2014年11月23日日曜日

阿波國一之宮 大麻比古神社(追記)大麻比古神とは

うーん、OSを10.10Yosemiteにバージョンアップしてから、なんか調子悪いんだよなぁ〜、メモリー足りないのかなぁ〜。
は、さて置いといてと。
え 〜と、阿波国一宮として、鳴門市大麻町に「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」という神社がございまして、これが式内社としては「名神大社」。社格としては「国幣中社」となっております。
以前にも
阿波國一之宮 大麻比古神社(1)
阿波國一之宮 大麻比古神社(2)
阿波國一之宮 大麻比古神社(3)
阿波國一之宮 大麻比古神社(4)
で、大概書き尽くしたかな(グダグダの文章は別にして)と思ってたんですが、ちょっと追記として書かせていただきます。

上記写真は「大麻比古神社」

神武天皇の御代、天太玉命の御孫 天富命 勅命を奉じて 洽く肥沃の地を求め 阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費を以って本殿以下の造営が行はれた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。
大麻比古神社 公式HP由緒書きより

祭神
大麻比古神、猿田彦大神

神社由緒にもありますように 、 主祭神である「大麻比古神」は忌部の祖である「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」とされておりますが、これはあくまでも現在の神社側の見解です。
ご存知でしょうが、大麻比古神社の御祭神は昔から論議の的となっております。
wikipediaの記載を見るに

『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』(以下、『日本の神々』)によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。『日本の神々』では、これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども・・・」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と述べている。
『日本書紀』の神代巻では阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命(あめのとみのみこと)をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。
明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。



上記説明文は、明治41年の大麻比古神社宮司「山口定實」氏による「国幣中社大麻比古神社祭神考證」を基としており、



 御祭神 猿田彦大神
卜部家の説であり「大日本国




結局、山口宮司は御祭神は「天太玉命」との結論であり、現在もそのまま祀られております。ただし、上記の由緒をみても大麻比古神=天太玉命とは明言しておりません。

安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図の該当部分が下図です。

大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言うの部分です。
ちなみに「津咋見命」とは古語拾遺に、天照大御神が天岩屋に隠れた時、天日鷲神とともに穀(かじ)の木を植えて白和幣(木綿)を作った神のことです。
ちなみのちなみに、天日別命の御子として出てくる「天白羽鳥命」の又の名を「長白羽命」と書かれておりますが、これは「古語拾遺」の天岩戸に登場する神で、思兼神に命じられ、麻を育て青和幣(あおにぎて)を織ったという。
神麻続機殿神社で伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神とされる。
つまり「伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神」は阿波忌部の一族なのですね。
すくなくとも、常陸国久慈郡(現茨城県常陸太田市)の式内社・天之志良波神社の祭神として祀られておりますので、阿波忌部の足跡の一つと見られます。

まあ、それもさておき(笑)
もひとつ最近見つけた資料にあったのが、これ。
松浦長年「阿波國古義略考」
これがまた、松浦長年、とんでもないコト書いてあるんですよ(笑)


「大麻比古神亦ノ名を大水上ノ神亦ノ名は櫛玉命亦ノ名を天ノ活玉ノ命といふ」
この「櫛玉命」とは
天照国照彦火明櫛玉饒速日命ともされ、物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と伝わる。
『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と表記する。
ヲイヲイ、「大麻比古神は饒速日命」ってか?
思考停止に陥りそうな一文ですなぁ、例によって、出展とか考察の過程とかを書いてくれてないんで(まあ、「草稿」ってなってますからね)なんとも言い難いのですが。

で、ちょっとここらで、まとめてみますれば。

大麻比古神は

1. 猿田彦大神(卜部一党、「阿波国式社略考(永井精古)」など)
2. 津咋見命(野口年長、安房国下立松原神社忌部氏系図など)
3. 天太玉命(大麻比古神社宮司「山口定實」など)
4. 天足彦國押入命(多分「永井 五十槻」)
5. 櫛玉命(松浦長年)

と出揃ってきます。
で、ワタクシ最近まで決めかねていたのです(無理に決めるもんでもないっすけど)。
が、やはり「猿田彦大神」ではないかと思うようになってきました。
どうも「鳴門市大麻町の大麻比古神社」の元社がここらしいのです。




