2014年8月24日日曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)とは誰なのか」

最初に注意しておきますが、これは仮説です(と言うときは大体逃げを打ってるんですけどね)。
前回の記事「『木国の大屋毘古神』まとめ」で
「大屋毘古神」=「五十猛神」=「天村雲命」
であることはご了承いただきましたでしょうか(了承しないと言われても話は続けますが)。また天村雲命の出自が、山川町の「天村雲神社」であることもよろしいでしょうか?
ではでは、話を続けます。
唐突ですが、今回の話は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」=「卑弥呼(ひみこ)」説を前提としています。
一般的に言われる「天照大神」=「卑弥呼」の根拠として

中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
wikipedia
また
1 女性である(男性説有)
2 宗教的権威がある
3 夫がいない
4 「古事記」記述の高木神と「魏志倭人伝」の女王の言葉を伝える男性の存在
5 「古事記」に現れる「倭」の文字と「魏志倭人伝」の「卑弥呼は倭の女王」の記載
などなど(いずれも安本美典説)の共通性が挙げられます(一部略)。

それ(「天照大神」=「卑弥呼」)が「神功皇后」であったか「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」であったかなどの論議は別にして「天照大神」は「卑弥呼」であった可能性が強いと考えられます。
無論「天照大神」は人名でなく呼称であることを追記しておきます。



さて、前回記事「『木国の大屋毘古神』まとめ」の最後の方に
「高天原を追放された素戔嗚尊と五十猛命はともに新羅曽尸茂梨に天降っている」
と書かせていただきました。




日本書紀 第八段一書(四)では、こう記載されております。

一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。

一書に曰く、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の所行(しわざ)、状(あづき)無し。 故(かれ)、諸神(もろもろのかみ)、千座置戸(ちくらおきと)を科(おお)せて、遂に逐(やら)う。 是の時に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(い)て、新羅國(しらぎのくに)に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居(いま)す。 乃ち興言(ことあげ)して曰く、「此の地は、吾(あれ)居(いま)すを欲せず」。 遂に埴土(はに)を以ちて舟を作り、乘りて東に渡り、出雲國(いずものくに)の簸(ひ)の川上に在る、鳥上之峯(とりかみのみね)に到る。 時に彼の處に人を呑む大蛇(おろち)有り。  素戔嗚尊(すさのおのみこと)、乃ち天蠅斫之劒(あめのははきりのつるぎ)を以ちて、彼の大蛇(おろち)を斬る。 時に、蛇(おろち)の尾を斬りて、刃、缺けたり。 即ち擘(さ)きて視れば尾の中にひとふりの神劒有り。 素戔嗚尊(すさのおのみこと)、曰く、「此は、吾(あれ)私(わたくし)に用(もち)いるべからず」。 乃ち五世の孫、天之葺根神(あめのふきねのかみ)を遣し、天(あめ)に上げ奉(たてまつ)る。 此は今に所謂(いわゆ)る草薙劒(くさなぎのつるぎ)ぞ。 初め、五十猛神(いたけるのかみ)、天(あめ)を降りし時に、多(さわ)に樹種(こだね)を將(もち)て下る。 然(しか)るに韓(から)の地に殖えず、盡く持ちて歸る。 遂に筑紫より始めて、凡(すべ)て大八洲國(おおやしまくに)の内に播(ま)き殖えて青山と成さずは莫し。 所以(ゆえ)に、五十猛命(いたけるのみこと)を稱(たた)えて有功之神(いさおしのかみ)と爲す。 即ち紀伊國(きいのくに)に坐(いま)す大神、これ也。

素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(い)て、新羅國(しらぎのくに)に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居(いま)す。

「天照大神」=「卑弥呼」の弟である「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が新羅國(しらぎのくに)に息子の五十猛神(いたけるのかみ)と共に赴いております。
言い換えれば「卑弥呼」の弟、「卑弥呼」無くなりし後王位に就いた男王が新羅國(しらぎのくに)に赴いたということです。

この記述を「魏志倭人伝」に求めると
其八年太守王祈到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因斎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹与年十三爲王國中遂定
政等以檄告喩壹与壹与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺献上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹

