2018年5月23日水曜日

倭の神坐す地(5)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
から続きます。
このシリーズ解りにくいのは百も承知でございます。

もう一度「阿波志」を確認しておきましょう。



延喜式亦小祀と爲す重清村谷口里に在り即ち廢城の東麓なり
神代紀註に一書に云ふ大國主神又の名は大物主神、又は國作大己貴命と號す又は葦原醜男と曰、又は八千戈神と曰、又は大國玉神と曰、又は顯國玉神と曰
其祠舊大祭料十緡(こん)、城主小笠原氏所割、兵燹に罹り小祀と爲る

「倭大國魂命」は「大物主」ではないかと書かせてもらいました。
「大物主神」は「大國主神」とよく言われており、これについてまず異論は出ないでしょう。
で、「大國主神」を祀る神社で最も有名であるのは、ここですね。
言わずと知れた「出雲大社」でありますが、ここの「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)」を確認致しますれば
(注)出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は、新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞

延喜式祝詞諺解. 下巻 

出雲国造神賀詞

出雲國造神賀詞【出雲國造者穗日命之後也】

八十日日波在止毛 今日能生日能足日爾出雲國國造姓名 恐美恐美毛申賜久 挂麻久毛恐岐明御神止 大八嶋國所知食須 天皇命乃 手長能大御世止齋止 若後齋時者加後字 爲氐 出雲國乃青垣山内爾 下津石根爾宮柱太知立氐 高天原爾千木高知坐須 伊射那伎乃日眞名子 加夫呂伎 熊野大神 櫛御氣野命 國作坐志大穴持命 二柱神乎始天 百八十六社坐皇神等乎 某甲我弱肩爾太襷取挂天 伊都幣能緒結 天乃美賀秘冠利天 伊豆能眞屋爾麁草乎伊豆能席登苅敷支天 伊都閇黑益之 天能和爾齋許母利氐 志都宮爾忌静米仕奉氐 朝日能豊榮登爾 伊波比乃返事能 神賀吉詞奏賜波久登奏

高天能神王 高御魂神魂命能 皇御孫命爾 天下大八嶋國乎事避奉之時 出雲臣等我遠神 天穗比命乎國體見爾遣時爾 天能八重雲乎押別氐 天翔國翔氐 天下乎見廻氐 返事申給久 豊葦原乃水穂國波 晝波如五月蝿水沸支 夜波如火光神在利 石根木立青水沫毛事問天 荒國在利 然毛鎭平天 皇御孫命爾 安國止平久所知坐之米牟止申氐 己命兒天夷鳥命爾 布都怒志命乎副天 天降遣天 荒布留神等乎撥平氣 國作之大神乎毛媚鎭天 大八嶋國現事顯事令事避支
 乃大穴持命乃申給久 皇御孫命乃静坐乎大倭國申天 己命和魂乎 八咫鏡爾取託天 倭大物主櫛厳玉命登名乎稱天 大御和乃神奈備爾坐 己命乃御子阿遅須伎高孫根乃命乃御魂乎 葛木乃鴨能神奈備爾坐須 事代主命能御魂乎宇奈提爾坐 賀夜奈流美命能御魂乎 飛鳥乃神奈備爾坐天 皇孫命能近守神登貢置天 八百丹杵築宮爾静坐支
是爾親神魯伎神魯美乃命宣久 汝天穗比命波 天皇命能手長大御世乎 堅石爾常石爾伊波比奉 伊賀志乃御世爾佐伎波閇奉登仰賜志次乃随爾 供齋 若後齋時者加後字 仕奉氐 朝日乃豊榮登爾 神乃禮自利臣能禮自登 御乃神寶獻良久登奏

