2019年9月28日土曜日

岐神再び(4)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
から続けます。

くどいですけど前回の
日本書紀神代下 第九段一書(二)

於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐神二神曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主神、以岐神爲鄕導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市、帥以昇天、陳其誠款之至。

大己貴神(オオアナモチ)は答えました。
「天神(アマツカミ)の申し出はあまりに懇切丁寧です。
命令に従わない訳にはいかないでしょう。
私が治める現世のことは、皇孫(スメミマ)が治めるべきでしょう。
わたしは現世から退いて、幽界(カクレコト)の世界を治めましょう」
そして岐神(フナトノカミ=道の神)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に推薦して言いました。
「この神は、私の代わりにお仕えするでしょう。わたしはここから去ります」
すぐに瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました。
經津主神(フツヌシノカミ)は岐神(フナトノカミ)を道の先導役として、葦原中国の各国を廻って平定しました。
逆らうものがいれば、斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ=集団の首長)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です。
八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて、それらを率いて天に昇り、正道を説きました。

經津主神

さらには「古語拾遺」においては

古語拾遺11 吾勝尊

天祖吾勝尊 納高皇産靈神之女 栲幡千千姫命 生 天津彦尊 號曰皇孫命 【天照大神高皇産靈神二神之孫也 故曰皇孫也】 既而 天照大神高皇産靈尊 祟養皇孫 欲降爲豊葦原中国主 仍 遣經津主神 【是 磐筒女神之子 今 下總国香取神是也】 武甕槌神 【是甕速日神之子 今 常陸国鹿嶋神是也】 駈除平定 於是 大己貴神及其子事代主神 並皆奉避 仍 以平国矛 授二神曰 吾以此矛 卒有治功 天孫 若用此矛治国者 必當平安 今我將隱去矣 辭訖遂隱 於是 二神 誅伏諸不順鬼神等 果以復命

天祖(アマツミオヤ)である吾勝尊(アカツノミコト)は高皇産靈神(タカミムスビノカミ)の娘の栲幡千千姫命を嫁にして、天津彦尊(アマツヒコ)を産みました。皇孫命(スメミマノミコト)と言います。
まさしく、天照大神(アマテラスオオミカミ)・高皇産霊神(タカミムスビノカミ)は皇孫を崇め奉り、養育しまして、天から地上に降して、豊葦原(トヨアシハラ)の中国(ナカツクニ)の主(キミ)としようと思いました。そこで、経津主神(フツヌシノカミ)と、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を派遣して、駆除し、祓い、平定し、鎮めました。これで大己貴神(オオナムチノカミ)と、その子の事代主神(コトシロヌシノカミ)は皆、(地上の支配者から)去り、譲った。それで(大国主と事代主は)国を平定した矛を二柱(=ここでは経津主神と武甕槌神)の神に授けて、
「私は、この矛で、この地を統治した。天孫よ、もし、このこの矛を用いて国を治めたならば、必ずうまくいくでしょう。わたしは冥界に隠れましょう」
と言いました。言い終えると、ついに隠れてしまいました。それで二柱の神はもろもろの従わない鬼神(アラブルカミ)たち誅伐して、従わせ、ついに天界に報告しました。

「岐神」が「経津主神(フツヌシノカミ)」を先導して豊葦原(トヨアシハラ)の中国(ナカツクニ)を平定したとのことですね。

で、「経津主神」とは

経津主神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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経津主神
香取神宮 拝殿
(千葉県香取市香取)
神祇 天津神
全名 経津主神
別名 経津主大神、布都怒志命、布都努志命、伊波比主神、斎主神、普都大神
別称 香取神、香取大神、香取大明神、香取さま
神格 剣の神、軍神
磐筒男神
磐筒女神
天苗加命
神社 香取神宮、春日大社 等
関連氏族 物部氏、香取氏、中臣氏、藤原氏
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経津主神(ふつぬしのかみ、正字:經津主神)は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと、布都努志命とも)として登場する。『常陸国風土記』に出てくる普都大神(ふつのおおかみ)とも同視される。
香取神宮(千葉県香取市)の祭神であることから、香取神、香取大明神、香取さま等とも呼ばれる。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段(神産みの段)の第六の一書では、伊弉諾尊(イザナギ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が五百箇磐石を染めたために磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている。巻第二(神代下)の第九段の本文も経津主神を「磐裂・根裂神の子、磐筒男・磐筒女が生(あ)れませる子」としている。『古語拾遺』にも「経津主神、是れ磐筒女神の子、今下総国の香取神是れなり」とある。

