2017年3月26日日曜日

麻植の系譜(3)

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
の続きっす。
今回は、くだくだ書かずに麻植氏系譜の翻刻を載せてみるっす。
だから、今回は解説もないんで、つまんないっすよぉぉぉ(笑)

で、最近この資料を配った皆様。
ちゃんと資料を読みましたかぁぁぁぁ(笑)
さて、と。
ご注意
誤字脱字見落とし、勘違い等々画像と文字の差異は大袈裟に指摘しないこと。
また文の区切り位置は画面構成上てきとーに変えてある場合がありますが、やたらと指摘しないこと。
文献の信憑性も未調査ですが、複数の研究者が同内容での現存を確認しております。


     麻殖氏系譜

神代遠祖
高皇産霊命 
天太玉命 
拷機千々萬姫命 
天櫛明玉命 
天底立命
手置帆底負命
彦狭知命
乙羽白麻
天忍日命
天手力男命



天日鷲命
大麻彦命 
天白羽鳥命
天羽槌命
天乙羽鳥命 
天弓削彦命
大麻主命 
大麻姫命 
千加比姫命
伊宇津主命
訶多々主命
伊宇佐主命
伊宇佐別命
伊宇佐貫命
伊宇機姫命
伊宇鷹命
麻織姫命
大日加佐命
日和佐命
外麻命
幡多命
宇和命
伊與彦命   伊與國造ト成
小千彦命


久味彦命
宇惠彦命 
   麻殖主ト成
十一
伊宇山彦命
伊宇長姫命
伊宇麻姫命
十二
武麻殖命
麻内別命
十三
賑麻殖命
十四
麻富命       崇神天皇朝勅命ヲ奉諸国神社江荒妙ノ服ヲ織
          神服トシ別奉ル 
十五
由布主大祢
十六
由布山主大祢
十七
伊加鉾宿祢     一云麻鉾宿祢 
伊麻比古
十八
楯鉾宿祢
阿布目連
麻田子
十九
三垣麻吕
稲鹿目
猪鹿目
伊良古姬
湯勝宿祢
  允恭天皇朝姓氏ヲ定ムル時熱湯ヲ探リテ功名在
  忌部神社大祭主トナル


弐一
湯別宿祢
弐二
長麻殖大連
 清寧天皇朝即位二年辛西十一月始メテ大賞會行ハルニ依
 テ由岐須木ニ用ユル麻布ヲ古例ニ任シ粟國忌部ヨリ献ル可ト
 勅命ヲ奉蒙ケレバ定例トナリ又此功ニヨッテ大連トナル
弐三
千波大連
弐四
小角麻呂
倉玉姫
弐五
湯立麻呂   欽明天皇朝仏法渡来ヲ忌嫌イ物部大臣(大連尾與)ヲススメ退ケラレ用明天皇
       朝厩戸皇子ヨリ忌部領採地ヲ削ラル
弐六
湯麻宿祢
千穂根
弐七
岩木宿祢
由木姫
弐八
千麻呂
弐九
清足大連    斎明天皇朝七年新羅ヨリ百済ヲ攻取援兵ノ将トナル歸朝シテ錦冠赤衣ヲ
        賜リ忌部氏人長四位上大祭主トナル
三十
麻殖連
三十一
玉垣宿祢    忌部社ニ八重ノ玉垣ヲックル故ニ伊年部玉垣ノ宿称ト云錦冠赤
        衣ヲ賜リ忌部氏人ノ長大祭主トナル又時忌部旧領ヲ復スル事ヲ得タリ




玉垣姬
小麻足姬
        中臣不比登妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル房前公也
三十二
玉淵
布刀姫
布刀淵
      天智天皇朝玉淵ヲ大錦上トシ息部大祭主トス天武天皇朝再同郡明定トシテ
      伊勢王大綿下「不明」来リテ阿波十郡ヲ復古シテ十三郡ト定メ麻殖上郡
      阿波上郡ヲ合シテ美馬郡トス麻内山ハ神領ナル故麻殖中郡トシテ之ヲ別
      朱鳥元年康成三月天日鷲神社修理造営ヲ加フル時天笠ヨリ法道仙人ノ母
      摩耶夫人菩提ノ為ニ鋳玉フ門浮標金ノ観世音ヲ将来シテ仏母摩耶山忉利
      天上寺ヲ建立シ玉フトキ比金像ヨリ光明ヲ放チ通ニ南海ヲ照ス法道上人
      先談路山ニ登リ摩耶山ヲ建立シ夫ヨリ阿波ニ来リ伊宇山ヲ具テ比山ハ仏
      母前世出生ノ地ナリト云テ一宇ヲ建立シ伊宇摩山仏母寺ト号ス
      天武天皇朝役小角大和ノ吉野蔵王権現ヲ高越山ニウツス
三十三
阿刀淵宿称
伊良淵連
   聖武天皇ノ御宇行日至等勅命ヲ以テ伊宇摩山仏母寺ヲ神宮寺ト改メ備像ヲ彫刻
   シテ本尊トシ僧ヲ別当ト唱エ神職ニ加エ法福寺ト云社僧行眞ニ寺ヲ建テ共従弟
   ヲ置大社ノ西ニ建ルヲ西福寺ト云大社ノ東ニ建ルヲ東福寺ト云天平十三年辛巳
   八月阿刀淵九死一生ノ大病行真上人行基等彫刻メ薬師仏ヲ祈リ病頓平癒シケレ
   ハ厚ク三宝ニ帰依シ一字ヲ麻川ノ停ニ建立シテ平癒山福生院ト号比寺ヲ以テ我
   麻殖氏歴世祈願ノ本寺トス神護景雲二年成申三月麻殖下郡ノ人民私願ニ依テ種
   野山内伊周ノ里ニ宮社太敷立天ノ日鷲ノ社ヲ造営ス又法福寺ヨリ別當ヲ附與ス
   外山ノ法福寺ト云

