2021年12月5日日曜日

「ヤマトタケル」って誰?(7)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)
「ヤマトタケル」って誰?(5)
「ヤマトタケル」って誰?(6)

倭姫命
倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。

第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。
wikipedia

第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。

後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、これが制度化されて後の斎宮となった。
wikipedia




さて、この「倭姫命」に関する伝承が、かの「上一宮大粟神社」にあることをご存知でしょうか。

大宜都比売命は、伊勢国丹生の郷より阿波国に来られ、国土を経営し、この地一帯に粟を蒔き広めたという。
その時、大宜都比売命とともに降臨したのが下の八柱の神である。
これが「上一宮大粟神社」の「正統記」に記されております。

その八柱の神々の中に「倭姫命」はいた。
阿波國において「倭姫命」を祀る神社は。
まず、徳島市国府町にあったとされる「伊勢姨ノ宮(いせおばのみや)」

古地図にその存在が記されている。


「伊勢姨ノ宮」から一山越したところには「甥」にあたる「倭健命」を祀る「白鳥宮」。



神山側においては「倭姫命」を祀るのは「白桃 妙見神社(上角八幡神社に合祀)」。ここが斎宮だとのことです。



「甥」の「倭健命」を祀るのは「出雲神社」こと「城山神社」

下の地図が国府町の「倭姫命」と「倭健命」の関係図。星印がそれ。

これが、神山の「倭姫命」と「倭健命」の配置。

どちらもほぼ東西に位置し片方は丘の上、片方は平地にあるのも同じ。

ここで重要なのは神山「上一宮大粟神社」に「大宜都比売命」が降臨した際に伴神として「倭姫命」と「倭健命」がいたと言うことと、「正統記」においては「伊勢」から赴いたということ。
説明では「伊勢」は「伊勢神宮」のある伊勢だとのこと。

さて、ここで恐縮ではありますが、この件について師匠の弁を引用させていただきたい。
誰かって?これは知ってる人は知ってます。なので、あえて名前は出しません。

伊勢国は、神武朝に天日別命が平定した国、と伊勢国風土記逸文にある。
国號は、そのとき従わなかった土地の首長であった伊勢津彦の名に因むという。
これは逆だろうと私は思う。(逸文には他の国號由来もあり不確かな伝承といえる)
古事記を見ればわかるように、この時代は、地名や人名に関して「その名が起こったあとに、それ以前の出来事や人名に当てはめて伝承する」法則がある。
例えば、古事記では、長髄彦を「登美の那賀須泥毘古」「登美毘古」と記すが、この「登美」は長髄彦が死に「長」邑が平定されたあと、平定に貢献した金鵄に因んで名付けられた邑の別名である。
天日別命に追われて土地を引き渡した首長を、国號を伊勢としたあとで「かつてその地を治めていた人物」という意味で伊勢津彦と呼んだのだろう。
この天日別命は天日鷲命のことという説があるが、別人とも言われる。天日別命は、式内社伊勢国桑名郡中臣神社の御祭神であり、中臣と忌部が結びつかないというわけである。
しかし、私が昔指摘したように、金鵄の活躍で平定され故「ナカ」邑に「トビ(トミ)」邑の別称が生まれ、これが「ナカトミ」の名の起こりである。
ナカトミの名の生みの親が「金鵄」=「賀茂建角身命」=「天日鷲命」であるから、伊勢国の「ナカトミ神」が天日別命であることは原初のナカトミ由来を証明するようなものである。
ただし、天日「別」であるから、この人物は天日鷲命の子か孫世代だろう。
こののちに伊勢国から分離して「伊賀国」が生まれた。
この国號は、その地を治めていた「吾娥津媛命(アガツヒメ)」の名に由来する。
第一音の「ア」「イ」異音同義法則がここにもあり、「アガツヒメ」が「伊賀津姫(イガツヒメ)」と発音されたことによる。
この吾娥津媛命は、猿田彦大神の娘である。
伊賀国に式内社阿波神社(御祭神猿田彦神)が鎮座するのは、吾娥津媛命をはじめとする後裔一族が奉斎したと見るべきである。
猿田彦は、天日鷲命の子「大麻比古」であり「八重事代主命」であるから、吾娥津媛は神武天皇皇后伊須気余理比売と同世代である。
天日別命が天日鷲命の子であれば、事代主命と同世代、孫であれば、神武天皇と同世代になる。
つまり、天富命が房総を開拓をし阿波(後に安房国)を築いた。
事代主命と天津羽羽命の後衛が伊豆諸島と伊豆半島の一部を開拓をし賀茂邑(後に伊豆国)を築いた。
同じ流れで、天日別命や事代主命の後裔が伊勢・伊賀国を築いたと見える。
大宜都比売神は八重事代主神の后神であられるから、伊賀津姫は大宜都比売神の娘である可能性すらあり、後裔が祖神を祀るのが神道の原理であることから見ても、大宜都比売神が「伊勢から神山に降臨した」という伝承は、それが事実だとしても「故郷への神の里帰り」である。

