だからね「水主神社(東かがわ市)(2)」の続きなの(桃井かおり風に)。
書いてしまわないと収まらないので、行っちゃいますね。
さて、本社裏に回りまして、ここにも色々あるんですが、今回一番の目的でありました。
御父宮「孝霊神社」
御祭神 大日本根古彦大瓊命まあ、娘さんのところにいっしょに祀られていても、何の不思議も無いんですがね。
まあ、大日本根古彦大瓊命を祀ることではは島根の「楽楽福神社(ささふくじんじゃ)」
が有名なようでもありますので、またちっと考えてみたいとは思いますが。
ところで(笑)ここ「水主神社」には「大水主大明神和讃」が所蔵されております。
これは応永十七年(1410年)増吽(ぞううん)僧正が作ったと伝えられ、明応五年四月
五日、僧宥旭(ゆうきょく)が書写し、後、さらに高松無量寿院にあった一巻を同寺住職の
増進(ぞうしん)が延宝五年(1677)に書写して水主神社へ納めたものである。
とされております。
この「大水主大明神和讃」一巻、出してみます。
ぜひぜひ読んで下さいませ。
「大水主大明神和讃」
帰命頂礼 大明神 三所の和光 影清く
三聖一の 山に栖み 三身則ち 一つなり
もとこれ大悲の 方便は 難化の衆生を 渡むとて
有縁の処に 跡を垂れ 応化を施し 給うなり
信を致す 輩は 求願必ず 成就す
歩みを運ぶ 人は皆 現当悉地を 円満す
愍を懸くる その日より 八百四神 相添いて
昼夜恒時に 身を守る 擁護を加え 給うなり
誓いて垢離を 掻く人は 煩悩罪障 漱がれぬ
昼夜に 愍を懸つれば 仏性真如も 顕れぬ
思えば不思議や 明神は 極楽浄土の 能化の主
安楽世界の 教主にて 万徳円満 したまえり
往昔大悲の 御誓い 深くおわする 故により
葦原国の 浅ましき 吾らを導き 給わむと
恭くも 人王の 主の君の 第七代
その名を申せば 孝霊の 第二の姫君 たりしかど
実に皇居の 栖には 塵に交る 態なくて
大和の黒田の 廬戸より 出させ給ひし 御年は
七才なりしに 稚けなく 独り御舟に のりまつり
虚の空ゆく 浪の上 悶れ給うぞ 痛ましき
御時八才 なりしとき 浦に寄りしや 船越の
下りて休らう 安堵の浦 御腰を掛けて 居座の宮
寄りて来りし その里の 水さえ惜む 物憂さに
璽の石の 水を堰き 与田にぞ水を 掛け給ふ
穴戸の坂の 水の門 水徳自在の 尊にて
大山戸の 水石は 神通現せし 創なり
かくても留る 所なく 山を凌ぎ 浦に出で
海を見つけし 津見の宮 袂を落し 袖無の
頃は五月の 炎天に 池に裾を 冷ししに
測らず御足を 食う魚の 咎め給える 故により
堤は切れて 流岡 永く絶えにし 鯰かな
郡に盟を 立石の 至らぬ処ぞ ましまさぬ
たとえば伊勢の 神垣は 日本姫に 託まして
五十鈴の川の 滝祭 尋ね廻りし 如くなり
穴穂の処と 宣えば そのまま宮居を ト給ふ
真の宮代 定まりて 水主に鎮座 ましましき
皇女住みます 故により 宣旨によりて 郡をば
偏に神に 奉り おほちを大内の 郡とす
大御前は 弥陀如来 四十八願 あやまらず
四重五逆を 嫌わずば 三信十念 往生す
後の御前は 父大王 孝霊天皇 崇めます
不動尊の 降伏に 悪魔怨霊 退きぬ
十二神将 召使い 各七千 夜になれば
八万四千の 眷族の 千を一人に 摂め取り
八百四神の 眷族は 高柵三方に 列ね置き
十二時中に 召使い 善悪賞罰 新なり
左り後に 崇めても 猶も御親の 孝徳を
高き山にも 准えて 崇め給う その為に
水精輪の 峰の上 神籬高く 構えては
千盤ふりすむ 御社に 王太神と 崇めます
八百四神の 杖鑰も 緋神子 八の神子 三郎殿
内客人に 至るまで 霊験並びに ましまさず
森羅万象 神なれば 嶺に峙つ 岩基をも
松栢竹に 至るまで 皆神変を 現じてき
北の御前は 地蔵尊 万行憧旗の 大菩薩
御母なれば 胎蔵の 方位を変えず 移し置き
仏前仏後の 能化の主 聖近士女の 悲願にて
五濁悪世の 今迄も 地蔵の悲願に しくはなし
此宮不測の 構にて 大王閑座 並べまし
大明神の 父母を 左に崇敬 し給えり
南の御前は 早玉や 浄瑠璃浄土の 能化の主
十ニの誓願 妙にして 応迹此土に 勝れたり
当社の三所を 御熊野と 同体なりとは 伊弉冉の
五行生れます その中に 火の神猛く 不祥くて
焔に当たりて 魂去りぬ 仮に火の神 嫌わしく
水を床しく おぼししも 末世の衆生の 例なり
有漏の浮世を 物とせず 紀伊国 無漏の 郡なる
有馬の村や 音無の 備えの里に 葬めます
和光は 神武の頃とかや 同塵 崇神の御宇にして
日本第一 大霊験 結の御前を 始とす
神力無窮の 盟にて 水徳立てんと おぼしめし
孝霊の宮の 姫の宮 名を水主と顕して
応和の祈雨にも 掲げたり 雨雲はやく 立ちなびき
神に斉祈を 重ねんと 大水主と 崇めらる
三つの御山の 中にして 三所の霊号 比なや
那智新宮を 左右にたて 本宮証誠を 玄武とし
左青竜の 河清く 那智の滝より 落ち来らむ
新宮虎丸 右にあり 四神の霊地 相応ず
結べば水主と 一体と 一つ紀哩の 因果にて
熊野は千手の 因の徳 枯たる木にも 花咲きぬ
ここには弥陀の 西の方 縛魯菜の水徳 かたどりて
果徳を高く 顕わして 神力霊験 双なし
そもそも当社は 当国の 一品一の宮 なるべきを
御妹に 禅りまし 心安くも 大水主
父大王も 人王の 第七代の 嘉例にて
国中諸神の 第七に 備り給うぞ 有難き
こい願わくは 明神の 玉の光の 日に添えて
自ら御威光 耀きて 福智荘厳 し給えや
南無三所 大明神 讃歎礼拝 功により
