2012年3月29日木曜日

水主神社(東かがわ市)(3)END

モモ(百襲姫)がね、書けっていうの。
だからね「水主神社(東かがわ市)(2)」の続きなの(桃井かおり風に)。
書いてしまわないと収まらないので、行っちゃいますね。
さて、本社裏に回りまして、ここにも色々あるんですが、今回一番の目的でありました。
御父宮「孝霊神社」
御祭神 大日本根古彦大瓊命
まあ、娘さんのところにいっしょに祀られていても、何の不思議も無いんですがね。
まあ、大日本根古彦大瓊命を祀ることではは島根の「楽楽福神社(ささふくじんじゃ)」
が有名なようでもありますので、またちっと考えてみたいとは思いますが。

ところで(笑)ここ「水主神社」には「大水主大明神和讃」が所蔵されております。
これは応永十七年(1410年)増吽(ぞううん)僧正が作ったと伝えられ、明応五年四月
五日、僧宥旭(ゆうきょく)が書写し、後、さらに高松無量寿院にあった一巻を同寺住職の
増進(ぞうしん)が延宝五年(1677)に書写して水主神社へ納めたものである。
とされております。
この「大水主大明神和讃」一巻、出してみます。
ぜひぜひ読んで下さいませ。

「大水主大明神和讃」

 帰命頂礼 大明神 三所の和光  影清く
 三聖一の 山に栖み 三身則ち 一つなり
 もとこれ大悲の 方便は 難化の衆生を 渡むとて
 有縁の処に 跡を垂れ 応化を施し 給うなり
 信を致す 輩は 求願必ず 成就す
 歩みを運ぶ 人は皆 現当悉地を 円満す
 愍を懸くる その日より 八百四神 相添いて
 昼夜恒時に 身を守る 擁護を加え 給うなり
 誓いて垢離を 掻く人は 煩悩罪障 漱がれぬ
 昼夜に 愍を懸つれば 仏性真如も 顕れぬ
 思えば不思議や 明神は 極楽浄土の 能化の主
 安楽世界の 教主にて 万徳円満 したまえり
 往昔大悲の 御誓い 深くおわする 故により
 葦原国の 浅ましき 吾らを導き 給わむと
 恭くも 人王の 主の君の 第七代
 その名を申せば 孝霊の 第二の姫君 たりしかど
 実に皇居の 栖には 塵に交る 態なくて
 大和の黒田の 廬戸より 出させ給ひし 御年は
 七才なりしに 稚けなく 独り御舟に のりまつり
 虚の空ゆく 浪の上 悶れ給うぞ 痛ましき
 御時八才 なりしとき  浦に寄りしや 船越の
 下りて休らう 安堵の浦 御腰を掛けて 居座の宮
 寄りて来りし その里の 水さえ惜む 物憂さに
 璽の石の 水を堰き 与田にぞ水を 掛け給ふ
 穴戸の坂の 水の門 水徳自在の 尊にて
 大山戸の 水石は  神通現せし 創なり
 かくても留る 所なく  山を凌ぎ 浦に出で
 海を見つけし 津見の宮 袂を落し 袖無の
 頃は五月の 炎天に 池に裾を 冷ししに
 測らず御足を 食う魚の 咎め給える 故により
 堤は切れて 流岡 永く絶えにし 鯰かな
 郡に盟を 立石の  至らぬ処ぞ ましまさぬ
 たとえば伊勢の 神垣は 日本姫に 託まして
 五十鈴の川の 滝祭 尋ね廻りし 如くなり
 穴穂の処と 宣えば そのまま宮居を ト給ふ
 真の宮代 定まりて 水主に鎮座 ましましき
 皇女住みます 故により 宣旨によりて 郡をば
 偏に神に 奉り おほちを大内の 郡とす
 大御前は 弥陀如来 四十八願 あやまらず
 四重五逆を 嫌わずば 三信十念 往生す
 後の御前は 父大王 孝霊天皇 崇めます
 不動尊の 降伏に  悪魔怨霊 退きぬ
 十二神将 召使い  各七千 夜になれば
 八万四千の 眷族の 千を一人に 摂め取り
 八百四神の 眷族は 高柵三方に 列ね置き
 十二時中に 召使い 善悪賞罰 新なり
 左り後に 崇めても 猶も御親の 孝徳を
  高き山にも 准えて 崇め給う その為に
 水精輪の 峰の上  神籬高く 構えては
 千盤ふりすむ  御社に  王太神と 崇めます
 八百四神の 杖鑰も 緋神子 八の神子 三郎殿
 内客人に  至るまで 霊験並びに ましまさず
 森羅万象 神なれば 嶺に峙つ 岩基をも
 松栢竹に 至るまで 皆神変を 現じてき
 北の御前は 地蔵尊 万行憧旗の 大菩薩
 御母なれば 胎蔵の 方位を変えず 移し置き
 仏前仏後の 能化の主  聖近士女の 悲願にて
 五濁悪世の 今迄も 地蔵の悲願に しくはなし
 此宮不測の 構にて 大王閑座 並べまし
 大明神の 父母を 左に崇敬 し給えり
 南の御前は 早玉や 浄瑠璃浄土の 能化の主
 十ニの誓願 妙にして 応迹此土に 勝れたり
 当社の三所を 御熊野と 同体なりとは 伊弉冉の
 五行生れます その中に 火の神猛く 不祥くて
 焔に当たりて 魂去りぬ 仮に火の神 嫌わしく
 水を床しく おぼししも 末世の衆生の 例なり
 有漏の浮世を 物とせず  紀伊国 無漏の 郡なる
 有馬の村や 音無の  備えの里に 葬めます
 和光は 神武の頃とかや  同塵 崇神の御宇にして
 日本第一 大霊験  結の御前を 始とす
 神力無窮の 盟にて 水徳立てんと おぼしめし
 孝霊の宮の 姫の宮 名を水主と顕して
 応和の祈雨にも 掲げたり  雨雲はやく 立ちなびき
 神に斉祈を 重ねんと  大水主と 崇めらる
 三つの御山の 中にして 三所の霊号 比なや
 那智新宮を 左右にたて 本宮証誠を 玄武とし
 左青竜の 河清く  那智の滝より 落ち来らむ
 新宮虎丸 右にあり  四神の霊地 相応ず
 結べば水主と 一体と  一つ紀哩の 因果にて
 熊野は千手の 因の徳  枯たる木にも 花咲きぬ
 ここには弥陀の 西の方  縛魯菜の水徳 かたどりて
 果徳を高く 顕わして  神力霊験 双なし
 そもそも当社は 当国の 一品一の宮 なるべきを
 御妹に 禅りまし  心安くも 大水主
 父大王も 人王の  第七代の 嘉例にて
 国中諸神の 第七に 備り給うぞ 有難き
 こい願わくは 明神の 玉の光の 日に添えて
 自ら御威光 耀きて 福智荘厳 し給えや
 南無三所 大明神  讃歎礼拝 功により
 本誓悲願 あやまらず  二世の願いを 満て給へ
 願共諸衆生  値遇大明神
 願共諸衆生  廻向大菩提