と、「伊勢」から「神山」への降臨について、こうおっしゃっております。
完璧な「理」であります。
で、ワタクシはさらに言いたい。もっと幼稚な理屈でありますが。

「倭姫命」が伴神であるならば「伊勢神宮」はいつ造ったの?

「倭姫命世記」によれば、「倭姫命」は垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったのであらせられましょう。


ならば、古事記に記される「大宜都比売命」と神山に降臨できるわけがないでしょう。

どやぁ、完璧な屁理屈でしょう。

これは、神学上の「大宜都比売命」と「上一宮大粟神社 正統記」に記される「大宜都比売命」は異なった神であらせられるという「踏み絵」なのですよ。

そう考えるならば、「この件」について一つの節を提示することはできます。
が、本題から離れてしまいますので、これは別考といたします。
(ヒントだけ書いておくと「倭国大乱」「三国史記」「天照大神」)

支離滅裂な文章ですが、これいわば私信ですのでご容赦ください。
(こうやって敵を増やすんだよな)

話を戻して(笑)二行で書けば。

神山には「倭健命」が「大宜都比売命」とともに降臨したという伝承が残っている。
さらには「倭姫命」も随行していた。

という記事でございました。
続く

2021年10月10日日曜日

備忘録:桜間の池

えー、本日 山川の人に
「最近更新が無いではないか、一体どうなっておるのかね。この様なことで済むと思っていたら大きな間違いで有るぞ。このままでは知り合いの理髪店で坊主になってもらわなければならんぞ」
との、きついお叱りを受けましたので「仕方なく😝😝😝」更新します。
とは言っても「『ヤマトタケル』って誰?」のシリーズと関係ないわけではなく、ある意味非常に重要なことなのかもしれないのです。

で、以前にも書かせていただいた「桜間の池」についてですが

石井町高川原の桜間神社にある高さ4・2メートル、周囲10・2メートルの巨大な石碑。刻まれた文には、かつて「桜間の池」と呼ばれる全国でも有名な景勝地が、この地にあったことを伝えている。1969(昭和44)年に県文化財に指定された。

 文中には、鎌倉時代に編集された夫木(ふぼく)和歌集で桜間の池は「鏡のように美しい池」と詠まれている、とある。正式な記録はないが、池の面積は両端が見えないほど広大だったと伝えられている。しかしその後、吉野川から流れる土砂の堆積(たいせき)で江戸時代には小池ほどになった。

往時はこうだったらしいですけど・・・


現在は


まあ、ねえ・・・。

これ「阿波志」の記載を求めますれば

 
「桜間池 在桜間西村今廃有溝通洗舌池・・・」
桜間池は今は無くなったけど洗舌池(舌洗いの池)と溝(水路)でつながっていたんだよ〜
との記載です。
「阿波志」が文化12年(1815年)完成、『夫木和歌抄』が延慶3年(1310年)頃に完成したと推定されているんで、あるいは「延慶」の頃は完全に繋がっていた可能性もあるのかなって思ったりします。

舌洗いの池については


源義経が元暦2年(1185年)2月17日に小松島付近に上陸し、この地で小休し、馬に水を飲ませたと云われている。義経は里人に地名を尋ね「勝間の井戸」という答えに、幸先が良いと喜んだという逸話が残っており、このことから現在の地名となったとされる説がある。
です。
詳しい説明は、今回略。