徳島県神社誌にも記載はない神社です。
大麻町の大麻比古神社の元社というのは口伝ですし(地元の人はそう言ってる)、御祭神も不明ですが、どうも「猿田彦神」のようなのです(疑ってるな〜)。
ならば、大麻町の大麻比古神社も御祭神は「猿田彦神」、大体「大麻山の奥宮」に「猿田彦神」が祀られてるしねぇ。
そして追記の追記として、先ほどの師匠のブログより
「事代主命 と 猿田彦神 と 大物主神 が同神」
であることを記しておきましょう。

2014年10月23日木曜日

満員御礼

一日遅くなりましたが10月22日にて200,000ページビューを達成いたしました。
カウント方法も色々ありますし、ブログに張ってあるのは単なるページビューのカウントで来訪ユーザ数であるとか、セッション数等は見て見ぬ振りをしております(笑)
(一応統計は分るようにはなってますが...)
まあ、ページビューがどうとか、訪問者数が多いから凄いとかとの話ではございませんが、とりあえず「いっぱい来てくれてウレピー(笑)」とのことです。


ともあれ、超ローカルネタのみの当ブログ記事をこれだけ閲覧いただいた事に関しましては感謝と、ひじょーに面映い思いが満載でございます。
ホントはキリ番踏んでくれた方に、なにかプレゼントとか考えてたんですが、準備が間に合いませんでした。
次回999,999を踏んでくれた方には豪華景品をプレゼントしてもいいかなって気分に今だけなってます(笑)。
飽きっぽい性格なので、あさってには「もう、やーめた」って言ってるかもしれませんが、ここまでお付き合いいただいた皆様方、ありがとうございました。
一応のマイルストーンとして、記させていただきます。

最後に、皆々様方に幸多かれと下の写真を送らせていただきます。

2014年10月18日土曜日

忌部神社遷座考(追記)

前回の記事から2ヶ月近くほったらかしで、もう更新は無いものと諦めてる方が多いと思いますが、何事も無かった如く、あるいは白々しく書いてまいります(笑)

忌部神社遷座考(1)
忌部神社遷座考(2)
忌部神社遷座考(3)
忌部神社遷座考(4)
忌部神社遷座考(5)
忌部神社遷座考(6)
忌部神社遷座考(おまけ)
に関する追記です。

上のリンクについては読んでいただかなくても構いませんが、読まないと今回の記事は「なんじゃこれ?」となってしまうと思いますのでご注意を。
(なんの注意にもなってない(笑))
ただ、「忌部神社遷座考(1)」を書いたのが、2010/9/17と、4年近く経っていて、思わず笑ってしまいます。

さて、「忌部神社遷座考(6)」において忌部神社正蹟争いに終止符が打たれます。



こうして、繰り返される上申争いに政府もやっとその気になったのか、忌部神社の
正蹟争いを避けるため、明治十八年(1885)十一月二十五日太政大臣三条実美名で
徳島市富田浦(現、徳島市二軒屋町二丁目)に社地を選定し、明治二十五年(1892)
遷座鎮祭し、社地論争に終止符を打ちました。
下記が太政官布告の内容です。
太甲第一六九号
                    忌部神社
今般別紙ノ通リ御達ニ相成候条此段相達候事
  明治十八年十一月廿六日
                    内務卿伯爵 山形有朋
国幣中社忌部神社社地之儀明治十四年一月七日相達置候処更ニ阿波国名東郡富田浦町ヲ以テ社地ト被定候条此段相達候事
 但旧跡所在五所神社は社殿修造其儘保存スベシ
  明治十八年十一月廿一日
                    太政大臣 三条実美
中略

ともあれ、徳島市二軒屋町に決まったのですが、「なぜ」なんでしょうか?
国幣中社は県庁所在地に集めて管理しやすくすると言う意図はあったでしょうが。
実は、はっきりとは判りませんでした。

などと書かせていただきました。
で、この度一応の結論が出ましたので追記として書かせていただきます。

簡潔に書けばやはり場所で「御座船入江川」が近いからという理由です。

御座船入江川(ござぶねいりえがわ)は、徳島県徳島市を流れる吉野川水系の河川である。御座船川や明神川の別名を持つ。wikipedia


との記載にもあるように徳島市の中心を流れる(ホントはあんまり流れていない)川で徳島藩時代は、蜂須賀家が参勤交代に使う「御座船」が出入りしていた川です。

御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。 西洋でいう遊行用のヨットに相当する性格の船である。 河川用のものは川御座船、海用のものは海御座船とも呼ぶ。wikipedia