白玉能大御白髪坐 赤玉能御阿加良坐 青玉能水江玉乃行相爾 明御神登大八嶋國所知食天皇命能手長大御世乎 御横刀廣爾誅堅米 白御馬能前足爪後足爪蹈立事波 大宮能内外御門柱乎 上津石根爾踏堅米 下津石根爾踏凝立 振立流耳能彌高爾 天下乎所知食左牟事志太米 白鵠乃生御調能玩物登 倭文能大御心毛多親爾 彼方古川席 此方能古川席爾 生立若水沼間能 彌若叡爾御若叡坐 須須伎振遠止美乃水乃 彌乎知爾御表知坐 麻蘇比乃大御鏡乃面乎 意志波留志天見行事能己登久 明御神能大八嶋國乎 天地日月等共爾 安久平久知行牟事能志太米止 御神寶乎持氐 神禮自利臣禮自登 恐彌恐彌毛 天津次能神賀吉詞 白賜久登奏
(表示できない文字が多数飛んでますので引用はしないほうがいいと思います)

「大國主神」こと「倭大物主」は「大御和乃神奈備爾坐」
「倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐す」と記載されております。
「大三輪」ではなく「大御和」とあるのです。
ちなみに出雲大社は「スサノオ神」が祀られていることはご存知の通りです。



ここで書いておきたいのは「大国主神」は一代だけの神ではないということです。
これは何度か書いてきたつもりですが

古事記 上四
故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。

黄泉比良坂に追い至り、遥か遠くに夫妻を望み見て大穴牟遅神に曰く。
「汝の持っている生太刀、生弓矢をもって腹違いの兄弟を坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、貴様は大国主神となれ

大国主は「為るもの」なのです。
では、歴代の大国主とは?
この辺りは異論が百出する辺りであろうかと思いますが、一つ参考書を出してみますれば
大正十五年「大国主神御伝記 小沢打魚 著」
 

 1901年(明治34年)1月に設立された国家主義(右翼)団体である「黒龍会(こくりゅうかい)」の文芸担当であった「小沢打魚」の著書であります。
黒龍会の是非はともかく、内容ですよね。

初代「大国主神」は八島篠見神」いわゆる「八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)」であり、
古事記」において、八島士奴美神から遠津山岬多良斯神まで十五柱を指す十七世神(とおまりななよのかみ)の初代で、須佐之男命の子である国津神。 大年神や宇迦之御魂神の兄にあたる。
「日本書紀」においては「清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠」(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)、「清之繁名坂軽彦八嶋手命」(すがのゆいなさかかるひこやしまあでのみこと)、「清之湯山主三名狹漏彦八嶋野」(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまぬ)などの名称で記述されている。 wikipedia

第二代が「国押瓊神」。出雲風土記の「国忍別命」と同神であると説明されています。
あるいは「古事記」において、大国主神の子孫の系譜が語られる段に記されている「国忍富神」のことかもしれません。


第三代
褰花神(やれはなのかみ)
深淵之水夜礼花神(フカフチノミヅヤレハナノカミ)は古事記ではスサノオのひ孫に当たる神。また大国主(オオクニヌシ)の曽祖父に当たる神です。


第四代
国引臣津瓊神(くにひきおみつぬのかみ)
古事記では淤美豆奴神(おみずぬのかみ)。
八束水臣津野命 やつかみずおみつののみこと
「出雲国風土記(いずものくにふどき)」の国引き神話に登場する神。
出雲(島根県)の国がせまいので,新羅(しらぎ)(朝鮮)や高志(こし)(北陸)などの国のあまった土地に綱をかけてひきよせ,領土を拡大したという。出雲の国名の命名者とされる。


第五代
天之葺根神(あめのふきねのかみ)
天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)
古事記において須佐之男命の5世孫とされ、日本書記に5世孫は天之葺根神とされているが、同神かどうかは不明。
淤美豆奴神が布怒豆怒神の娘布帝耳神を娶って産んだ神で、刺国大神の娘刺国若比売を娶って大国主大神を産んでいる。