この古地図で桜間→池尻→観音寺の位置関係がわかると思います。
舌洗いの池は「観音寺」付近ね。

ちなみに国府町池尻は桜間の池の端っこの位置であったことからの地名で場所は下の地図
丸印が桜間神社なので池の大きさは300mから800m程度、ちょっと幅がありますが舌洗いの池とつながっていたならもっと大きくてもおかしくない、と言うところです。

ちなみのちなみに夫木(ふぼく)和歌集撰者の藤原長清は、
遠江国榛原(静岡県牧之原市)の勝間田城城主で、勝間田長清ともいう。
そうです。

知ってる人には結構面白いと思います。でもねこの話、結構すごいミステリーが隠されてるのよ。まだ調べがついてないんで書きませんけどね。

こんなんでいいですかね、S様。


次回こそ「『ヤマトタケル』って誰?」に戻ります。

2021年8月19日木曜日

異説:オノゴロの島

ちょっと話題を変えて一回きりの考察を書いてみたいと思います。

オノゴロ島、又はオノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島。特にイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっている。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「磤」と表記する。 wikipedia

国生み神話
神話内容のうち、オノゴロ島が登場する箇所を記述

イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が、国生みの際に、「天の浮き橋(あまのうきはし:天と地を結ぶ宙へ浮く橋。神はこの橋を渡って地へ降りるとされる[2]。)」に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。

オノゴロ島に降りた2神は「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの:広大な殿舎)」を見立て、イザナギノミコトは左回りにイザナミノミコトは右回りに天の御柱を巡り、出会った所で相手の魅力を褒めあい、この島で成婚する。

古事記 下巻
黒日売(くろひめ)が吉備の国へ帰郷した際に、大雀命(仁徳天皇)は後追い吉備の国へ行幸するが、道中詠った歌にはオノゴロ島が登場する。

原文
於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、

『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』
乃自其嶋傳而幸行吉備國。

口語訳
是(ここ)に天皇、其(そ)の黒日賣を恋ひ、大后欺き「淡道嶋を見むと欲(おも)ふ」と曰いて幸行する時、淡路島に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く

『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、アハ島 オノゴロ島 アジマサの島も見える、サケツ(先つ)島も見える。』

乃(すまわ)ち其の島傳(つた)いて、吉備の国に幸行する。

「押してるや」は難波の枕詞。「我がくにみれば」は、歌を詠んだ仁徳天皇が現在地辺りから眺めると、という意味であり、国見を行ったと解釈されている。国見とは国の地勢や景色、人々の生活状態などを、地位の高い人物が望み見ることを言う。
wikipedia

となります。
また

オノゴロ島は、神話の架空の島とする説と実在するという説とがある。
伝承が残る地域は近畿地方が中心で、平安前期の古代諸氏族の系譜書である『新撰姓氏録』では、オノゴロ島は沖ノ島など友ヶ島の島々と一説がある。
同じく平安前期に書かれた『新撰亀相記』と鎌倉後期成立の『釈日本紀』では、
オノゴロ島の説明に沼島を当てており、近世以降のほとんどはこの沼島説が定説となっていた。明治時代に発行した地名事典である『大日本地名辞書』でも、「オノゴロ島を沼島と為すは至当の説なるべし」と、沼島説を有力に見なしている。

江戸中期の国学者、本居宣長は『古事記伝』により、オノゴロ島は淡路島北端にある絵島と見立てており、絵島説は大神貫道の『磤馭盧嶋日記』でも記載がある。オノゴロ島の候補地は様々な見解があるものの、淡路島周辺の小島であっただろうと考えられている。

また、前述の仁徳天皇が詠んだ『古事記 下巻』の歌を参考にすれば、アハ島(阿波志摩)を淡島明神(和歌山市加太の淡嶋神社)として沼島をオノゴロ島とすれば淡路島から一望できる。またアハ島(阿波志摩)は四国の阿波方面を指すという見方もあるが徳島と浪速を一望できる場所はない。アハ島についても諸説存在する。

と、いわゆる通説ではこの様に解釈されております。

阿波説を主張する方々には異論もあろうことかと思いますが、列挙していけば二十回くらいになってしまいますので、それは勘弁いただいて、ひとつだけ代表的な説を挙げるならば「やまと研究会」の「舞中島」説でしょう。