とあり、ちなみに徳島藩の御座船としては
徳島藩御召鯨船「千山丸」
蜂須賀家が、安政4年(1857)に建造、全長約10m。藩主が御座船に乗り移る時に用いた船。
徳島城博物館蔵。全国で唯一現存の和船である。平成8年6月27日国指定重要文化財指定。

が残されております。

ここまで書けば分っていただけると思います。
御座船を使って上陸するとき、最も近い場所が、「現 忌部神社」が鎮座する「勢見山」なのです。
地図を御覧下さい。

より大きな地図で 忌部神社 を表示

更に言えば「現 忌部神社」横の「金刀比羅神社」の前まで海岸線が来ていたのです。
金刀比羅神社前の大灯籠に「牡蛎」の殻がこびり付いているのは有名な話です。
マップにも御座船入江川が途切れた辺りからも、細い川が未だに残っているのを見ていただけると思います。
これならば御座船から降りてほんの少しで「忌部神社」に到着いたします。

では、誰が「御座船」で忌部神社に御参拝するのでしょうか?
藩主のはずはありません。
徳島城から参拝するのにわざわざ徳島城から現新町川を通って御座船入江川に入り、上陸する理由は無いでしょう。
御座船 (ござぶね)は、日本の歴史上、天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。
ですよね。
蜂須賀公が乗って忌部神社に参拝したのでないのなら、それ以上の方がお使いになるはずですよね。
忌部神社が遷座された頃、当然将軍はいません。ならば、あとは「明治天皇」しか考えられないのではないでしょうか?

そうです。
忌部神社に明治天皇をお迎えする用意があったのでしょう。
勢見山のすぐ隣、大滝山に明治天皇像、神武天皇像があるのも偶然ではないのです。

(今回の内容についてご教示いただいたO宮司様に感謝)

2014年8月24日日曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは誰なのか」

最初に注意しておきますが、これは仮説です(と言うときは大体逃げを打ってるんですけどね)。
前回の記事「『木国の大屋毘古神』まとめ」で
「大屋毘古神」=「五十猛神」=「天村雲命」
であることはご了承いただきましたでしょうか(了承しないと言われても話は続けますが)。また天村雲命の出自が、山川町の「天村雲神社」であることもよろしいでしょうか?
ではでは、話を続けます。
唐突ですが、今回の話は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」=「卑弥呼(ひみこ)」説を前提としています。
一般的に言われる「天照大神」=「卑弥呼」の根拠として

中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
wikipedia
また
1 女性である(男性説有)
2 宗教的権威がある
3 夫がいない
4 「古事記」記述の高木神と「魏志倭人伝」の女王の言葉を伝える男性の存在
5 「古事記」に現れる「倭」の文字と「魏志倭人伝」の「卑弥呼は倭の女王」の記載
などなど(いずれも安本美典説)の共通性が挙げられます(一部略)。

それ(「天照大神」=「卑弥呼」)が「神功皇后」であったか「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」であったかなどの論議は別にして「天照大神」は「卑弥呼」であった可能性が強いと考えられます。
無論「天照大神」は人名でなく呼称であることを追記しておきます。