ちょっと長かったですね。
で、お気づきになりましたでしょうか。


 恭くも 人王の 主の君の 第七代
 その名を申せば 孝霊の 第二の姫君 たりしかど

「第二の姫君」ですと。
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)には姉がいらっしゃったのですね。
そんなこと記紀には一切書かれておりません。
さらには、


 そもそも当社は 当国の 一品一の宮 なるべきを
 御妹に 禅りまし

讃岐の一の宮とは高松市の田村神社ですね。それを妹に譲ったとあります。
つまり倭迹迹日百襲媛命は三姉妹だったわけです。

そんなことがあるのでしょうか?
一つだけ「それ」をかいてあるモノがありました。
なんと偽書の誉れ高い(笑)「ほつまつたゑ」

『夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子 生む 名は皆 ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫 母もヤマトの 大宮姫』

とあります。
「ほつまつたゑ」にでてくる系図では。

ヤマトタリヒコクニ┐
    (孝安天皇)├────オオヤマトフトニ(孝霊天皇)
オシ姫──────┘      ┃
                ┃
シギ県主オオメ───────ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトクニクル
                ┃           (孝元天皇)
カスガ県主チチハヤ─────ヤマカ姫[スケ]
                ┃
トイチ県主マソヲ──────マシタ姫[ココタエ]
                ┃
   ??   ───┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫
          │   (ヤマト大宮女)     │
          │     ┃      三つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ
          │     ┃         │
          │     ┃         └(3)ヤマトワカヤ姫
          │     ┃
          └───ハヘ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ
              (若大宮女)       │
                       三つ子├(5)ヒコサシマ
                          │
                          └(6)弟ワカタケヒコ


となるようです。
にしても一般的には江戸時代に作成された偽書といわれる「ほつまつたゑ」と
1410年に作成された「大水主大明神和讃」にこんな共通点があるとは。
無論「ほつまつたゑ」の作者が「大水主大明神和讃」を知っていた可能性は
否定できませんがね。

また「一の宮」を譲った「田村神社」の由緒を見てみますと。

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり
往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く
崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に
列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)
正一位の極位に叙せられた。

当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が
満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず
当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。

奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が
多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。 

田村神社HPより。

また
祭神
倭迹迹日百襲姫命[やまとととひももそひめのみこと]、猿田彦大神[さるたひこのおほかみ]、天隠山命[あめのかぐやまのみこ]、五十狭芹彦命[いさせりひこのみこと]、吉備津彦命[きびつひこのみこと]、天五田根命[あめのいたねのみこと]
以上五柱の神を田村大神と申す
天隠山命は高倉下命[たかくらじのみこと]とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命[あめのむらくものみこと])と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた

ともありますが、倭迹迹日百襲姫命の姉妹に関しては一切触れられておりません。
さて、どういうことでしょう。
姉妹がいたってそれを由緒に書かない理由なんて無いでしょうに。
要は創基が和銅二年(709)と新しく(笑)「知らなかった」か
由緒付けをするために、あえて御祭神を名乗ったのか。
それとも姉妹の仲が悪くて「あんたの妹なんかじゃないわよ」ってな感じで
隠してしまったのか。
その辺りは想像の域を超えませんがね。

と言う辺りで、結論が出るはずもありません。
が、吉備津彦命とか日子刺肩別命、稚武彦命がどの辺りに祀られているのか
どういう伝承があるのか、今までにも断片的に書いてきました。
そこらを考えると黒田庵戸宮(廬戸宮)(くろだのいおとのみや)が奈良にあった
ってのはどう考えても(いやいや書くまいぞ)。
でも倭迹迹日百襲媛命がなーんで七歳で奈良から水主までこなくちゃなんないの、ねえ。

もうちょっと写真とかもありますが、脈絡無いんで、ここら辺にしときますかね。
よーし、使える体力全部使ったぞ。
今年度は打ち止めかな。

2012年3月28日水曜日

水主神社(東かがわ市)(2)

では「水主神社(東かがわ市)(1)」からの続きということで境内を
見渡してみましょう。
おや、これは?
「天ノ磐船」とありますねぇ。
説明はこうです。
天磐船と言えば饒速日命。
饒速日命は『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

で香川県三豊市。
ここの山本町には「河内」の地名があるのよね。
元は香川県三豊郡河内村だったのよね。
ここから「倭」へ移るのは容易いのよね〜。
もちろん「倭」とは「倭大國玉神大國敷神社」があるとこでしょう。
ま、これは余談ですがね(笑)。
続いて本社前にあったのがこれ。

百度石?
そうだけど見て欲しいのはその下。
亀さんですね。以前に「亀の背に乗るのは?」で書いた「亀跌(きふ)」ですね。
長寿の象徴ということですが、横の鉢の石もなんか気になるしねぇ。
で、本社左の方を見れば。
なんか、ありますね。

水神社鳥居があって。
 奥の祠には。
 井戸が。
これが弘法大師空海お手堀の井戸ですか。
ステンレスのカップもあって水が汲めます。
御神水です。
 ああ、お大師様こんな所に。

でも入れ物が無かったので御神水はいただきませんでした。
あ〜、今回は写真が多いので書きやすかったですぅ(笑)
もう一回書きますぜ。
お楽しみはこれからだ!
あ〜しんど。

2012年3月27日火曜日

水主神社(東かがわ市)(1)

このやろー、気が狂いそうに忙しいぞ!
バカヤロー年度末!!
でも、当てつけみたいに書くんだもんね。もうヤケクソ。
矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ、べらぼうめぇ。
という訳で(おっと)先の御所神社の後に行ったのが
香川県東かがわ市水主「水主神社」。
場所はここ。