となりますが、ほぼ全て古事記、日本書紀等に記載されている神々であります。
この様な系譜に続いて「大物主」こと「大国主」こと「倭大國魂命」の代に続くのです。

ですが「大国主」の系譜を挙げたように「大国主」はいわゆる役職名であり、「国を司るトップ」のことを示しているのです。
では「倭大國魂」は「大物主」の和魂とか荒魂とか言われており、つまりは「倭」の代表者であるとの意味だと考えます。
例えば、「尾張大國靈神社」の御祭神は「尾張大國靈神」、大國魂神社 (いわき市)は式内社・大國魂神社に比定され、岩城(磐城)の国魂を祀ると言われております。

もう一度書きましょう「大國魂神」は「その国」の「国魂」(国の魂や大地の守護神、特定の地に生れ出た神として国生神という場合もある)なのです。
ならば「倭大國魂神」は「倭」の「国魂」なのです。

さて、思い出してください。
倭の神坐す地(3)を。


「平田 篤胤(ひらた あつたね)」の「古史伝」に興味深い記載がありました。
山上憶良の長歌を例とし
山上憶良が遣唐使として出立する多治比広成に対して詠んだ歌。
神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高照らす 日の朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて 大御言 [反云 大みこと] 戴き持ちて もろこしの 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり 領きいます もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ
「もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には」
  此の部分ですが
  平田篤胤、「古史傳」に曰く。
「荒魂大國魂神は、殊に外ツ國の事に預かり給ふ、と云傳のありて詠る事と聞こえたり」
つまり「倭大国魂神は外国に行って治めていた事がある神なので遣唐使の船の舳先に祀られているんですよ」と言っておるのです。


上記の部分と第四代「大国主」こと「国引臣津瓊神(くにひきおみつぬのかみ)」を見比べてください。
両神とも外国(とつくに)へ渡ったことのあるとの部分で一致いたします。
つまり、「大国主」と「倭大国魂」はきちんと検証すれば、歴代一致するはずなのです。
もっと言えば「大物主」も一致するはずなのです。

例えば、讃岐の金毘羅宮に祀られている「大物主」は「航海の神」であるので多分四代目であろうとか。

やっと先が見えたかなぁ。
次を最後と目論んでみます。(笑)
続く

はい、精進精進(笑)

2018年5月13日日曜日

倭の神坐す地(4)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
より続けます。

倭の神坐す地(3)で「大国魂(大国玉)」の名がつく神社を下の様に示したわけですが

大國魂神社(武蔵国) - 東京都府中市鎮座。武蔵国の総社。
大國魂神社 (いわき市)(磐城国) - 福島県いわき市鎮座。
大国魂神社(大黒さん)- 堺市堺区 開口神社の境内外社。
大国玉神社 (桜川市) - 茨城県桜川市
大国玉神社 - 三重県多気郡。(式内社)
大国玉神社 - 長崎県壱岐郡。(式内社)
大和大国魂神社 - 兵庫県南あわじ市
尾張大国霊神社 - 愛知県稲沢市
島大国魂神社 - 長崎県対馬市。(式内社)
会津大国魂神社 - 福島県会津美里町。