さて、前回記事「『木国の大屋毘古神』まとめ」の最後の方に
「高天原を追放された素戔嗚尊と五十猛命はともに新羅曽尸茂梨に天降っている」
と書かせていただきました。




日本書紀 第八段一書(四)では、こう記載されております。

一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。

一書に曰く、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の所行(しわざ)、状(あづき)無し。 故(かれ)、諸神(もろもろのかみ)、千座置戸(ちくらおきと)を科(おお)せて、遂に逐(やら)う。 是の時に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(い)て、新羅國(しらぎのくに)に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居(いま)す。 乃ち興言(ことあげ)して曰く、「此の地は、吾(あれ)居(いま)すを欲せず」。 遂に埴土(はに)を以ちて舟を作り、乘りて東に渡り、出雲國(いずものくに)の簸(ひ)の川上に在る、鳥上之峯(とりかみのみね)に到る。 時に彼の處に人を呑む大蛇(おろち)有り。  素戔嗚尊(すさのおのみこと)、乃ち天蠅斫之劒(あめのははきりのつるぎ)を以ちて、彼の大蛇(おろち)を斬る。 時に、蛇(おろち)の尾を斬りて、刃、缺けたり。 即ち擘(さ)きて視れば尾の中にひとふりの神劒有り。 素戔嗚尊(すさのおのみこと)、曰く、「此は、吾(あれ)私(わたくし)に用(もち)いるべからず」。 乃ち五世の孫、天之葺根神(あめのふきねのかみ)を遣し、天(あめ)に上げ奉(たてまつ)る。 此は今に所謂(いわゆ)る草薙劒(くさなぎのつるぎ)ぞ。 初め、五十猛神(いたけるのかみ)、天(あめ)を降りし時に、多(さわ)に樹種(こだね)を將(もち)て下る。 然(しか)るに韓(から)の地に殖えず、盡く持ちて歸る。 遂に筑紫より始めて、凡(すべ)て大八洲國(おおやしまくに)の内に播(ま)き殖えて青山と成さずは莫し。 所以(ゆえ)に、五十猛命(いたけるのみこと)を稱(たた)えて有功之神(いさおしのかみ)と爲す。 即ち紀伊國(きいのくに)に坐(いま)す大神、これ也。

素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(い)て、新羅國(しらぎのくに)に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居(いま)す。

「天照大神」=「卑弥呼」の弟である「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が新羅國(しらぎのくに)に息子の五十猛神(いたけるのかみ)と共に赴いております。
言い換えれば「卑弥呼」の弟、「卑弥呼」無くなりし後王位に就いた男王が新羅國(しらぎのくに)に赴いたということです。

この記述を「魏志倭人伝」に求めると
其八年太守王祈到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因斎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王國中遂定
政等以檄告喩壹与壹与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺献上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹

其の八年(西暦二四七年)、太守王祈が最高位の職に就きました。倭国女王台与(卑弥呼は誤り)は、狗奴国の男王卑弥弓呼と平素からあまり仲が良くなかったのですが、使いの載斯烏越等(皇太子大帯日子命)を帯方郡によこして、両国の争いの様子を伝えました。魏皇帝の塞曹は、撞史張政等を派遣して皇帝の命令と黄幢を難升米に与え、檄を作ってこのことを告示しました。
卑弥呼が死去したときには、大きな陵が作られました。その陵の径は百歩余りもあって、百人以上の奴婢が殉葬されました。倭国は以前と同じ様に男王を立てたのですが、男王では国中は治らず争いが続き、お互いに千人以上の人々を殺し合いました。そこで、再び女王として十三歳になったばかりの卑弥呼の宗女台与(とよ)を立てたところ、国中の争いは治まりました。
政等を派遣して、倭女王台与に貢献するように告げました。倭女王台与は、大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人に命じて政等の帰還に随行させました。掖邪狗等は、皇帝のいる都にも立ち寄り、男女生口三十人を献上し、白珠五千個、青大句珠(穴の開いたヒスイの大玉)二枚、異文雑錦(錦に似た織物)二十匹を献上しました。

これだけでは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」こと「卑弥呼」の弟の男王が新羅に赴いていた証拠にはなりません。
ならば、新羅の記述を探そうではありませんか。
そうですね、言わずとしれた「三国史記」。


『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。
wikipedia

まずは「三国史記」
本紀: 巻1~巻28
  新羅本紀: 巻1~巻12
  高句麗本紀: 巻13~巻22
  百済本紀: 巻23~巻28
年表: 巻29~巻31
雑志: 巻32~巻40
  祭祀、楽: 巻32
  色服、車騎、器用、屋舎: 巻33
  地理: 巻34~巻37
  職官: 巻38~巻40
列伝: 巻41~巻50

のうち「新羅本紀」より新羅本紀第二 沾解尼師今

 沾解尼師今立 助賁王同母弟也
 元年 秋七月 謁始祖廟 封父骨正爲世神葛文王
 論曰 漢宣帝即位 有司奏 爲人後者 爲之子也 故降其父母 不得祭 尊祖之義也 是以帝所生父稱親 諡曰悼 母曰悼后 比諸侯王 此合經義 爲萬世法 故後漢光武帝 宋英宗 法而行之 新羅自王親 入繼大統之君 無不封崇其父稱王 非特如此而已 封其外舅者亦有之 此非禮 固不可以爲法也

