麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)
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と、言いつつ今回の記事は実は書きたくなかったんです。
前回までの系譜(一部)を見てください。
初代福明律師
朱鳥元年(686)三月十日律師遷化しよつて律師の名を後代に伝えん為め維摩寺を改めて福明寺と号す
三代大福上人
行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ神亀元年(724)秋当院を勅願所に定むるの朝命を蒙り
四代実厳法師
外山忌部麻植正信の三男にして大福上人の嫡弟なり聖武天皇の朝天平十三(741)辛已年八月忌部大祭主阿刀弗宿禰大病によつて行真上人行基菩薩彫刻の薬師仏ら祈り其応忽に霊験現はれ病気平癒し其恩謝として麻植口に於て一宇を建立し平癒山薬師院福生寺と号す
五代実念法師
伊須の里に七ヶ寺の大坊を建立し延暦二十二年(803)八月四日行年五十一歳にて寂す
七代智鑑
春秋八十二才にして天元四年(981)三月十日寂す
と年号あるいは日にちまできっちり記載されております。
以降、日本史のブラックホール南北朝期においてもなお記録は続きます。
こんな、貴重な史料があるいは興味本位にしか見られないかもしれないので、あまり書きたくなかったのです。
と言っても、結局書いてしまうんですけどねぇ。
では。
十二代了海上人
随伝上人の譲りを受け当院の主となり益寺門繁栄の処源平両家の争ひによつて諸国大乱の世とちるうちに此阿波國は平家の領地として阿波民部守護する処
平家一門衰運あたって東国所々の合戦敗軍となり遂に安徳天皇を守護し平安城を落て西海の浪に漂ひ九州にも安堵ならす
長門の守護代紀の民部大輔光季阿波民部大輔紀の成長と心を合せ讃州屋嶋に大城を築き智術を以て四国中国を打従へると雖
所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ
共真の安徳帝は麻植正高の末子也と世間を欺き 此阿波の奥山に無恙在 御生長の後正高の智君とし御子迄誕生有りしかと九州より御迎の使毎々に及ふによつて 御病死と偽り御出家となつて義法坊一人御供にて彼国に赴き玉ふ
此阿波の奥山に隠れ居玉ふ人々には越後守国盛郷小松少将真盛郷の御に方也年月を経て真盛郷の御子真盛入道して真盛法師と云
上京して北野に一字を建立して真盛寺と云一門の亡魂を弔ひ玉ふ阿波國にも願勝寺に阿弥陀堂を立てて平家一門の菩提とす
国盛郷の御子孫は地名によつて阿佐氏又は脇氏と号し直盛郷の御子孫は小松家なるによつて松本氏と号し後は松永氏と改め玉ふ其未々の平家此国に跡を隠すの輩数々なり
皆々阿波民部の計議によつて忌部神領の内麻植の奥山にかくれて時運の開くを待玉ふ又所縁によつて四国中其外他国に赴く族も多かりけり就中阿波郡朽田庄青蓮院は直盛郷御出家の後御住居ありし旧寺也
あーあ、出しちゃったよ。
所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ
所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ
「国盛」は「平 教経(たいら の のりつね)」の幼名であり、いわゆる「平教経生存説」において阿波国の祖谷に遁れた後、「国盛」と名乗った件にもよります。
「寿永二年の奉」というのは、いわゆる「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」のことで、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した宣旨といわれており、朝廷が源頼朝の覇を実質的に認めたもので、この報を受けた平家一門は「所詮聖運の開かさるを知て」終末への途を辿っていくのです。
この「国盛」嫡男「国若丸」が身代わりになって壇ノ浦で入水し、安徳帝は「麻植正高の末子」として「阿波の奥山」で成長し、後は病死とし出家となり「義法坊」と供にして「彼の国」に赴いたとの記載であります。
残念ながら「彼の国」がどこなのかはわかりません。
しか〜し、安徳帝替え玉説は数々あれど、ここまで詳細に仔細を記した史料が他にありましょうか?(あったらすいません(笑))
祖谷の伝承では
平教経