今日はここらへんで勘弁しといたろか。
さ、お風呂入って寝ようかな。

あ、これじゃ収まりつかないんで、も一回だけ続く。


2017年3月20日月曜日

麻植の系譜(2)

ヤバイんじゃないかなと思いつつ書いております(笑)

麻植の系譜(1)の続きとなります。
その前にちょっとだけ麻植氏についてのレクチャーを。

阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。
wikipedia

また麻植については

忌部社麻楮ノ密書に日く
夫レ神事ニ麻ヲ懸クルコトハ敬ノ表示ニシテ阿波國忌部遠祖天日鷲命ノ殖エ給フ今其地ヲ呼ンデ麻殖郡ト云フ忌部ハイミべニシテ敬ヲイタシ我神明ノ本主一身ノ主宰ヲ育イテ神ヲ祭リ神ニ祈リテ過ヲ善ニ遷スヲ要トス故ニ神事ニ之ヲ懸ク往古神代ノ時ニ高皇産霊奪ノ忌部天太玉命ヲ使シテ弱肩ニ太手◯ヲ被テ大物主神ヲ祭ラシム是即敬ナリ凡中臣忌部ハ氏ニ非ス工夫ノ名ナリ後世ニ其徳アルモノナキガ故ニ氏トス中臣ハ中心ヲ富シ養ヒ守リテ本末ヲ傾ケズ中執リ持チテ誠ノ至ヲ霊シ(是ヲ内清浄ト云フ) 忌部ハ外ヲ防ギ護リテ敬ノ極ヲ霊ス(是ヲ外清浄ト云フ)故ニ本朝ニ中臣忌部ノ工夫ヲ学ブハ専務トス依之神事ニ之ヲ懸ク慎而怠ルコト勿レ
より来ているというのが分かりやすいでしょうか。

で、ここが鴨島町の麻植氏発祥の地。
個人の方の畑の中を通らなくちゃいけないので、場所は明記いたしません。
ここは麻植氏を祀る「麻植神社」



で、ここが忌部の大宮司としての麻植氏が滅んだ終焉の地、貞光町端山の家賀城(けがじょう)跡へ行く途中の石碑
ここが家賀城(けがじょう)跡

麻植氏は阿波忌部の正統といわれ、代々忌部神社の大宮司をつとめ、美馬郡一帯に大きな勢力を持っていた。天文22年(1553)、勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に殺されが、忌部神社は細川氏の祈願所でもあった。忌部の大宮司で内山城主であった麻植忌部守持光は持隆の信任も厚く、名前に「持」の一字を与えられたほどであった。そこで兵を集めて義賢を討とうとしたが、義賢は岩倉城主三好康俊に命じて内山城を攻撃した。城兵は地の利によってよく戦ったが、数日後には城は落城した。持光は阿波郡や讃岐に逃れたが丹生で戦死した、この戦いを内山合戦といい、長年続いた麻植氏の神権政治は滅んだ。
ベイシー写真館 阿波城郭探偵団様より転用

で、前回の

小麻足姫
中臣不比登の妻 麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トス是房前也
この部分について、阿波国の一部、某宗派の伝承としてこの件が伝わっていたらしいのです。
某宗派、研究発表会の記事が下にあるのですが、ちょっと・・
いや、非常に公表が憚られる内容ではないかと思いますので、残念ながらベタベタの修正を施した状態で最初のページのみ出してみますが、いやぁ。

内容についても申し訳ございませんが、抜粋でお願いします。

四国の阿波国、徳島県・・・

中略

十五分間の短い時間ですので、まず、主張したいことを三点、お話します。つぎに順次、資料に従って説明をしてゆきます。第一点、日蓮聖人のルーツは、今回の研究発表大会で二番目の発表にありますように、阿波忌部族であります。