 上記、『日本書紀』と『古語拾遺』の引用の通りの説明ですね。

で、ここからは推測も入ってきますが、この「経津主神(フツヌシノカミ)」と関わりがあると考えるのが「由布洲主命」「ゆふつぬしのみこと」と読みます。
安房忌部の祖と言われる神でありますが阿波国においては、例えば

【延喜式神名帳】忌部神社(名神大 月次/新嘗) 阿波国 麻殖郡鎮座
   【現社名】山崎忌部神社
   【住所】徳島県吉野川市山川町忌部山 14
   【祭神】天日鷲翔矢尊 天日鷲命 津咋見命 后神言筥女命
       天太玉尊 后神比理能売命 長白羽命 由布洲主命 衣織比女命
ここに祀られております。

由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)
安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫、大麻比古神の子とされる




上図「安房国忌部家系」の「由布洲主命」の部分を見てみますと、
又の名として「阿八和氣毘古命」とあります。
「あわわきびこ」つまり「阿波 別 彦」ですね。
この神が「ゆふつぬし」「由」は
【ゆ】[漢字]
【由】 [音] ユ ・ユイ ・ユウ
① よる。
もとづく。また、よりどころ。出所。いわれ。 「《ユ》由縁・由来・経由・来由」 「《ユイ》由緒」
㋑ したがう。たよる。 「《ユウ》自由・率由」
② よし。わけ。原因。 「《ユ》因由」 「《ユウ》事由・理由」

つまり「ふつぬし」の出所ではないのでしょうか。
異論は大歓迎です。

この伝で、流れを追ってみます。

延喜式神名帳、阿波国阿波郡の「建布都神社」論社。
祭神  建布都神、経津主命、大山祇命、事代主命。

建布都神は武御雷之男神の別名であり、「旧事本紀」によれば石上神宮の神とも同神

ここが元だと仮定します。
次に「粟島」こと善入寺島の伝承です。
「粟嶋史」より「粟島(善入寺島)の伝承

すぐ南の善入寺島にこのような伝承があります。
「岐神」は神山を本拠地としており、上記
「山崎忌部神社」の祭神でもあります。
それが、ここ山川町岩戸に鎮座いたします「岩戸神社」より

写真は「岩戸神社」

舊伝曰当社上代安房国安房郡安房神社
   御迁(遷)座具古社也止(と)伝
ここから「安房神社」へ遷座されたのです。
「岩戸神社」御祭神の「天石門別命」の信憑性を云々するのはここでは保留いたしますが、安房神社の御祭神は現在
本宮(上の宮)の祭神は次の7柱。
主祭神
天太玉命(あめのふとだまのみこと) - 忌部氏(斎部氏)祖神。
相殿神
天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと) - 后神。
忌部五部神
櫛明玉命(くしあかるたまのみこと) - 出雲忌部の祖。
天日鷲命(あめのひわしのみこと) - 阿波忌部の祖。
彦狭知命(ひこさしりのみこと) - 紀伊忌部の祖。
手置帆負命(たおきほおいのみこと) - 讃岐忌部の祖。
天目一箇命(あめのまひとつのみこと) - 筑紫忌部・伊勢忌部の祖。
となっております。

忌部の本拠地、中心地より「天日鷲命」が遷座され
「天日鷲命」→「大麻比古命」「長白羽鳥命」「天雷羽椎命」→「由布洲主命」
と系図には記されております。





もう一度「安房国忌部家系」の「由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)」の部分を掲載します。
詳しい翻刻は記載しませんが、後半部分に「東の国に悪しき猪鹿がいて、百姓が困っていたので、これを狩って平定した(大意)」との記載が見えます。
百姓は喜んで「阿八和氣毘古命」から「由布洲主命」に名を改めた。
さあ、穿ち放題の記載でしょう。
でも、後で、後悔するのを覚悟で書いちゃいます。
「阿八和氣毘古命」から「由布洲主命」へと名を改めた神は、阿波国から岐神と共に安房に赴き、後、香取の地に移った。