「寿永二年の奉」というのは、いわゆる「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」のことで、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した宣旨といわれており、朝廷が源頼朝の覇を実質的に認めたもので、この報を受けた平家一門は「所詮聖運の開かさるを知て」終末への途を辿っていくのです。
この「国盛」嫡男「国若丸」が身代わりになって壇ノ浦で入水し、安徳帝は「麻植正高の末子」として「阿波の奥山」で成長し、後は病死とし出家となり「義法坊」と供にして「彼の国」に赴いたとの記載であります。
残念ながら「彼の国」がどこなのかはわかりません。
しか〜し、安徳帝替え玉説は数々あれど、ここまで詳細に仔細を記した史料が他にありましょうか?(あったらすいません(笑))
祖谷の伝承では
讃岐屋島の合戦で敗れた平家の門脇中納言教盛の第二子従四位越後守平国盛は,手勢百余騎をもって,安徳帝を奉じ讃岐白鳥から大山を越え,三軍に分かれ一軍は安徳帝を奉じ,一軍は先頭,一軍は国盛自ら率いて追っ手の敵を防ぎつつ,重臣32人を連れて,寿永2(1183)年吉野川を遡り,旧三好郡井内谷と東祖谷の境にある寒峰の峻険を越え,東祖谷に入り,大枝岩屋に身を隠した。
その時は12月大晦日であった。
翌朝,名主喜多氏の宅へ行くと,元旦の酒宴を催していた名主は国盛の立ち入りを拒んだので,ついに合戦となり,喜多氏は滅ぼされた。国盛は大枝にしばらく滞在していたが,阿佐常陸守の招きにより阿佐に引き移り定住した。
安徳帝を奉ずる人は,麻植郡より石立山へ護衛して行き,そこで暫くいたが,国盛が祖谷を平定したことを聞いて祖谷に入った。久保大宮の下に樹木が茂っている処を通るとき梢倒(しょうたおし)しにして通ったので「鉾伏せ」という。
帝が石の上に立ち装束を着替えたので,その石を「装束石」という。谷を渡るとき,帝を手から手へ移したから,そこを「皇上の手橋」という。
これは久保の墓層にある。これより字中上に移り暫く滞在しているとき,不思議なことに寒中蛙の啼く声を聞いたので,「朕の住むところは蛙の鳴く所なり」と仰せられた。
そこより川下に下り栗の枝を切り,橋として渡ったので,その付近を「栗枝渡」と呼ばれるようになった。
その後,川下の京上の平地に宮殿を造っていたが,大水のため崩壊し,再び栗枝渡に移り,間もなく崩御した。
(「日本伝説大系第十二巻」)
ということです。
実は、土佐にも安徳帝生存伝説がございまして、「横倉山自然の森博物館ニュースvol.19」によれば
実は、土佐にも安徳帝生存伝説がございまして、「横倉山自然の森博物館ニュースvol.19」によれば
安徳天皇陵墓参考地
『平家物語』によれば、安徳天皇を率いる平家一門は、文治元(1185)年3月源平最後の合戦である長門の「壇ノ浦の戦い」に敗れ滅亡したとされるが、天皇の御遺体が行方不明であることから“天皇生存説”が持ち上がり、各地に安徳天皇潜幸伝説が残っていて、「安徳天皇陵墓参考地」(宮内庁所轄)と称されるものが全国に5ヶ所存在する。
ここ高知県越知町に伝わる伝承では、1185年2月の屋島の「檀ノ浦の戦い」の段階で、合戦の最中に天皇の身代わりを立て長門へ向かわせ、本隊は阿波の豪族・田口成良に導かれて四国に上陸したとされている。
天皇一行は、「かずら橋」で知られる阿波国美馬郡東祖谷山に最初の行在所を造営し後、土佐国に入った。その後四国山地を横断するように、西熊山・御在所山・稲村(稲叢)山・宮古野(都野)・越裏門・椿山・別枝都と行在所を構えながら潜幸し、最終的に横倉山に辿り着いた。
横倉山は要害の地であり、この地方を治めていた修験道の先達・別府氏の支援もあり、ここを終焉の地とした。
横倉山の行在所跡は、陵墓(参考地)と随身たちの屋敷25軒のあった「天の高市」(“別府の都”)のほぼ中程の、天皇が京の都の平安宮を拝したと伝えられる「平安の森」と小沢を隔てたすぐ南の小高い丘陵にある。
当初300余名いた随身たちも、横倉山に来た時は80余名にまでなり、天皇が崩御された後、天皇の陵墓を取り巻き護衛するように、天皇に随行した平家一門と随身たちの墓が築かれた。
横倉山の山中にはそれら88社があると言われ、うち77社が確認されている。
安徳天皇は、正治2(1200)年8月8日、病のため御歳23歳で崩御され、御遺体は生前天皇が従臣たちとよく蹴鞠をして遊ばれた想い出の地“鞠ヶ奈呂”〔字名:「鞠ノ場」〕に葬られた。