本誓悲願 あやまらず 二世の願いを 満て給へ
願共諸衆生 値遇大明神
願共諸衆生 廻向大菩提
ちょっと長かったですね。
で、お気づきになりましたでしょうか。
恭くも 人王の 主の君の 第七代
その名を申せば 孝霊の 第二の姫君 たりしかど
「第二の姫君」ですと。
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)には姉がいらっしゃったのですね。
そんなこと記紀には一切書かれておりません。
さらには、
そもそも当社は 当国の 一品一の宮 なるべきを
御妹に 禅りまし
讃岐の一の宮とは高松市の田村神社ですね。それを妹に譲ったとあります。
つまり倭迹迹日百襲媛命は三姉妹だったわけです。
そんなことがあるのでしょうか?
一つだけ「それ」をかいてあるモノがありました。
なんと偽書の誉れ高い(笑)「ほつまつたゑ」
『夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子 生む 名は皆 ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫 母もヤマトの 大宮姫』
とあります。
「ほつまつたゑ」にでてくる系図では。
ヤマトタリヒコクニ┐
(孝安天皇)├────オオヤマトフトニ(孝霊天皇)
オシ姫──────┘ ┃
┃
シギ県主オオメ───────ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトクニクル
┃ (孝元天皇)
カスガ県主チチハヤ─────ヤマカ姫[スケ]
┃
トイチ県主マソヲ──────マシタ姫[ココタエ]
┃
?? ───┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫
│ (ヤマト大宮女) │
│ ┃ 三つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ
│ ┃ │
│ ┃ └(3)ヤマトワカヤ姫
│ ┃
└───ハヘ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ
(若大宮女) │
三つ子├(5)ヒコサシマ
│
└(6)弟ワカタケヒコ
となるようです。
にしても一般的には江戸時代に作成された偽書といわれる「ほつまつたゑ」と
1410年に作成された「大水主大明神和讃」にこんな共通点があるとは。
無論「ほつまつたゑ」の作者が「大水主大明神和讃」を知っていた可能性は
否定できませんがね。
また「一の宮」を譲った「田村神社」の由緒を見てみますと。
当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり
往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く
崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に
列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)
正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が
満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず
当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が
多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。
田村神社HPより。
また
祭神
倭迹迹日百襲姫命[やまとととひももそひめのみこと]、猿田彦大神[さるたひこのおほかみ]、天隠山命[あめのかぐやまのみこ]、五十狭芹彦命[いさせりひこのみこと]、吉備津彦命[きびつひこのみこと]、天五田根命[あめのいたねのみこと]
以上五柱の神を田村大神と申す
天隠山命は高倉下命[たかくらじのみこと]とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命[あめのむらくものみこと])と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
ともありますが、倭迹迹日百襲姫命の姉妹に関しては一切触れられておりません。
さて、どういうことでしょう。
姉妹がいたってそれを由緒に書かない理由なんて無いでしょうに。
要は創基が和銅二年(709)と新しく(笑)「知らなかった」か
由緒付けをするために、あえて御祭神を名乗ったのか。
それとも姉妹の仲が悪くて「あんたの妹なんかじゃないわよ」ってな感じで
隠してしまったのか。
その辺りは想像の域を超えませんがね。
と言う辺りで、結論が出るはずもありません。
が、吉備津彦命とか日子刺肩別命、稚武彦命がどの辺りに祀られているのか
どういう伝承があるのか、今までにも断片的に書いてきました。
そこらを考えると黒田庵戸宮(廬戸宮)(くろだのいおとのみや)が奈良にあった
ってのはどう考えても(いやいや書くまいぞ)。
でも倭迹迹日百襲媛命がなーんで七歳で奈良から水主までこなくちゃなんないの、ねえ。
もうちょっと写真とかもありますが、脈絡無いんで、ここら辺にしときますかね。
よーし、使える体力全部使ったぞ。
今年度は打ち止めかな。