概略を記せば

淤能碁呂島(おのごろじま)は美馬市の木屋平(高天原)から穴吹町の舞中島に降りてきた話である。
一般には、オノゴロ島を淡路島や沼島に当てはめるが、そこに当てはめると、次に書かれる水蛭子や淡島の説明ができない。
中略
水は岩津で堰き止められるので、渦と舞って徳島県美馬市穴吹町の舞中島が形成された。
中略
また、式内社の伊射那美神社は、全国にある式内社三一三二社の中で阿波国美馬郡に一社のみであるから、高天原から開拓に降りたオノゴロ島は、美馬市穴吹町舞中島である。

なのですが、通説と阿波説を踏まえた上で第三の説を出してみようと思うのです。(汗)

阿波説においては

・式内社において全国唯一となるイザナミ神社が祭られていること
・高天原として比定する美馬市の木屋平から流れ出る貞光川と穴吹川が、吉野川に流れ込み土砂が堆積する地域であり、古事記記載の、”沼矛で国土を掻きまわし、矛を引き上げると、沼矛の先から滴る潮が積もって島になった。
また「鹽」は、海水ではなく、岩塩(どろみず)を指す。

上記が主旨となるでしょう。



まず言っておきたいのが「岩津の堰」ができたのは上図にも見える様に「仁和二年(886)」の大洪水後だということです。
それまでは、川田村、瀬詰村、山崎村、三ツ島(三島)村、児島村は全て水中であったのです。

さらに言えば、吉野川自体は切戸谷川から東北、西林、東林を経て尿材に到る経路であったと推測され、綿麻山の裾野を綿麻川が流れ峠は海抜91メートルの道路の付近とされます。
その水量から、現在の舞中島は水中であったと想定されるのです。

付け足しておけば、上図「半田の堰」は人工的な堰ではありません。
ならば「オノゴロ島」はどこだったのか?
あくまで説として聞いていただきたいのですが、半田町小野家の伝承を紹介いたします。

言伝え之事
大昔神代々人代々此所ニおのころと言人有けるに死後は此西
にほふむる今ハ氏神とて人々参る也
おのころと言へハ先祖故夜々燈明を上げ春分手透の日を祭礼
として人々を参らせしと也
子孫おのを姓とせしなり猶後々代々之者此書加ふべし
貞観 十七乙未年二月
                   小野家次書之

この「貞観 十七年」は西暦では875年、つまり仁和二年(886年)の大洪水の十一年前なんですね。
舞中島が水中であったと推測される時期の伝承なのです。
さらに下図を見れば
此人先祖おのころの墓を氏神八幡と付る
とあり、「おのころ」があくまで人名であったことを示しています。
大昔神代々人代々此所
の「此所」とは現在の「半田 小野」です。
舞中島も近いですけどね。
さらに言えば、見難いですけど、下地図には投稿線が引いてあります。
その100メートル線より10メートルほど下までが水面だったと推測されます。
そこまでが「おのころ」の「小野」だったという伝承です。

この地域にある八幡社は一つしかないんです。(下写真)


さあ、ここまでをご覧になってどう考えましょうか。
無視するのも結構です。
ただ「へえ」と思って一つの説として考えていただければ幸いでございます。

と、番外でのお話でございました。




2021年4月29日木曜日

「ヤマトタケル」って誰?(6)

えらく、間が飛んでしまいました。
書いてる本人がどこまで行ったか忘れてますもん(泣)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)
「ヤマトタケル」って誰?(4)
「ヤマトタケル」って誰?(5)

本編がこのシリーズの中核となる論であったのですが、4ヶ月足掻いてみましたが、確たる史料が見つかりませんでした。
このままお蔵入りも考えたのですが、苦渋の選択として、仮説のまま論を進めてみたいと思います。

ただ、この仮説の正統性については、それなりの自負はあります(現在のトコねwww)。

さて、「天語歌(あまがたりうた)」というのをご存知でしょうか?

