになればいいんでしょうが、どうも
北方ばっかりの様ですね。でも、あそこと、あそこを廻るのなら、あそこへは
近いですよね(笑)
最後に全然関係ないけど近くで見つけたの。
邪鬼を踏んでるけどこれは「多聞天」なのか?
下に三猿が刻んであるのもいい味出してますね。
まだ木曜日なんでここらでね。

2012年10月14日日曜日

天石門別八倉比賣神社 秋の大祭 2012

10月13日(土)天石門別八倉比賣神社 秋の大祭でした。
今年は1年間地域の神社の当番と神輿を担ぐ役目が廻って来てて
ひじょ〜に忙しゅうございました。
9月22日 松熊神社掃除
9月23日 松熊神社 ご祈祷
10月7日 馬場掃除
10月11日 幟立て(提灯用の柱と御神燈の準備も)
そしたらこんな感じになります。
あとはそれぞれのお役目の頭屋さんのところに幟が立ち
(こんな感じ、今年のじゃないけど)






で10月13日、まず7時に集合して神輿の準備
16人で担ぐ神輿を8人で引っ張り出すという難行(笑)
天幕を張り、柱のサラシを巻換え、提灯を吊って掃除します。
(ここでワタクシの腰から異音が!)

その時見つけたのがこれ。

「八倉姫神宮」とあります。この神輿用の扁額、四方に同じようにありました。

wikipediaを見てみると

『日本書紀』では、伊勢神宮と石上神宮のみが「神宮」と記載されていた。
その後、平安時代に成立した『延喜式神名帳』では、石上神宮に代わり鹿島神宮と香取神宮が「神宮」と記載された。江戸時代まで「神宮」を社号とする神社は、この3社のみであった。その後、筥崎宮、宇佐八幡宮が加わった。


とありましたが、この神輿の裏側を覗くと「安政三年丙辰九月吉祥日」との墨書がありました。
御神輿なんで、どうにでも造ったんですかね?
社号とはなってなかったかもしれませんが安政三年(1856年)建立の神輿に適当な事を刻むものでしょうか?
それはさておき。
一旦家に帰り、腰に湿布やらテープやらを巻いて、とにかく最後まで動けるように準備を。ここでリタイアしたら交代要員がいないんです。

13時より神事が始まるんですが、ここらの写真はありません。
あったらおかしいでしょ。
本殿より御神体を納め、松熊神社へ向かい御神体を納め、箭執(やとり)神社で御神体を納め小休止。神社から神社まではトラックで移動しますが、御神体を納めるのに階段や急坂は当然「手担き」。
腰から異音が鳴りっぱなし(笑)。保ってよと祈りながらです。

やっと小休止、でもここで座り込んだら立てなくなるのも知ってるので、立つか柱にもたれかかって休みます。

(御神輿の天幕も大正十二年のもの)

この小休止のとき、神輿頭屋さんのご接待でお神酒とかが提供されます。
御神事だしお祭りだし神輿を担ぐから「力水」(笑)なんでしょうかね。
酒、ビールとお煮しめなどいただきますが、ここで飲み過ぎるとえらい
事になるのは経験済み(笑)。
失礼にならない程度にいただきます。
小休止の後、境外の「馬塚」お供えをしてご祈祷を。
あとは頭屋さんとか総代さんの所を数カ所廻り、帰途へ。
箭執(やとり)神社、松熊神社で御神体を戻し、本殿に帰り御神体を戻して終了。
今回は廻る所が少なかったので17時30分頃には終わりました。
あとは御神輿の天幕やら提灯やらを外して倉庫へ戻します。
そこではこんなのが。
鎧?
いつのでしょうね。
あるいは矢野一族のかな?
あるいは何かのイベントの時の衣装かな(笑)
そこまで確認する時間はありませんでした。閉じ込められそうになったんで飛び出します。
もう空は真っ暗。
腰はペキペキ(笑)
腕はだら〜ん。
でも、全員怪我も無く無事終了いたしましたとさ、めでたし、めでたし。


2012年10月8日月曜日

阿波市市場町 事代主神社

前回、訳分んない事、最後に言ってたので早々に次のを書いちゃいます。

阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する「延喜式式内社 事代主神社」
ん、何か幟が立ってるって?
そうです今日10月8日は事代主神社の秋の例祭だったのです。
とは言ってみても、徳島県神社誌では例祭は10月10日となっており、最近の流れで
休日に行なうように替わったんだろな、ということでしょう。
近寄ってみると
 御神輿と(軽そうでいいなぁ)
 子供用?の檀尻も準備済みでした。
話は前後しますが、ここ事代主神社は九頭宇谷川と善入川が吉野川に合流するところに位置し、鴨島の中央橋方面から向かっても複雑な形状の堤防を「ここでいいのかな」と不安になりながら走る事となります。
場所はここ、「案内神社」の近くとなります。
今日も堤防上を走っていると「案内神社」の幟も見受けられました。