より大きな地図で 水主神社 を表示

有名な神社だしみんながブログでいっぱい書いてるので目新しくもないでしょうが
ちっとばかし重箱の隅をつつかせて下さいませませ。




水主神社(延喜式内社)
御祭神 倭迹々日百襲姫命(日本書紀)
夜麻登々母々曽毘売命(古事記)
◎倭迹々日百襲姫命
奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定 める。
御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。 
成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の 神と称へられ
奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。
◎水主三山(熊野三社)
山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。
新宮神社(虎丸山)御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神)
本宮神社(本宮山)御祭神 早玉男命(禊祓を司どる神)
那智神社(那智山)御祭神 事解男命(龍神(水)・食物豊穣司どる神)
◎水神社 御祭神 水波女命(井戸を司どる神)
◎水主神社別当寺 大水寺(開基は不詳)
水徳山宝珠院神宮寺、寛文年中に大水寺と改める。
本尊は、 阿弥陀如来(円光寺へ)
不動明王、二童子(与田寺へ)
十一面観音(坂手・観音寺へ)
● 江戸末期まで、神仏混合 ● 明治元年三月、神仏分離令
● 明治二年二月二十五日、正式に廃寺となる。
◎伝教大師 最澄(七六七~八二二)
延歴九年(24才の時)水主神社・大水寺に参籠する。
比叡山延暦寺創建す。(22才の時)天台宗
◎弘法大師 空海(七七四~八三五)
水主神社境内地に於て閼伽井水を掘り水主神社に奉献する。
高野山金剛峰寺・善通寺・真言宗 (現在の閼伽の井戸)
境内案内より


水主神社
 弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返 され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を 避けて、この地に来られたと伝えられています。
 姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々 のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを 助けたといわれています。
 境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、 山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多 くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造り で統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に 今も残っています。
 與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」 があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主 のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎや かな土地でありました。
境内案内より

で、御祭神の倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)
ですが、孝霊天皇の皇女です。
『日本書紀』では、母は、倭国香媛(やまとのくにかひめ)。
同母兄弟に、倭迹迹稚屋姫命、彦五十狭芹彦命らが、異母兄弟に孝元天皇がいる。
『古事記』では夜麻登登母母曾毘売命。同母兄弟に日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命
倭飛羽矢若屋比売がいる。
wikipedia

また
倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。

ともありますが。
まずは
これも神社の看板にありましたが本社の右脇に「神陵」ってありますよね。
「神陵」。誰の?
これが「神陵」です。陵(みささぎ)はお墓のこと。
一般的には天皇・皇族の墓のうち、天皇・皇后・太皇太后・皇太后のものを
陵(みささぎ・りょう)、それ以外の皇太子や親王などの皇族のものを
墓(はか・ぼ)と呼ぶそうですので。
では、誰の?御祭神のでしょう。
そして神陵の祠を覗いてみれば。
見たこと無いですか?
複数の七福神。ここでは大黒天かな?
ボクのブログでも紹介したことがあります。
七代孝霊天皇の第二子日子刺肩別尊を祀る天佐自能和気(あまのさじのわけ)神社裏
の祠。
八倉比売神社の摂社「山神社 」祠

続いて

見にくいかな。五角形の「地神塔」ですね。
阿波と讃岐の一部にしかない地神塔。基本的には阿波起源のものです。
由来の神廟があるのでしょうか。

そして水主神社には2種類の大般若経が伝来しています。
ひとつは内陣(ないじん)に安置されていたといわれるもので、国指定重要文化財となっている。すでに公刊されているが、経函の墨書には「箱ノマハリノ木ハ皆阿州吉井ノ木工ミ成法之助成也」とあり(『大内町史』上巻、大内町、1985年)、現在の阿南市吉井町・熊谷町方面との交流がうかがえる。他のひとつが、外陣(げじん)に安置されていたといわれる。未だ奥書の全体は紹介されていない。
この「他の一つ」の大般若経奥書に「阿波州海部郡薩摩郷」という記載があるということです。
奈良市平城宮跡から出土した8世紀の木簡にも「阿波国那賀郡薩麻駅」という駅名があります。
阿波に薩摩があったんですね。
のらねこ大師匠も「徳島 那賀町の興味深い地名」で那賀町の「薩摩」について
書いております。
地図で見れば
どうです、「長門」「近江」「加賀」「薩摩」。
これが近年付けられた地名ではなく、和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)
承平年間(931年 - 938年)以前からの地名なのです。
薩摩って九州の中では一番最後に名付けられた国ですし、下手したら、本家「薩摩」より
古いかもしれませんぜ。
ということはどちらが本家か?
ということが「水主神社」の大般若経から読めるんです。
そしてこの大般若経、全体のうち80巻までが、1398~99年(応永5~6)に
阿波国海部郡薩摩郷八幡宮に奉納されております。

さて
まずはここまで、まだ続きますぜ。
明日は無理かもしんないけど。
とにかくオヤジは疲れるんですわ。

2012年3月25日日曜日

土御門上皇終焉伝説地(土成町 御所神社)

あー、ホントに久しぶりにお出かけしました(笑)。
でも、まだまだチョー忙しいんで、今日も昼からちょっとだけだったのです。
目的地は違うトコだったんですが、ちょうど通りかかったので、ぜひお参り
しなくてはと寄りました。
土成町宮川内相婦に鎮座いたします「御所神社」。
場所はここ。

より大きな地図で 土御門上皇終焉伝説地 を表示
先に「もうひとつの土御門上皇伝説」なんてのを書いてて順番逆なんですが
簡単に言えば


承久の乱の後、父後鳥羽上皇は隠岐に、弟順徳天皇は佐渡へ遠島となった。
土御門上皇は何も関与していなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移され37歳にしてこの地で亡くなったと伝えられている。
付近に太鼓坂、鍋倉、長倉、山皇子等、御所、一条等、ゆかりの地名も多く残っている。
ということです。
たらいうどん「福助」さんを目印にすれば「そこ」です。
なんで「五穀豊穣」なのかはよく分りません(笑)。
 入口にはこんな碑がありまして。
さすがに福助さんの駐車場は使えないので、トンネル手前に車を置いて
歩いて行きます。
赤い「宮川内橋」を渡って。
 「御所神社」です。
ここが「土御門上皇終焉伝説地」です。
社殿です。

 下の由緒にありますように地名にも残っていて、例えば鍋倉、長倉は妃である
鍋倉の局と長倉の局のこと。
二人の局が院を追って来たところ樵夫に「院はもう亡くなった」と告げられ差し上げ
ようと盆に載せていた餅を取り落としてしまった場所が「盆餅の原(ぼんもちのはら)」
その後二人の局は自害してしまいます。
この樵夫の子孫が宮川内谷(みやごうちだに)に残っていて、その一族は餅を搗かなく
なったとも伝えられております。
 系図も書かれておりまして、分りやすいですね。
ボランティアの方々が作成されたパンフレットが置かれてました。
一部いただきました、ありがとうございます。
ののちゃんインフォメーション」に記載があります。
裏面には土御門上皇伝説の地マップがあり、ひじょーに役立ちます。
とはいうものの、さすがにスキャン画像を掲示するのは憚られますので、表だけ。

