2019年12月31日火曜日

岐神再び(追記)

それ見たことか、書き忘れてるじゃない。
 「三輪高宮家系」より
天事代主籤入彦命について「母三島溝杭耳命女玉櫛比売命」とあるのが読めますでしょうか。

太田 亮著「姓氏家系大辞典」より、下図最後の方
これは以前にも書いたことがあるんですが、
「即ち三島溝杭耳の本名は観松彦色止命であるが、溝杭に住居して居た為に溝杭耳と云われたと考へるのである。」

また、同様の記述を鈴木 武樹 明治大学教授も「地名・苗字の起源99の謎―あなたの祖先はどこから来たか (PHP文庫) 」中に記しております。



「また、『先代旧事記』の〈国造本紀〉には、「都佐国造は三島溝杭の九世の孫である小立ノ足尼に始まる」とあり、阿波の長ノ国造・長ノ阿比古(「阿比古」は原始カバネのひとつ。「我孫子」とも書く)も同じく三島溝杭の後裔だとあるので、三島族はこの地方にまで進出していた ものとみられる。さらに、『先代旧事紀』、<国造本紀>の別の箇所には、「長ノ国造は観松彦色止の九世の孫である韓背足尼に始まる」としるされているので、これを前記の文章と合わせ れば、三島溝概耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」だったのではな いかと思われる。なお、阿波の名方郡には御間都比古神社がある

 「なお、阿波の名方郡には御間都比古神社がある」とありますが、実のところ「観松彦色止」を祀る神社は「御間都比古神社」しかないんですよね。

で、「玉櫛媛」については

玉櫛媛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

玉櫛媛(たまくしひめ)
別名 玉依媛、三島溝樴姫など
民族 天孫族
時代 神代
非婚配偶者 事代主神(『古事記』では大物主大神)、火雷神
子供 事代主神との子:鴨王、媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命
大物主神との子:比売多多良伊須気余理比売
火雷神との子:賀茂別雷命
父:三島溝橛耳神(陶津耳)、母:伊賀古夜日売
玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫、玉依媛、玉依姫、三島溝樴姫、『古事記』では勢夜陀多良比売)は、伝承上の日本神話の女性。神武天皇(初代天皇)の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命や、賀茂別雷神社祭神の賀茂別雷命などの母として知られる。

鴨建角身命(八咫烏)の子であり、兄に鴨建玉依彦命(賀茂氏の祖)がいる。「玉依媛」・「玉依彦」のように、ヒメとヒコの二者(この場合は兄妹)がペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれる。


と、もう一つ「三輪高宮家系」
率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)に祀られる「事代主」がこの「天事代主籤入彦命」であるということは、初代は「岐神」こと「猿田彦神」である(ややこしいな)「事代主神」であり、次代の「事代主神」は「観松彦色止命」の御子であり、阿波から勧請された。
もう一度書くね。

初代事代主(積羽八重事代主)
「岐神」こと「猿田彦神」で「経津主神」とともに「鹿島・香取」に赴き東国を平定した、多分「三島溝概耳」こと「観松彦色止命」。
出身は分からないけど本貫地は「神山」。

次代事代主(天事代主籤入彦命)
母が「三島溝概耳女玉櫛媛」なので普通に考えれば「三島溝概耳」の御子。
率川阿波神社に勧請された。
玉櫛姫、玉依媛には三人の御子がいたため、もしかしたら「天日方奇日方命」(鴨王)。
兄弟、姉妹に姫踏韛五十鈴姫命(神武天皇の皇后で、綏靖天皇などの母)。
五十鈴依姫命(綏靖天皇の皇后で、安寧天皇の母)。

追記終わり。
(別稿にしたらよかったかなwww)

2019年12月29日日曜日

岐神再び(8)END

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)
岐神再び(5)
岐神再び(6)
岐神再び(7)

はい、最終回でございます。
なんとか年内間に合いました。

追記といたしまして、前に出した「側高神社」についてですが、一応史料が出てきましので、記載しておきます。



「香取志」よりの引用です。
側高神社 又作脇鷹

よろしいでしょうか?
脇にいる「鷹」、鷹は鷲の隣にいるものと思ってください。
そういうことです。
また、佐那河内の猿田彦大神社について説明が抜けておりました。


主祭神が「笑子大神」つまり「えびす大神」であるのです。
で、正座が「猿田彦大神」。
阿波においては「猿田彦大神」が「笑子(恵比寿)(夷)」つまりは事代主であることが分かっていただけるでしょうか。