ついでに「香取系図」も出しちゃいます。
出典は「房総叢書 九卷」より。
 下図に注目。


中辺りに「忌經津主命」の記載が見えるでしょうか。
左のほうに「斎事代主」の記載が見えるでしょうか。
あるいは、「忌經津主命」の「忌」は「忌部」の意味なのか、「斎事代主」は阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する「延喜式式内社 事代主神社」の事代主のことなのか。

事代主命御歌
躬(み)は此所に心は粟の斎く島
事代主と崇めまつれよ

そして「岐神」とは。

続く


2019年9月23日月曜日

岐神再び(3)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
より続けます。

「岐神」とは何か?

前出の「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」において、近藤教授はこう記す。

祭神は猿田彦命とかさまざまの 説がある」というが、猿田彦命と 岐神は基本的に背景を全く異にする神であり、両者を混同する事は許されない。これを見逃せば岐神信仰追窮の矛先は完全に鈍ってしまい、全くあらぬ方向に暴走してしまう。後に詳述するが、この僅かな隙によって先学の多くの研究者達は陥穽にはまり、二度と抜け出せなくなって終幕を迎えてしまうのであった。油断は禁物なのである。猿田彦命は、瓊瓊杵尊が日向国高千穂峰に降った時の道案内の神であり、天鈿女命と一対で語られる。一方、岐神は先に別稿一で詳述した如く、キ・ミ神話の「絶妻之誓」渡しの条で登場した防塞の神なのであった。道案内と防塞はその機能において真逆であり、その混同は絶対に許されず、もしこれを犯せば両者ともにその存立基盤を根底から覆してしまう。自殺行為なのである。これ程の大きな意味がある事を努々忘れてはなるまい

として、「岐神」と「猿田彦神」との混同を厳に戒めています。
つまり

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。
なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した。
wikipedia

とあるように、あくまで道祖神と猿田彦神の習合を前提に「岐神」は岐神「猿田彦神」は猿田彦神、「道祖神」は道祖神であり、別物だとされているのですね。
それはそれで良しなのですが、下記より日本書紀の一節を見ていただきたい。


日本書紀神代下 第九段一書(二)

於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐神於二神曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主神、以岐神爲鄕導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市、帥以昇天、陳其誠款之至。

大己貴神(オオアナモチ)は答えました。
「天神(アマツカミ)の申し出はあまりに懇切丁寧です。
命令に従わない訳にはいかないでしょう。
私が治める現世のことは、皇孫(スメミマ)が治めるべきでしょう。
わたしは現世から退いて、幽界(カクレコト)の世界を治めましょう」
そして岐神(フナトノカミ=道の神)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に推薦して言いました。
「この神は、私の代わりにお仕えするでしょう。わたしはここから去ります」
すぐに瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました。
經津主神(フツヌシノカミ)は岐神(フナトノカミ)を道の先導役として、葦原中国の各国を廻って平定しました。
逆らうものがいれば、斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ=集団の首長)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です。
八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて、それらを率いて天に昇り、正道を説きました。

上記の「岐神」は『「絶妻之誓」渡しの条で登場した防塞の神』とは全く違う「岐神」として記載されています。
一つの考え方として、瓊瓊杵尊が日向国高千穂峰に降った時の道案内を行った「猿田彦神」はある時期には「岐神」として「經津主神」を先導したとは言えないでしょうか。
また、「猿田彦神」の系譜のある時期、例えば「猿田氏(常陸國)」の系譜のある時期、「岐神」と呼ばれていたと言う考え方はできないでしょうか?