で、川の中にも下のような碑が建っていて、どうもここが上皇が最後に崩御され
血に染まったと言われる御腹石(おはらいし)ではないかと。
そしてワタクシは昼過ぎにこの近辺を通りかかっているというのに、たらいうどんを
食べずに通り過ぎたことを追記しておきます。

もひとつ追記ですが、この土御門上皇、山川の忌部山に登り御歌を詠っております。
パンフレットの表にもあります

「曇りなき 日和司能美夜に
いく秋の 光をそえて すめる月影」


この後向かった先の話は、また今度ね。ではでは。

2012年3月19日月曜日

隠岐と阿波(2)END

隠岐と阿波(1)からの続きです。
前回の記事だけじゃ何が言いたいのか分らなかったでしょうが(一部の人以外は)
もうちっと詳しく書いていきます。
まずは
「観松彦伊呂止命五世孫十挨命が隠岐国造となり九世孫韓背足尼命が長(現在阿波国南方那賀川流域を中心とする所)の国造となり祖先の観松彦神社を奉祀した」
そして隠岐には「海部郡」があります、尼奇(あまき)村があります。
加茂があります。

神社は由緒まで詳しく調べられておりませんが、ざっと見ただけでも

天佐志比古命神社
由良比女神社
賀茂那備神社(これは隠岐の島町加茂に鎮座)
神名として
大國玉明神
賀茂奈比明神

など引っかかるところが多々あります。
ここで資料として1667年(寛文7年)に著された隠岐の地誌である「隠州視聴合紀(いんしゅうしちょうがっき)」を出しておきます。

序文に、「寛文7年に隠岐島を実地踏査した折に、土地の老人や古社寺から聞き書きした」とあるように、地勢の概要、人口、名勝・旧跡・神社仏閣の現状・故事・儀礼などを紀行文風に綴っている。wikipedia


神名帳は「賀茂那備神社」から始まります。

要は阿波とよく似ているということが言いたいのです。
でも「隠岐」じゃなければ、こんなことは書かなかったんです。

古事記によれば大八島は次の順番で産まれました。
一に 淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
二番目に 伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
三番目が 隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
四番目が筑紫島(つくしのしま):九州
五番目が伊伎島(いきのしま):壱岐島
六番目 津島(つしま):対馬
七番目 佐度島(さどのしま):佐渡島
最後に大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州

三番目が「隠岐」。
一番目と二番目から考えると、えらく離れております。
故に「隠伎之三子島」は「隠岐」ではないと言う説が出て来たりしております。
が、ここで浮かんで来てしまったのが
「国産みは長国の遠征の歴史ではないのか?」
阿波の那賀郡である長国(ながのくに)から隠岐まで版図を広げた歴史が
古事記ではないのか?
地図に書けばこうなります。
笑いますか?
古代国産みと言っている時代にこんな大航海ができるはずないですか?
明治以前にも阿波の伊島から韓国沿岸まで平気で漁に行っていたことはご存知ですか?

もう一つ資料を出しましょう。
隠岐の創成伝説を伝える口述聞き取り書「伊未自由来記」(いみじゆらいき)
いわゆる「古史古伝(こしこでん)」と呼ばれる、あまりにも記紀等と異なる内容である為、一般的に偽書だとされるジャンルの文書です。

伊未自由来記
一、木の葉比等。隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等であった。後の
世に木の葉爺・木の葉婆・箕爺・箕婆などといった人も、この木の葉比等の族で
あった。この人は下に獣皮の着物を着て、上に木の葉を塩水に漬けたものを乾か
して着て、木や川柳の皮で綴ったものを着ていたから出来た名前である。髪を切
らないし、髪も延びたままで、目だけくるくるして恐ろしい姿でったが人柄は良
かった。

中略

これら木の葉比等は、西方千里加羅斯呂 から来たというが、また韓之除羅国か
ら来たともいう。

二、海人(阿麻と云う)。顔から全身入れ墨した物凄い風体で、この人間が、木
の葉比等に次いで来た時、木の葉比等は大いに驚き恐れて、部落人が集合して彼
らに立ち向かったが、海人も甚だ温和で、漁が上手であったので、遂に雑居する
ようになったが、年月と共に出雲から相次いで来住し、後には木の葉比等とは海
人がつけた名称だという。海人の於佐神は於母島の東後、奈岐の浦にいた。この
頃隠岐は小之凝呂島と称えた。それは小さな島の集まりであったからである。こ
の大島を於母の島、南の小島三島を三つ子の島、東の島を奈賀の島、南の島を知
夫里島、西の島、船越の南を麗又の名宇留、北を比奈又の名を火地と称えた。海
人が来航して間もない頃になって出雲の大山祇の神様の一族が来航したが、数は
少なかった。その後海人の於佐の神が海賊に殺された。

三、山祇。海神の於佐之神が死して、出雲の鞍山祇之大神の御子沖津久斯山祇神
が小之凝呂島の神として来航、於母の島の東の大津の宮居して長い年月平穏で
あったが、出雲の国が於漏知に奪われてから、此島へも於漏知が来航して財主を
奪い、乱暴するので、三つ子の島の民は於母の島へ逃げ、於母の島の東大津も又
於漏知に襲われるようになったので、宇都須山祇山祇神の代に至り、神は於母島
の西の大津松野という地、後の主栖津、北潟に移して、海防に努めたが、後三つ
子の島は全く於漏知に奪われ、民は於母の島に避難し、神は於母の島民を結集
し、老若男女すべてに武事を教えて対抗、於母の島と三つ子の島は長い間闘争し
たが、三つ子の島の力は年月と共に強力になった。於漏知は踏鞴を踏んで金を作
り、鎧・兜・盾・剣を作るので、それを用いたので、人数は少なくても戦いは強
かった。然して於母の島も於漏知の度重なる来襲に耐え難くなり、流宮の加須屋
の大神祇大神の援助を受けるため使いをやった。小之凝呂島に米を作った。始ま
りはこの山祇神の代であったので、後の世まで島の各地の護神として山祇神が祀
られた。又流宮の大海祇神もこの島の海人共によって各地に祀られた。沖津久須
山祇其女神比奈真乳姫神其御子比奈真岐神は共に三つ子の島比奈の地に祀る。

