2012年2月25日土曜日

雨降神社(その3)

大分、間が空いてしまいました。
そうなんだよぉぉぉぉ〜。
忙しいのと、オッサンだから帰って来たら疲れててなかなか書けないんだよぉぉぉぉ。
すんませんねぇ、キーボードに涎たらして寝てたりするんだよぉ。(汚いなぁ)

で、雨降神社(その3)、まあ追記みたいなもんです。
(その3)となっておりますが(2)を書いたのが2年も前なので能書きを
も一度書いておきますと。

「雨降(あまたらし)神社」

延喜式式内社 延喜式神名帳、阿波國名方郡の項に記載される和多都美豊玉比賣神社
あるいは式内社 阿波國名方郡 天石門別豊玉比賣神社に比定される。
現在の「雨降(あまたらし)神社」
徳島市不動西町に鎮座する。


主祭神 豊玉姫命
創立年代不詳


「阿波志」に「雨降祠 新居村にあり、前に池あり 雨乞いすれば必ず応ず」とあり
「阿府志」には「和多都美豊玉比賣神社、南新居にあり、俗に雨降の宮という」とある。
元慶七年(八八三)従五位上を授けられている。




さてこの雨降神社こと「和多都美豊玉比賣神社」もしくは「天石門別豊玉比賣神社」
ご存知とは思いますが、延喜式式内社で「豊玉比賣」の名を持つ神社は全国で
この二社だけであります。式内社でなければありますけどね。
「雨降」の名は元々「天降」もしくは「天帯」であったと思われ、古事記序文にも
「亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯」
(また姓において日下を「くさか」といい、名に於いて帯を「たらし」という)
を以て、元々は「天帯」であったのが雨乞いに験があることより「雨降」と記載
されるようになったと思われます。

で、この「雨降神社」古には広大な社地を持っており、その名残が社殿四方に残る
鳥居で知ることができます。
その東西南北の鳥居の位置、ワタクシも確認できていませんでしたが、最近になって
よくコメントやら妙なツイートをしてる(ウソウソ、ごめーん)「きよっさん」が
調べ上げてくれましたので、のこのこ後から写真を撮ってきましたのでご紹介します。

南の鳥居

東の鳥居

北の鳥居

西の鳥居

これをMAPに記載しますと。
こうなります。

より大きな地図で 雨降神社 社地 を表示

大雑把に四角く囲んでみましたが、これがなんとほぼ1.5km四方の社地と想定できます。
遥拝所だって言う人もいますが、西の鳥居なんて後ろがすぐ川の、川岸ですよ。
そんな所まで廻って拝みますかね。
また、北側の社殿の裏からは拝まないでしょう。
まんま、昔のままとはいかないでしょうが、ほぼこの程度であったろうと思われます。
いかな大社であり、地元の人々の崇敬を受けているかが分っていただけますでしょうか。
西の鳥居などは平成14年に再建されています。
残念なことに、今、本殿は去年の台風で被害を受け御神体は同じ不動町の八幡神社に
移っております。再建を心待ちにしてます。

おまけ
この近辺、さすがに海人、和多都美族の女王である豊玉姫を祀るだけあって、洪水の
被害が絶えない所でもありました。
それで地蔵尊を祀るにも、このように土台を持ち上げて洪水にも耐えられるように
祀ったのです。ここは不動町のすぐ隣、国府町北井上。
見上げた時にお顔を拝することができるように地蔵尊はうつむき加減で刻まれ
「うつむき地蔵尊」として鎮座しております。

という訳で、今日はここらでご勘弁を。

ちょっと付け足しておけば、国府町和田にある王子和多津美神社(式内社
和多都美豊玉比賣神社の論社でもある)は一説によると豊玉姫竜王宮跡地に建てられた
とのことです。
また国府町西矢野の広浜神社は豊玉姫幼少の砌(みぎり)大日孁女命(別名天照大神)
である八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)に衣を献上したエピソードより
建立されたとのことです。

于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止

(時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。
その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。)
「天石門別八倉比賣大神御本記」より
ここらも、もう少し詳しく書きたい所ですがねぇ。