古代の宮廷歌謡。ヤマト朝廷の大嘗祭(だいじようさい)の酒宴に,伊勢の海部(あま)出身の族長,天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った,勧酒の寿歌に由来する。天語連から宮廷に貢いだ采女(うねめ)らも奏したか,宮廷風に物語化されて《古事記》雄略天皇条の3歌曲の名にのこる。歌詞は古い海部系の神話詞章にも通じ,歌劇的な神語(かむがたり)の結句〈事の語り言(ごと)もこをば〉の類型をもつ。(世界大百科事典 第2版)


〘名〙 上代歌謡。宮廷寿歌の一種で、天語連(あまがたりのむらじ)の伝えたものか。「事の語りごとも是をば」という終句をもち、「古事記‐下」に三曲見える。従来は、多く「あまことうた」と呼ばれた。
※古事記(712)下「此の三歌は天語歌(あまがたりうた)ぞ」
[補注]一説に、天語連と海語連とを同氏姓の異表記として、天語歌は伊勢の海人語部(あまがたりべ)が伝えたものとする。なお、同じ終句をもつものに、神語(かんがたり)がある。→神語(かんがたり)
〘名〙 ⇒あまがたりうた(天語歌)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版

で、それがどの様なものかと引用しますれば

天語歌
<古事記 下巻 雄略天皇 六より>

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子

事の語る言も 是をば (100・伊勢国の三重の采女)


葵祭の采女

<現代語訳>

纏向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光り輝く宮
竹の根が充分に張っている宮、木の根が長く延びている宮
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(真木さく)桧つくりの宮殿の、新嘗の儀式をとり行う御殿に生い立つ、枝葉のよく茂った欅の枝は、上の枝は天を覆っており、中の枝は東の国を覆っており、下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の枝先は、(ありきぬの)三重の采女が捧げ持っている立派な盃に浮んだ脂のように、落ちて浸り漂い、おのころ島のように浮んでいます。
これこそなんとも畏れ多いことでございます。 (高光る)日の御子よ、事の語り言として、このことを申し上げます。


倭のこの武市に 小高る市のつかさ
新嘗屋に生い立てる 葉広のゆつ真椿
その葉の広りいまし その花の照りいます
高光る日の御子に 豊御酒献らせ
事の語り言も 是をば
 (101・大后)

<現代語訳>

大和のこの小高い所にある市に、小高くなっている市の丘。
そこの新嘗の御殿に生い立っている、葉の広い神聖な椿よ。
その葉の様に心広くいらっしゃり、その花の様にお顔が照り輝いていらっしゃる(高光る)日の御子に、めでたいお酒を差し上げて下さい。
事の語り言として、このことを申し上げます。

ももしきの大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて
鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て
今日もかも 酒むづくらし 高光る日の宮人
事の語り言も 是をば
 (102・天皇)

<現代語訳>

(ももしきの)大宮人は、ウズラのように首に領巾をかけて、セキレイのように、長い裾を交えて行き交い、庭雀のように、うずくまり集まって、今日はまあ、酒に浸っているらしい。
(高光る)日の宮の宮人たちは。
事の語り言として、このことを申し上げる。

以上が「古事記‐下」の三曲であります。

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮...
この歌については次のような説話がともなっております。すなわち雄略天皇が豊楽を行った際に、伊勢国の三重の采女(うねめ)が大盃を献ったところが、その盃に落葉が浮いていたために雄略は怒り、采女を殺そうとした。そこで采女が雄略の怒りをしずめるために「吾が身をな殺したまひそ。曰すべき事有り」として歌ったのが、この歌だと いうのです。
この歌は『古事記』に「天語歌」すなわち海人部が語り伝えた歌の一首とあることから「元来は伊勢の海人部が臣従を誓う歌として、新嘗祭の場で歌われたものが、雄略天皇の物語にはめこまれて伝えられるようになったものと思われる」とされております。

一応、原文も記載しておきます。
又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重婇、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其婇不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其婇、以刀刺充其頸、將斬之時、其婇白天皇曰「莫殺吾身、有應白事。」卽歌曰、

麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 都紀賀延波 本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能 加多理碁登母 許袁婆

しかし、この歌に出 てくる「纏向の日代の宮」は景行天皇の都であり、雄略天皇の郡はあくまで「長谷の朝倉の宮」でありますので、なんらかの理由で景行天皇御代の歌が雄略天皇紀に紛れ込んだものと思われるのです。