 二年 春正月 以伊長萱爲舒弗邯 以參國政 二月 遣使高句麗結和
 三年 夏四月 倭人殺舒弗邯于老 秋七月 作南堂於宮南 南堂或云都堂 以良夫爲伊
 五年 春正月 始聽政於南堂 漢祇部人夫道者 家貧無諂 工書算 著名於時 王徴之爲阿 委以物藏庫事務
 七年 夏四月 龍見宮東池 金城南臥柳自起 自五月至七月 不雨 祀祖廟及名山 乃雨 年饑 多盜賊
 九年 秋九月 百濟來侵 一伐翊宗 逆戰於槐谷西 爲賊所殺 冬十月 百濟攻烽山城 不下
 十年 春三月 國東海出大魚三 長三丈 高丈有二尺 冬十月晦 日有食之
 十三年 秋七月 旱蝗 年荒 多盜
 十四年 夏 大雨 山崩四十餘所 秋七月 星孛于東方 二十五日而滅
 十五年 春二月 築達伐城 以奈麻克宗爲城主 三月 百濟遣使請和 不許 冬十二月二十八日 王暴疾薨

十二代の王「沾解尼師」の御于
三年 夏四月、倭人が舒弗邯の干老(ウノ)を殺害した
沾解尼師今三年は西暦249年。
舒弗邯(ソブラン)は階位の事。
「魏志倭人伝」において「卑弥呼」が亡くなったとされるのは、上の記事の通り西暦247年。
そして誰が新羅の将軍であった干老(ウノ)を殺したのか。
これについては、同じく「三国史記」の列伝部分に記載があります。

三国史記 列伝 巻四十五 昔于老の部 現代語訳
七年癸酉(西暦253年) 倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に(第十六代の王)訖解尼師今になった。(十三代の王)未鄒王の代に倭国の大臣が来た時、于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うと、力の強いものに命じて彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、事成らずして(不克)引き上げた。以下略

読んでいただいて分るように、倭王は悪口を言われた事の報告を受けて(すぐ)将軍を派遣し于老を焼き殺しております。

ただ、年号は(西暦にして)249年と253年と4年の差があります。
このあたりはいくつかの解釈があるようですが、ここでは略します、この時、倭王が于老を焼き殺さしめたとの事実を見ていただきたいのです。

この一事から、此の時倭王は新羅近辺にいたと推測できませんか?
日本列島のどこかに倭王がいたのなら、報告を受けるのに数ヶ月、征伐軍を組織して于老を焼き殺すまでに更に数ヶ月、そんな事をするでしょうか?
この時、倭王は朝鮮半島のどこかにいたのです。


そしてそれは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」なのです。


参考までに「三国史記」よりこの時期近辺の倭国関係記事を掲載します。

祇摩尼師今(第6代) 10年(121年)
夏四月、倭人が東部の辺境に侵入した。

祇摩尼師今(第6代) 11年(122年)
倭兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った。翌年、倭国と講和した。

阿達羅尼師今(第8代) 20年(173年)
夏五月、倭の女王卑弥呼が使者を送ってきた。

伐休尼師今(第9代) 10年(193年)
六月、倭人が飢饉に見舞われ、千人余りが食料を求めにきた。

助賁尼師今(第11代) 3年(232年)
夏四月、倭人が突然侵入し、金城を包囲した。軽装の騎馬隊で賊軍を追撃し、千余人を捕殺した。翌年もやって来たが、倭船を焼いて撃退した。

沾解尼師今(第12代) 3年(249年)
夏四月、倭人が舒弗邯の干老(ウノ)を殺害した。

儒礼尼師今(第14代) 4年(287年)
倭人が一礼部を襲い、千人もの人々を連れ去った。

儒礼尼師今(第14代) 6年(289年)
倭兵が攻めてくるとの情報が入り、船と兵器を修繕した。

儒礼尼師今(第14代) 9年(292年)
倭兵が沙道城を攻め落とそうとしたので、一吉サン(さんずいに食)の大谷に命じて救援させ、城を守った。

儒礼尼師今(第14代) 12年(295年)
王いわく「倭人が襲うので人々は安心して暮らせないから、百済と謀り、海上に出て倭国を攻撃したらどうか」と。だが、時の重臣に、海戦に不慣れなのと、百済の信用できないことを説かれ、その考えを撤回した。