さて、次はいつ書けるかな。
案外すぐに、つーまらない記事書いて顰蹙買ったりして(いつもだって?)。

2012年2月18日土曜日

応神町「高良神社」

皆さん聞いて下さいよ。
ワタクシめが仕事でヒーヒー言ってる時にTwitterで「オラ太龍寺行っただよーん」
などと写真を見せつける人がいるんですよ(涙)
いいもんね、年度末近くでスケジュールが溜まりに溜まって、身動き取れなくて
籠って仕事するのが大好きなんだもんね(涙涙涙涙涙)。

昔話シリーズもネタはあるんだけど、資料なんかを調べてる時間が足りないんっすよ。
くそー、腹いせに(何の)ラーメン喰ってやる!
沖浜の「天晴」。改装前は「古屋(フルハウス)」って言ってたお店。
そうだよ、チャーシューメン食べるんですよ。700円也。
チャーシューが炙ってあって、香ばしくてナカナカよろしいです。
麺はちょっと柔らかめ。スープが少ない目で普通に麺と食べててもほとんど残らない
くらい。で、ここには「油そば」ってメニューもあるんですが、おじさん「油」って
聞いただけで、敬遠しちゃうので名称を変えた方がオヤジ受けすると思うんですが。
と、個人的に「のり」が入ってるのは好きじゃない。
というレポートでございました、終わり。

でまあ、話は変わって(笑)冷蔵庫の中のありあわせ?の料理ではございますが。
徳島市応神町古川字高良の
「高良神社」

より大きな地図で 応神町「高良神社」 を表示
祭神「武内宿禰(たけうちのすくね)」
景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期に棟梁之臣・大臣として仕え
国政を補佐したとされる。記紀の登場人物では最も長命の人間で、1人の人物とは
考えられないため、非実在論もある。
あるいは個人ではなくある種の人間集団の事跡を1人の人物の事柄に仮託して描かれた
ものではないかとする仮説も唱えられている。
由緒 不詳
創立年代 不詳
同、応神町内に応神天皇を祀る別宮八幡神社(べっくはちまんじんじゃ)あり。
(別宮八幡神社については、また詳しく書きたいなという希望を持っております(笑))
また飯谷町にも同名の「高良神社」が鎮座しており、この社の祭神は
高良玉垂神(こうらたまたれのかみ)とされており、これは福岡県久留米市の
高良大社の祭神と同じである。

大正二年に
白山神社 祭神 菊理比売命(くくりひめのみこと)
水神社 祭神 水象媛命
などを合祀したとあります。
なぜか「タヌキ」も祀られておりました。
応神町でのタヌキの伝承はあまり見たこと無かったんだけどなぁ。

そして、興味深いのが、応神町のこの付近で「神子」という制度?がありました。
「神子」とは「巫女」のことで

千早舞衣を着て神楽を奏し神事に尽すを専務とした。
上階の地位を得るには管長卜部の裁可状というのを得なくければなれない。
本村の神子家にはいづれも先人の裁可状があるが、大抵一様のものである
今其一例を示す
(下の例は別宮八幡神社の場合)

阿波國板野郡別宮八幡之巫女周防恒例之神事神楽等勤仕之時可着赤色千早舞衣者神道裁許之状如件
正徳四甲午年七月廿九日     神祇管領長上従二位卜部朝臣  為   範  印

というものです。
また、中にはこの裁可状、面白い書風を採るものがあり。

のように無理の書き方をするものがあったようです。

この裁可状と同時に下げ渡されるのが「神楽の秘文」。
資料には一例として書いてありましたが「秘文」をあえて曝すわけにもいきませんので
伏せさせていただきます。

      か ぐ ら の 秘 文

あはれ ◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯ ◯◯◯

右授与因幡屹慎而莫怠矣
天保十二年四月四日              神道管領

神祇管領長、直々の裁可、そして「神楽の秘文」。応神町に何があったんでしょうね。

というわけで(どーいう)武内宿禰についてのツッコミが少ないのはご愛嬌(ならんわ)。
物足りない方もいらっしゃいますでしょうが、本日はここらで御勘弁くださいませ。

2012年2月11日土曜日

桃太郎とその仲間たち(3)END

桃太郎とその仲間たち(2)からの続きです。
でまあ、吉備津彦命の弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)が讃留霊王ではないか
などとほざいてみた訳なんですが(後悔!!!)。