で、これを伝えたのが「天語連(あまがたりのむらじ)」という氏族なのですが

【天語歌】より
…古代の宮廷歌謡。ヤマト朝廷の大嘗祭(だいじようさい)の酒宴に,伊勢の海部(あま)出身の族長,天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った,勧酒の寿歌に由来する。天語連から宮廷に貢いだ采女(うねめ)らも奏したか,宮廷風に物語化されて《古事記》雄略天皇条の3歌曲の名にのこる。

この説明でややこしいところは
天語連(あまがたりのむらじ)(渡来系の海語連ではない)が部民の天語部を率いて大王(天皇)に服属を誓った
の部分なのでして、要は「天語連」と「海語連」の二つの氏族があり、どちらも「あまがたりのむらじ」と読むのですね。

新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)によれば、この「天語連」




県犬養宿祢同祖 神魂命七世孫天日鷲命之後也

とあり、なんと「天日鷲命之後」だというのです。


さて、古事記に「日の御子」との記載がある箇所は5カ所と言われております。
以下に示します。

1.高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ(中巻 景行条)

2.誉田の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本吊ぎ 末振ゆ 木の 素幹が下木の さやさや(記 ) (中巻 応神条)

3.高光る 日の御子 諾しこそ 問ひ給へ 真こそに 問ひ給へ  吾こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生むと 未だ聞かず(記 ) (下巻 仁徳条)

4.纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光る宮 竹の根の 根足る宮 木の根の 根延ふ宮 八百土よし い杵築きまきさの宮 真木栄く 檜の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は  鄙を覆へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ち触らばへ 下枝の 枝の末葉は 在り衣の 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞 浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに 是しも あやに畏し 高光る 日の御子 事の 語り言も 是をば(記 )(下巻 雄略条)

5.倭の 此の高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊御酒 献らせ 事の 語り言も 是をば(記 ) (下巻 雄略条)             

1は東国遠征の帰路の尾張国において、倭建命の贈歌に対し美夜受比売が応じた歌

2は大雀命(仁徳)に対する吉野の国主の歌

3は 雁が卵を産んだ例を尋ねた仁徳天皇の歌に、建内宿禰が応じた歌

4は雄略天皇に対する三重の婇の歌(天語歌)

5は雄略天皇に対する 若日下王の歌(天語歌)である。         


「日の御子」と讃えられるのは、倭建命、仁徳・雄略天皇の三者であり、中でも仁徳・雄略については二度も「日の御子」と讃えられており、『古事記』においてすべての天皇が「日の御子」と讃えられるわけではなく、そのあり方は偏在的ではあるのですが。

今回は「ヤマトタケル」についての考察でありますので、「1」の

高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経行く 諾な諾な 君待ち難に 我が着せる 襲の裾に 月立たなむよ

の歌について、最初に紹介した「天語歌」と見比べますと

高光る 日の御子」

の部分は共通であり、「纏向の日代の宮」が雄略天皇御代の話ではなく、景行天皇御代の事であるならば、また「ヤマトタケル」が景行天皇の御子であることから考えるに、もしや

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子

事の語る言も 是をば (一〇〇・伊勢国の三重の采女)

の歌は「ヤマトタケル」のことを歌ったのではないかと考えてしまうのです。

上記の歌が天皇に対してのものであるから、「ヤマトタケル」についてではないという考え方については、他4つの歌に見えます様に「日の御子」は天皇に対してしか歌われておりません、という他ありません。

また、話は前後しますが「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)巻第十 国造本紀によれば、伊勢國初代の国造(くにのみやつこ)
古代日本の行政機構において、地方を治める官職の一種。 また、その官職に就いた人のこと。 軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。wikipedia

は下図のように



橿原ノ朝以天降天牟久怒ノ命ノ孫 天ノ日鷲 令勅定賜國造

天日鷲命」が国造を賜っているのです。

んでもって、これは何度も出してるんで、恐縮ですが「天日鷲命」は少なくとも六人はいたと考えられますので、その伝から言えばこの伊勢国造である「天日鷲命」は六代目かな、などと考えてしまいます。


また、「ヤマトタケル」と忌部との関係を訝しがる方もいらっしゃるかもしれませんが
例えば下野国鷲宮神社。


公式サイトの由緒を確認してみますと

御由緒
都賀町家中の総鎮守として、また「お酉様」として親しまれております鷲宮神社は伝えられるところによれば大同3年(808)の創建で、最初は思川の側にありましたが再三の洪水の為、朱雀天皇承平元年(931)現在の地に遷宮したとされています。