基臨尼師今(第15代) 3年(300年)
春正月、倭国と使者の交換をした。

基臨尼師今(第15代) 10年(307年)
国号を新羅に戻した。

では付いて行ったと言われる「五十猛命」の足跡を探ってみますと。
「五十猛命」の祀られている神社をマップにしてみました。
「五十猛命」の航路が見えるようじゃないですか。
対馬経由で半島に渡り、多分東海岸沿いに進み「新羅」のどこか「曾尸茂梨(そしもり)」に着いた。
ただしこの地図には足りないものが二つ。
出発地と出発港。
ルートを加えて出しましょう。
「五十猛命」の出発地は、前回から書いている「天村雲神社」。
出発港は、鳴門市土佐泊浦に鎮座する「新羅(しんら)神社」
御祭神は「素戔嗚尊」と「五十猛命」の二神。



ルートは推測です、あまり突っ込まないように(笑)

最初に書いたように「素戔嗚尊」は「此の地は、吾(あれ)居(いま)すを欲せず」と申しております。
「私はここに居たくない」と泣いているのです。
「五十猛命」は多分、海の人(のらねこ師匠説では「磯猛」)、「素戔嗚尊」は半島と倭国を往復するのが厭になってしまったのでしょう。
海の国を治めるのはもうイヤだと泣いているのです。
ただし倭国に帰っても、反乱の元となったのは遺憾ともしがたいのですが...

と、いう「仮説」(笑)でございます。
資料は全部モノホンです。
どう解釈するかは、読まれた方次第ですが、この時代半島の南部は倭国であったことは理解しておいて下さい。説明する余裕もございませんが、よければ「奈良飛鳥行(4)」を御覧下さいませ。

あー疲れた、一日籠っちゃったよおぉぉぉぉ...(笑)

2014年8月9日土曜日

「木国の大屋毘古神」まとめ

木の国の大屋比古神(木国の大屋毘古神)についての質問をいただき、一応の回答はしたつもりなんですが、念のため取りまとめておきます。

大屋毘古神(おおやびこのかみ)は、同名の二柱の神がおりまして
家宅六神の一。『古事記』において国産みを終えた後、神産みの最初に大事忍男神が産まれた後にイザナギとイザナミの子として産まれた六神
石土毘古神
石巣比売神
大戸日別神
天之吹男神
大屋毘古神
風木津別之忍男神
の大禍津日神と同神とされる「大屋毘古神」。

と、これも古事記において八十神に迫害された大穴牟遅(おおなむじの)神を,木国にて木の股をくぐらせて,須佐能男命のいる根の堅州国へ逃がした「大屋毘古神」です。

今回は後者、大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」について知っている事を洗いざらい吐け(笑)とのお達しだったのです(笑笑笑)。

確認しておきますが、前者「イザナギとイザナミの子」としての「大屋毘古神」と大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」は同名ですが別神です。
というのも、大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」は「先代旧事本紀」によれば、素戔嗚尊(スサノオ)の御子である五十猛神(イソタケル)と同神であるからなのです。前者ならば、まだ素戔嗚尊は産まれておらず、時期が違います。
画像は国史大系七巻より。

まず「大屋毘古神」=「五十猛神」であることが確認できます。

ところで(笑)
徳島県吉野川市山川町村雲に「天村雲神社」という神社がございまして、その御祭神は「天村雲命 伊自波夜比賣命」となっております。
この「天村雲命」は別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼ばれ、射立の神のことです。
『海部系図』にも、始祖彦火明命の御子の天香語山命が穂屋姫命を娶り天村雲命を生む。彦火明命の孫にあたる天村雲命の亦名を天五十楯天香語山命と云う。
とあり
「天村雲命」=「天五多底命」となります。

また「天村雲神社」鎮座する、山川町は元、忌部郷と射立郷の二郷からなっており(『和名抄』 によれば、阿波国麻植郡 「射立郷(伊多知)」)現在の山川町にあるの地名「湯立」は「射立郷」からの転訛なのです。
という理由で御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれているのです。

