えらく、間が飛んでしまいました。
書いてる本人がどこまで行ったか忘れてますもん(泣)
「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)
「ヤマトタケル」って誰?(5)
本編がこのシリーズの中核となる論であったのですが、4ヶ月足掻いてみましたが、確たる史料が見つかりませんでした。
このままお蔵入りも考えたのですが、苦渋の選択として、仮説のまま論を進めてみたいと思います。
ただ、この仮説の正統性については、それなりの自負はあります(現在のトコねwww)。
さて、「天語歌(あまがたりうた)」というのをご存知でしょうか?
古代の宮廷歌謡。ヤマト朝廷の大嘗祭(だいじようさい)の酒宴に,伊勢の海部(あま)出身の族長,天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った,勧酒の寿歌に由来する。天語連から宮廷に貢いだ采女(うねめ)らも奏したか,宮廷風に物語化されて《古事記》雄略天皇条の3歌曲の名にのこる。歌詞は古い海部系の神話詞章にも通じ,歌劇的な神語(かむがたり)の結句〈事の語り言(ごと)もこをば〉の類型をもつ。(世界大百科事典 第2版)
〘名〙 上代歌謡。宮廷寿歌の一種で、天語連(あまがたりのむらじ)の伝えたものか。「事の語りごとも是をば」という終句をもち、「古事記‐下」に三曲見える。従来は、多く「あまことうた」と呼ばれた。
※古事記(712)下「此の三歌は天語歌(あまがたりうた)ぞ」
[補注]一説に、天語連と海語連とを同氏姓の異表記として、天語歌は伊勢の海人語部(あまがたりべ)が伝えたものとする。なお、同じ終句をもつものに、神語(かんがたり)がある。→神語(かんがたり)
〘名〙 ⇒あまがたりうた(天語歌)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版
で、それがどの様なものかと引用しますれば
天語歌
<古事記 下巻 雄略天皇 六より>
纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子
事の語る言も 是をば (100・伊勢国の三重の采女)
葵祭の采女
<現代語訳>
纏向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光り輝く宮
竹の根が充分に張っている宮、木の根が長く延びている宮
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(真木さく)桧つくりの宮殿の、新嘗の儀式をとり行う御殿に生い立つ、枝葉のよく茂った欅の枝は、上の枝は天を覆っており、中の枝は東の国を覆っており、下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の枝先は、(ありきぬの)三重の采女が捧げ持っている立派な盃に浮んだ脂のように、落ちて浸り漂い、おのころ島のように浮んでいます。
これこそなんとも畏れ多いことでございます。 (高光る)日の御子よ、事の語り言として、このことを申し上げます。
倭のこの武市に 小高る市のつかさ
新嘗屋に生い立てる 葉広のゆつ真椿
その葉の広りいまし その花の照りいます
高光る日の御子に 豊御酒献らせ
事の語り言も 是をば (101・大后)
<現代語訳>
大和のこの小高い所にある市に、小高くなっている市の丘。
そこの新嘗の御殿に生い立っている、葉の広い神聖な椿よ。
その葉の様に心広くいらっしゃり、その花の様にお顔が照り輝いていらっしゃる(高光る)日の御子に、めでたいお酒を差し上げて下さい。
事の語り言として、このことを申し上げます。
ももしきの大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて
鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て
今日もかも 酒むづくらし 高光る日の宮人
事の語り言も 是をば (102・天皇)
<現代語訳>
(ももしきの)大宮人は、ウズラのように首に領巾をかけて、セキレイのように、長い裾を交えて行き交い、庭雀のように、うずくまり集まって、今日はまあ、酒に浸っているらしい。
(高光る)日の宮の宮人たちは。
事の語り言として、このことを申し上げる。
以上が「古事記‐下」の三曲であります。
纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮...
この歌については次のような説話がともなっております。すなわち雄略天皇が豊楽を行った際に、伊勢国の三重の采女(うねめ)が大盃を献ったところが、その盃に落葉が浮いていたために雄略は怒り、采女を殺そうとした。そこで采女が雄略の怒りをしずめるために「吾が身をな殺したまひそ。曰すべき事有り」として歌ったのが、この歌だと いうのです。
この歌は『古事記』に「天語歌」すなわち海人部が語り伝えた歌の一首とあることから「元来は伊勢の海人部が臣従を誓う歌として、新嘗祭の場で歌われたものが、雄略天皇の物語にはめこまれて伝えられるようになったものと思われる」とされております。
一応、原文も記載しておきます。
又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重婇、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其婇不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其婇、以刀刺充其頸、將斬之時、其婇白天皇曰「莫殺吾身、有應白事。」卽歌曰、
麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 都紀賀延波 本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能 加多理碁登母 許袁婆
しかし、この歌に出 てくる「纏向の日代の宮」は景行天皇の都であり、雄略天皇の郡はあくまで「長谷の朝倉の宮」でありますので、なんらかの理由で景行天皇御代の歌が雄略天皇紀に紛れ込んだものと思われるのです。
で、これを伝えたのが「天語連(あまがたりのむらじ)」という氏族なのですが
【天語歌】より
…古代の宮廷歌謡。ヤマト朝廷の大嘗祭(だいじようさい)の酒宴に,伊勢の海部(あま)出身の族長,天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った,勧酒の寿歌に由来する。天語連から宮廷に貢いだ采女(うねめ)らも奏したか,宮廷風に物語化されて《古事記》雄略天皇条の3歌曲の名にのこる。
この説明でややこしいところは
天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った