なお、追記すれば三輪氏の系図では「事代主=猿田彦=大物主」となっております。(上図)
さらには「上一宮大粟神社御縁起略記」によれば、摂社「粟神社」の御祭神は「大物主神」であり、
また、本来は大粟山自体を神として信仰していますが、古くから口伝で宮司家は若宮神社を粟神社としてあわせてまつりました。
父神である大物主さまを祀ります。
大粟神社のもっとも重要な神社の一社がこの若宮(粟)神社です。
と「上一宮大粟神社公式Instagram」に記載されています。



この点については、今後の慎重な考察が必要であろうと思いますので誰か考察してください(笑)
だって宮司さん、こんなの書くんだもん(笑)

oawajinjaのブログ(https://ameblo.jp/oawajinja/)より。

で、前回の
「過去、木屋平の「岐神祠」を悉皆調査した際に「祠の本当の御祭神を語ってはいけない」とのことで、全て「おふなとさん」とした」と記載した件ですが。

全てではなく、六十祠程度だという話も後日聞こえてきましたが、どちらにしても、木屋平が「斎主神まこと伊波比主神」つまり「経津主神(ふつぬしのかみ)」の本拠地であった可能性が高くなってきたということです。
でも、「経津主神(ふつぬしのかみ)」って中臣の祖神であって、こんなトコ(いやぁ)に本当に祀られてんの?
って仰るかもしれませんが、以前に「備忘録:つるぎ町貞光「児宮神社」」で記載させていただいたように、

社記では

中臣之大祖天児宮社記
常社者式内之官社ニ面麻植之地名神大月次新賞式ト号ス麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮則
當社乎朝廷ニ厚ク尊敬シ賜ヒ而四國之大祭御時タン上シ官幣ニ預リ賜フ當社者木綿麻山児宮四固之大祭
トハ二月五穀祭六月十一月両度月次祭リ八月新嘗會也依而往古者年々官幣乎給布而社領モ相應ニ下シ置
佐礼志事ヲモンヅルニ神代之昔高天原ニ而天照大御神磐屋ニ隠毛里給フ御時御心勇之幣物之料ト而中臣之
大祖天児屋根命ニ寄成神業ニ麻格之二種平佐成シ賜ヒ而麻之波乎以青幣ト志格之波乎以弓白幣ト志瓊鏡
之二種ニ并テ根越之榊に掛テ奉志今諸社二奉掛留瓊鏡木綿乎懸而奉留其根元也皇孫瓊瓊杵尊筑紫二天降
里賜フ御時ヨリ天照大御神勅志給ヒ忌部大祖天太玉命中臣大祖天児屋根命ヲ左右之補佐神ト定賜フ後高
天原之祝乎以内分之御政事乎司賜フ神事乎兼而行奈波志牟阿波國ニ降良世賜フ初テ播種世志麻植定光木
綿麻山ト号ス常國ニ住居而神代之従吉例ニ天子御即位大賞会之節毎止志[本本]之衣由加物平奉里諸ノ御神事
之節ニ幣畠乎作シ事乎往古鎮座吉良川端ヨリ五拾八丁辰巳方木綿麻山ニ御鎮座有天掛留奪キ神恩平人登
志弖アニカンタヒ由来詳成事朝廷之御本録ニ委敷記

慶長八卯年七月吉日寫之

      東端山家賀村
            笠井龍藏所持

嘉永六丑年十一月吉日写之

とあるように、天児屋根命が天降り来たとされる社が存在し、そこに寄り添うように残っている祠。
これが「斎主神」の祠であるのです。
「経津主神」こと「斎主神」が「由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)」であれば、忌部の本拠地の中心に中臣の祭神だと「言われる」「斎主神」が祀られていても、何も不都合は生じないことはお分りいただけますでしょうか。
(ところで「伊波比主神」って、仙覚抄云う所の「天竺ニハ 阿字ヲ發語ノ詞トス、我朝ニハ 伊字を發語ノ詞トスルナリ」に依れば「阿波比主神」ってなるよなーとか思いませんか?)

そこらを踏まえ、「岐神」は海を越え「香取」「鹿島」へ赴いたと考えます。
経路については、今後の課題としたいとは思ってます。

さて、最後に「岐神再び(6)」にて


このような思わせぶりな書き方をしておりましたが、「岐神」は「鹽津老翁」つまり「塩土老翁神 」であったのか?
陸奥国一宮である、宮城県塩竈市にある志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)(二社が同一境内に鎮座)。


鹽竈神社
別宮:塩土老翁神 - 主祭神
左宮:武甕槌神
右宮:経津主神
となっており、
鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
「岐神」こと「事代主神」は後年「塩土老翁神」として陸奥国まで赴いたことが想像されます。
また、同じ「事代主」かは分りませんが、次代の鹿島神とともに、「鹿【児】島」へ赴いた可能性も否定できませんが、他の事代主の冒険譚となるやもしれず、また別のお話といたしましょう。
一旦【完】

それでは皆さま良いお年をお迎えくださいませ、ワンワン。