って言わなきゃみんな忘れてるでしょ。そうですボクですよ。
え?知らない?
まあ、いいっすけどね。
いろいろございましたが、一段落いたしましたので、またもや愚にもつかないブログなど
ぼちぼち書いていこうかなと目論んでおります。
ちょっと間が空いてしまいましたので、快気祝いと言うことで今回のお題は二つ。
まずは四国八十八ヶ所第三番札所「金泉寺」でございます。
場所はここ。
より大きな地図で 金泉寺 を表示
金泉寺(こんせんじ)は、徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第三番札所。亀光山(きこうざん)釈迦院(しゃかいん)と号する。本尊は釈迦如来で、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来を安置する。wikipediaより
さらには
寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み、金光明寺と称したという。弘仁年間(810年 - 824年)に、空海(弘法大師)が訪れた際に、水不足解消のため井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたという。
亀山法皇(天皇在位1259~1274)の信仰が厚く、京都の三十三間堂をまねた堂を建立、千躯の千手観音を祀った。また、背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めた。また、『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載がある。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失たが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定される。 wikipediaより
で、境内については
金泉寺仁王門
金泉寺御印
山門(仁王門)
本堂
大師堂:2008年11月改築。
観音堂
護摩堂:格天井に花鳥画が描かれている。
閻魔堂
鐘楼
慈母観音
黄金井の井戸:この井戸に自分の顔が映れば長寿であると伝えられている。
弁慶の力石:力試しに弁慶が持ち上げて見せたと伝えられている。
満願弁財天
などなどと記載してありますが、なんでこれを書かないのか?
というのが下の写真
これは何でございましょうか?近くに寄ってみますと
なんと「長慶天皇御陵」とございます。
「長慶天皇」については在位・非在位すら疑われている天皇で、宮内庁は、昭和19年に
なって、京都嵯峨の慶寿院跡を「長慶天皇御陵墓」と決定しております。
また「長慶天皇御陵」と言われる場所については全国に20箇所ほどもあるそうですので
当然ここも疑われてしかるべきではありますが。
今、写真がないんですが「金泉寺」からほんの200mほどの場所にある「亀山神社」
勘のいい人はお気づきでしょうが、この裏山の「阿王塚」が99代「亀山天皇」の御陵
と呼ばれており、「金泉寺」の裏山にも古墳がありそこが実際の御陵ではないかと言わ
れていることを付記しておきます。
「金泉寺」裏山の古墳からは相当数の出土品があり、詳しい資料が今手元にないんですが
またまた書きのような資料の記載にはやはり長慶天皇御陵のようだとあります。
下の写真にある石が「御陵石」で菊花の紋章が刻まれており
「南朝長慶帝寛成尊太上天皇御陵」
光永五年三月十九日崩御御寿五十三才
と刻まれております。
ワタクシめが見ておりました限り全てのお遍路さんはここを無視しておりました。
さて、もう一つのお題は
下の写真
道ばたにある小さな祠のようですね。
場所はここ
より大きな地図で 白鳥神社 を表示
先に書いた「金泉寺」から車なら1分ほどの場所ですが普通は「金泉寺」に詣でるにして
もここらは通らないのかな?
通るにしても一瞬で見逃してしまう場所ではあります。
近づいてみると案内の看板があります。
転記するのがめんどくさいので写真のまま読んでください。
ぜひクリックし拡大して読んでください。
そうなんですここは「白鳥神社」なんです!
それも「日本武尊」を祀る!!
というか全部読んでと書きながら、読んでもらうのは最後の2行だけでいいでしょう。
大川郡松原はご存知の通り讃岐の「白鳥神社」がある場所ですね。
大川郡松原に飛来の途中って「通説」にはそんな解釈は一切ないにも関わらず
この書きっぷり。
すっごい前に「白鳥神社へ行ってきました」でも書きましたが
個人的には石井の「白鳥宮」は「白鳥陵」だと思ってますので、個人的な解釈で言えば
倭尊命が崩御された後、殯宮(もがりのみや)であったと考える讃岐の「白鳥神社」から
石井町の「白鳥宮(陵)」へ移る際この地を経由して行った跡に違いないと思います。
それにしても看板の説明書き、最後から2行めまでは見事に「通説」をそのまんま
記載してるという「見事」さ。
この神社を建立された方、立派!
ですねえ。
というわけで、とりあえず復帰いたしますが「ぐーたら」なのは変わりませんので
ご安心?を。