の部分なのでして、要は「天語連」と「海語連」の二つの氏族があり、どちらも「あまがたりのむらじ」と読むのですね。
新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)によれば、この「天語連」
県犬養宿祢同祖 神魂命七世孫天日鷲命之後也
とあり、なんと「天日鷲命之後」だというのです。
さて、古事記に「日の御子」との記載がある箇所は5カ所と言われております。
以下に示します。
1.高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ(中巻 景行条)
2.誉田の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本吊ぎ 末振ゆ 木の 素幹が下木の さやさや(記 ) (中巻 応神条)
3.高光る 日の御子 諾しこそ 問ひ給へ 真こそに 問ひ給へ 吾こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生むと 未だ聞かず(記 ) (下巻 仁徳条)
4.纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い杵築きまきさの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば(記 )(下巻 雄略条)
5.倭の 此の高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の 語り言も 是をば(記 ) (下巻 雄略条)
1は東国遠征の帰路の尾張国において、倭建命の贈歌に対し美夜受比売が応じた歌
2は大雀命(仁徳)に対する吉野の国主の歌
3は 雁が卵を産んだ例を尋ねた仁徳天皇の歌に、建内宿禰が応じた歌
4は雄略天皇に対する三重の婇の歌(天語歌)
5は雄略天皇に対する 若日下王の歌(天語歌)である。
「日の御子」と讃えられるのは、倭建命、仁徳・雄略天皇の三者であり、中でも仁徳・雄略については二度も「日の御子」と讃えられており、『古事記』においてすべての天皇が「日の御子」と讃えられるわけではなく、そのあり方は偏在的ではあるのですが。
今回は「ヤマトタケル」についての考察でありますので、「1」の
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ
の歌について、最初に紹介した「天語歌」と見比べますと
「高光る 日の御子」
の部分は共通であり、「纏向の日代の宮」が雄略天皇御代の話ではなく、景行天皇御代の事であるならば、また「ヤマトタケル」が景行天皇の御子であることから考えるに、もしや
纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子
事の語る言も 是をば (一〇〇・伊勢国の三重の采女)
の歌は「ヤマトタケル」のことを歌ったのではないかと考えてしまうのです。
上記の歌が天皇に対してのものであるから、「ヤマトタケル」についてではないという考え方については、他4つの歌に見えます様に「日の御子」は天皇に対してしか歌われておりません、という他ありません。
また、話は前後しますが「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)巻第十 国造本紀によれば、伊勢國初代の国造(くにのみやつこ)
古代日本の行政機構において、地方を治める官職の一種。 また、その官職に就いた人のこと。 軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。wikipedia
は下図のように
橿原ノ朝以天降天牟久怒ノ命ノ孫 天ノ日鷲 令勅定賜國造「天日鷲命」が国造を賜っているのです。
んでもって、これは何度も出してるんで、恐縮ですが「天日鷲命」は少なくとも六人はいたと考えられますので、その伝から言えばこの伊勢国造である「天日鷲命」は六代目かな、などと考えてしまいます。
また、「ヤマトタケル」と忌部との関係を訝しがる方もいらっしゃるかもしれませんが
例えば下野国鷲宮神社。
公式サイトの由緒を確認してみますと
御由緒
都賀町家中の総鎮守として、また「お酉様」として親しまれております鷲宮神社は伝えられるところによれば大同3年(808)の創建で、最初は思川の側にありましたが再三の洪水の為、朱雀天皇承平元年(931)現在の地に遷宮したとされています。
御祭神の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は別名を天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)と申し、阿波(徳島県)忌部(いんべ)氏の遠い祖先で楮(こうぞ)や麻(あさ)を植えて製紙・紡績の業を興し、皇祖天照大御神(こうそあまてらすおおみかみ)が天磐屋(あめのいわや)に御隠れになった時、白和幣(しろにぎたえ)を作り神々と共に祈祷せられ、磐戸開きに大きな功績をあげられた神様です。
その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。
また「酉の市」起源発祥と言われる「浅草鷲神社(あさくさおおとりじんじゃ)の由緒にも
由緒
古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したと伝えられている。実際には隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まると言われるが、当社は、江戸時代中期から酉の市で知られ、東京都足立区の大鷲神社の「おおとり」に対し、当社は、鷲神社は「しんとり」と称された。その後、明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となった。
とあり、なんらかの形で「ヤマトタケル」と「天日鷲命」あるいは忌部氏と関わりがあったことが窺えるのです。
それにしても、決定的な史料は見出せませず、あくまで状況証拠ではありますが、かなりいい線いってるのかなと思ったり(笑)
誤解を恐れずに持論を書けば、海部と関わりのある「ある姫」を伊勢に移したのは忌部、その功績により、あるいは「その姫」を永劫お守りするために「伊勢国造」を賜ったのが「天日鷲命」ではないかと...
そして海部(あまべ)は息長氏の系譜である日本武尊(やまとたけるのみこと)を「天語歌(あまがたりうた)」として語り継いだ...
伊勢の海部と阿波との関係は、知る人ぞ知る共通点があり、例えば
とか、伊勢志摩方言の一覧を見ると、いくらでも出てくるんです。
順不同でいくらか紹介しますと
「ももぐる」が出てくるとは...
というわけで、ちょっと横道に逸れてしまいました。
次回は東国の「ヤマトタケル」について...かな。