例えば、茨城県神栖市息栖にある「息栖神社(いきすじんじゃ)」

息栖神社

息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。
主祭神
久那戸神 (くなどのかみ、岐神)
社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。




 この「岐神」ですね、「經津主神」を先導した「岐神」は。
ならば、阿波国「船盡比咩神社」が「岐神」の本貫地であったならば、この「岐神」はどこからやってきたのか。
そして、「經津主神」はどこからやってきたのでしょうか。
あるいは「鹿島・香取」の神は。

ご存知ですよね。
延喜式神名帳に全国唯一「建布都」の名を冠する神社を。

建布都神社(たけふつじんじゃ)は、徳島県阿波市市場町香美に鎮座する神社である。
創建年は不詳。江戸時代までは平治権現またはまたは平地祠と称し、「おへーしさん」の愛称で知られた。八幡神社との式内論争の末、明治に現社名に復称。境内には直径17m程度の円墳である建布都古墳が存在する。

『延喜式神名帳』に掲載されている建布都神社の論社の一つで、阿波市土成町郡には建布都西宮神社がある。

祭神
建布都神
経津主神
大山祇神
事代主神
wikipedia





建布都神社
郡村ニ在り郡村ハ和名抄當郡拝師(波也之)郷ノ内ナルベシ山城国葛城郡上林郷アリ
伴氏神社アリ河内国志紀群伴林氏神社アリ河内国林宿禰ハ大伴室屋連男御物宿禰之後
ナルガ河内国若江郡弓削神社ハ弥加布都神佐自布都神ナル事三大実録ニ見エ姓氏録左京
マタ河内国弓削宿禰ハ天日鷲翔矢命ノ後ナル由見エタリ林ハ日鷲ノ転ニテ郡モ翔ト近ク
聞ユ御物宿禰ハ拝原郷ニ成長シテ室家(屋)連ノ家ヲ續シナルベシ

続く

説明・追記が山のようにあるんですが、とりあえずは筋書きを追うのに目一杯です。

岐神再び(2)

台風の余波で外に出られなかったので、頑張って書いてます。

岐神再び(1)
より続けますけど第一回目は、「なんのこっちゃ」と思った方も「たくさん」いらっしゃったと思います。
でしょうねぇ(笑)。いーんです、着いてきてくれる人だけ分かれば。
「こない人なんて知りません(県民ならわかる、このフレーズwwwww)

もう一つ資料を提示しておきます。
「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」より

徳島県下はフナト神のみであり、他は存在しない事になっている。加えて、フナト神は四国限定であり、他には香川県に二例分布するに過ぎない。事ほど左様に徳島県は岐神信仰の純粋地帯と見做されているのである。全国的に見れば、これは異様な現象であり
以下略

徳島県下においては、道祖神も全て「フナト神」であるのです。
あるいは2千社に垂んと(なんなんと)する、いかに全国唯一の「岐神」の本貫地であることかがお分りいただけるのではないでしょうか。また、その意味においては神山町が大元である事も異論は少ないのではないでしょうか。
あるいは、木屋平、上那賀も残された祠の数において、重要な地であることは言うまでもありません。

では、祠ではなく「神社」として、いくつかを見ていきたいと思います。
よりみれば
徳島市北沖洲の「船戸神社」、御祭神「久那斗神」(徳島県神社誌)


徳島市住吉3丁目「船戸神社」 御祭神「久那斗神」(徳島県神社誌)


国府町花園「船戸神社」 御祭神不明


海陽町 小那佐 「船戸神社」御祭神は「船魂神」
例祭は大里の「船戸神社」が11月23日なので、まず同日であると推測し、新嘗祭との関連が伺えるのだが、その場合「船魂神」との関連は薄いと思われる。
ただし、神山近辺の「岐神」関連の祭日は11月16日あるいは1月16日であるため、これも微妙な違いがある。
ただ、「仮に」御祭神が「岐神」であった場合、近辺に残る地名「牟岐」「由岐」「木岐」等「岐」の付く地名の関連が想像されるのではないでしょうか?
写真は、ブログ「海部川紀行」「和奈佐彦」様提供

で、特徴的であるのがこの神社なのですが
鳴門市撫養町木津「船戸神社」御祭神「来名戸神(くなとのかみ)」(徳島県神社誌)