其の八年(西暦二四七年)、太守王祈が最高位の職に就きました。倭国女王台与(卑弥呼は誤り)は、狗奴国の男王卑弥弓呼と平素からあまり仲が良くなかったのですが、使いの載斯烏越等(皇太子大帯日子命)を帯方郡によこして、両国の争いの様子を伝えました。魏皇帝の塞曹は、撞史張政等を派遣して皇帝の命令と黄幢を難升米に与え、檄を作ってこのことを告示しました。
卑弥呼が死去したときには、大きな陵が作られました。その陵の径は百歩余りもあって、百人以上の奴婢が殉葬されました。倭国は以前と同じ様に男王を立てたのですが、男王では国中は治らず争いが続き、お互いに千人以上の人々を殺し合いました。そこで、再び女王として十三歳になったばかりの卑弥呼の宗女台与(とよ)を立てたところ、国中の争いは治まりました。
政等を派遣して、倭女王台与に貢献するように告げました。倭女王台与は、大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人に命じて政等の帰還に随行させました。掖邪狗等は、皇帝のいる都にも立ち寄り、男女生口三十人を献上し、白珠五千個、青大句珠(穴の開いたヒスイの大玉)二枚、異文雑錦(錦に似た織物)二十匹を献上しました。

これだけでは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」こと「卑弥呼」の弟の男王が新羅に赴いていた証拠にはなりません。
ならば、新羅の記述を探そうではありませんか。
そうですね、言わずとしれた「三国史記」。


『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。
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まずは「三国史記」
本紀: 巻1~巻28
  新羅本紀: 巻1~巻12
  高句麗本紀: 巻13~巻22
  百済本紀: 巻23~巻28
年表: 巻29~巻31
雑志: 巻32~巻40
  祭祀、楽: 巻32
  色服、車騎、器用、屋舎: 巻33
  地理: 巻34~巻37
  職官: 巻38~巻40
列伝: 巻41~巻50

のうち「新羅本紀」より新羅本紀第二 沾解尼師今

 沾解尼師今立 助賁王同母弟也
 元年 秋七月 謁始祖廟 封父骨正爲世神葛文王
 論曰 漢宣帝即位 有司奏 爲人後者 爲之子也 故降其父母 不得祭 尊祖之義也 是以帝所生父稱親 諡曰悼 母曰悼后 比諸侯王 此合經義 爲萬世法 故後漢光武帝 宋英宗 法而行之 新羅自王親 入繼大統之君 無不封崇其父稱王 非特如此而已 封其外舅者亦有之 此非禮 固不可以爲法也

 二年 春正月 以伊長萱爲舒弗邯 以參國政 二月 遣使高句麗結和
 三年 夏四月 倭人殺舒弗邯于老 秋七月 作南堂於宮南 南堂或云都堂 以良夫爲伊
 五年 春正月 始聽政於南堂 漢祇部人夫道者 家貧無諂 工書算 著名於時 王徴之爲阿 委以物藏庫事務
 七年 夏四月 龍見宮東池 金城南臥柳自起 自五月至七月 不雨 祀祖廟及名山 乃雨 年饑 多盜賊
 九年 秋九月 百濟來侵 一伐翊宗 逆戰於槐谷西 爲賊所殺 冬十月 百濟攻烽山城 不下
 十年 春三月 國東海出大魚三 長三丈 高丈有二尺 冬十月晦 日有食之
 十三年 秋七月 旱蝗 年荒 多盜
 十四年 夏 大雨 山崩四十餘所 秋七月 星孛于東方 二十五日而滅
 十五年 春二月 築達伐城 以奈麻克宗爲城主 三月 百濟遣使請和 不許 冬十二月二十八日 王暴疾薨

十二代の王「沾解尼師」の御于
三年 夏四月、倭人が舒弗邯の干老(ウノ)を殺害した
沾解尼師今三年は西暦249年。
舒弗邯(ソブラン)は階位の事。
「魏志倭人伝」において「卑弥呼」が亡くなったとされるのは、上の記事の通り西暦247年。
そして誰が新羅の将軍であった干老(ウノ)を殺したのか。
これについては、同じく「三国史記」の列伝部分に記載があります。