そんなに大した考証をしてる訳じゃなく、まず一つ目の理由。


日本武尊(72年頃–113年頃)の皇子
稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君、建部君の祖。
足仲彦天皇(仲哀天皇)
稚武王(わかたけのみこ) - 近江建部君の祖、宮道君等の祖(『先代旧事本紀』)。
武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王) - 讃岐綾君・宮道君の祖。
十城別王(とおきわけのみこ) - 伊予別君の祖。
稚武彦王(わかたけひこのみこ)
足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦噉竈見別王) - 鎌倉別の祖。
息長田別王(おきながたわけのみこ。『古事記』、『先代旧事本紀』) - 阿波君等の祖(『先代旧事本紀』)。

孝霊天皇(紀元前342年- 紀元前215年)の皇子

大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)
日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと。『古事記』のみ)
彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)
彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。

ちょっと見にくいので皇女は除いてますが、他意はありません。

日本武尊と孝霊天皇どちらにも「稚武彦」がいらっしゃいます。
日本武尊は「常陸国風土記」では「倭武天皇」、『阿波国風土記』逸文では「倭健天皇」
と天皇であったと記されております。

そして、もう一つの理由。
吉備津神社の社伝
吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られた。

さあ、計算しましょう。吉備津彦命がいつ生まれたか定かではありませんが日本武尊と
孝霊天皇の年代を考えると、これで妙に合ってきませんか。
これで考えられることは

1 日本武尊と孝霊天皇が同一人物だった


2 孝霊天皇皇子の稚武彦命と日本武尊皇子の稚武彦命を同一視している


3 やっぱ吉備津彦命の弟である稚武彦命は讃留霊王じゃなかった

わあ、一番ありそうな(2)が一番面白くないなぁ。
(3)は無視ね(笑)。
もちろん、日本武尊と孝霊天皇が同一人物だったとはいいません。
他の皇子、皇女の説明がつかないからです。
その後の天皇の記録の説明がつかないからです。
もちろん欠史八代(缺史八代)天皇の記録が全て正しいと言えるかは別ですよ。
意図的にではなくとも誤りがあるかもしれません。
あるいは、よく言われるように数人の天皇間で混同があるのかもしれません。

ちなみに、神山町◯◯の◯◯姓の一族は孝霊天皇の末裔であるとの伝承と家系図を
持っているそうです(差し障りがあるといけないので姓はナイショ)

見て下さい。両天皇(あえてこう書きますが)の皇子、皇女たち。
徳島市不動町の天佐自能和気神社には

日子刺肩別尊(孝霊天皇皇子)
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命(孝霊天皇妃で倭国香媛(やまとのくにかひめ)のこと)
が祀られ(下の写真は天佐自能和気神社)




徳島市上八万町の宅宮神社には孝霊天皇皇子の「稚武彦命」が祀られております。
(下の写真は宅宮神社)



また、日本武尊の妃、弟橘媛(おとたちばなひめ)は讃岐の国、香川県善通寺市大麻町の
式内社「大麻(おおさ)神社」の神主、穂積氏忍山宿弥(ほづみのうじおしやまのすくね)
の娘として生まれました。(先代旧事本紀より)
丸亀京極家編纂の「西讃府誌」にも「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人
穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があるそうです。
その弟橘媛と日本武尊の間に生まれたのが「稚武彦命」なのです。
(下の写真は善通寺市「大麻(おおさ)神社」、写真は「すえドン」大先生よりお借り
いたしました、ありがとうございます。)
すえドンのフォト日記「「大麻神社」・善通寺市♪」




またまた、日本武尊の皇子、息長田別王(おきながたわけのみこ)は徳島県名西郡
石井町の尼木で阿波国を治めておりました。
ボクの記事で悪いですけど「息長田別王」はどこに」を見てね。

そして、今回詳しくは書かないけど、東かがわ市には日本武尊白鳥伝説の「白鳥神社」
阿波国、石井町には「白鳥宮」。

全てが阿波国から讃岐国で収まってしまうのです。

本題に戻り、考え直してみれば桃太郎伝説は、四国から吉備へ出兵した吉備津彦命
稚武彦命、と讃留霊王伝説がどこかで混同されて作られたのではないでしょうか。
でも、それは大和から発したものでないことは、お分かりですよね。

というわけで、決定的な結論は出てませんが(そんなもんが出たらワタクシ今頃こんな
ブログ書いてませんがな)おぼろげな形が見えてきませんか。
また追記があれば書かせていただきますが、今回はこの辺で。