四、大人様。流宮加須屋大海祇大神は宇都須山祇神の願により、軍兵を小之凝呂
島へ遣す準備を整、御子奈賀の大人様に多数の兵戦に多くの軍兵を乗せ武器・衣
料・農工具・種子類まで持たせて流宮を出発せしめ、大人様は於母の島の松野に
着船、全島征服の準備をされた

中略

大人様は、とりあえず、於母島の於漏知を討
伐したが、於漏知は相次いで渡来するので、油断ができず、その上於漏知は強力
で、遂にその子孫五代にわたり空しく松野に相継ぎ、年月が流れていった。六代
目の出雲大山祇神の姫をめとり、その援助を得て、於母の島全体を征服し、今度
は三子の島の征服の計を立てたが、三子の島では尚於漏知の数も多く容易でない
ので、先ず本拠を松野から於母の島の東の大津に移して宮居を作りこの宮地を公
処(くむだ)と称えた。これが後の宮田である。公処のある地を大人様の祖先の
発祥地名を取って奄可と称した。又大人様の土地の長職の意味から地公の命・又
の名奈岐の命と称え、この津一帯を奈岐の浦と称え、命は又奈岐の浦命とも称し
た。この命は津戸を三子の島征服の拠点として密かに渡船の機を待ち、奈賀の島
の豊田に上陸した。この地方は於母の島から最も早く着く里であったので、地方
名を早着里、又は佐作と呼んだ。而して三子島全島を服し、比奈の船越し美処・
又の名美田に三子の島の公として、主栖の山祇の神を駐し、奈賀の島の南の瀬戸
を左道と呼び左道守の神を屯せしむ。この神を左路彦命という。又奈賀島の北の
瀬戸を右道と呼び、その守神として海人比等邦公を充てたのであるが、この子孫
は天平の頃まで栄えたという。後奈岐の浦命の子孫は全島海部大神として栄え
た。

五、美豆別之主之命。又の名小之凝呂別命・水別酢命・瑞別主命、これの命天津
神の御子にて数多の久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて来島、小之凝呂島
を奈岐命より譲りうけ、その娘をめとりて宮居を奈岐の浦中の鼻に立て、城を築
き、目の城と称し、浦に注ぐ大川に添える地を開きて農耕をすすむ。

中略

周吉は加茂・新野・奄賀
三郷なり。役道は布施・飯尾・元屋・中村・湊・西村の大浦・今は牟羅という。
主栖は昔、主の住みけるによる。役道の南端を津麻という。端の意なり。これ役
道三郷なり。比等那公を以て治せしむ。三子の島にありては、主栖の沖津久期山
祇神を小期凝呂山祇首として比奈・麗・知夫里を兼治せしむ。那賀の地は奈岐浦
命を小之凝呂島海部首として兼治せしむ。この後、阿曇首という。かくて全島平
穏に帰し、於漏知も温和となり、高志・丹波・竹野・出雲との交通もひらけ、重
栖はこれらの地と韓との交通上、往航最後の待機港、復航最初の給食給水の穏息
港となったので、後に穏息または穏座と記して於母須と訓した事もあった。主栖
の地は三子の島から於漏知に追われて来住した山祇人が栄えたので、その遺跡が
特に多くあるが、海人のもある。斯くして小之凝呂別命に依って治められたこの
島も、その後出雲に大きな戦いが起こって因縁の深かった大山祇大神の勢力が落
ちてきたために、新たに出雲から奈賀の命が来航、この島の治神となり、小之凝
呂別命は免じられて、全島の久米の首として久米部の主力を率いて主栖に移住さ
れる事となった。その本拠は後の国府路の垣の内という地であった。別之主命の
祖神は別の祖の神として久米部の祖神としてこの地に祇られた。

六、奈賀命(后中言命という)。阿遅鍬高彦根命の御子にて丹波の須津姫をめと
り、来島。新野川辺に宮居を建てて住みたまうという。後この地を蔵見という。
この神大いに農耕をすすめ各地に開墾・溜池を作り道路を新設し、漁船の建造を
すすめたまえるによりて島民の生活は大いに向上してきた。又妻神須都姫命は丹
波の長自羽麻緒姫と共に織女を迎えて各邑に織布を教え、丹波の須津より薬師を
招きて薬草の栽培をすすめ、医師を迎えて病者の治療に努めた。その後主栖に珠
城宮天皇の皇子誉津部、又の名保地部という御名代部を定め給う。この後の名代
田、又の名苗代田植之内にて、その田は後の保地なり。更に日代宮天皇の御代に
いたり、新野と主栖に田部屯倉を定められ、そこを田部垣の内という。奈賀命は
田部首を兼ねたまう。この時美豆別主命は別の酢の神を奉じて久米部を率いて久
味に移駐し返防の事にあたり、開墾・農耕をはげました。息長足姫皇後、三韓を
討ちたまうみぎり、皇后は多遅摩出石にいたり、美豆別主命又の名伴の首に兵船
の事を命じたまう。命は小之凝呂の久米部を数多く率いて皇后の軍に従いたれ
ば、韓国より得たる数多くの財宝をば皇后より賜る。この時の剣は後美豆別酢神
社に残った。竹内宿弥は都万の地に祖神紀之健名草三神を祀りて武運長久を祈り
神地神戸に定む。更に神功皇后の兵船が役道の主栖に来れる時久米首の祖伊未自
姫は十挨命の妻となり十男子あり、後に姫死して男子は大和美和の父命の許に送
られしという。美豆別主命の後は大伴部首という。その後若桜宮の朝に至りて久
味の地に伊勢部を定められ、この命は美豆別主命の神璽を奉じ、伴部の民をつれ
て役郷に移住し、各地の久米部を持ち、奈賀命についで力があり。役郷は久米部
の郷の意なり。伊勢国造の御子健伊曾戸命は、その祖天日別命又の名大伊勢命の
神璽を奉じ、伊勢部の民を率いて久味に来住した。宇津志奈賀命は後国造の来島
により於母の島の田部首となりて一族を具して、その祖奈賀命の神璽を奉じ主栖
に移住し、役道を兼治したが、後に三子の島の田部をも領した。徳が高く、その
子孫阿曇首は後出雲大阿曇造に属し長白羽姫の子孫、服部首家と共に栄えた。