三国史記 列伝 巻四十五 昔于老の部 現代語訳
七年癸酉(西暦253年) 倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に(第十六代の王)訖解尼師今になった。(十三代の王)未鄒王の代に倭国の大臣が来た時、于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うと、力の強いものに命じて彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、事成らずして(不克)引き上げた。以下略

読んでいただいて分るように、倭王は悪口を言われた事の報告を受けて(すぐ)将軍を派遣し于老を焼き殺しております。

ただ、年号は(西暦にして)249年と253年と4年の差があります。
このあたりはいくつかの解釈があるようですが、ここでは略します、この時、倭王が于老を焼き殺さしめたとの事実を見ていただきたいのです。

この一事から、此の時倭王は新羅近辺にいたと推測できませんか?
日本列島のどこかに倭王がいたのなら、報告を受けるのに数ヶ月、征伐軍を組織して于老を焼き殺すまでに更に数ヶ月、そんな事をするでしょうか?
この時、倭王は朝鮮半島のどこかにいたのです。


そしてそれは「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」なのです。


参考までに「三国史記」よりこの時期近辺の倭国関係記事を掲載します。

祇摩尼師今(第6代) 10年(121年)
夏四月、倭人が東部の辺境に侵入した。

祇摩尼師今(第6代) 11年(122年)
倭兵が攻めてきたという流言に人々が逃げ惑った。翌年、倭国と講和した。

阿達羅尼師今(第8代) 20年(173年)
夏五月、倭の女王卑弥呼が使者を送ってきた。

伐休尼師今(第9代) 10年(193年)
六月、倭人が飢饉に見舞われ、千人余りが食料を求めにきた。

助賁尼師今(第11代) 3年(232年)
夏四月、倭人が突然侵入し、金城を包囲した。軽装の騎馬隊で賊軍を追撃し、千余人を捕殺した。翌年もやって来たが、倭船を焼いて撃退した。

沾解尼師今(第12代) 3年(249年)
夏四月、倭人が舒弗邯の干老(ウノ)を殺害した。

儒礼尼師今(第14代) 4年(287年)
倭人が一礼部を襲い、千人もの人々を連れ去った。

儒礼尼師今(第14代) 6年(289年)
倭兵が攻めてくるとの情報が入り、船と兵器を修繕した。

儒礼尼師今(第14代) 9年(292年)
倭兵が沙道城を攻め落とそうとしたので、一吉サン(さんずいに食)の大谷に命じて救援させ、城を守った。

儒礼尼師今(第14代) 12年(295年)
王いわく「倭人が襲うので人々は安心して暮らせないから、百済と謀り、海上に出て倭国を攻撃したらどうか」と。だが、時の重臣に、海戦に不慣れなのと、百済の信用できないことを説かれ、その考えを撤回した。

基臨尼師今(第15代) 3年(300年)
春正月、倭国と使者の交換をした。

基臨尼師今(第15代) 10年(307年)
国号を新羅に戻した。

では付いて行ったと言われる「五十猛命」の足跡を探ってみますと。
「五十猛命」の祀られている神社をマップにしてみました。
「五十猛命」の航路が見えるようじゃないですか。
対馬経由で半島に渡り、多分東海岸沿いに進み「新羅」のどこか「曾尸茂梨(そしもり)」に着いた。
ただしこの地図には足りないものが二つ。
出発地と出発港。
ルートを加えて出しましょう。
「五十猛命」の出発地は、前回から書いている「天村雲神社」。
出発港は、鳴門市土佐泊浦に鎮座する「新羅(しんら)神社」
御祭神は「素戔嗚尊」と「五十猛命」の二神。



ルートは推測です、あまり突っ込まないように(笑)

最初に書いたように「素戔嗚尊」は「此の地は、吾(あれ)居(いま)すを欲せず」と申しております。
「私はここに居たくない」と泣いているのです。
「五十猛命」は多分、海の人(のらねこ師匠説では「磯猛」)、「素戔嗚尊」は半島と倭国を往復するのが厭になってしまったのでしょう。
海の国を治めるのはもうイヤだと泣いているのです。
ただし倭国に帰っても、反乱の元となったのは遺憾ともしがたいのですが...