おまけ
善通寺市「大麻(おおさ)神社(社伝)に、「神武天皇の時代、当国忌部氏、阿波忌部と
協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え、殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め
その祖神天太玉命を祀り、大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云う。」とある。
「大麻神社」・善通寺市♪より)
とあります讃岐忌部の祖神は手置帆負命(たおきほおひのみこと)でありますが、この
手置帆負命、阿波忌部の祖神「天富命」と共に千葉の南房総へ進出しております。
それが千葉県南房総市に鎮座する式内社「莫越山神社(なこしやまじんじゃ)」
千葉県南房総市宮下の莫越山神社と千葉県南房総市沓見の沓見莫越山神社がありますが
どちらも同様の由緒。

宮下の莫越山神社由緒では

当社は、天正天皇養老二年(七一八)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年
天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請により
その祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房六座中小四座の一なり。
 古語拾遺に曰く天照大神、高皇産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸職の
神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの工匠を率い
て、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定めた。
以下略

となっております。
(写真はGoogle画像検索からのパクリ、何かあれば削除します)

神武天皇辛酉元年ですと!

2012年2月8日水曜日

桃太郎とその仲間たち(2)

桃太郎とその仲間たち(1)からの続きです。
で、桃太郎は吉備津彦命であるとの前提から始めたんですが、これは岡山の吉備津神社
方面の伝承からでして、香川県側では吉備津彦命の弟である「稚武彦命(わかたけひこの
みこと)」であり舞台は香川県高松市女木町つまり「女木島」です。よく鬼が島と言われて
ますので四国の人はよく知ってると思います。

つまり兄弟のいずれかが「桃太郎」ということでいいですかね。
そして、どちらも孝霊天皇の皇子でいいですね(確認)。

そして
吉備津神社縁起物語によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるの
みこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命
(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅(うら)を倒したとされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣= 雉」となるとする説がある。Wikipediaより

そうです。
犬飼部に関しては明治期の政治家である犬養 毅(いぬかい つよし)が犬飼部の犬飼健命の
子孫であることは有名です。
吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫であるそうです。

鳥飼部は鳥取部の長に留玉臣の名が見られるようですので、あるいはこれかもしれません。
吉備に鳥飼部はいなかったという説もあるようですので。
鳥飼部は無かったと言う意味ではありません。
「日本書紀」雄略天皇記に鳥飼部の記述がありますので。

で、「猿飼部」なんですが、どうも猿飼部という部はなかったのではないかとおっしゃる
方もいてはっきりしません。
では、讃岐近辺で猿の名の付く有名人は?

讃岐坂出に「武卵王(たけかいこのみこ)武殻王」の伝説が残されています。

景行天皇の御代、南海に大魚が居た。常には土佐の南の海に居るものの、時に、阿波
讃岐、伊予の海上に出没して、波を起こし舟を覆し、舟を呑み人を食うこと数知れず
人々は大変に難儀をした。
 
このことを朝廷に奏上するすると、朝廷では播磨武人(はりまのたけお)に討伐を命じたが
彼はこの役目を皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に譲った。皇子は吉備の穴海に至り
ここで兵船を整え、火攻めの具を用意し、大魚の動静を探りながら待ち受けていた。
この間、吉備武彦の娘穴戸武媛(あなとたけるひめ)を妃に入れ、やがて、媛は武殻王
(たけかいこのきみ)(武卵王)を生む。
 


景行天皇の二十四年八月、待っていた大魚は鳴門より瀬戸内海に入り、翌二十五年三月
には遂に讃岐の海上にやって来た。
皇子は壮士八十人と共に大船に乗り、猛火を中に潜めた小舟に大魚を誘う。
この小舟を呑み込んだ大魚は腹の中が焼けて死に、福江浦に漂着するが、八十人の兵たち
はその毒気に触れて生気を失ってしまう。
そこに、一人の童子が来て清水を献じ、こによって兵たちは蘇生する。
 
かくて皇子は都へ帰るが、帰るに当たり、穴戸武媛が生んだ武殻王を讃岐に留めて
讃岐を守らせた。
このため、武殻王は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。
王は百二十五才にして薨じた。」(栗田寛:新撰姓氏録考証による)