七、国造。誉田天皇御間都比古伊呂止命五世の孫十挨族命を隠岐国造に定め給え
に及び大津部伊勢部海部山部服部の五首は国造に協力し功あり。この頃異国人
の来襲盛んなり。国造は沿岸の防備を益々堅固にし田部名代部を督して開墾を励
め道路を開き、島民に衣を与え、医師・薬師を各邑に見舞わしめ、兵船を数多く
作り、民心を和し、賞罰を明かにし、各部の氏神に領地を配し、敬神の志を厚ら
かしめ、孕婦の労力を禁じ、幼少老人病人に食衣を給し、密察使を置いて民情を
糺し、漂着者に(以下略)。



鯨面文身の海人(阿麻)が先住の「木の葉比等」に続いて渡来してます。
南の小島三島を三つ子の島と言う事より「隠伎之三子島(おきのみつごのしま)」
と言ったのでは?
この頃隠岐は小之凝呂島(おのころじま)と称えた、ともあります。

奈賀命(なかのみこと)は阿遅鍬高彦根命の御子にて丹波の須津姫をめとり、来島しております。

誉田天皇御間都比古伊呂止命五世の孫十挨族命を隠岐国造に定め給える、とあります。
美豆別之主之命が久米部を率いてやって来ております。

ついでに(ごめーん)たろさんがコメントで書いてた
後醍醐天皇の遺蹟が阿波における土御門上皇の遺蹟と取扱いの上に相似ている。
件については

 後醍醐天皇行在所址は島後にある国分寺址が国指定となって居り古来人口に膾炙し後醍醐天皇の伝説のある島前の黒木御所が昭和30年に漸く県指定の史蹟となっている点は阿波における土御門上皇の遺蹟中板野郡池之診の丸山神社が明治の初頃火葬塚に決定を見,守護小笠原彌太郎長経が造営の申した御所村の行在所址が昭和2年漸く県史蹟となった事とよく似ている。
 隠岐国分寺址は天皇に関する伝説口碑は全くないが黒木御所址には三位局館址隠岐守護佐々木判官館址見付島等の遺蹟があり伯耆国名和長年の忠勤により夜に乗じて変装衷道より土豪近藤氏の援助を得て御潜幸海上無事名和港に御脱出の有様は今尚土地の祭典行事として残っている。




これも「阿波学会研究紀要」にありました。

あー、すっげえ舌足らず!
言いたい事の百分の一も書けねえ!
「古事記の隠岐の国産みは阿波の長国、那賀から隠岐への進出の歴史だ」って言いたいのよ。

そーら、そこらの阿波史研究してる人、ことごとく敵に回しそうな予感。

とりあえず終わりだけど、追記はあるかも。

2012年3月18日日曜日

隠岐と阿波(1)

久々にマジになっちゃいますよ。
解説は後回しにしてまずは資料を羅列しますが。

隠岐国惣社「玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)」
島根県隠岐郡隠岐の島町下西701
場所はここ

より大きな地図で 玉若酢命神社 を表示

隠岐国の惣社は玉若酢命神社である。代々の宮司は、古代の隠岐国造億岐家の末裔が勤めてきた。祭神は玉若酢命。海から上陸してきた航海の神である。


玉若酢命神社旧県社
周吉郡西郷町下西
祭神 玉若酢命 例祭 六月五日
本殿 隠岐造 七坪 境内 一六九八坪 末社 四社
氏子 千五百戸 崇敬者 一万人
由緒沿革 古くは若酢大明神或は総社明神と 云い、貞観一三年従五位下に叙せされた。寛 文以後は周吉、穏地の両郡より造営し、修繕 費は周吉郡の内二五ヶ村にて負担したと云う。 明治五年県社に列す。
-『神社名鑑』-

『神社取調帳』に「尊號 玉若酢命、神體秘箱。相殿ニ大己貴命ヲ鎭祭ス。神體一尺 三寸位ノ坐像、古作也。又左ニ八寸位ノ男神一坐、女神一 坐、是ヲ須佐之男命・稻田比賣命也ト申傳フ。又右ニ九寸 位ノ男神一坐、女神一坐、是ヲ須世理毘賣命・事代主命也 ト申傳フ」と見えてゐる。
-『式内社調査報告』-

玉若酢命を主祭神とし、大己貴命・須佐之男命・稲田姫命・事代主命・須世理姫命を配祀する。
社伝によると、景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。
『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』によれば、玉若酢命は記紀には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではないのだと言う。しかし、同書では、島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている。

wikipediaより

さて、この「当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家」ですが

億岐氏(おきし)は、大国主命の後裔で、代々隠岐国造、隠岐国国司、玉若酢命神社宮司を務めた社家の家系。意岐、億岐、億伎、隠岐、とも書かれる。
wikipediaより

さらには
大国主命の後裔と伝えられ、十拶彦の代あたりから隠岐国造となり、国造制度廃止後は国司となって代々隠岐国を治めていた。国司となった頃から玉若酢命神社の宮司も務めるようになったと言われており、現在でも子孫が代々宮司を務めている。億岐家所有の隠岐国駅鈴、隠伎倉印、玉若酢命神社社家億岐家住宅は、国の重要文化財に指定されている。
wikipediaより

この「隠岐国造」ですが


隠岐の国造と阿波南方長の国造がその祖を同じくしている。
隠岐開発の祖神を祀る玉若酢神社宮司の憶岐家は隠岐国造の子孫で国造以来連綿として社家を伝え出雲大社の千家紀伊国造の紀伊家(東大平泉博士調査)と共に全国三家の一として稀に見る家系を有している。
応神朝の頃観松彦伊呂止命五世孫十挨命が隠岐国造となり九世孫韓背足尼命が長(現在阿波国南方那賀川流域を中心とする所)の国造となり祖先の観松彦神社を奉祀したといわれている。
註.旧事記造本紀に
「軽島豊明朝御代観松彦伊呂止命五世孫十侯定賜億岐図造」
「長国造志賀高穴穂朝御世以観松彦伊呂止命九世孫諱背足尼定賜国造」
◎長は允恭記に阿波国長邑とあり,和名抄に阿波国那賀郡の名見え云々

又隠岐家には大化の新制になる駅鈴を伝え隠岐倉印と共に国宝に指定されている。

光格天皇は隠岐家より駅鈴を借上げ即位の式列に加えられ返還の砌の下賜の辛檐も伝えている。阿波における三木家が天日鷲命の裔として歴代の即位式に献上する荒妙の事故と対照的でもある。
(現宮司隠岐豊伸氏は本県立川島高校前身麻植中出身)
阿波学会研究紀要より