皆様もよくご存知の様に「倭大国魂神」を祀る神社として挙げられるのが「三社」

まずは言わずと知れた「大神神社(おおみわじんじゃ)」
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称を「三輪明神」・「三輪神社」とも。
wikipedia
大神神社は古墳時代以前、纒向一帯に勢力を持った先住族が崇敬し、諸説あるが、代々その族長により磐座祭祀が営まれたとされる、日本でも古い神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。
旧来は美和乃御諸宮、大神大物主神社と呼ばれた。
三諸山そのものを御神体(神体山)としており、山中には上から、奥津磐座(おきついわくら)、中津磐座(なかついわくら)、辺津磐座(へついわくら)があり、本殿をもたず拝殿を江戸時代4代将軍徳川家綱によって再建された。拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。
中略
全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
wikipedia
念のためこれもwikipediaより「大神神社」「三輪神社」「美和神社」の一覧を記載すれば
大神神社 (栃木県栃木市) - 下野国都賀郡の式内社
大神神社 (愛知県一宮市花池) - 尾張国中島郡の式内社(名神大社)
大神神社 (岐阜県大垣市) - 美濃国多芸郡の式内社。
大神神社 - 遠江国浜名郡の式内社
大神神社 (奈良県桜井市) - 大和国城上郡の式内社(名神大社)「大神大物主神社」
大神宮社(京都府相楽郡南山城村)
大神神社 (岡山県岡山市中区) - 備前国上道郡の式内社
三輪神社 (入間市) - 埼玉県入間市中神
三輪神社 (三郷市) - 埼玉県三郷市高洲
三輪神社 (飯能市) - 埼玉県飯能市高山
三輪神社 (名古屋市) - 愛知県名古屋市中区大須
三輪神社 (津幡町) - 石川県河北郡津幡町北中条
三輪神社 (岐阜市) - 岐阜県岐阜市三輪
三輪神社 (揖斐川町) - 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪
三輪神社 (高槻市) - 大阪府高槻市富田町
三輪神社 (三田市) - 兵庫県三田市三輪
三輪神社 (総社市) - 岡山県総社市三輪1347(百射山神社に合祀)
美和神社 (群馬県桐生市宮本町) - 上野国山田郡の式内社
美和神社 (山梨県笛吹市御坂町) - 甲斐国の国史見在社
美和神社 (長野県長野市三輪) - 信濃国水内郡の式内社
美和神社 (岡山県瀬戸内市長船町東須恵) - 備前国邑久郡の式内社
美和神社 (岡山県瀬戸内市長船町福里) - 上記式内社の参考地
となりますが、これらの御祭神は
大神神社 (栃木県栃木市)は「倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)」
大神神社 (岐阜県大垣市)は「大物主櫛甕玉命」
などとなっておりますが無論、徳島市国府町の「大御和神社」は無視されております(笑)

御祭神 大己貴命(大国主命)
延喜式内小社で「府中の宮」と親しまれている。
王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となり、その国府の鎮守として、 累代国司の崇敬が厚かった社である。
本社は国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし 神徳により印鑰大明神とも称したと伝えられる。「印鑰」即ち国司の宮印と諸司の蔵のかぎが紛失せぬように祈り、又神社の中に保管したという。
明治三年大御和神社と奉称し同五年郷社に列せられ昭和十一年県社に昇格した。
ということで、御祭神が「大己貴命(大国主命)」社名が「大御和(おおみわ)」であること、また先に紹介した土成町の「奇玉神社(薬王子神社)」から移されたとの説もあることより、実際は「大物主」が祀られていることがわかります。

話を戻します。
そして先ほどの「大神神社(おおみわじんじゃ)」の境外摂社に「率川神社(いさがわじんじゃ)」という神社があるのですが。




この率川神社末社の住吉神社と春日神社の合間に鎮座するのが、これも有名な「率川阿波神社」


摂社 率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)
御祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日 6月17日
大物主大神の御子神さまである事代主神さま(恵比須さま)をお祀りし、『延喜式』にも見える古社。
社伝によれば光仁天皇の宝亀年間(770~780)に藤原是公(ふじわらこれきみ)が創祀したと記されています。当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが時代と共に衰微し、明治期には小祠を残すのみとなりました。その後、大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し、昭和34年の率川神社境内整備に伴い末社の春日社・住吉社と共に現在の位置に遷座となりました。
奈良市最古の恵比須社であり、毎年正月4日の宵戎(よいえびす)、翌5日の本戎(初戎)には、商売繁盛を願う多くの参拝があります。
率川神社公式HPより

とありますが、社殿前の立て札には

社伝によると宝亀二年(七七一)藤原是公が、夢のお告げにより阿波國より勧請したと伝えられています。
とあるのが見ていただけると思います。
ちなみに、この「藤原是公」の祖父は「藤原武智麻呂」であります
   藤原是公