で、五十猛命の別名はと言えば「伊太祁曾神(いたきそのかみ)」もしくは
「射楯神(いたてのかみ)」ですよね。
だから
「五十猛命」=「 射立神( 射楯神)」

お〜、やっと繋がったか(汗)

結論(笑)

「大屋毘古神」=「五十猛神」=「天村雲命(天五多底命)」=「 射立神(射楯神)」

付け加えるならば「天村雲命」の名の付く「式内社」は全国で、この「天村雲神社」一社のみ。
更に付け加えるならば伊勢神道の「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)には

「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
とあり「天村雲命」の出自がこの山川町の「天村雲神社」である事を示しています。

もっと付け加えるならば「天村雲命」の別名を「「天二上命」また「小橋命」と言いますが、山崎村「天村雲神社」のすぐ傍に「小橋」という地名があり、「阿波國族風土記」麻植郡の部で確認する事ができます。


ついでのついでに付け加えるならば、高天原を追放された素戔嗚尊と五十猛命はともに新羅曽尸茂梨に天降っておりますが

日本書紀 第八段一書(四)
一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。

鳴門市の土佐泊浦には「個人的に」五十猛命が新羅に旅立った時の出発港の地であったと考える
「新羅神社」祭神「五十猛命」
が鎮座ましましております。



というところでいかがでしょうか?
(誰に言ってるんだ)

なお、前回の記事「予告編「伏見稲荷の元社は?」はどうした?とか聞かない事。
ね。

2014年7月19日土曜日

予告編「伏見稲荷の元社は?」

多分、誰からも忘れ去られてると思うので、静かに更新します。
体調は最悪、ロクな事が起こらないし、この記事も書ききれるかどうか分りませんので、敢えて「予告編」として概略だけ記しておきます。
ちょっと情勢が回復したら、改めてきちんと書きたいのです。


伏見稲荷大社
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社。旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

和銅年間(708 - 715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。秦氏にゆかり深い神社である。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の『山城国風土記』逸文には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下のように記されている。
秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。
『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。

主祭神
宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)

以上Wikipediaより引用

「延喜式神名帳頭註」所引部分がこれ。


また『延喜式神名帳』の記載部分はこれ。

さてと、主祭神は宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)となっておりますが延喜式では「三座」との記載です。
後の二座は?と言いますと。

上の画像は伏見稲荷大社の公式HPの物ですが、なんか変ですよね。
で、もっときちんと書かれた資料が無いかと探しておりますれば
「神社啓蒙」(白井宗因 寛文7年(1667年))にありました。

下社 大山祇女 非開耶姫 延喜式頭注
中社 倉稲魂 同名異神有三神 而司職各異也勿混
上社 土祖神 延喜式頭注

ということですね。
まず「中社 倉稲魂」でありますが
これもWikiより引用すれば

ウカノミタマは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。

とあります。
注意していただきたいのは
伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。」
の部分です。
つまり伏見稲荷大社に祀られている「稲荷神(倉稲魂)」は伏見の土産神ではなく、伊勢より分霊された神であるのではないでしょうか。
では伊勢神宮の神道五部書「御鎮座伝記」の調御倉神の部分を見てみますと。



調御倉神
「亦號大宜都比売神(また大宜都比売神と号す)」
と記載されています。
つまり伏見稲荷大社の主祭神は阿波の神である「大宜都比売神」なのです。
あとの上社、下社についての詳しい説明は本編(ホントに書けるのか?)まで待っていただくとしたいのですが、結論だけ書いておきますと

下社大山祇女非開耶姫延喜式頭注 
阿波國神宅村に祀られている「葦稲葉神」

上社土祖神延喜式頭注ヲ脱スカ
阿波國神領并一宮村に祀られている「埴尓女屋神」
であります。

つまり
「稲荷大明神ノ三座ハ阿波國魂及二子ノ神ニシテ阿波國根元ノ神ナリ大福神也」

なのであります。

以下本編では(ホントのホントに書けるのか?)
阿波から伊勢に移った話、秦氏が狐を祀っている件に付いて、空海が狐を四国から追い出した(様に見える)話について脈絡も無く(笑)書いてしまおうと思っておるのですが、なにしろ体調と時間と邪魔との戦い(笑)ですので、「それでも待ってるから書け」とおっしゃる奇特な方は、申し訳ございませんが気長にお待ちくださいませ。