陵墓は、幅約3.7㍍、111段の途中で緩く「く」の字状に折れ曲がった石段を登り詰めた所にあり、御影石(花崗岩)製の二重の玉垣が巡らされていて、全国に5ケ所ある陵墓参考地の中でも一際規模が大きく荘厳なたたずまいを見せている。
地元では「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」(正式には「越知陵墓参考地」)と呼ばれ、以前は25㍍四の隅に“鞠掛の木”“神かけの木”が植えられていたという。
“鞠ヶ奈呂”は、山頂部の広大で平坦な地で、すぐ西隣には、天皇が乗馬を練習されたといわれる“御馬場跡”がある。
現在は推定樹齢数百年のアカガシの原生林に覆われ、陵墓一帯は県内唯一の宮内庁の管轄下にある。
微妙な差異と、微妙な一致が見られるようです(笑)。
あるいは、阿波出国後の後日談でしょうか?
ただし、書いておかねばならないこととしてこの安徳帝一行を先導した「田口成良」、
「平家物語」によれば、嫡子・田内教能が義経に投降したことにより成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返ったとのことであり、これが寿永4年の二月。
その五月に田口成良と教能親子は、平宗盛と共に鎌倉へ護送され、処刑されております。
あくまで「平家物語」によりますので、史実との正誤は確認し難いのですが、この通りであれば、安徳帝の先導は到底不可能であると思われます。
ちょっと話が外れてきたようですが、あと一つだけ
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地は以下の通り。
鳥取県鳥取市国府町岡益 安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉 安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山 安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎 安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免 安徳天皇陵(花園陵墓参考地)
となります。
では麻植氏系図では
寿永二年阿波民部成良長良ノ瀬ニ依テ麻殖内山ノ奥ニ丸木ノ御所ニ造リ帝王ヲ置奉リ
其後元暦元年ノ春成良ノ子田内左エ門成直源氏ニ降リ本國ニ安堵スル事ヲ得テ益帝王ヲ尊崇シ奉リケレバ共ニ源家ノ後難ヲ恐レ帝王守護ハ邦光受持トナル
帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ甘一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前の国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ
供奉ニハ義法坊ナリ是九州尾形原田等御迎ヲ奉ル故ナリ
帝王崩御ノ後ハ一寺ヲ建テ神重社ト云帝王ノ御跡ヲ慕ヒ僧トナリ菩提ヲ弟ヒ奉リ平家一門ノ公卿ニハ越後守國盛小松三位直盛御両所ナリ
此御両所ノ子孫麻山ニ止リ表ハ麻殖氏ノ一族ト唱へ帝王ノ王子ハ猪内氏ト改此山奥ニ住皆麻殖氏一族氏一族ナリ
後ニ小屋平ト改國盛卿御子ハ阿佐氏ト改直盛卿御子ハ松永氏ト改北山奥ニ住皆麻殖氏一族苧山苧野原等ノ一累ナリト唱フル故源家ヨリ何障モ無ク目出度栄へ玉フ
王子御剣ハ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納シ後ニハ御劔ノ宮ト称シ神トシ奉祭其式ハ内裏古例ヲ用ヒテ退轉ナシ
阿波民部(田口)成良の子「田内左エ門成直(多分「田口教能」のこと)が源氏に加担したことで安徳天皇を守れないとし、麻植氏五十代当主「麻植邦光」に守護を任せた。
安徳天皇は21歳の時九州豊前に移り、その後肥後に移り、その共は「麻植邦光」嫡子「義法坊」であった。
祖谷の伝承、「願勝寺家系譜」「麻植氏系譜」を併せ読めば、およそこういうことでしょうか。
当然ながら上記三つの史料は齟齬なく読むことができますが、土佐の伝承はこれらとは少し違ってきます。
判断は、拙文を御読みになった方にお任せするとして、次回に続きます。
ふえ〜、今回はこんなになっちゃたよぉ