この系譜を直接引くものは、鳴門市木津であった。その根拠は例祭が旧11月16日であった点、また「おふなたはん」と呼ばれ親しまれている点であった。余りにも神山町の岐神信仰の名残りを留めていると思われるため、実際に現地に行き、氏子から聞き取り調査を試みたのであるが、近藤の予測は見事に適中した。祭日は、紙綿着の儀礼が行なわれる11月16日の他に、これと対の祭礼日である帷子としての1月16日まで設けられていた。さすがに綿着・帷子の一対の供物は既に忘れ られ、旧暦11月16日が新暦12月16日に焼き直 され、来るべき新年のお札を受ける日、そして1月 16日が旧年のお札を境内で焼いて納める日と解釈が変わっていた。しかし、鳴門市木津のオフナトサンは女の神サンで、子供が16人もある子沢山の神であり、氏子達 からは子宝を授ける御利益があると信じられていた。
徳島県下における岐神信仰に関する言説(一部編集)

と、神山とほぼ同一の祭祀と伝承が鳴門市の木津に残っていたことが驚異的ですよね。
つまり阿波国の「岐神」は、一部例外を除き、ほぼ全県下同一神を祀っていることが伺えるのです。
あるいは、後述いたしますが「岐神」の遷座ルートを示しているのかもしれません。

ちなみに「徳島県神社誌」の記載は
この程度しかありません。
んでもって、「船盡」という記載についてなんですが


見ての通り「はて」っていう読み方は「ない」のですね。
これも近藤教授の弁ですが、神山では御祭神を「オフナトハン」「オフナタハン」と呼ぶのなら「船盡」は「ふなと」と読まねばならないとまでおっしゃっておられます。

では、ここらまでで前置きがある程度終わったと思いますので(ホント?)、次にもう一度「岐神」について考えてみたいと思います。
(続く)
着いてきてくれるかな




2019年9月16日月曜日

岐神再び(1)

以前に以下のシリーズを掲載したのが2011年7月、早いものでもう8年前になっちゃっております(涙)。

オフナトはん(1)
オフナトはん(2)
オフナトはん(3)
オフナトはん(4)
オフナトはん(5)END

今読み返してみると、いや〜お恥ずかしい内容でございます。
で、捲土重来を期して、もうちょっと内容を進めて見たいと思って見たわけなんですが、いつものようにどうなることやら...
まあ、数回お付き合いいただければ望外の喜びでございます。

が、今回はどういう展開になるか予想もつきません(いつものことだって言うなァ)。
あるいは顰蹙を買うような記事になってしまうかもしれません。
「こいつ、変になったのか?」なんて言われるかもしれません。
そのリスクを承知の上で書いていきます。
ただね、ボクは時々本当のことを小さな声で言うんですが「ああ、これは届いてないんだな」ってよく思うんです。



まずは、簡単におさらいだけしときましょう。
さらっと流していきたいんですが、これが結構な分量あるんです。


岐の神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

別名:久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀

概要
「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。

道祖神の原型の1つとされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。


「岐神(ふなと)神」、出典として現れるのがまず古事記です。
伊邪那伎大神が黄泉の国に伊邪那美命を尋ねていき、あまりの変わり様に逃げ帰りま
すが、逃げ延びた後、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓(みそぎ)したときに
投げ捨てた杖がから生まれたのが衝立船戸の神でございます。

原文では

是以伊邪那伎大神詔 吾者到於伊那志許米上志許米岐(いなしこめしこめき)
【此九字以音】穢國而在祁理【此二字以音】故吾者爲御身之禊而 
到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】
原而 禊祓也 故於投棄御杖所成神名 衝立船戸

是を以ちて伊邪那伎の大神、「吾は伊那志許米志許米岐【此九字以音】
穢(きたな)き國に到りて在り祁理(けり)【此二字以音】 
故、吾は御身(みみ)の禊(みそぎ)爲(せ)ん」と詔りて、竺紫の日向の橘の
小門(おど)の阿波岐(あはき)【此三字以音】原に到り坐して、禊祓(みそぎ)しき。
故、投げ棄(う)つる御杖に成れる神の名は衝立船戸(つきたつふなと)の神。