(ホントのホントのホントに書けるのか?自問自答)








2014年5月31日土曜日

小松島の中心で狸を探す

前回で椅子から転がり落ちて、腰椎の圧迫骨折などと書いておりましたが、無論3週間やそこらで治るはずもありません。
先週、もいちどレントゲンを撮ってみますれば
「あ〜、腰椎の潰れ方が酷くなってるねぇ〜。ちゃんとコルセット着けてる?」
などと言われました。
「はぁ、でもコルセット着けてると苦しいし、痒くなってくるし.....」
「ふ〜ん、治らなくてもいいの?」
で、当分がんじがらめの生活が続くのです(涙)
で、落ち込んで家に帰る途中、書店でふと見つけたのがコレ。
「姫さま狸の恋算用」水瀬マユ作。
何と小松島市が舞台ではありませんか、そしてメインを張るのが「金長大明神」。

まあ、ふつーのオヤジが買うのには恥ずかしい事この上ありませんが、そこはそれ厚顔無知とはワタクシのためにあるような言葉、いまさらエロ本だろうが少女漫画だろうが平然と買えるようになってしまっているのです(笑)
この程度の本、買うのに何の躊躇がありましょうか(笑)
ましてや、双葉社の漫画アクション掲載。
いやぁ、メジャーではありませんか。
著作権の問題もあろうとは思いますが、宣伝と思って少々の画像の掲載をお許しいただきたいと思います。
無論、問題があればすぐさま削除させていただきますので。

小松島市に鎮座する「金長神社」の隣にある「大和屋」という藍染屋が舞台になるという設定。

小松島市営球場のすぐ脇にある赤く囲んであるのが「金長神社」。
その隣が「大和屋」のはずですが、実際は公民館になってます。

そして「金長神社」、ご祭神は金長大明神。
伝説上の阿波狸合戦で落命した金長狸を祀った神社である。金長の死後、染物屋の茂右衛門が金長大明神として手厚く弔い、金長は江戸時代後期の弘化5年(1848年)正一位に上った。昭和31年(1956年)商売繁盛、開運の神としてこの地に勧請された。
wikipediaより。
とのことです。
「金長大明神」の由緒に関するお話は、由来記として詳細に書かれておりましたが

「津田山 穴観音」で書かせていただいてますので、よろしければ、読んでいただいてから戻ってきて下さいませ。
これが「金長大明神」像(なんでにんべんなんだ?)です。
と、いう訳で(ど〜ゆ〜?)ここ「金長神社」と「小松島西高校(多分)」近辺が出まくって話が進んで行くのではないかと、勝手に思っておりますが(一巻は津田から別の狸がやってくるところで終わってます)個人的な希望としては、小松島市・徳島市近辺の狸だけではなく(「困った時のお狸様」 「狸のお蔵出し」など)西方面のお狸様(「萬福寺 狸問答の記」など)も絡めていただければいいなぁ、と言う事です。

それとも、ボクに原作を書かせていただけるのなら(笑笑笑)伊予、河野家が追放した狐、あるいは空海が唐より連れてきた狐(うっ!これはまだ書いてないか)を絡ませたりしてみるんですが、無論、色っぽいシーンが皆無となり、高校生の出番などはさらに無くなって、何の話だか分らなくなる事必定でしょう(笑笑笑)。

あ、それともう一枚写真を。
金長神社の社殿内部ですが.....
例によって(笑)ですが上の方に大きく、お狸様が写っているのが分るでしょうか?

あと、おまけですが金長神社の北側は日峰神社の境内社として、金長神社本宮があります。




この神社は、昭和14年(1939年)に新興キネマが作製した映画「阿波狸合戦」のヒットにより会社が持ち直したので、金長への感謝より萬野只七の主唱により俳優らの寄進で同年に建立された。
とwikipediaに記載があります。
でも、そんな古い映画知らんもんね〜。
ちなみに、こちらの本宮は車では登れないので注意して下さい。

さて、湿布はって、ロキソニン飲んで寝ますかね(笑)