さてここで隠岐の神名帳掲載の神社を見ておきますと
ちょっと長いですけどね。


知夫郡
従一位 天佐自彦大明神 式内社 天佐志比古命神社
天佐志比古命神社  島根県隠岐郡知夫村宇都1018
従三位 上海原明神 式内社 海神社2座
海神社       島根県隠岐郡西ノ島町別府409
従三位 眞氣大明神 式内社 眞氣命神社
眞氣命神社     島根県隠岐郡西ノ島町宇賀402
従三位 柴木彦明神
従四位上 奈取彦明神
従四位上 云海彦神
従四位上 都玉貴神
正四位上 和太酒明神
従一位 比奈麻治姫大明神 式内社 比奈麻治比賣命神社
比奈麻治比賣命神社       島根県隠岐郡西ノ島町宇賀888
従三位上 大山明神 式内社 大山神社
大山神社            島根県隠岐郡西ノ島町美田174
大山神社
島根県隠岐郡知夫村仁夫2391
従三位上 由良姫大明神 式内社 由良比女神社 名神大
由良比女神社          島根県隠岐郡西ノ島町浦郷922
従四位上 呼乘彦明神
従四位上 熊岐姫明神
従四位上 豊加姫明神
正四位上 奈酒彦明神
都合十五社

海部郡
従一位 奈伎良姫大明神 式内社 奈伎良比賣命神社
奈伎良比売神社         島根県隠岐郡海士町豊田489
従一位 宇受賀大明神 式内社 宇受加命神社 名神大
宇受賀命神社          島根県隠岐郡海士町宇受賀747
正二位 直太明神
正三位上 海原神
正三位上 奈酒彦神
奈須神社
島根県隠岐郡海士町御波254
正三位上 建酒佐確明神 国史現在社 三代実録:元慶8・3・27
健須佐雄神社          島根県隠岐郡海士町海士5970
正四位上 大眸神
東神社に合祀の天神宮      島根県隠岐郡海士町海士2499
正四位上 穏々美明神
穂々美神社           島根県隠岐郡海士町知々井911
正四位上 國至神
従四位上 大山彦神
諏訪神社に合祀の大山明神    島根県隠岐郡海士町海士1510
従四位上 泊姫明神
従四位上 朝露明神
諏訪神社に合祀の朝露明神    島根県隠岐郡海士町海士1510
従四位上 多氣明神
従四位上 御佐々明神
北乃惣神社に合祀の白山権現   島根県隠岐郡海士町海士4427
従四位上 祢明神
従四位上 日忌明神
従四位上 海嶋神
従四位上 柳井姫大明神
従四位上 大力神
従四位上 倭父明神
都合二十社

周吉郡
正一位 玉若酢大明神 式内社 玉若酢命神社
玉若酢命神社    島根県隠岐郡隠岐の島町下西宮前701
従一位 和氣能酒大明神 式内社 和氣能湏命神社
和気能酢神社          島根県隠岐郡隠岐の島町下西八王子1607
従一位 日野賣大明神 国史現在社 三代実録:貞観13・8・29
従一位 奈伎良姫大明神
諾浦神社            島根県隠岐郡隠岐の島町中町目貫2-59
従一位 荒雄大明神
従四位上 都久保根明神
従四位上 兄玉姫明神
従四位上 市倉明神
従四位上 楯鉾明神
従四位上 上飯田明神
飯田神社            島根県隠岐郡隠岐の島町飯田15
従四位上 豊雷明神
飯田神社            島根県隠岐郡隠岐の島町飯田15
従四位上 大國玉明神
東郷神社に合祀の宮田神社    島根県隠岐郡海士町福井281
従四位上 阿良根明神
従四位上 志都夜明神
従四位上 伊勢明神
従四位上 出雲結明神
御崎神社            島根県隠岐郡隠岐の島町西町2-43
従四位上 酒久美明神
従四位上 蟲神明神
切明神社に合祀         島根県隠岐郡隠岐の島町西田566
従四位上 豊酒屋姫明神
従四位上 志都屋明神
従四位上 雀雄明神
従四位上 芽玉明神
従四位上 賀茂奈比明神 式内社 賀茂那備神社
賀茂那備神社          島根県隠岐郡隠岐の島町加茂342
従四位上 高屋都姫明神
従四位上 阿太屋姫明神
姫宮神社に合祀         島根県隠岐郡隠岐の島町箕浦1632
従四位上 母呂祢雄明神
従四位上 祢都加彦明神
従四位上 海岐都尓明神
従四位上 伊志姫明神
東郷神社に合祀の浦宮神社    島根県隠岐郡海士町福井281
従四位上 奈岐良姫明神
従四位上 佐知祢雄明神
従四位上 東山明神
従四位上 阿佐避姫明神
従四位上 妻屋姫明神
厳島神社に合祀         島根県隠岐郡隠岐の島町岸浜1550
従四位上 布施山明神
従四位上 酒秡明神
従四位上 久志加世明神
従四位上 水祖明神 式内社 水祖神社
水祖神社            島根県隠岐郡隠岐の島町港町天神原68
水祖神社
島根県隠岐郡隠岐の島町八田2
従四位上 大雄明神
従四位上 住吉明神
従四位上 形太屋明神
従四位上 八田姫明神
西村神社に合祀         島根県隠岐郡隠岐の島町西村296-1
従四位上 王子明神
八王子神社           島根県隠岐郡隠岐の島町元屋718
従四位上 辰加明神
従四位上 里趣明神
西村神社に合祀         島根県隠岐郡隠岐の島町西村296-1
従四位上 西里趣明神
一之森神社に合祀        島根県隠岐郡隠岐の島町中村198
従四位上 宇敷明神
従四位上 打羅明神
湊神社に合祀          島根県隠岐郡隠岐の島町湊201
都合四十八社

穏地郡
正一位 天健金草大明神 式内社 天健金草神社
天健金草神社          島根県隠岐郡隠岐の島町都万砂子谷4245-3
正三位下 國□□□
正三位 莚若酢明神 式内社 水若酢命神社 名神大
水若酢神社           島根県隠岐郡隠岐の島町郡723
正三位 水祖明神
正五位上 木梨明神
正五位上 多太□□
正五位上 王子□□
正五位□ □□□□
正五位 藤姫明神
正四位上 水若酢明神 式内社 水若酢命神社 名神大
水若酢神社    島根県隠岐郡隠岐の島町郡723
正四位上 直之明神
正四位上 阿久姫明神
正四位上 水□□□
正五位上 峯津神
壇鏡神社に合祀         島根県隠岐郡隠岐の島町那久1617
正五位上 田方屋神
正五位上 炊屋姫神
正五位上 高田神
正五位上 菊之神
正五位上 加□□
正五位上 黒田彦明神
従五位上 伊未自姫明神
従五位上 伯彦明神
従五位上 山之神
都合二十三社