御祭神の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は別名を天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)と申し、阿波(徳島県)忌部(いんべ)氏の遠い祖先で楮(こうぞ)や麻(あさ)を植えて製紙・紡績の業を興し、皇祖天照大御神(こうそあまてらすおおみかみ)が天磐屋(あめのいわや)に御隠れになった時、白和幣(しろにぎたえ)を作り神々と共に祈祷せられ、磐戸開きに大きな功績をあげられた神様です。

その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。


また「酉の市」起源発祥と言われる「浅草鷲神社(あさくさおおとりじんじゃ)の由緒にも


由緒
古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したと伝えられている。実際には隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まると言われるが、当社は、江戸時代中期から酉の市で知られ、東京都足立区の大鷲神社の「おおとり」に対し、当社は、鷲神社は「しんとり」と称された。その後、明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となった。

とあり、なんらかの形で「ヤマトタケル」と「天日鷲命」あるいは忌部氏と関わりがあったことが窺えるのです。

それにしても、決定的な史料は見出せませず、あくまで状況証拠ではありますが、かなりいい線いってるのかなと思ったり(笑)

誤解を恐れずに持論を書けば、海部と関わりのある「ある姫」を伊勢に移したのは忌部、その功績により、あるいは「その姫」を永劫お守りするために「伊勢国造」を賜ったのが「天日鷲命」ではないかと...

そして海部(あまべ)は息長氏の系譜である日本武尊(やまとたけるのみこと)を「天語歌(あまがたりうた)」として語り継いだ...

伊勢の海部と阿波との関係は、知る人ぞ知る共通点があり、例えば


とか、伊勢志摩方言の一覧を見ると、いくらでも出てくるんです。
順不同でいくらか紹介しますと











「ももぐる」が出てくるとは...

というわけで、ちょっと横道に逸れてしまいました。
次回は東国の「ヤマトタケル」について...かな。
続く


2021年3月6日土曜日

追悼

阿波古代史における在野研究者の重鎮、M氏が二月逝去されました。

謹んで心からご冥福をお祈り申し上げます。

まず、阿波國の「在野」古代史研究家というのは因果なもので、その解釈であるとか、研究の方法論については、本当に独自のメソッドを貫いているのが当たり前になっているんです。

なんで、そこからそんな結論が出てくるのか?

と、言いたくなる様な方法論があちらこちらにみられるのですが(お前のことだよって?はい、仰る通りです)、M氏についても最初は「その手」の方法かなと、思ってた時期もありました。

が、この研究資料と発表をみた方もいらっしゃると思いますが、フィールドワークを含む、この調査は、想像を絶する内容が記載されておりました。

この調査は以後の氏の研究のベースとなったものだと思います。


阿波國における古(いにしえ)には某超有名神社の神職を務めていた系譜の某家の祭祀についてが調査内容となっております。


「霊部」と書いて「もののべ」と読む。
「もの」とは「霊」のことであるという内容から始まり、物部氏の出自にまで言及した、驚愕の調査内容なのです。


M氏無き今、私はその内容を開示することも解釈することもいたしません。
それはM氏にしか許されないことであるからです。
これも、詳しくは説明できない内容であります。


ただ、某社に伝わるのと全く同じ内容の祭祀方法と、さらに根元につながる祭祀が阿波國に伝わっていることは明確に示されております。


それは、繰り返し行われていた、氏の講義の端々に現れておりましたが、何人の方が気に留めていたでしょうか。


もう一度繰り返しますが、私はこの件について更なる資料の開示はいたしません。
関係者の方々は氏の講座の時に十分にお聞きになり理解されているものと思うからです。
なので、私の解釈も示しません。
氏とは方法論も解釈も違っているからです。
これは、誰が正しいとか違っているとかいう話ではないのです。
根元へのアプローチ方法が根本から違うのです。

ただ、某日、某所に集まった数人については、確かに
「同じ月を見ていた」
のです。
群盲であったかも分かりませんが、少なくとも「同じ象」を撫でていたのです。

Mさん、楽しかったですね。

多忙を言い訳にせず、もっとやっとけば良かったですね。

でもMさん、あれはやっぱり違ってると思いますよ、また説明しますから(笑)。