では「奈良市最古の恵比須社」が何故に「阿波國」から勧請されなければならなかったのか。

通常「恵比寿」は「蛭子」なのか「事代主神」なのかとの議論もありますが、いずれにしても「蛭子」ならば兵庫県西宮市の「西宮神社」、「事代主神」ならば大阪市浪速区の「今宮戎神社」等でなければならないのが「阿波國」。
そして「大物主大神の御子神」であると説明されているのです。

ならば「事代主神」は阿波にいたのか?
「大物主神」とは何なのか?
ちょっと短めになりましたが「続く」とさせていただきましょう(笑)。
(あ、あと2回くらいね)


日々精進中(笑)





2018年5月4日金曜日

倭の神坐す地(3)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
からの続きです。

さて、「倭の神坐す地(1)」で「大物主」について古事記、神代巻 大国主の段を引用いたしました。

故、爾れより、大穴牟遅と小名毘古那と、二柱の神相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後は、其の小名毘古那神は、常世国に度りましき。
故、其小名毘古那神を顕はし白せし謂はゆる久延毘古は、今者に山田の曽富騰といふぞ。此の神は、足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり。
是に大国主神、愁ひて告りたまひけらく、「吾独して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の国を相作らむや。」とのりたまひき。
是の時に海を光して依り来る神ありき。其の神の言りたまひけらく、「能く我が前を治めば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らず国成り難けむ。」とのりたまひき。
爾に大国主神曰しけらく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ。」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ。」と答へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。

大国主神(大己貴命)とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れと、自分を祭るよう希望した。これが御諸山の上に坐す神である。
との話でしたよね。
この話について「日本書紀」の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとあります。
つまり、「大物主」は「海を渡ってきた神」であるということなのですね。

さて、話はちょっと変わりまして、皆さまよくご存知の通り、美馬市には「倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)」という神社が鎮座しております。





由緒は不詳だが、平安時代の『延喜式』神名帳の美馬郡条にある[倭大国玉神大国敷神社二座]に比定される古社で、大国魂命・大己貴命を主祭神とする。その御神像は、高さ一尺ほどの剣を杖きて立つ神人の木像で、厨子の背後には、[大島郷倭大国魂神社]の墨書があると言う。小笠原氏が崇敬した神社でもあった。『日本書紀』の第10代崇神天皇紀6年に「天照大神・倭大国魂、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、『延喜式』で[倭大国魂]を冠する神社は他になく、[倭大国魂]との強い関係性が窺える。境内には、古墳時代後期(6世紀)の3基からなる大国魂古墳群が築かれ、開口する横穴式石室(全長4.6m、高さ2.2m)をもつ1基が「大国魂古墳」で、段の塚穴型石室の中でも最も古い特徴をもつと考えられている。神社北側の吉水には[吉水遺跡]があり、弥生後期の住居7軒と東西9間・南北3間の掘立柱建物跡等が発掘されている。今後の周辺域の発掘によって、「倭大国魂神社」を成立させた集団の様子が明らかになってくるであろう。

とあります。
主祭神は「大国魂命」つまり「倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」でありますが、この神についてはwikipediaにも

倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)は、日本神話に登場する神である。日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良県天理市)の祭神である。
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
同年8月7日、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。
この神の出自は書かれていない。大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があることから、倭大国魂神は大国主神と同神とする説がある。『大倭神社注進状』では、大己貴神(大国主神)の荒魂であるとしている。しかし、本居宣長の『古事記伝』では、この神を大国主神と同一神とする説を否定している。神名から大和国の地主神とする説もある。