中略

四国の阿波へ、更に千葉県の安房国へというのが日蓮聖人のルーツであろうと思います。

中略

忌部族の麻植氏のところ、資料二の三頁目、麻植氏系譜。初代に天太玉命、二代、三代、四代目に天日鷲命、ずーっと、神様の代から、数えていきまして、途中の神様の名前は省きまして、第三十一代の所をご覧になって下さい。第三十一代、玉垣宿祢が第三十一代の、麻植氏の当主です。その、玉垣宿祢の所に、玉垣姫、これたぶん奥さんじゃないかと思います。それから、小麻足姫、これは娘さんです、小麻足姫、その下の注記に、こう書いてあります。「中臣不比等の妻」と。「麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル、房前公也」、と書いてあります。非常に、私はこれ見た時に、びっくりしました。
「中臣不比等」と書いてありますが、藤原鎌足は、亡くなる直前に藤原の姓を朝廷から賜ります。鎌足が元気であった時は中臣です。ですから、中臣不比等の次男として、忌部族の族長クラスの男の子を、中臣氏の子として育てたいということを、鎌足は決意したのであろうと思います。
ですから、資料一のほうでは、房前は、北家の祖であって、母親は右大臣某氏、白鳳十一年生まれ、これは普通の歴史家が信じていることです。実は、阿波に伝わる伝承の大事な伝承の一つです。
房前は、実は、中臣の子ではなく、阿波忌部の族長の子供であります。
そして、その小麻足姫と中臣不比等の間には、子供がありませんでしたが、小麻足姫という阿波の女性が・・・

以下略

この講演録の内容については説明いたしません。
が、少なくともこの宗派の一部の人と二軒屋町忌部神社、元宮司「斎藤貢」氏は知っていたということなのです。

え〜っ、まだ書くのぉ

続く(次回で最後)
なんか、3回で終わらないような気がするのはワタクシだけでしょうか?

2017年3月19日日曜日

麻植の系譜(1)

やっぱ、書かないでおこうかな、と思いつつ、某所で紹介してしまいましたので、こちらにも書いておきます。
いや、麻植氏についてなんですけどね。

麻植氏(おえし)は日本の武家の姓のひとつ。徳島県に特に多い。

忌部氏流 - 阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。→麻殖氏

清和源氏柿原氏流 - 阿波国阿波郡柿原村より起こる。一族には上楼の役にて活躍した柿原義長がいる。 → 麻植氏 (柿原氏)

桓武平氏流 - 1186年平康頼が阿波国麻殖保の保司として麻植郡に領地を拝領したことに始まるとする。 → 麻植氏 (平氏)

清和源氏足利氏流 - 清和天皇-(略)-足利泰氏-足利氏継-足利兼氏-山田従四位下阿波守重氏-山田民部大輔俊氏-麻植重時-右京大進氏重-志摩守親氏-同氏重-同氏直-同頼利-隠岐守泰俊-志摩守氏義-同重俊-重長(重俊の弟)-成義-成経(成義の弟)-成政-重義(成政の弟)
例によってwikipediaより

なんですが、今回は
忌部氏流 - 阿波国麻殖郡より起こる。阿波の忌部氏の末裔の忌部神社大宮司家麻殖氏の事をいい、「麻植」とも記される。共に読み方は「おえ」と読む。一族には、麻殖持光がいる。→麻殖氏
のお話です。
実際、麻植氏についてはあまり知られておらず、歴代「忌部大神宮」の大祭主を司っていたことも知らない方が多いのではないかと思います。
そこで出てくるのが「麻植氏系譜」。
初っ端から腰が抜けそうな記載の連続ですが、この「麻植氏系譜」。


下にありますように、徳島市二軒屋町鎮座の忌部神社、元宮司「斎藤貢」氏の著書によれば、かの小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)博士も見ていない貴重文献であるのです。





この文献によって四国一宮としての忌部大神宮の祭祀を歴々司った「麻植氏」の深部の一端をうかがうことができるのです。


まず、注目したいのが下図、弐三代目に現れる「千波足連」つまりは「千波足尼(ちはのすくね)」。
まとめ:大宜都比売命の裔(2)」で、書かせていただきました、粟國國造であり、「粟凡直(あわのおおしのあたい)」の祖である「千波足尼(ちはのすくね)」の名がここに登場いたします。
これは
前置その5「大宜都比売命は海を渡ったか?」』で書きました「粟凡直」と「忌部」の一族が何らかの形で手を組んだ証左ではないかと考えております。

さて(笑)今回特に目玉として見ていただきたいのが、この部分。



小麻足姫
中臣不比登の妻 麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トス是房前也

衝撃の記載ですね。

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。wikipedia

藤原不比等

左が「房前(ふささき)」だけど、よく分からないっす


「不比登」は「不比等」のこと「房前(ふささき)」は言わずと知れた「藤原不比等」の二男。
藤原の系図に名は出ていませんが、あるいは「女」のいずれかであったのか?

この藤原北家の始祖「房前」、中臣不比等の妻、つまり天智天皇より藤原姓を賜る前に、麻貫玉取の子を養嗣、つまり養子とした。これが房前であると書いてあるのです。

もしかしたら抜けられない道に入ったのかも(笑)

そして、この件に関しては、なんと阿波では以前から知られていたという話があるのです。

続く(けど2、3回だよ)