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創祀年代不詳

御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。
徳島県神社誌より

式内社の事代主神社は、全国でわずか二社のみ、それも阿波国にしか存在しない事は皆様ご存知の通り。
また、徳島市通町の「事代主神社」がここから遷座、勧請されたとの説もあるようですが
(写真は通町の「事代主神社」)
通町の「事代主神社」は

元々は名東郡下八万村(現在の八万町夷山)蛭子山の圓福寺に鎮座しており、蛭子神社という名であった。夷山城主である篠原佐吉兵衛の守護神を篠原家が滅亡した後に家臣であった仁木太郎が蛭子山に勧請したと云われている。
明治5年に名東県大参事井上高格が現在の通町に遷座勧請したと云われており、その際に官命により事代主神社と社号を改称した。同年38年に三丁目の大火で通町の97戸が焼失し、事代主神社はそのとき罹失したが、戦後再建され、「エベッサン」も再開されている。
wikipediaより
で、八万町夷山の蛭子神社がこれ(下の写真)

徳島市通町の事代主神社の一つ前の元宮です。(笑)

この前が阿波町の「事代主神社」であったかどうかは分りません。
ただ八万町のこの辺りは「市場」と呼ばれていたそうで妙に符合する所が
なんともいえません。
夷山城(えびすやまじょう)は天文21年(1552年)、細川真之によって築かれたもので篠原佐吉兵衛が城主となった弘治年間は1555年頃。
その時どこから勧請したかまでは分りません。ただ三好氏の系列なので、勝浦からの勧請ではないように思われます。
この篠原氏系列から調べるのも面白いかなと思ったりしますが。
それはさておき、神輿にも柏の神紋が刻まれ、いかにも「えびす」様を現わしております。
末社では神事も行なわれておりました。
という訳で(どーゆー?)
お祭りで子供もいっぱい、焼きそば、ポテトフライ、カラアゲなども売ってて、さすがにゆっくり参拝する雰囲気じゃありませんでしたので、そこそこで退散いたしました。

事代主、夷、大国主の系譜についてはそのうち、書く事もあったりなかったりするでしょうから(←全然復帰してない)本日はこの辺りで。



2012年10月7日日曜日

コーヒーが飲みたい

誠にすんません、ひじょーに長期間、更新も何もしてないのは、全てワタシが
悪いせいです。
タイトル通りのグータラでございます。
あまつさえ、皆様方が多分お待ちになっている内容などはどこへやら
こんな記事など書いております。
徳島市庄町の国道192号線沿いの非常に不幸な立地にあるカフェ「ラテ・デ・フレッソ」
とにかく、美味しいコーヒーが無性に飲みたい時って無いですか?
場所はここ。

より大きな地図で ラテ・デ・フレッソ を表示
なんとなくオシャレっぽい建物なんで多分オヤジ一人じゃ気後れして入れないんで
しょうね」。
 奥様はここでケーキをチェック。

なんだかよく分りませんが先週、東京であったバリスタ大会で優勝したって
仰っておりまして。
それならば、カフェラテを頼まざるを得ないでしょう、という所ですが
ワタクシは「本日のコーヒー」を頼んでしまうと言うひねくれぶり。
いや、奥様はちゃんとカフェラテを頼んでおります。
テーブルに置いてからちょっと揺らしてしまったので花の部分が曲がっちゃったかな。
右にちらっと見えてるのがフルーツケーキ。
 で、わたくしは「本日のコーヒー」を頼みましたが、おまけにデミサイズの
キャラメルマキアートが付いてくると言う、お得感ありますね。

で、コーヒーは美味しいんですが、店の中がちょっと素っ気なさ過ぎるのが
個人的にはちょっとってトコですかね。
それと、オヤジ一人では入りにくい所がアレですかね。
んなわけで、もうちょっと気力がもどったら、いろいろ書かねばならない事も
ございますので、続けたいと思いますので、よろしく。




でもね、詳しく書く事も無いんですが、ホントは今回ばかりはココ閉鎖しようかななんて10回くらい思ったりも.....ま、そんな事も、あったり無かったり(笑)