と、この程度の記載しかありません。
そして「大国魂(大国玉)」の名がつく神社は全国に見られます。
列挙すれば
大國魂神社(武蔵国) - 東京都府中市鎮座。武蔵国の総社。
大國魂神社 (いわき市)(磐城国) - 福島県いわき市鎮座。
大国魂神社(大黒さん)- 堺市堺区 開口神社の境内外社。
大国玉神社 (桜川市) - 茨城県桜川市
大国玉神社 - 三重県多気郡。(式内社)
大国玉神社 - 長崎県壱岐郡。(式内社)
大和大国魂神社 - 兵庫県南あわじ市
尾張大国霊神社 - 愛知県稲沢市
島大国魂神社 - 長崎県対馬市。(式内社)
会津大国魂神社 - 福島県会津美里町。
と、なるわけですが、式内社で「倭」を冠する神社は当然「徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3」に鎮座する「倭大国魂神社」一社であるわけですね。
しかしながら、やはりwikipediaに記載の「倭大国魂神社」について

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

倭大国魂神社
倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は、徳島県美馬市にある神社である。日本一社 延喜式式内社 阿波國美馬郡 倭大國魂神大國敷神社二座の論社である。
創建年代
不詳。しかし、崇神天皇6年に皇居内より当地に移遷されたと見る向きもある。
との記載はちょっと飛ばしすぎじゃないでしょうか(笑)

それでは、「倭大国魂神」はどういう神だと問うても
この神の出自は書かれていない
わけなのです。
しかし、「大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があることから、倭大国魂神は大国主神と同神とする説がある」ことは憶えておかなくてはならないでしょう。

この辺りを別の資料をかき回してみました。
例えば「岡本監輔」の「名神序頌」ですが

「大国玉即大国主一名」の記載を見るように「大国主」の「荒魂(あらみたま)」であるとの結論となっております。
次に「平田 篤胤(ひらた あつたね)」の「古史伝」に興味深い記載がありました。
山上憶良の長歌を例とし

山上憶良が遣唐使として出立する多治比広成に対して詠んだ歌。

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高照らす 日の朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて 大御言 [反云 大みこと] 戴き持ちて もろこしの 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり 領きいます もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ

「もろもろの 大御神たち 船舳に [反云 ふなのへに] 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には」

此の部分ですが
平田篤胤、「古史傳」に曰く。

「荒魂大國魂神は、殊に外ツ國の事に預かり給ふ、と云傳のありて詠る事と聞こえたり」

つまり「倭大国魂神は外国に行って治めていた事がある神なので遣唐使の船の舳先に祀られているんですよ」と言っておるのです。


古史伝 二十五巻より

つまり「海から帰ってきた神」であるわけですね。
1.「崇神天皇6年の条」の宮中に祀られていた「倭大国魂神」を宮の外に祀り、祟られたために「大物主神」を祀ることになった件
2.「海から帰ってきた神」である件、上写真の文中にも「和魂大国主神、早く外國に渡御して還り給ひ」とある。
等の理由により「倭大国魂神」は「大物主神」であると考えるのです。

余談ながら「出雲国風土記」に

飯梨郷(いひなしのさと)。
郡家の東南三十二里なり。
大國魂命(おほくにたまのみこと)。
天降(あも)り坐しし時、此處に當りて御膳食(みけを)し給ひき。
故、飯梨と云ふ。神龜三年に、字を飯梨と改む。 



大國魂命(おほくにたまのみこと)。
天降(あも)り坐しし時、此處に當りて御膳食(みけを)し給ひき。
と出雲に降臨したことが記載されております。

では本家本元では、どのように伝わってきたのかと言いますと
大正六年発行の「重清村誌」によると


で、このページの必要部分を集約いたしますと



こうなります。
「大國魂命」は「大國主」又の名を「大物主」。
念のため「阿波志」の画像を出しておきます。

延喜式亦小祀と爲す重清村谷口里に在り即ち廢城の東麓なり
神代紀註に一書に云ふ大國主神又の名は大物主神、又は國作大己貴命と號す又は葦原醜男と曰、又は八千戈神と曰、又は大國玉神と曰、又は顯國玉神と曰
其祠舊大祭料十緡(こん)、城主小笠原氏所割、兵燹に罹り小祀と爲る

うん、以上より「倭大國魂命」は「大物主」だと「ワタクシ」は結論付けますのです。

 続く