と、いう「仮説」(笑)でございます。
資料は全部モノホンです。
どう解釈するかは、読まれた方次第ですが、この時代半島の南部は倭国であったことは理解しておいて下さい。説明する余裕もございませんが、よければ「奈良飛鳥行(4)」を御覧下さいませ。

あー疲れた、一日籠っちゃったよおぉぉぉぉ...(笑)

2014年8月9日土曜日

「木国の大屋毘古神」まとめ

木の国の大屋比古神(木国の大屋毘古神)についての質問をいただき、一応の回答はしたつもりなんですが、念のため取りまとめておきます。

大屋毘古神(おおやびこのかみ)は、同名の二柱の神がおりまして
家宅六神の一。『古事記』において国産みを終えた後、神産みの最初に大事忍男神が産まれた後にイザナギとイザナミの子として産まれた六神
石土毘古神
石巣比売神
大戸日別神
天之吹男神
大屋毘古神
風木津別之忍男神
の大禍津日神と同神とされる「大屋毘古神」。

と、これも古事記において八十神に迫害された大穴牟遅(おおなむじの)神を,木国にて木の股をくぐらせて,須佐能男命のいる根の堅州国へ逃がした「大屋毘古神」です。

今回は後者、大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」について知っている事を洗いざらい吐け(笑)とのお達しだったのです(笑笑笑)。

確認しておきますが、前者「イザナギとイザナミの子」としての「大屋毘古神」と大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」は同名ですが別神です。
というのも、大穴牟遅(おおなむじの)神を逃がした「大屋毘古神」は「先代旧事本紀」によれば、素戔嗚尊(スサノオ)の御子である五十猛神(イソタケル)と同神であるからなのです。前者ならば、まだ素戔嗚尊は産まれておらず、時期が違います。
画像は国史大系七巻より。

まず「大屋毘古神」=「五十猛神」であることが確認できます。

ところで(笑)
徳島県吉野川市山川町村雲に「天村雲神社」という神社がございまして、その御祭神は「天村雲命 伊自波夜比賣命」となっております。
この「天村雲命」は別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼ばれ、射立の神のことです。
『海部系図』にも、始祖彦火明命の御子の天香語山命が穂屋姫命を娶り天村雲命を生む。彦火明命の孫にあたる天村雲命の亦名を天五十楯天香語山命と云う。
とあり
「天村雲命」=「天五多底命」となります。

また「天村雲神社」鎮座する、山川町は元、忌部郷と射立郷の二郷からなっており(『和名抄』 によれば、阿波国麻植郡 「射立郷(伊多知)」)現在の山川町にあるの地名「湯立」は「射立郷」からの転訛なのです。
という理由で御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれているのです。

で、五十猛命の別名はと言えば「伊太祁曾神(いたきそのかみ)」もしくは
「射楯神(いたてのかみ)」ですよね。
だから
「五十猛命」=「 射立神( 射楯神)」

お〜、やっと繋がったか(汗)

結論(笑)

「大屋毘古神」=「五十猛神」=「天村雲命(天五多底命)」=「 射立神(射楯神)」

付け加えるならば「天村雲命」の名の付く「式内社」は全国で、この「天村雲神社」一社のみ。
更に付け加えるならば伊勢神道の「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)には

「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
とあり「天村雲命」の出自がこの山川町の「天村雲神社」である事を示しています。

もっと付け加えるならば「天村雲命」の別名を「「天二上命」また「小橋命」と言いますが、山崎村「天村雲神社」のすぐ傍に「小橋」という地名があり、「阿波國族風土記」麻植郡の部で確認する事ができます。


ついでのついでに付け加えるならば、高天原を追放された素戔嗚尊と五十猛命はともに新羅曽尸茂梨に天降っておりますが

日本書紀 第八段一書(四)
一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。

鳴門市の土佐泊浦には「個人的に」五十猛命が新羅に旅立った時の出発港の地であったと考える
「新羅神社」祭神「五十猛命」
が鎮座ましましております。



というところでいかがでしょうか?
(誰に言ってるんだ)

なお、前回の記事「予告編「伏見稲荷の元社は?」はどうした?とか聞かない事。
ね。