惣合百六社




水若酢神社(隠岐国一之宮)

水若酢命(みずわかすのみこと)を主祭神とし、中言神(なかことのかみ)、鈴御前(すずごぜん)を配祀するとしているが、その出自などは不明である。

火災・水害などにより旧記を失なっており創建の由緒は未詳であるが、社伝によると仁徳天皇の時代の創建と伝えられる。隠岐島後(どうご)北部、重栖(おもす)川上流に位置し、旧穏地郡の郡家所在地と考えられている。周囲には小規模な古墳もあり、古くから隠岐北部の中心であった。国史では、承和9年(842年)に隠岐国の他の3社とともに官社に預かったと『続日本後紀』に見えるのが初出である。『延喜式神名帳』には「穏地郡 水若酢命神社 名神大」と記載され、『隠岐国神名帳』には「正三位」とある。
大宮司を称する社家の忌部氏は、天文年間には隠岐国造の隠岐宗清の支配に対して地元の勢力を味方につけて反抗運動が起こした。幕末には社内に私塾「膺懲館」を設け尊皇攘夷を広め、これが隠岐騒動につながることになる。
wikipediaより


隠岐一之宮は、島後の北側五箇村に鎮座する水若酢神社である。延喜式で明神大社に列し、祭神は水若酢命。海から上がってこられた航海安全の神という。
宮司は、阿波から石見を経て隠岐に勢力を伸ばした忌部氏で、幕末の隠岐騒動では首謀者のリーダー格でもあった。
との説明もべつに見つけました。

さらには
「隠岐国府跡」


隠岐国府は周吉郡(すきのこほり)に置かれたと古文書は伝える。現在の西郷町甲野原に比定されている。実際、惣社である玉若酢命神社の南にある小高い山を城山と呼び、かって甲ノ尾城という城があったと伝えられている。

そして隠岐では「国府」を「こう」と呼ぶのです。
甲野原は国府(こう)の原なのです。

続く

2012年3月17日土曜日

石井町国実 武市神社

ホンットに疲れてるんだよぉ。
じゃあブログなんて書いてないでとっとと寝りゃあいいんでしょうが
なんか書かないといけないような気がして、これは強迫神経症なんで
しょうかね。それとも誰かの呪いがかかってるんでしょうか(笑)
(あぁ、きっとそうだ、そうに違いない)
ホントなら(こればっか)もう一箇所廻ってから書くべきなんですが
いつまで経っても行けそうにないんで、いいかげん書いちゃいます。
石井町国実(くにざね)の「武市神社(武市大明神)」
場所はここ。

より大きな地図で 武市大明神 を表示

徳島県神社誌には載ってないので「石が語る阿波」より引用いたしますと

石井町国実の水田のまん中に、ぽつんと十坪くらいの敷地に「武市大明神」という
石造の小さい社殿がある。
武市神社ともよばれ、毎年十月二十二日の秋祭りには、付近の神社以上の盛大な祭典が
催されるが、その日は、社殿の主の武市常三の命日供養といわれている。
常三は美濃川辺城主六万石右京亮(うきょうのすけ)通栄の二男として生まれた。
十五歳にして濃州表の合戦にでて以来、数々の合戦に参加し、蜂須賀家政の供をして
阿波に入り家老格として、徳島の築城に林道感とともにさい配をふるった。
居宅をたてるため家来の桑村八蔵に城裏の助任川を泳がせ、小島を下検分して屋敷を
建て、武家屋敷としたが、そこを常三の名をとって「常三島」と呼ぶようになった。


中略


この武市家は孝霊天皇の末葉といわれ(現在も家系図が現存している)その子孫が
国実の屋敷跡に社殿を建て、武市一族の氏神としてまつった。


まあ「常三島」までは分ります。
ただ、家来に助任川を泳がせるなよ、なんては思いますがね。
「この武市家は孝霊天皇の末葉といわれ(現在も家系図が現存している)」
はどうでしょうか。
家系図なんて、今も昔も怪しげなものの筆頭ですからね。
この、「徳島城築城した人」って書き方、なんだかなぁって感じですね(笑)

なんですが、ここにありました由緒を見てみますと

武市大明神由緒
抑々武市本家ノ祖ヲ経ルニ伊豫ノ國越智族ノ流レニ而
河野四郎通信十一代ノ孫彦六ノ小千通生ノ嫡男ナリ
初而関東ノ足利持氏ノ横暴弾圧為出兵シテ濃洲ニ
留ル武市右京亮小補ノ通高ハ河辺城主六萬石ニ有シ
嫡男右京亮通祐其ノ嫡男右京亮通栄ノ三男に武市常三
有リ其ノ母方ハ神洲諏訪大膳大夫頼方ノ娘常三ハ天正
十二年丹波ニ而一萬石給ル常三病身ニ而禄を返上ス
御腰物信國ヲ賜フ天正十三年五月蜂須賀家政公ノ
重臣トシテ阿波ノ國ニ入国三千五百石給ル渭城(徳
島城)築城後天正十九年十月禄ノ二千五百石ヲ返上
シ千石拝領嫡男ノ十左衛門忠方ト共ニ常三ハ阿波
領内名方郡内浦庄國実ニ隠居今ノ常三島ハ
常三拝領ノ地ナリ室ハ栗山備前守政久ノ娘ナリ
文禄二年巳年十月二十二日 冥界ス

以下略

ふむ、伊豫國河野家の末裔ですな。
河野家は饒速日(にぎはやひ)命の後裔であると言われる越智族の流れです。
それならば孝霊天皇の末葉であってもいいかな、なんて思ってしまいますね。
というのは、越智氏の祖とされる彦狭島命(ひこさしまのみこと)は
何を隠そう(誰がじゃ)孝霊天皇の皇子なんですね。
河野氏については阿波の方じゃあまり有名じゃないかもしれませんが愛媛の
方では超名家でありまして、伊藤博文も河野氏出身であるそうです。

で、さらには武市姓でありますが「武市」は「武知」と同根でありますことから
同じ石井町内の武知神社との関係が伺える....か.....な.......
とか書こうかなと思ってたんですが時間がない。
尻切れトンボの記事で申し訳ない。

ホントに年度末にかかわらず、なんでか忙しいんだよぉぉぉぉぉぉ。
ボクは仕事が嫌いなんだよぉぉぉぉぉ。(←笑ってやってよ)


というわけで「常三島」は「武市常三」から来てますよってことです。(フン)