讃岐の国、猿王の地に残される「讃留霊王伝説」ですね。
場所はこの辺り、猿王北、猿王南、讃留王西などの地名が見られます。

大きな地図で見る

えー、写真は「のらねこ大師匠」よりお借りいたしました。
「讃留霊王伝説」について詳しいことは
倭建命と讃留王よりどうぞ。ここよりよっぽどためになりますです、はい。



讃留霊王御陵 と彫られた石碑

で、何が言いたいのかというと
吉備津彦命の弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)が讃留霊王ではないか
ということです。
これは、讃岐の人のブログにもあって「?」と思ってたんですが、つらつら考えるに
やはりそうではないかと思い始めました。

分ってますよ、変でしょ、時代が合わないでしょ。みなまで言うな。
吉備津彦命と稚武彦命は孝霊天皇(紀元前342年- 紀元前215年3月27日)の皇子で
讃留霊王こと武卵王(または武殻王)は日本武尊(72年頃–113年頃)の皇子。

にもかかわらず、やはり主張してしまうんです。
その理由は。

次回に続く(わーお)

2012年2月5日日曜日

桃太郎とその仲間たち(1)

腰の方はまあまあ回復して来てるんですが、そのせいか家に籠ってデブ性、いや違った
出不精になってしまいまして、大した所も行ってないので、困った時のおとぎ話
「桃太郎」でどうにかしようじゃないか、との魂胆でございます。
で、と。


桃太郎さん 桃太郎さん
お腰につけたキビダンゴ
一つわたしに 下さいな


やりましょう やりましょう 
これから鬼の征伐に
ついて行くなら やりましょう


行きましょう 行きましょう
あなたについて どこまでも
家来になって 行きましょう


そりゃ進め そりゃ進め
一度に攻めて攻めやぶり
つぶしてしまえ 鬼が島


おもしろい おもしろい
のこらず鬼を攻めふせて
分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや


万万歳 万万歳
お伴の犬や猿キジは
勇んで車を えんやらや

といきなり歌い出してしまいました。
生歌を聴いていただけないのが残念です(笑)
よくご存知の昔話「桃太郎」ですが、ご存知の通り、ゆかりの地と、モデルがおりまして
一番有名なのが多分、きび団子がらみで吉備の国、岡山県。
当然、吉備津神社です。


高松市の桃太郎神社。
ここは鬼無町にあることから、ここで育った桃太郎が瀬戸内海を渡ってくる海賊を鬼が島(女木島)で退治したという伝説により、1988年(昭和63年)に祭神を増祀し、神社本庁からの承認のもと熊野権現桃太郎神社を愛称としたそうです。

また犬山市の桃太郎神社。
ここはちょっと違った意味で有名かもしれません。
で、もう一つ。
一般的には、桃太郎のモデルは第7代孝霊天皇の第3皇子の吉備津彦命(きびつひこのみこと)とされておりますので、吉備津彦命(きびつひこのみこと)こと彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)の故郷であると言われる奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げているそうです。
ここらの写真はGoogleの画像検索で探した物ですので、何かあればすぐに引き上げます。

この「桃太郎」のモデルとなった吉備津彦命(きびつひこのみこと)ですが、先にも
書いたように
孝霊天皇の第三皇子で倭の黒田庵戸宮(盧戸宮)(やまとくろだいおどのみや)に
生まれました。
黒田庵戸宮(盧戸宮)(やまとくろだいおどのみや)は現在の奈良県磯城郡田原本町
だそうです。ここらは後で「何か」書いてみます(笑)(←一部の人にしか分らないね)

吉備津神社縁起によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)
猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみの
みこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅(うら)を倒したと
されていまして、これを桃太郎の話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」
「留玉臣= 雉」となるとする説があるとWikipediaにございました。

さてこの吉備津彦命、父は孝霊天皇、いわゆる欠史八代の一人で、実在しなかったとも
言われておりますが、その子供つまり吉備津彦命の兄弟には
大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)
日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと。『古事記』のみ)
彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)
彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。

すいません皇子だけ出しましたが他意はありません。
皇女の一人に倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)がおられることは
書いておきます。

で、ここらまでが前置き。
次回からちょっと書いていきますが、実は「まだ構成を考えてない」という衝撃の
事実が判明いたしました(涙)
ぐだぐだになること必須!
指をさして笑う用意をしておいて下さいませ。