の部分になります。

日本書紀においては泉津平坂(よもつひらさか)で投げた杖が岐神となります。

愛也吾妹、言如此者。吾則当産日将千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。
是謂岐神也。又投其帯。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。
是謂開齧神。又投其履。是謂道敷神。

のところです。

つまり

『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。

県内では「オフナトはん」「オフナタハン」「オフナッツァン」などと呼ばれ祀られ
ており、祭祀の形態としては「おかまご」とよばれる石の祠に丸石が祀られております。
一般的にはこのような形態が多いわけですが。


徳島県内には下図のような分布を示しており、祠の数で言えば一千社を超え、あるいは二千社に及ぶという膨大な数の祠が確認されております。

そして、特徴的であるのが神山町であり、なんと767祠が確認されております。

さて、ここから九州工業大学 近藤直也教授の論文「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」を参考とさせていただきます。
阿波国において神社に階位が与えられた記録として、日本三代実録 貞観一四年(八七二)十一月廿九日の行に

九日乙未。天南有レ声。如レ雷。授二丹波国従 四位下出雲神従四位上。従五位下阿当護神従 五位上。正六位上奄我神従五位下。
阿波国正 六位上伊比良咩神。船盡比咩神。並従五位下

をみることができます。
天の南方から雷のような聲(こえ)が響き、これを鎮めるため、丹波国の出雲神、阿當護神、奄我神に階位を、阿波国の 伊比良咩神に正六位上、船盡比咩神に従五位下の階位を与えたという記録になります。
いや「南天(より)雷の如し聲有り」って、むちゃくちゃ怖いじゃないですか。
そりゃ、震え上っちゃいますよね。

現在、徳島に「船盡」と名のつく神社は三社存在いたします。
神山町阿野、歯の辻の船盡神社
逆光で見にくくてすいません。BrightnessとContrastだけいじって見たんですが...
一応「船盡神社」となっているのがわかるでしょうか。

入田町大久の船盡比咩神社



場所は
歯の辻の「船盡神社」はGoogleMap上では「歯の辻神社」と記載されておりますが、上の写真のように実際は「船盡神社」で間違いありません。

そして一宮町の船盡比咩神社

ここは「徳島県神社誌」に記載はありません。

では、「日本三代実録」記載の「船盡比咩神社」はどの社なのでしょうか?
「徳島県神社誌」の歯の辻の「船尽神社(船盡神社)」の説明では、三代実録云々とあります。

「阿波志」においては
「一宮祠東百八十歩有」となっておりますので「一宮町」の「船盡比咩神社」を指していることは間違い無いですよね。
「阿波志」にも三代実録云々と書かれており、いやどっちなんだよぉぉぉぉってところですか。
入田町大久の船盡比咩神社は上の建立の経緯を刻んだ碑に、歯の辻の船盡神社の遥拝所として残したと有りますので除外します。
で、もう一つ「一宮野伝説と地名」によれば行者野の歯辻明神の由来が「大阿波女命」と「高越の神」との石の投げ合いからとのことなので(これはこれで、なんとも言えない伝承ですが(笑))
歯の辻に鎮座する「 船盡神社」と入田町大久の」船盡比咩神社」は、もしかしたら違うのでは無いか?と思うのです。
そりゃ、もしかしたら間に入っていたのが岐神「こと」船盡比咩だったかもしれないですけど、まあ上記の理由から、一応(笑)一宮の「船盡比咩神社」が本貫地であったと云うことで話を進めていきたいと思います。
(多分、ここらはあんまし問題にならないと思う....か...な...)

要は、京都に怪異が発生した時に、それを鎮める神威を持った神を宮中の神官は承知していて、それが 丹波国の出雲神、阿當護神、奄我神、阿波国の 伊比良咩神と船盡比咩神だったということなんです。
例えば、岡山県の延喜式内社「中和神社(江戸時代は「久那止神社」)」や旧社地の「久那止荒魂神社」に、この時は階位を与えなかったのはなぜか?ということですね。
更に言えば「伊比良咩神社」も延喜式内社じゃないんですよね。

ここらは、さっと行きたかったんですが、ちょっと長くなってきたんで一旦切ります。

さーっとね♡